第15回毎日国際交流賞の受賞記念講演会後、過去の受賞者をパネリストに、「草の根国際交流の今」をテーマにして、パネルディスカッションが行われました。出席者は選考委員も務めた日本国際ボランティアセンター(JVC)代表・熊岡路矢さん(第4回)をはじめ、被災地NGO恊働センター代表・村井雅清さん(第12回)、アフリカ友の会代表・徳永瑞子さん(第14回)と、コーディネーターの毎日新聞大阪本社・藤原健編集局次長です。以下はその詳報です。
藤原 自己紹介を兼ね、熊岡さんから活動のきっかけを。
熊岡 ベトナム戦争後の傷を抱えた国から難民がたくさん出てきました。カンボジア難民の場合は地雷を超えてくるので、そこで命を失う人もいたし、足を失ったり相当ひどい状況でタイ側に出てきた。そういう報道にショックを受け、普通の人の私も何かできるのではないか、したいということで、リュックサック1個をしょっい誰にも頼まれたわけでも、現地から呼ばれたわけでもないのに、行ってしまったというのが出発点になります。
1980年のはじめごろ、カンボジア難民、ベトナムからのボートピープルが大量に出てきていました。ラオス、タイに15年いた日本人女性が中心になっていた団体とめぐりあいまして、最初の日に国連、キリスト教関係の教会をまわったりして、3番目ぐらいにできたばかりのJVCにたどりつきました。
カンボジア難民キャンプでは当然、カンボジアの人たちが本当に一人一人、すごい人生をしょっているわけです。本で読むとかテレビで見るとかできますが、やはり一番大事なのは真実。事実を知る方法では、日本の中でもさまざまな現場があります。けれど、現場、現地に行くということ、人とひざを接して話しあうところからすべてがスタートするのではないかと思います。
(JVCは)素人的に始まった団体なんですけれど、最初の1年だけで1300人が日本からタイに来て、1週間、2週間、3週間と、自分にできる期間、自分のもっているお金の範囲で活動して帰っていきました。現在では幸い、カンボジアなどは平和な状態に戻り、その中で長期復興とか地域開発の協力の活動に入りました。新しい地域としてはアフリカにエチオピアや南アフリカで活動しています。
自分の世代だと子どもだったのですが、日本の戦争の後の10年ぐらいを覚えている。傷い軍人がいたりして、日本がまだぼろぼろでよれよれだった時に、外国の人に助けられている。そしてベトナム戦争がある。
小さい団体ですが、紛争、内戦などの中で何かできないか。人道援助ということもあるでしょうし、戦争を止めることができるのなら止めたい。そういう思いで今もイラク、パレスチナ、アフガニスタンも含めて働いています。
藤原 国際交流賞が始まりこの14年間、とりわけ衝撃的なことに阪神大震災がありました。村井さんはそれをきっかけに具体的な活動を始められました。
村井 8年前の1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災をきっかけにNGOの世界に入っています。私のボスであり、20年近く活動していたリーダーの草地賢一が、2000年1月2日に急死し、そのあとを私たちが十分ではないのですが、継ぐ形で活動しています。彼は1985年に神戸NGO協議会を作っていたので、日本におけるNGOの活動は熊岡さんと同じぐらい続けていただろうと思います。
私は熊本県の水俣病の問題をずっとやっていました。草地の下で仕事をするようになって、NGOのことを少しずつ知るようになります。本当にNGOがすごいと目覚めたのは、1996年にトルコのイスタンブールでの国連の大会でした。居住権ということについて議論しました。そこで、きょう選考委員で来ておられる北沢洋子さんと初めてお会いしました。いろんな話を聞くうち、女性だけが集まってやっている分科会に行ってみなさい、何かヒントがあるかもしれないよ、と北沢さんに勧められ、そこに行ってNGOはすごいと感じ、のめりこんでいったわけです。
最初は日本の中でも一ローカルの神戸の被災地の再建活動ということから出発するんですが、あの時には日本国内はもちろん、海外からもたくさんの支援をいただきました。バングラディシュやタイのスラム、貧しい人たちからの貴重な寄付も届けられたようです。95年5月にロシアのサハリンで大きな地震が起きました。当然、私たちはお互い様ということで、海外の災害に対する救援を始めました。それから毎年のように大きな災害が発生するようになりました。そして現在、調べてみたら30回にも及ぶ救援活動を続けています。
アフガニスタンでは「ブドウプロジェクト」を支援しているのですが、実はこれまで29回は全部、自然災害です。このアフガニスタンで初めて紛争災害にかかわりました。随分と議論しました。自然災害と紛争災害とはだいぶ違う。なぜあえて紛争災害にまで手をつけなければならないのか。手をつけてしまったらやめられない。もちろん、そういう危険なところに行くことについての補償とか、そういったこともある。そういう中で、紛争災害のアフガニスタンにかかわることはどうだろうか。
しかし、向こうに困った人がいて、生活に苦しんでいる人がいて、何のいわれもなく空爆の下で亡くなっていく人がいる状況の中で、自然災害であろうが紛争災害であろうが、これは同じだと。そこから踏み切ることにして、今2年がたっています。
随分といろんなことをこの間、海外に行って学びました。災害救援とはなんだろう。物資を集めておいてくるだけが災害救援だろうか。学校を建てて、頑張ってくださいといって帰ってくるだけが災害救援だろうか。いろいろなことを考えさせられました。
NGOがやる国際協力とは何なのか。まだ入り口ですが、一つにはアフガニスタンの再建を中心に据え、じっくりとこつこつと、どのぐらいの時間がかかるかわかりませんけれど、やっていきたいなと思っています。阪神淡路大震災の10年目を前にして、この10年間何だったのか、向こう10年間に何を残すのかということの作業を始めかけたところです。
亡くなった草地賢一は「言われなくてもするけれど、言われてもしない。これがボランティアの精神である」ということを言ったんです。ただ行政や官の下請けであったり補完であったりしてはいけない。こういう意味だけだと思っていたのが、実はもっと奥深く、「誰も頼んでもいない。でも誰がやるんだ。自分が、私たちがやるしかないんだ」、これが「言われてもしないと」いう言葉の中味ではないかと、少し気づきました。これから先の活動の中で、もっともっとこのことを深め、個人的な気持ちですけれど草地に遺志に少しでも近づいていければと思っています。何よりも未来の夢のある社会につなげていくため、一つの私たちの役割として震災からの教訓、経験をきちっとこの時期に整理しておきたいと思っています。
藤原 次は徳永さんです。間もなくまたアフリカに帰られます。来週、東京でアフリカの開発に関する大きな会議があります。徳永さんが活動されている中央アフリカは、サハラ砂漠以南で、地域別にみると平均寿命が下がり、人口が減り、HIVがまん延しています。そういうところに対して国際社会として何ができるのか、という会議です。よろしくお願いいたします。
徳永 ちょうど1年前にこの場所で受賞させていただきまして、何かきょうはとても感激いたしました。賞のお金と毎日財団から追加していただき、アフリカに毎日憩いの家を作りました。エイズの患者さんたちが憩い、現地でそれを見るたびに本当にこの賞の重みをとても感じて頑張っております。
私の経歴をちょっと話させていただきますと、単なるアフリカに対するあこがれから看護婦(師)になり、助産婦(師)になったような気がするんです。日本の企業が募集してた医療班の一員として弱冠23歳、学校を卒業して10カ月という若さでアフリカの旧ザイール、今のコンゴ民主共和国に行きました。そこで私はこういう国で働きたいってもう直感的に思い、その後、現地のフランス語や熱帯学を勉強して、その後はフランスやベルギーのキリスト教系の民間団体を利用して、ザイールで8年間ほどボランティアとして活動していました。
その後、日本に一時、帰国してたんですけれど、その時にHIVの問題が世界的になって、神戸ショックが1987年なんですね。その前後ごろに、もうザイールがエイズの発祥地だというようなことで騒がれたりしました。私の友達、青春時代に一緒に働いていた人たちがエイズで死んでいく事態があり、その時に私も誰からも求められもせず、お金もなく、私はやはりこういうことをやりたいんだということで、友達を集め、それでザイールに乗り込んでいこうとしました。その時に、ザイールに内乱が起き、ちょっと待てって、危ないから行かないでくださいということで、その隣の中央アフリカ共和国で活動を始めて11年目になります。
HIVの感染率は現在はだいたい20%。公式発表では13・48%と出ておりますけれど、いろいろな努力にもかかわらず、いまだにブラックアフリカというのは、エイズによって存亡の危機にあるといっていいと思うんですね。去年の10月に一時、休暇で帰ってきた時に内乱が起きました。外務省が危ないから帰らないでくださいということで、それで帰れないままに今年の3月15日についにクーデターが起きました。政権が交代して壊滅的な被害を受けまして、私たちも住まい、車が略奪され、診療所だけは無事に地元の人たちが守ってくれたのです。
そういう事情がありまして、今年の4月から一時的に、これから国際協力を目指す人たちを教育していこうということで、長崎大学で若い人たちの教育をやっています。今年の夏は学生を連れ、現地にまいりまして、そしてつい先週、帰ってきたばっかりです。だからこれから少しの間は、学生さんたちを連れてアフリカに行ってということになるかと思うのです。
内戦による壊滅的な打撃、それに貧困が輪をかけてHIV感染がますますひどくなっているんですね。だから、こうして自分が日本にいることじたいがすごくじれったいっていうか、やっぱり私はアフリカに行くべき人間じゃないかっていうのが、自問自答して返ってきたばかりの今の私の考えです。
藤原 3人なりに経歴を語られた時に、会場におられる若い人たちは「うわあ、ちょっとかなわない。これはやっていけない」と思う人と、「ひょっとしたらできるかもしれない」と思った人と半々だったのではないでしょうか。熊岡さんが活動を始めたころは「NGO」という言葉は一般的ではなかったはずです。団体の名前にあるように、ボランティアですね。でも3人のような活動をしていくには、それではすまないだろうと思います。私もプノンペンで会った時、熊岡さんから多くのことで影響を受けました。その中で残っている言葉の一つは「私はボランティアのプロです。プロにならないとこういうものすごい状況は解決できない」とおっしゃってました。熊岡さんは自動車整備の技術ももっておられる。団体の代表ですから、行政とコーディネートする力ももっている。どうしてプロにならないとできないんでしょうか。
熊岡 大きくいって二つの段階があると思います。JVCがタイの難民キャンプでできた時、私たちからみていろいろな必要性が明らかでした。そして、カンボジア難民やベトナム難民の苦しみの中で、医者や看護師が必要な部分はもちろんありましたけれど、そもそも何ができるかわからなかった。難民キャンプで必要とされるトイレ作りでもいいし、どぶ掃除でもいいけれど、そういうレベルなら元気な人なら誰でもできるんです。一番難民キャンプで多かった仕事は、タイや日本から集まってくる衣類を大人用、子ども用、男性用、女性用に分けることです。カナダやフランスのように寒い国に定住していく人たちには寒い国で使える衣類とか、暑い難民キャンプに残らなければいけない人に夏着。そういうふうに分けて配る。これは元気なら誰でもできる部分があります。
最初の1年に集まった1300人のうち、主に中心になったのは30~40人で、日本人だけではないのですが、タイのバンコクなどにいた主婦が中心になってくれました。最初に100人ぐらい、バックパッカーのような形で人が現われ、できる範囲のことをやっていった。元気なら誰でもというレベルで参加できる。これはボランティアの一つの基本で、日本の生活の中でも日常的にできることはあると思います。
ただ、私自身も3年、4年、5年とやる中で、藤原さんにお会いした時は、難民を出している元の国に入っていたということもあります。カンボジアという国は当時、日本と国交がない。いろいろな国と国交がなく、もちろん大使館も交換してないわけで、入国ビザを取るだけでも大変ですね。当時のカンボジアは政党が一つしかなく、結構、締め付けも厳しい。
私たちが各地域で、あるいはカンボジアの首都プノンペンで、例えば職業訓練校とか始めたのですが、その場合もかなり厳しい交渉をしなければならない。いきなりプロになったわけではないんですけれど、難民キャンプで働いたり、難民を出している元の国に行くという中で、自分をある程度、引き上げなければ相手と対等の交渉ができなかった。
当時、カンボジアの中で日本人が3、4人しかいなくて、日本大使館がありませんから、一部ですけど民間の意味での外交というか、日本から来る人の入国を手伝うことを含めてするうち、だんだん引き上げられていった部分があります。ボランティアのプロという言い方もありますし、国際NGOという言い方もあるかもしれない。フランスの国境なき医師団とか、みなさんも聞いたことがあるでしょう。こういうのがプロ的に動いているNGO団体ですね。いきなりそこまで誰もいけません。我々もまだ途中経過だと思います。
我々のケースでいうと1300人の平均年齢は22歳ぐらいでした。ということは、客席側におられる人とそんなに変わらない。上はもちろん70歳ぐらいの方もおられましたし、中には中学、高校生もいる。最初のステージで、日本でもできることがあるし、海外でできることがあるかもしれません。そのチャンスをつかまなければいけませんけれど、最初の誰でもできるところで参加しながら、言葉、農業や医療のような専門性などで、ここは足りないないうことに気づいたら、日本に戻るなり、他の国で学んで戻るということがあります。
僕自身も4年も5年もかかったわけなんですけれど、ある程度、こういうイメージでやらなければいけない、となりました。ひとつはフルタイムですね。もはや、自分の余暇の時間でのボランティアの時期ではなかったんです。ちゃんと生活できるに値するのに近いお金をいただきながら、誰でもできるレベルでやっていてはいけない、という段階に達したわけですね。たぶんおのずとみなさんが選んでいく段階があるのだと思います。
藤原 阪神大震災の時、「ボランティア元年」と呼ばれた年でもありました。それが今、活動の大きな出発点にもなっている村井さん、どうですか。
村井 阪神淡路大震災で「ボランティア元年」という言葉が言われ出し、5年間で延べ130万人、最大一日で20万人が被災地「KOBE」に来られた。そこでボランティアということが、随分と言われるようになりました。これまでどちらかというと、ボランティアというのは自分を犠牲にして他人のために尽くす、奉仕というニュアンスでの意味合いで理解されていたことが多かったように思います。震災でいろんなことを考えさせられたために、ボランティアって一体、なんだろうと改めて考えるきっかけになったんじゃないかと思います。
さきほどのプロの話に関連して言わせてもらいますと、段階的な中で、プロ的な力量なり素養が必要なことはもちろんだと思うんですが、災害後の救援活動は場合によっては最初は体力があって元気であれば、水を運んだりがれきを運んだりできる。高齢者のそばに行ってとにかく話を聞くというボランティアもできる。子どもが好きなら一緒に遊ぶボランティアもできる。プロという資格がなくても、できないことはないと思います。
むしろ、阪神淡路大震災で発見した大事なことは、いろんな人が自分のもっている得意技を使ってボランティアをする。そのことで一時期、機能不全を起こした行政のすき間を埋めたのではないか。ボランティアに来た6~7割の人が、実は初めてボランティアをした人たちです。それも若い人たちがほとんどです。その人たちが大半のすき間を埋めた。
阪神淡路大震災の時に、コーディネーターがいなかったから混乱を起こしたと言われました。コーディネーターというのは、例えば、あるAという場所には物資がたくさんある。同じ被災地でもBというところには物資がほとんどない。これを調整していく人たちがいない。救援の格差を調整する人がいないから混乱したといわれています。
果たしてそうでしょうか。あれから8年たち、国内のほとんどの災害現場にかかわっていますけれど、別に混乱なく、被災地の人たち自身がきちんと考えて、最低限のことをやっておられます。もちろん、場所によってコーディネーターは必要なんですけれど、大騒ぎするほど必要なんでしょうか、と最近思っています。
つまり、自分で考え、自分で動くことがなければ、ボランティアではないんじゃないか。これがボランティアの基本だと思います。コーディネーターがいて、一定の指示をしていたのでは、本当のボランティアは育たないだろう。そういうふうに思っています。プロではないけれど、それぞれがもっている考え方や感じ方でもって被災者に対応したり、活動することが実は大事じゃないか。 このことから、私たちは多様な価値観とか、違うことは当たりまえということを学ばせてもらったのです。この原則を忘れ、コーディネーターというある種の技術に頼るだけでは、よくないのじゃないかと思います。
実はけさ、北海道で地震があり、一人のスタッフを現地に向かわせました。別に経験があるとか、得意だとかそういうことは関係なく、すぐに飛ばしています。まず、被害状況を確認して、こちらの事務局に情報を流していただいたら、誰が行くのかは次の問題です。もちろん場合によるのですが、あまり専門性は優先順位として求められるものではないという気がします。
藤原 「プロ」という言葉を「専門家」に置き換えてもいいと思います。徳永さんは保健・医療関係の専門家です。ただし、現地で「マダム」と呼ばれて実際にやっておられることは医療、保健、保育だけじゃなくて、それこそ起きてから眠るまですべてのことを一人でやっておられる。これはすさまじいです。徳永さん、日常の生活を紹介しながらお願いします。
徳永 看護婦(師)と助産婦(師)の日本の国家試験の免許があります。現地でどういうことをやっているかといいますと、医者の仕事もやるし、検査技師、栄養士、薬剤師、メディカルソシアルワーカーの仕事もやるし、時には救急車の運転手もやらなければいけない。今、生活支援もしますので、患者さんたちに洋裁も教えているんです。そして、帰国する時にそれを持ってくるわけです。洋裁技術も自分で少しは勉強したし、日本でマーケットリサーチしてどういうのが売れ筋かって、そういうことも見ていかなければいけない。もちろん、日本とアフリカのコーディネートもそうですね。 最近はエイズ孤児の問題が非常に大きくなっていて、エイズ孤児の教育にも携わっています。とにかくオールマイティー。全部、中途半端ですけれど何でもできるっていうのが、途上国の国際協力の仕事。あれはできない、これはできない、私は看護婦だからこれしかできないということでは、やはりやっていけない。本当に気持ちさえあれば、やっていけるのじゃないかなあという風に思っております。
藤原 「どうして助けてあげなければだめなんだろう。そこまでして」と思っている会場にいる多くの若い人の背中を押して、「ぜひ一緒にやってください」と言うなら、どういう話をされますか。
徳永 「リスク」っていうことが一番、大きいと思いますね。特に私たちは内戦地域でやってますから、戦争に巻き込まれて死ぬかもしれない、負傷するかもしれないという、そこらへんのリスクです。それと、周りはみんなエイズの患者さんのことをやっておりますから、それでHIV感染するかもしれないとか、いろんな危惧(きぐ)があるわけなんです。
けれど、そういうリスクを全部足したものよりも、自分が受けているものの方が大きいからそちらに向かっていくわけなんです。だから、非常に抽象的な言い方なんですけれど、今回も私ちょっとマラリアにかかってんです。今までの薬で余り効かなくて、熱が長く続いて。そしたらもうエイズの患者さんたちが自分もふらふらなのに、それよりも私のこと「マダム大丈夫なのかね」って見舞いに来てくれたり。「ちゃんと食べてるの」「どうしてるの」って。出ていくと「もう一日、休んでいた方がいいよ」「もうちょっと座っておいたら」っていうような、そういうものがものすごくうれしいですね。
自分の病気の方がもっとひどいのに、私のことをみんなが考えてくれる。ちょっとお手伝いとかすると、自分の家でニワトリが卵を産んだら私のために持ってきてくれる。ちょうどパパイヤが旬になり始めたのですが、私が好きなのをみんなが知っているから「この一番、大きいのをマダムに持ってきた」って。心と心の交流といいますか、そういうものが、すべての戦争だとか、危機を押してでも何か向こうに戻っていきたいっていう気持ちなんですね。フレンドシップといいますか、そういうことだと私は思います。
今、学校で教えているといいましたけれど、(アンケート調査をしたら)国際協力に興味があるという生徒さんは91%もいるんです。実際に国際協力をやってみたいという人が66%も。私たちアフリカ友の会もホームページ作っていましたが、それを消したんです。なぜかっていうと、余りにも「行きたい」という人が多すぎて、対応できなくなっちゃったんですね。
だから、リスクがあるんだけれど、今の若い人たちはものすごくそういう途上国の人たちを助けたいと思っている。自分が行って現場で助けてみたい、とか、何かもっと得るものがあるんじゃないかって。いろんな理由があると思うんですけれど。そういう意味で、私は日本の若者に期待していいんじゃないかと思っています。
藤原 今の話に関連して熊岡さん、お願いします。
熊岡 例の「100人の村」の言い方をしますと、日本人全体の中で、苦しいと思っている人も含めて地球の上から100人の中から10人、1割ぐらいに入っているわけですね。みんなでないかもしれませんけれど、いろいろなチャンスを与えられて、学ぶことができた。基本的に十分、食べていける。
そういう中で、日本で、場合によっては外国で、それだけのチャンスに恵まれてない人とつないでというか、そういうところに思いをはせる。少なくとも戦争の最中にある人のことを考えるだけでもいい。もしそういう風に考えられるのなら、その流れの中でちょっと展開してみることは一つあると思います。
2番目には、これまでの受賞のスピーチで、ほとんどすべての方がおっしゃったと思うのですけれど、一方的に助けることはないんです。徳永さんがおっしゃったように、海外協力という話をしますと、自分の気持ちで「助けに行く」とえらそうに思っていても、実際は7割、8割ぐらい(相手に)助けられなけりゃ全然、動けない部分があるんです。その中で、はるかに多くを受けている。
最初、言ってることと矛盾しているかもしれませんけれど、一方で何か自分たちが得ているものを、他の人にも少しでも伝えたいと話しておきながら、逆にいうのはおかしいかもしれませんが、本当にそうなんです。これが政府とか企業とかの活動だったら、そこは主にはならないと思うんです。でも、草の根の活動、最終的には個人個人の人間関係ということになっていくと、そこで得られるこちら側の学びとがある。
もう一ついえることはやはり義務とか、「ねばならない」だけではできない。普通の人として考えますとね。そういう時に、自分のその国や地域への好奇心とか、そういう個人的な関心は認めていいと思うんです。そういうのなしに「ねばならない」だけでやろうとしたら続かないし、自分もつぶれるし、周りも重苦しくなるんですね。
面白い例がありました。最初の1年、JVCのケースなんですけれど、難民キャンプの活動にきた中に一人、非常にまじめなんですが、「助けに来た」という意識が非常に強い男子学生がいた。彼の場合は難民の側がひいてしまったというか、彼自身がもっているプレッシャーが強過ぎ、矢印の方向が余りにも一方通行なので、だんだん周りに人が集まらなくなったんです。
難民キャンプだけじゃないんですけれど、他方でどういう人が受け入れられるかというと、もっと肩の力を抜き、「この場所が好きで」とか、「興味があってきました」「ここで一人でも二人でも友達を作りたくて来ました」という感じの人です。そういう人の方が最終的に1年、2年いて、何かもできたし、その人自身もいろんなものを受けて帰れたという一種の逆説があります。
そういう意味で、自己満足ではないかとか、自分のためにやっているのじゃないかとか、そこを余りネガティブにとらえずに、人間やはり自分として生きてますから、自分のもっているいろいろなものを肯定的にみて、その中で伸びていく。それが国際交流や国際協力の分野でも必要で、積極的に認めていいのかなって思います。
藤原 村井さんは震災から出発し、防災についてみなで考えることを活動の基礎にされている人です。村井さんが話すことの多い「突き詰めて言ったら防災って平和なんだよ」というその辺のところを説明していただけますか。
村井 先程も話したように、紛争災害にかかわったのは今やっているアフガニスタンが初めてです。一昨年の「9・11」の事件から、初めて戦争がどういうものなのか、神戸にいるNGO、ボランティアグループとして考えるようになったわけです。
アフガニスタンで10月に空爆が始まった。それから2年たち、イラクで今年の3月20日に空爆が始まっていく。この2月、世界中で1000万人がピースウオークという形で、顔も名前も知らない、でも同じ日、同じ時間帯に自分と同じ思いをした人たちがこの地球上でピースアクションを起こしていることを知った時、ものすごく感動しました。けれども戦争は止まらなかった。 イラクの空爆が始まった時、私はアフガニスタンにいました。行くことを迷ったのですが、最終的にはだからこそ、今アフガニスタンに行き、アフガニスタンを伝えなければいけないと自分なりに納得して行きました。でも、戦争が止まらなかったことが悔しかったです。だけれども、帰ってきて、コンサルタントの人が「私は夢を追い続けます」ということを雑誌に書いておられるのを読み、「ああ、そうなんだ」と。「人が何を言おうが私は夢を追い続けるんだ」と、私も思うようになりました。そういう人が一人でも、二人でも増えていかなければ、戦争は止まらないんだろうなと思わざるを得ない。
考えてみたら、自然災害は、特に地震はほとんどまだ予知できません。だから一度にたくさんの人が亡くなってしまう。だけど、人がかかわってやっている戦争は、そのことさえしっかり考えれば、起きないはずなんですよね。私たちは「KOBE」で学んで、防災ということを8年以上、言い続けてきたんですけれど、最大の防災というのは戦争を起こす前に止めることじゃないか。そういうことに気づきました。9・11からしばらくしてから、ずっとスタッフとともにそのことを発信しています。この9月28日にも、若い人たちがピースアクションをします。少しでもこういうところに参加して、自分と同じ思いをもっている人たちがいるんだと、この時間の共有をすると随分、人生観が変わるのではないか。大事なことはその中ででも、みんな違うことを基準にして、違うことをきちんと発言して受け入れられる世界を作らなくてはいけないと、最終的には思っています。
98年にある仏教宗派の大きな大会がありまして、大会のフレーズは「ばらばらで一緒」でした。その時から、この言葉に非常に引っかかっておりまして、魅入られているんです。ばらばらで一緒とはどういうことだろうかと。ずっと考えています。非常にこれは面白い。人間はもともとばらばらですから。もっともっと考えていいんじゃないかなあ。私が思う生き方をやる。自分が考えていることを発言する。そういった日常がくるように、もちろん自分がそれに対して少しでも努力する。こういうことが必要かなあと思います。なかなか難しいことですけれども。
藤原 以前、徳永さんともお話したんですが、日本の場合は日本人が日本語で字を読め、話しができる。これが当たり前なんですけれど、それができない人がいっぱいいるのがアフリカです。今、徳永さんの囲まれている日常なんです。字が読めないとはどういうことなのか。言葉ができないってどういうことなのか。紹介していただけますか。
徳永 医療の問題をやっていますと一番、それが優先するように思いがちなんです。でも、本当に識字率が低いところでやっておりますと、いつも教育に行き着くんですね。例えば読み書きができないというのは、それだけの問題じゃないんです。教育を受けていないと、物事を理論的に考えることができない。だから、字が読めないだけの問題じゃないんです。
私たちは日本の教育の中で、どのように物事を考えていくかということも勉強してきているんですね。アフリカできれいな水があるとすると、そしたら「マダム、これはきれいな水だから飲める」って、川に行って飲んじゃうんです。日本人なら飲まないでしょ。何が入っているかわからないから。透明だから飲めるっていうことにはならないんですよね。
HIVの検査をしたら子どもにエイズの症状が出ていて、お母さんを検査しますよね。「あなたはHIVのキャリアですよ。ウイルスをもってますよ」というと、「いや、私は病気じゃありません」って。キャリアの概念を理解させることがなかなか難しいんです。教育を受けてこういうことがわかっていたら、もっと楽なんじゃないかと。
例えば予防接種を子どもたちは受けなくちゃいけない。中には、予防接種の副作用でちょっと熱が出たりします。「予防接種は病気になるためのものだ」ってデマが飛んだら、みんな受けにこない。だから、予防接種がどういうものかとか、免疫とか抗体がどういうものかを説明するのも、とても難しいんです。そういう中でやっていくことがいかに大変かということです。
字を読めない人に、歌いながらとか、絵で教えながらやっていく。だから、すごくその道のりは大変なんですね。本当に教育さえやっていただいていれば、非常に簡単に教えられるんです。アフリカの貧困、途上国の貧困の問題というのは、貧困無知の問題なんです。知識がないからそうなっちゃうわけなんですよ。知識がないから寄生虫の罹患率が70%ぐらいあるんですけれど、それもそうなんですよね。教育はやはり一番、大切だと思うんです。
「国際協力の中で、義務的というのは余り成功しない」と熊岡さんがおっしゃっておられて、私もそれは感じます。ただ、HIVというのをやっていて、戦争で何人か死ぬとものすごく大きなニュースになるんですね。アフリカでですね、私、今回、家が略奪されたものですから、住宅街の真ん中にある修道院に泊まらせていただいたんです。すると、どこかで毎晩、お通夜をやっているんです。ひと晩中、歌うんです。やかましくて眠れないんです。すごくたくさんの人たちが死んでいる。私たちの朝のミーティングの中でも、いつも巡回診療している医者たちが「きょうは誰がなくなりました」という報告をなさる。すごい数の人たちが亡くなっているんですね。それがひとつもニュースにならない。
2001年の統計で、アフリカでエイズで亡くなった人たちが240万人と言われています。どんなに戦争やってても、240万人も世界で死んでないんです。エイズのHIVの教育さえあれば防げる。
今、日本でエイズで亡くなっている人はすごく少なくなりましたよね。抗レトロウイルス剤を飲めるから、本当にウイルス量をゼロに近くして、普通の人と同じような生活ができるようになったんです。でも、途上国というのは、高くてお金が出せなくて、それができない。だから、ある意味ではこれは単なる病死ではなくて、本当に貧しいから死んでいっているわけです。人口的な死だと私は思うんです。戦争と同じような気がするんです。
私はいつもエイズのことを「音のない戦争」と呼び続けてきたんです。だから、私たち先進国の人たちは、そういう人たちを助ける義務があるんじゃないかと本当に思うんです。これは対岸の火事じゃないんですね。感染症の問題というのは。
アフリカにものすごく怖いエボラ熱がありますけれど、私は24時間もあればみなさんの前にアフリカの山の森の中から戻って来られるわけです。私がもし感染していたら、私のつばをかけてみなさんを感染させることができますよ。そういうことを考えると、感染症の問題は、「アフリカは大変ね」っていうことじゃなくて、地球規模で考えていかなければいけない私たちの義務があると思うんです。
藤原 ユネスコのデータを紹介すると、徳永さんが今、働いている中央アフリカでは、1000人あたりのテレビの受像機は8台だそうです。日本は約700台。何がわかるかというと、自分たちが暮らしている生活空間以外の情報については、ほとんど目にしない耳にしない。しかも、教育環境が整っていない。そういう中で何が起きているかというお話だったと思います。その辺のところがまだ知られていないですよね。そういう状況をこちらで発信するためには、どういうふうにしたらいいのですか。
徳永 日本は先進国のことについてはすごく敏感なのですが、途上国のこと、特にアフリカのことは、「ターザンがいて、ライオン、キリン、ゾウがいる」という感覚がまだまだ抜け切らないんですよね。アフリカにいる私たちが、じゃんじゃん情報を発信していかなければならないと思うんです。世界の限られた資源の中で、日本がアフリカから頼っているものはいっぱいあるんです。例えばエビなんかアフリカの太平洋の方からたくさん来ています。銅とかスズとか、地下資源にしても、私たちは余りにもまだ知らなすぎるところがある。現場にいる私たちもまだ情報提供していないんじゃないかという反省点はあります。
藤原 これだけ奮闘している人に反省されたら困ります。政府組織の人が、NGOの徳永さんのできないことをやるのが当たり前じゃなかと思いますが。長いこと活動してきて、NGOができること、政府組織ができること、あるいはそのすみわけ、役割分担について、熊岡さんわかりやすく説明してください。
熊岡 活動して24年目なんですが、最初にできた時はタイのバンコクで大使館の支援も得ましたし、企業の人の支援も得たのですが、半面、ヒッピーの集まりだというふうに言われました。その時点で、良くも悪くもその方が気軽に活動できた。例えば、日本の政府が行くなと言った当時、国交のなかったカンボジアで活動したことが、後々にはプラスになって現われたことももちろんあります。そういう時期から10年たち、特にリオの環境開発会議にNGOが参加したり、活躍したことで結構、外務省と意見や情報交換ができるようになりました。これはかつてから見れば、それなりの進展だと思います。
各地の大使館の人と話しても、大使館の業務は、その国の政府や、そこに成り立つある種の国際社会との対応で精いっぱいという部分があるらしいのです。むしろその国のスラムとか一般の人々の暮らしとか、まして農村などの状況、国境付近の紛争の芽などについては、こういったらなんですが、日本を含めて圧倒的にNGOの方が情報があります。
その辺は比較的、優位の差がある中で、一部の国では、これも情報・意見交換なのですが、政府開発援助の使われ方についても、NGOがどんどん意見を出してやっています。一つの制限、制約ということでいえば、最近、ODA大綱の見直しの中でも改めて出た議論ですが、政府や外務省は「国益に帰するための政府開発援助」という側面について、また言うようになった。
我々はここ数年、外交の下に位置付けられるものではなくて、純粋に貧困削減とか、人道支援、その中にはエイズの問題に取り組むこともあると思うのですが、日本のODAも狭い意味での国益ではなく、外交と切り離してほしいと思います。ここがいろいろ議論してもなかなか変わらないところなんです。そこも含め、これからも政策的な議論を続けられるように、ここまできた日本も含めたNGO側の経験や知識、それを基にした提言、提案を受け入れるような形が、政府側にもできたらいいと思います。
藤原 出かけて行った先の政府との関係はどうでしょう。
熊岡 名前はあげにくいのですが、行政、海外からの支援をきちんと使いこなす力がないいくつかの政府では、その国のNGOに海外の政府や民間の金が集まる中で、NGOが非常に大きくなっています。バングラデシュでは巨大NGOができて、政府とは別にそこだけで1万もの小学校を持っていたりします。これをどう評価するか。たぶんNGOでも意見が分かれると思います。
政府に、力やある種の信頼性がなければしょうがないというのか。特に地域行政が大事なのだと思うのですが、最終的にその国の中央政府に力をつけていってもらう。小学校でも何でも、二重のシステムができるのではなく、ある一定の基準を満たした学校がどこにでもできるように、地域行政、中央政府を通して実現できる方がいいのじゃないか。
これは意見が分かれると思うのですが。日本のNGOでもバングラデシュの地域の行政に対し、そこで得たものを返す中で、地域行政の力を強める活動をしています。個人的には現地のNGOと活動してきましたし、そこが重要なチャネルであることは間違いないんですが、その国の地域行政、中央政府の機能を助けるという部分をNGO側も意識していかないと、その国の中に二重の仕組みができる弊害の方が大きいのではないかと思います。
藤原 関連で村井さん。現地の政府、行政組織とはどういう関係にあるのですか。
村井 現地の中央政府と交渉するケースはまずないです。トルコや台湾では、被災地の地方自治体に、「私たちは日本から来た災害の経験をもっているNGOです。こういうことをやっていきたいのですがどうでしょうか」という形で入っていったりはします。
残念ながら相手国の行政とやることは非常に難しいし、支援がそのまま当事者に行くかは難しい面もあります。そこは覚悟しないといけないんですけれど、海外で支援するときに、住民組織だったら、あるいはNGOだったら、さらに地方自治体だったら十分に信頼関係がとれるかというのは、なかなか一概にはいえない状況があると思います。
結局は自治体にしても人次第ですし、住民組織もNGOでも人ということになるのかなあと思います。いつもここでは苦労していまして、いまだにこれが一番いいなあというのはありません。
今、アフガニスタンであるNGOと付き合いながらやっていますけれど、このNGOが本当にずっと日本で集めた貴重な浄財を現地のプロジェクトに生かしてくれるのか、これが10年も続くのかどうかというのは、わからない。不安な手探りの中でやっています。
でも、現地に行った時、そのスタッフと言葉は通じなくても人間としての思いを伝えていくことによって、議論をすることによって、信頼関係というのはそこから生まれてくるのかなあという期待をもって、やるしかないと思っています。
藤原 徳永さんの場合は、相手の現地政府が戦争したりして大変だと思いますが。
徳永 私たちは計画省というところと契約を結ぶわけです。計画省が外国の民間団体、NGOを監視するんですけれど、団体により5年契約でやるのか、3年契約でやるのかいろいろあります。私たちは一応、3年契約でやっておりまして、3年ごとに更新していくわけです。定期的にレポートを出して、住民の評価を得れていれば問題なく更新にサインしてくれるんですね。
どういう特権が私たちにあるかというと、車を買う時すべて無税でやってくれる。簡単にワークビザも出してくれる。私たちは医療をやっていますから、直接、関係があるのは現地の厚生省なんです。アフリカの政府の方に金を回すと横領されて住民に行き届かないという悪い印象が世界の国に強くて、どこもが民間団体におろしてくることが多いわけですよ。そうすると、12月1日の「世界エイズデー」という大きなイベントをやるんですが、政府そのものがイベントをやれるお金がないんです。だから我々民間団体にお金をいくら出せといってくるんです。逆なんですね。
そういうことで協力はしておりますし、特にフランスなんかは国境なき医師団とか、大きな民間団体に国のお金をやって、国境なき医師団が草の根レベルで住民を支援していくということで、非常に残念ながら政府を信頼していない。だから政府の大統領がフランスのボイコット運動をやったりして、そういうことでまた国がもめてきたりして火種にもなっています。
グローバルファンドを国連のアナンが提案しまして、世界の3大感染症、エイズ、結核、マラリア撲滅のための基金があるんですね。エイズの抗レトロウイルス剤を買えるすごく大きなお金が中央アフリカ共和国におりてきているんですが、結局、国連はそれを絶対、政府に渡しませんでした。
じゃあ、誰がやるかということになって、国境なき医師団にやってくれっていうことになったら、そんな大きいお金は動かせない。他の民間団体もみんな断ったんですね。そしたら次はWHOじゃなくて、国連開発局というところに回っていって、そこもどうしたらいいかわからない。もう何か月もたっているのですけれど、そのお金の配分ができないんです。
その間にエイズで人はじゃんじゃん死んでいっているという現状なんです。非常にこれは難しい問題で、私たちのレベルではどうにもならないような感じです。政府と民間団体、国連という三つ巴の問題というのがあります。
藤原 アジア、アフリカを中心に、世界で1時間に1255人の5歳未満の子どもたちが病気や飢餓や貧困でなくなっています。これまでや今回の交流賞の受賞者たちは、そういったところで活動していて、そこで触れあったさまざまな素敵な人たち、苦しんでいる人たちの報告を、熱く語っていただきました。
この国際交流賞は、来年以降も続きます。3人が話の中でおっしゃってました。「若い人たちが続いてほしい」ということですね。きょう、これほど多くの人たちが長い時間、聞いてくださって、このうち何人でも結構ですから、続いてもらったらいいな、と思います。そのために催したパネルディスカッションです。長いことありがとうございました。そして熱いメッセージを送ってくださった3人に、改めて拍手をお願いします。
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【質疑応答】
会場に若い人も多くいます。どんなことでも結構ですから、ぜひともこの機会に3人にこれだけは聞いておきたいという質問を受けます。
会場の女性 一番、大変なことは何でしょうか?
熊岡 最初の段階でいうと、興味で追いかけることから道は開ける部分はあると思います。国内でもいろいろな活動の大変さはあると思うのですが、私が行った海外は飛行機がすごく古いものを使っていたことが多かったので、そういう交通面。実際には協力隊も含めて、交通事故でけがをすることがあるのですが、これは必ずしも自分で防げない部分もあります。
8月にイラクに行ってきたのですが、まともに飲める水がない中で、出していただいたものを飲んで、おなかをこわしたりします。カンボジアもすごく水がきたなかったんです。脅かしているような感じになるとまずいんですが、やはり自分の健康を守るところが結構、難しい。心身の健康を保持していくことが、長期に働く場合の大切なところになります。
村井 向こうで余り体を壊すことはないのですが、この前、アフガニスタンに行ってちょっと熱射病にかかったんです。そこで少ししんどかったものですから、いつも、どこに行っても健康保持しておくことは大事かなあと。それは、気持ちをきちんと持ちうるということですから、心地よい状態をいつも自分が作れるにはどうしたらいいのかなと考えておく。
これは別に海外でなくても普段の日常生活でも自分が心地良いということはどういうことなのかが、すごく大事かなあと。友だちにしても、一人が心地よければ相手も心地よいはずだから、心地よいということはどういうことかと考えるのはすごく大事と思います。
それから、身近で大事なのは、やはり政治だということを考えてほしい。もう少ししたら選挙権がもらえると思いますが、自分たちが託している議員が信頼できるかどうかということはものすごく大事なことです。そのことが国連でどういうことが議論されるかということとも関連する。
年内にイラクに自衛隊を派遣するというような記事も出ていましたが、あなたたちのお兄さんが、弟がもし自衛隊に入ってイラクに行くということになったらどうしますか。そういうこから、政治はものすごく大事だということをぜひ考えてほしい。
徳永 アフリカに行きたいという看護婦(師)さんがよくみえるんです。その時、私は「孤独に耐えられる人じゃなければだめですよ」って、いつもいうんです。毎日、何分ごとに携帯電話で連絡を取り合っていたような人ではね。
私たちがしているアフリカの生活は、朝5時半に起きて、6時半に診療所に行き、午後3時ぐらいに仕事が終わって7時ぐらいにはお互いに「バイバイ」って自分の部屋に入っていくわけですよ。電話もかけられない、テレビをつけても意味がわからない、言葉が分からない。そうした時に、夜の7時から翌朝まですごく長いんです。日本語の本を持っていっても、一緒に来た人がもう2週間したら「徳永さん、読んでいても何が書いてあるのかわからなくなりました」っておっしゃったんですよね。 やはり、孤独って自分を見つめることなんです。人間は一番怖いのが自分を見つめること。今の若い人たちは、自分を見詰めるのが嫌だから常時常時、人と連絡を取り合ってるじゃないですか。そういう自分自身を見詰められない、自分自身の孤独に勝てないような人は、途上国に行ったって本当にもたないと私は思うんですね。
私がふざけて「じゃあ、きょうから7時になったらテレビもラジオも止めて、携帯電話もいっさい切って、1週間それをやってごらん。そしたら連れていくわよ」っていうと、みんな「じゃあ、できない」っていうんですよ。だから、来た何人かの人が最初、言葉ができず、現地の人とコミュニケーションがとれなくて、やはり孤独になって途中でお帰りになったんですね。心の豊かさというのが非常に大切なんじゃないかと、私は思うんですね。
藤原 徳永さん、孤独に勝つために何をされています。どうしたら孤独に勝てますか。
徳永 例えばフランスのルーブル美術館に行くと、生徒さんたちを先生が一つの絵の前に座らせて何時間も見させる教育をやっているんです。日本人は何秒か見て走り回って忙しい。日本の教育の中でもそうなんですが、なかなか落ち着かないんですね。だから本当に海辺に座ってじっとしていられる、空を見ててもじっと自分の思いをもって退屈しないでいられることが今、日本の教育の中で欠けているんじゃないかなって、私は思うんです。
外国人とずっと一緒に生活してきて、やはり最初はすごくさみしかったし、大変な思いをしてきました。だからこそ、そういう訓練が足りなかったなあと自分でも思うんです。やはり、若い人たちがくると、同じ問題に突き当たってしまっていることを、私は感じています。
会場の男性 本日はありがとうございました。活動の中でいろいろな人と出会うと思いますが、どのような志なり思いをもった人と、一緒に活動したいと思われますか。
熊岡 難しい質問だと思います。必ずしも選ばない、選べないということはあると思います。一緒に働くしかないということはもちろんあります。その中から自ずと見えてくるものがあります。こちらが選ぶように向こうも選んでいる。お互いにふるいにかけあって、3年、2年、1年残ればなんか縁もあるし、近いものがあるというそんな自然なプロセスじゃないかと。
少しずれますが、ベトナム難民の男性で、非常に難しい難民キャンプの自治会のまとめ役をしていた人がいます。彼ともけんかしながら3カ月か4カ月なんですけれど、一緒にやって、すごく印象に残っています。今、アメリカのカリフォルニアに住んでいて、何度も会えないんですけれど一生、心に残る人です。そういう人があちこちにいます。
村井 私はどちらかというと暗いですから、相手は明るい人。とにかく徹底して明るければ好かれると思います。それと、私が結構、口うるさくいうし、大きな声でしゃべるから、それでもへこたれずに向かってきて、私との関係を途切れさせないようにしていただける人。関係が切れてしまうのがものすごくつらい。修復するのが至難の技ですから。まず、明るい人が私としてはありがたい人ですね。
徳永 私は一番最初にアフリカをやりました。そのあとカンボジア、ベトナムをちょっとやってみたんです。そしたら、どうしてもカンボジア、ベトナムは自分に合わなかった。やっぱりアフリカじゃなければいけないって。私たちみたいにウロウロしている人たちのことを、「大陸浪人」というらしいんですが、大陸浪人の中にはアフリカ向きとアジア向きの人に分かれてしまうんですね。
私はなぜアフリカ向きなのかというと、言いたい放題なんです。アフリカの人たちも言いたい放題。アフリカの人に10知らせるためには、20も30も言わなければいけない。でも、アジアの場合は以心伝心だとか、根回し、きまわしの世界で生きていくからどうしてもぬるま湯につかり、出るに出れないような難しいものがありました。アフリカでは本当にけんかしながら、わかりあえるまで言い合っていく。私自身はアフリカがすごくあっていると思うんです。
私はいろいろと言ってくれる人がものすごく心に残って、働きやすいです。日本の事務局との関係をいいますと、すごくギャップがあるんですね。現場にいる人と国内にいる人との考え方の違いで、実際にアフリカに来てもらうんですけれど、日本の物差しで測ってしまう。現地におりますと、そこらへんがすごく難しいです。
(2003年10月13日毎日新聞大阪朝刊)
<左から>▲日本国際ボランティアセンター(JVC)代表・熊岡路矢さん ▲被災地NGO恊働センター代表・村井雅清さん ▲アフリカ友の会代表・徳永瑞子さん ▲毎日新聞大阪本社・藤原健編集局次長 |
熊岡 ベトナム戦争後の傷を抱えた国から難民がたくさん出てきました。カンボジア難民の場合は地雷を超えてくるので、そこで命を失う人もいたし、足を失ったり相当ひどい状況でタイ側に出てきた。そういう報道にショックを受け、普通の人の私も何かできるのではないか、したいということで、リュックサック1個をしょっい誰にも頼まれたわけでも、現地から呼ばれたわけでもないのに、行ってしまったというのが出発点になります。
1980年のはじめごろ、カンボジア難民、ベトナムからのボートピープルが大量に出てきていました。ラオス、タイに15年いた日本人女性が中心になっていた団体とめぐりあいまして、最初の日に国連、キリスト教関係の教会をまわったりして、3番目ぐらいにできたばかりのJVCにたどりつきました。
カンボジア難民キャンプでは当然、カンボジアの人たちが本当に一人一人、すごい人生をしょっているわけです。本で読むとかテレビで見るとかできますが、やはり一番大事なのは真実。事実を知る方法では、日本の中でもさまざまな現場があります。けれど、現場、現地に行くということ、人とひざを接して話しあうところからすべてがスタートするのではないかと思います。
(JVCは)素人的に始まった団体なんですけれど、最初の1年だけで1300人が日本からタイに来て、1週間、2週間、3週間と、自分にできる期間、自分のもっているお金の範囲で活動して帰っていきました。現在では幸い、カンボジアなどは平和な状態に戻り、その中で長期復興とか地域開発の協力の活動に入りました。新しい地域としてはアフリカにエチオピアや南アフリカで活動しています。
自分の世代だと子どもだったのですが、日本の戦争の後の10年ぐらいを覚えている。傷い軍人がいたりして、日本がまだぼろぼろでよれよれだった時に、外国の人に助けられている。そしてベトナム戦争がある。
小さい団体ですが、紛争、内戦などの中で何かできないか。人道援助ということもあるでしょうし、戦争を止めることができるのなら止めたい。そういう思いで今もイラク、パレスチナ、アフガニスタンも含めて働いています。
藤原 国際交流賞が始まりこの14年間、とりわけ衝撃的なことに阪神大震災がありました。村井さんはそれをきっかけに具体的な活動を始められました。
村井 8年前の1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災をきっかけにNGOの世界に入っています。私のボスであり、20年近く活動していたリーダーの草地賢一が、2000年1月2日に急死し、そのあとを私たちが十分ではないのですが、継ぐ形で活動しています。彼は1985年に神戸NGO協議会を作っていたので、日本におけるNGOの活動は熊岡さんと同じぐらい続けていただろうと思います。
私は熊本県の水俣病の問題をずっとやっていました。草地の下で仕事をするようになって、NGOのことを少しずつ知るようになります。本当にNGOがすごいと目覚めたのは、1996年にトルコのイスタンブールでの国連の大会でした。居住権ということについて議論しました。そこで、きょう選考委員で来ておられる北沢洋子さんと初めてお会いしました。いろんな話を聞くうち、女性だけが集まってやっている分科会に行ってみなさい、何かヒントがあるかもしれないよ、と北沢さんに勧められ、そこに行ってNGOはすごいと感じ、のめりこんでいったわけです。
最初は日本の中でも一ローカルの神戸の被災地の再建活動ということから出発するんですが、あの時には日本国内はもちろん、海外からもたくさんの支援をいただきました。バングラディシュやタイのスラム、貧しい人たちからの貴重な寄付も届けられたようです。95年5月にロシアのサハリンで大きな地震が起きました。当然、私たちはお互い様ということで、海外の災害に対する救援を始めました。それから毎年のように大きな災害が発生するようになりました。そして現在、調べてみたら30回にも及ぶ救援活動を続けています。
アフガニスタンでは「ブドウプロジェクト」を支援しているのですが、実はこれまで29回は全部、自然災害です。このアフガニスタンで初めて紛争災害にかかわりました。随分と議論しました。自然災害と紛争災害とはだいぶ違う。なぜあえて紛争災害にまで手をつけなければならないのか。手をつけてしまったらやめられない。もちろん、そういう危険なところに行くことについての補償とか、そういったこともある。そういう中で、紛争災害のアフガニスタンにかかわることはどうだろうか。
しかし、向こうに困った人がいて、生活に苦しんでいる人がいて、何のいわれもなく空爆の下で亡くなっていく人がいる状況の中で、自然災害であろうが紛争災害であろうが、これは同じだと。そこから踏み切ることにして、今2年がたっています。
随分といろんなことをこの間、海外に行って学びました。災害救援とはなんだろう。物資を集めておいてくるだけが災害救援だろうか。学校を建てて、頑張ってくださいといって帰ってくるだけが災害救援だろうか。いろいろなことを考えさせられました。
NGOがやる国際協力とは何なのか。まだ入り口ですが、一つにはアフガニスタンの再建を中心に据え、じっくりとこつこつと、どのぐらいの時間がかかるかわかりませんけれど、やっていきたいなと思っています。阪神淡路大震災の10年目を前にして、この10年間何だったのか、向こう10年間に何を残すのかということの作業を始めかけたところです。
亡くなった草地賢一は「言われなくてもするけれど、言われてもしない。これがボランティアの精神である」ということを言ったんです。ただ行政や官の下請けであったり補完であったりしてはいけない。こういう意味だけだと思っていたのが、実はもっと奥深く、「誰も頼んでもいない。でも誰がやるんだ。自分が、私たちがやるしかないんだ」、これが「言われてもしないと」いう言葉の中味ではないかと、少し気づきました。これから先の活動の中で、もっともっとこのことを深め、個人的な気持ちですけれど草地に遺志に少しでも近づいていければと思っています。何よりも未来の夢のある社会につなげていくため、一つの私たちの役割として震災からの教訓、経験をきちっとこの時期に整理しておきたいと思っています。
藤原 次は徳永さんです。間もなくまたアフリカに帰られます。来週、東京でアフリカの開発に関する大きな会議があります。徳永さんが活動されている中央アフリカは、サハラ砂漠以南で、地域別にみると平均寿命が下がり、人口が減り、HIVがまん延しています。そういうところに対して国際社会として何ができるのか、という会議です。よろしくお願いいたします。
徳永 ちょうど1年前にこの場所で受賞させていただきまして、何かきょうはとても感激いたしました。賞のお金と毎日財団から追加していただき、アフリカに毎日憩いの家を作りました。エイズの患者さんたちが憩い、現地でそれを見るたびに本当にこの賞の重みをとても感じて頑張っております。
私の経歴をちょっと話させていただきますと、単なるアフリカに対するあこがれから看護婦(師)になり、助産婦(師)になったような気がするんです。日本の企業が募集してた医療班の一員として弱冠23歳、学校を卒業して10カ月という若さでアフリカの旧ザイール、今のコンゴ民主共和国に行きました。そこで私はこういう国で働きたいってもう直感的に思い、その後、現地のフランス語や熱帯学を勉強して、その後はフランスやベルギーのキリスト教系の民間団体を利用して、ザイールで8年間ほどボランティアとして活動していました。
その後、日本に一時、帰国してたんですけれど、その時にHIVの問題が世界的になって、神戸ショックが1987年なんですね。その前後ごろに、もうザイールがエイズの発祥地だというようなことで騒がれたりしました。私の友達、青春時代に一緒に働いていた人たちがエイズで死んでいく事態があり、その時に私も誰からも求められもせず、お金もなく、私はやはりこういうことをやりたいんだということで、友達を集め、それでザイールに乗り込んでいこうとしました。その時に、ザイールに内乱が起き、ちょっと待てって、危ないから行かないでくださいということで、その隣の中央アフリカ共和国で活動を始めて11年目になります。
HIVの感染率は現在はだいたい20%。公式発表では13・48%と出ておりますけれど、いろいろな努力にもかかわらず、いまだにブラックアフリカというのは、エイズによって存亡の危機にあるといっていいと思うんですね。去年の10月に一時、休暇で帰ってきた時に内乱が起きました。外務省が危ないから帰らないでくださいということで、それで帰れないままに今年の3月15日についにクーデターが起きました。政権が交代して壊滅的な被害を受けまして、私たちも住まい、車が略奪され、診療所だけは無事に地元の人たちが守ってくれたのです。
そういう事情がありまして、今年の4月から一時的に、これから国際協力を目指す人たちを教育していこうということで、長崎大学で若い人たちの教育をやっています。今年の夏は学生を連れ、現地にまいりまして、そしてつい先週、帰ってきたばっかりです。だからこれから少しの間は、学生さんたちを連れてアフリカに行ってということになるかと思うのです。
内戦による壊滅的な打撃、それに貧困が輪をかけてHIV感染がますますひどくなっているんですね。だから、こうして自分が日本にいることじたいがすごくじれったいっていうか、やっぱり私はアフリカに行くべき人間じゃないかっていうのが、自問自答して返ってきたばかりの今の私の考えです。
藤原 3人なりに経歴を語られた時に、会場におられる若い人たちは「うわあ、ちょっとかなわない。これはやっていけない」と思う人と、「ひょっとしたらできるかもしれない」と思った人と半々だったのではないでしょうか。熊岡さんが活動を始めたころは「NGO」という言葉は一般的ではなかったはずです。団体の名前にあるように、ボランティアですね。でも3人のような活動をしていくには、それではすまないだろうと思います。私もプノンペンで会った時、熊岡さんから多くのことで影響を受けました。その中で残っている言葉の一つは「私はボランティアのプロです。プロにならないとこういうものすごい状況は解決できない」とおっしゃってました。熊岡さんは自動車整備の技術ももっておられる。団体の代表ですから、行政とコーディネートする力ももっている。どうしてプロにならないとできないんでしょうか。
熊岡 大きくいって二つの段階があると思います。JVCがタイの難民キャンプでできた時、私たちからみていろいろな必要性が明らかでした。そして、カンボジア難民やベトナム難民の苦しみの中で、医者や看護師が必要な部分はもちろんありましたけれど、そもそも何ができるかわからなかった。難民キャンプで必要とされるトイレ作りでもいいし、どぶ掃除でもいいけれど、そういうレベルなら元気な人なら誰でもできるんです。一番難民キャンプで多かった仕事は、タイや日本から集まってくる衣類を大人用、子ども用、男性用、女性用に分けることです。カナダやフランスのように寒い国に定住していく人たちには寒い国で使える衣類とか、暑い難民キャンプに残らなければいけない人に夏着。そういうふうに分けて配る。これは元気なら誰でもできる部分があります。
最初の1年に集まった1300人のうち、主に中心になったのは30~40人で、日本人だけではないのですが、タイのバンコクなどにいた主婦が中心になってくれました。最初に100人ぐらい、バックパッカーのような形で人が現われ、できる範囲のことをやっていった。元気なら誰でもというレベルで参加できる。これはボランティアの一つの基本で、日本の生活の中でも日常的にできることはあると思います。
ただ、私自身も3年、4年、5年とやる中で、藤原さんにお会いした時は、難民を出している元の国に入っていたということもあります。カンボジアという国は当時、日本と国交がない。いろいろな国と国交がなく、もちろん大使館も交換してないわけで、入国ビザを取るだけでも大変ですね。当時のカンボジアは政党が一つしかなく、結構、締め付けも厳しい。
私たちが各地域で、あるいはカンボジアの首都プノンペンで、例えば職業訓練校とか始めたのですが、その場合もかなり厳しい交渉をしなければならない。いきなりプロになったわけではないんですけれど、難民キャンプで働いたり、難民を出している元の国に行くという中で、自分をある程度、引き上げなければ相手と対等の交渉ができなかった。
当時、カンボジアの中で日本人が3、4人しかいなくて、日本大使館がありませんから、一部ですけど民間の意味での外交というか、日本から来る人の入国を手伝うことを含めてするうち、だんだん引き上げられていった部分があります。ボランティアのプロという言い方もありますし、国際NGOという言い方もあるかもしれない。フランスの国境なき医師団とか、みなさんも聞いたことがあるでしょう。こういうのがプロ的に動いているNGO団体ですね。いきなりそこまで誰もいけません。我々もまだ途中経過だと思います。
我々のケースでいうと1300人の平均年齢は22歳ぐらいでした。ということは、客席側におられる人とそんなに変わらない。上はもちろん70歳ぐらいの方もおられましたし、中には中学、高校生もいる。最初のステージで、日本でもできることがあるし、海外でできることがあるかもしれません。そのチャンスをつかまなければいけませんけれど、最初の誰でもできるところで参加しながら、言葉、農業や医療のような専門性などで、ここは足りないないうことに気づいたら、日本に戻るなり、他の国で学んで戻るということがあります。
僕自身も4年も5年もかかったわけなんですけれど、ある程度、こういうイメージでやらなければいけない、となりました。ひとつはフルタイムですね。もはや、自分の余暇の時間でのボランティアの時期ではなかったんです。ちゃんと生活できるに値するのに近いお金をいただきながら、誰でもできるレベルでやっていてはいけない、という段階に達したわけですね。たぶんおのずとみなさんが選んでいく段階があるのだと思います。
藤原 阪神大震災の時、「ボランティア元年」と呼ばれた年でもありました。それが今、活動の大きな出発点にもなっている村井さん、どうですか。
村井 阪神淡路大震災で「ボランティア元年」という言葉が言われ出し、5年間で延べ130万人、最大一日で20万人が被災地「KOBE」に来られた。そこでボランティアということが、随分と言われるようになりました。これまでどちらかというと、ボランティアというのは自分を犠牲にして他人のために尽くす、奉仕というニュアンスでの意味合いで理解されていたことが多かったように思います。震災でいろんなことを考えさせられたために、ボランティアって一体、なんだろうと改めて考えるきっかけになったんじゃないかと思います。
さきほどのプロの話に関連して言わせてもらいますと、段階的な中で、プロ的な力量なり素養が必要なことはもちろんだと思うんですが、災害後の救援活動は場合によっては最初は体力があって元気であれば、水を運んだりがれきを運んだりできる。高齢者のそばに行ってとにかく話を聞くというボランティアもできる。子どもが好きなら一緒に遊ぶボランティアもできる。プロという資格がなくても、できないことはないと思います。
むしろ、阪神淡路大震災で発見した大事なことは、いろんな人が自分のもっている得意技を使ってボランティアをする。そのことで一時期、機能不全を起こした行政のすき間を埋めたのではないか。ボランティアに来た6~7割の人が、実は初めてボランティアをした人たちです。それも若い人たちがほとんどです。その人たちが大半のすき間を埋めた。
阪神淡路大震災の時に、コーディネーターがいなかったから混乱を起こしたと言われました。コーディネーターというのは、例えば、あるAという場所には物資がたくさんある。同じ被災地でもBというところには物資がほとんどない。これを調整していく人たちがいない。救援の格差を調整する人がいないから混乱したといわれています。
果たしてそうでしょうか。あれから8年たち、国内のほとんどの災害現場にかかわっていますけれど、別に混乱なく、被災地の人たち自身がきちんと考えて、最低限のことをやっておられます。もちろん、場所によってコーディネーターは必要なんですけれど、大騒ぎするほど必要なんでしょうか、と最近思っています。
つまり、自分で考え、自分で動くことがなければ、ボランティアではないんじゃないか。これがボランティアの基本だと思います。コーディネーターがいて、一定の指示をしていたのでは、本当のボランティアは育たないだろう。そういうふうに思っています。プロではないけれど、それぞれがもっている考え方や感じ方でもって被災者に対応したり、活動することが実は大事じゃないか。 このことから、私たちは多様な価値観とか、違うことは当たりまえということを学ばせてもらったのです。この原則を忘れ、コーディネーターというある種の技術に頼るだけでは、よくないのじゃないかと思います。
実はけさ、北海道で地震があり、一人のスタッフを現地に向かわせました。別に経験があるとか、得意だとかそういうことは関係なく、すぐに飛ばしています。まず、被害状況を確認して、こちらの事務局に情報を流していただいたら、誰が行くのかは次の問題です。もちろん場合によるのですが、あまり専門性は優先順位として求められるものではないという気がします。
藤原 「プロ」という言葉を「専門家」に置き換えてもいいと思います。徳永さんは保健・医療関係の専門家です。ただし、現地で「マダム」と呼ばれて実際にやっておられることは医療、保健、保育だけじゃなくて、それこそ起きてから眠るまですべてのことを一人でやっておられる。これはすさまじいです。徳永さん、日常の生活を紹介しながらお願いします。
徳永 看護婦(師)と助産婦(師)の日本の国家試験の免許があります。現地でどういうことをやっているかといいますと、医者の仕事もやるし、検査技師、栄養士、薬剤師、メディカルソシアルワーカーの仕事もやるし、時には救急車の運転手もやらなければいけない。今、生活支援もしますので、患者さんたちに洋裁も教えているんです。そして、帰国する時にそれを持ってくるわけです。洋裁技術も自分で少しは勉強したし、日本でマーケットリサーチしてどういうのが売れ筋かって、そういうことも見ていかなければいけない。もちろん、日本とアフリカのコーディネートもそうですね。 最近はエイズ孤児の問題が非常に大きくなっていて、エイズ孤児の教育にも携わっています。とにかくオールマイティー。全部、中途半端ですけれど何でもできるっていうのが、途上国の国際協力の仕事。あれはできない、これはできない、私は看護婦だからこれしかできないということでは、やはりやっていけない。本当に気持ちさえあれば、やっていけるのじゃないかなあという風に思っております。
藤原 「どうして助けてあげなければだめなんだろう。そこまでして」と思っている会場にいる多くの若い人の背中を押して、「ぜひ一緒にやってください」と言うなら、どういう話をされますか。
徳永 「リスク」っていうことが一番、大きいと思いますね。特に私たちは内戦地域でやってますから、戦争に巻き込まれて死ぬかもしれない、負傷するかもしれないという、そこらへんのリスクです。それと、周りはみんなエイズの患者さんのことをやっておりますから、それでHIV感染するかもしれないとか、いろんな危惧(きぐ)があるわけなんです。
けれど、そういうリスクを全部足したものよりも、自分が受けているものの方が大きいからそちらに向かっていくわけなんです。だから、非常に抽象的な言い方なんですけれど、今回も私ちょっとマラリアにかかってんです。今までの薬で余り効かなくて、熱が長く続いて。そしたらもうエイズの患者さんたちが自分もふらふらなのに、それよりも私のこと「マダム大丈夫なのかね」って見舞いに来てくれたり。「ちゃんと食べてるの」「どうしてるの」って。出ていくと「もう一日、休んでいた方がいいよ」「もうちょっと座っておいたら」っていうような、そういうものがものすごくうれしいですね。
自分の病気の方がもっとひどいのに、私のことをみんなが考えてくれる。ちょっとお手伝いとかすると、自分の家でニワトリが卵を産んだら私のために持ってきてくれる。ちょうどパパイヤが旬になり始めたのですが、私が好きなのをみんなが知っているから「この一番、大きいのをマダムに持ってきた」って。心と心の交流といいますか、そういうものが、すべての戦争だとか、危機を押してでも何か向こうに戻っていきたいっていう気持ちなんですね。フレンドシップといいますか、そういうことだと私は思います。
今、学校で教えているといいましたけれど、(アンケート調査をしたら)国際協力に興味があるという生徒さんは91%もいるんです。実際に国際協力をやってみたいという人が66%も。私たちアフリカ友の会もホームページ作っていましたが、それを消したんです。なぜかっていうと、余りにも「行きたい」という人が多すぎて、対応できなくなっちゃったんですね。
だから、リスクがあるんだけれど、今の若い人たちはものすごくそういう途上国の人たちを助けたいと思っている。自分が行って現場で助けてみたい、とか、何かもっと得るものがあるんじゃないかって。いろんな理由があると思うんですけれど。そういう意味で、私は日本の若者に期待していいんじゃないかと思っています。
藤原 今の話に関連して熊岡さん、お願いします。
熊岡 例の「100人の村」の言い方をしますと、日本人全体の中で、苦しいと思っている人も含めて地球の上から100人の中から10人、1割ぐらいに入っているわけですね。みんなでないかもしれませんけれど、いろいろなチャンスを与えられて、学ぶことができた。基本的に十分、食べていける。
そういう中で、日本で、場合によっては外国で、それだけのチャンスに恵まれてない人とつないでというか、そういうところに思いをはせる。少なくとも戦争の最中にある人のことを考えるだけでもいい。もしそういう風に考えられるのなら、その流れの中でちょっと展開してみることは一つあると思います。
2番目には、これまでの受賞のスピーチで、ほとんどすべての方がおっしゃったと思うのですけれど、一方的に助けることはないんです。徳永さんがおっしゃったように、海外協力という話をしますと、自分の気持ちで「助けに行く」とえらそうに思っていても、実際は7割、8割ぐらい(相手に)助けられなけりゃ全然、動けない部分があるんです。その中で、はるかに多くを受けている。
最初、言ってることと矛盾しているかもしれませんけれど、一方で何か自分たちが得ているものを、他の人にも少しでも伝えたいと話しておきながら、逆にいうのはおかしいかもしれませんが、本当にそうなんです。これが政府とか企業とかの活動だったら、そこは主にはならないと思うんです。でも、草の根の活動、最終的には個人個人の人間関係ということになっていくと、そこで得られるこちら側の学びとがある。
もう一ついえることはやはり義務とか、「ねばならない」だけではできない。普通の人として考えますとね。そういう時に、自分のその国や地域への好奇心とか、そういう個人的な関心は認めていいと思うんです。そういうのなしに「ねばならない」だけでやろうとしたら続かないし、自分もつぶれるし、周りも重苦しくなるんですね。
面白い例がありました。最初の1年、JVCのケースなんですけれど、難民キャンプの活動にきた中に一人、非常にまじめなんですが、「助けに来た」という意識が非常に強い男子学生がいた。彼の場合は難民の側がひいてしまったというか、彼自身がもっているプレッシャーが強過ぎ、矢印の方向が余りにも一方通行なので、だんだん周りに人が集まらなくなったんです。
難民キャンプだけじゃないんですけれど、他方でどういう人が受け入れられるかというと、もっと肩の力を抜き、「この場所が好きで」とか、「興味があってきました」「ここで一人でも二人でも友達を作りたくて来ました」という感じの人です。そういう人の方が最終的に1年、2年いて、何かもできたし、その人自身もいろんなものを受けて帰れたという一種の逆説があります。
そういう意味で、自己満足ではないかとか、自分のためにやっているのじゃないかとか、そこを余りネガティブにとらえずに、人間やはり自分として生きてますから、自分のもっているいろいろなものを肯定的にみて、その中で伸びていく。それが国際交流や国際協力の分野でも必要で、積極的に認めていいのかなって思います。
藤原 村井さんは震災から出発し、防災についてみなで考えることを活動の基礎にされている人です。村井さんが話すことの多い「突き詰めて言ったら防災って平和なんだよ」というその辺のところを説明していただけますか。
村井 先程も話したように、紛争災害にかかわったのは今やっているアフガニスタンが初めてです。一昨年の「9・11」の事件から、初めて戦争がどういうものなのか、神戸にいるNGO、ボランティアグループとして考えるようになったわけです。
アフガニスタンで10月に空爆が始まった。それから2年たち、イラクで今年の3月20日に空爆が始まっていく。この2月、世界中で1000万人がピースウオークという形で、顔も名前も知らない、でも同じ日、同じ時間帯に自分と同じ思いをした人たちがこの地球上でピースアクションを起こしていることを知った時、ものすごく感動しました。けれども戦争は止まらなかった。 イラクの空爆が始まった時、私はアフガニスタンにいました。行くことを迷ったのですが、最終的にはだからこそ、今アフガニスタンに行き、アフガニスタンを伝えなければいけないと自分なりに納得して行きました。でも、戦争が止まらなかったことが悔しかったです。だけれども、帰ってきて、コンサルタントの人が「私は夢を追い続けます」ということを雑誌に書いておられるのを読み、「ああ、そうなんだ」と。「人が何を言おうが私は夢を追い続けるんだ」と、私も思うようになりました。そういう人が一人でも、二人でも増えていかなければ、戦争は止まらないんだろうなと思わざるを得ない。
考えてみたら、自然災害は、特に地震はほとんどまだ予知できません。だから一度にたくさんの人が亡くなってしまう。だけど、人がかかわってやっている戦争は、そのことさえしっかり考えれば、起きないはずなんですよね。私たちは「KOBE」で学んで、防災ということを8年以上、言い続けてきたんですけれど、最大の防災というのは戦争を起こす前に止めることじゃないか。そういうことに気づきました。9・11からしばらくしてから、ずっとスタッフとともにそのことを発信しています。この9月28日にも、若い人たちがピースアクションをします。少しでもこういうところに参加して、自分と同じ思いをもっている人たちがいるんだと、この時間の共有をすると随分、人生観が変わるのではないか。大事なことはその中ででも、みんな違うことを基準にして、違うことをきちんと発言して受け入れられる世界を作らなくてはいけないと、最終的には思っています。
98年にある仏教宗派の大きな大会がありまして、大会のフレーズは「ばらばらで一緒」でした。その時から、この言葉に非常に引っかかっておりまして、魅入られているんです。ばらばらで一緒とはどういうことだろうかと。ずっと考えています。非常にこれは面白い。人間はもともとばらばらですから。もっともっと考えていいんじゃないかなあ。私が思う生き方をやる。自分が考えていることを発言する。そういった日常がくるように、もちろん自分がそれに対して少しでも努力する。こういうことが必要かなあと思います。なかなか難しいことですけれども。
藤原 以前、徳永さんともお話したんですが、日本の場合は日本人が日本語で字を読め、話しができる。これが当たり前なんですけれど、それができない人がいっぱいいるのがアフリカです。今、徳永さんの囲まれている日常なんです。字が読めないとはどういうことなのか。言葉ができないってどういうことなのか。紹介していただけますか。
徳永 医療の問題をやっていますと一番、それが優先するように思いがちなんです。でも、本当に識字率が低いところでやっておりますと、いつも教育に行き着くんですね。例えば読み書きができないというのは、それだけの問題じゃないんです。教育を受けていないと、物事を理論的に考えることができない。だから、字が読めないだけの問題じゃないんです。
私たちは日本の教育の中で、どのように物事を考えていくかということも勉強してきているんですね。アフリカできれいな水があるとすると、そしたら「マダム、これはきれいな水だから飲める」って、川に行って飲んじゃうんです。日本人なら飲まないでしょ。何が入っているかわからないから。透明だから飲めるっていうことにはならないんですよね。
HIVの検査をしたら子どもにエイズの症状が出ていて、お母さんを検査しますよね。「あなたはHIVのキャリアですよ。ウイルスをもってますよ」というと、「いや、私は病気じゃありません」って。キャリアの概念を理解させることがなかなか難しいんです。教育を受けてこういうことがわかっていたら、もっと楽なんじゃないかと。
例えば予防接種を子どもたちは受けなくちゃいけない。中には、予防接種の副作用でちょっと熱が出たりします。「予防接種は病気になるためのものだ」ってデマが飛んだら、みんな受けにこない。だから、予防接種がどういうものかとか、免疫とか抗体がどういうものかを説明するのも、とても難しいんです。そういう中でやっていくことがいかに大変かということです。
字を読めない人に、歌いながらとか、絵で教えながらやっていく。だから、すごくその道のりは大変なんですね。本当に教育さえやっていただいていれば、非常に簡単に教えられるんです。アフリカの貧困、途上国の貧困の問題というのは、貧困無知の問題なんです。知識がないからそうなっちゃうわけなんですよ。知識がないから寄生虫の罹患率が70%ぐらいあるんですけれど、それもそうなんですよね。教育はやはり一番、大切だと思うんです。
「国際協力の中で、義務的というのは余り成功しない」と熊岡さんがおっしゃっておられて、私もそれは感じます。ただ、HIVというのをやっていて、戦争で何人か死ぬとものすごく大きなニュースになるんですね。アフリカでですね、私、今回、家が略奪されたものですから、住宅街の真ん中にある修道院に泊まらせていただいたんです。すると、どこかで毎晩、お通夜をやっているんです。ひと晩中、歌うんです。やかましくて眠れないんです。すごくたくさんの人たちが死んでいる。私たちの朝のミーティングの中でも、いつも巡回診療している医者たちが「きょうは誰がなくなりました」という報告をなさる。すごい数の人たちが亡くなっているんですね。それがひとつもニュースにならない。
2001年の統計で、アフリカでエイズで亡くなった人たちが240万人と言われています。どんなに戦争やってても、240万人も世界で死んでないんです。エイズのHIVの教育さえあれば防げる。
今、日本でエイズで亡くなっている人はすごく少なくなりましたよね。抗レトロウイルス剤を飲めるから、本当にウイルス量をゼロに近くして、普通の人と同じような生活ができるようになったんです。でも、途上国というのは、高くてお金が出せなくて、それができない。だから、ある意味ではこれは単なる病死ではなくて、本当に貧しいから死んでいっているわけです。人口的な死だと私は思うんです。戦争と同じような気がするんです。
私はいつもエイズのことを「音のない戦争」と呼び続けてきたんです。だから、私たち先進国の人たちは、そういう人たちを助ける義務があるんじゃないかと本当に思うんです。これは対岸の火事じゃないんですね。感染症の問題というのは。
アフリカにものすごく怖いエボラ熱がありますけれど、私は24時間もあればみなさんの前にアフリカの山の森の中から戻って来られるわけです。私がもし感染していたら、私のつばをかけてみなさんを感染させることができますよ。そういうことを考えると、感染症の問題は、「アフリカは大変ね」っていうことじゃなくて、地球規模で考えていかなければいけない私たちの義務があると思うんです。
藤原 ユネスコのデータを紹介すると、徳永さんが今、働いている中央アフリカでは、1000人あたりのテレビの受像機は8台だそうです。日本は約700台。何がわかるかというと、自分たちが暮らしている生活空間以外の情報については、ほとんど目にしない耳にしない。しかも、教育環境が整っていない。そういう中で何が起きているかというお話だったと思います。その辺のところがまだ知られていないですよね。そういう状況をこちらで発信するためには、どういうふうにしたらいいのですか。
徳永 日本は先進国のことについてはすごく敏感なのですが、途上国のこと、特にアフリカのことは、「ターザンがいて、ライオン、キリン、ゾウがいる」という感覚がまだまだ抜け切らないんですよね。アフリカにいる私たちが、じゃんじゃん情報を発信していかなければならないと思うんです。世界の限られた資源の中で、日本がアフリカから頼っているものはいっぱいあるんです。例えばエビなんかアフリカの太平洋の方からたくさん来ています。銅とかスズとか、地下資源にしても、私たちは余りにもまだ知らなすぎるところがある。現場にいる私たちもまだ情報提供していないんじゃないかという反省点はあります。
藤原 これだけ奮闘している人に反省されたら困ります。政府組織の人が、NGOの徳永さんのできないことをやるのが当たり前じゃなかと思いますが。長いこと活動してきて、NGOができること、政府組織ができること、あるいはそのすみわけ、役割分担について、熊岡さんわかりやすく説明してください。
熊岡 活動して24年目なんですが、最初にできた時はタイのバンコクで大使館の支援も得ましたし、企業の人の支援も得たのですが、半面、ヒッピーの集まりだというふうに言われました。その時点で、良くも悪くもその方が気軽に活動できた。例えば、日本の政府が行くなと言った当時、国交のなかったカンボジアで活動したことが、後々にはプラスになって現われたことももちろんあります。そういう時期から10年たち、特にリオの環境開発会議にNGOが参加したり、活躍したことで結構、外務省と意見や情報交換ができるようになりました。これはかつてから見れば、それなりの進展だと思います。
各地の大使館の人と話しても、大使館の業務は、その国の政府や、そこに成り立つある種の国際社会との対応で精いっぱいという部分があるらしいのです。むしろその国のスラムとか一般の人々の暮らしとか、まして農村などの状況、国境付近の紛争の芽などについては、こういったらなんですが、日本を含めて圧倒的にNGOの方が情報があります。
その辺は比較的、優位の差がある中で、一部の国では、これも情報・意見交換なのですが、政府開発援助の使われ方についても、NGOがどんどん意見を出してやっています。一つの制限、制約ということでいえば、最近、ODA大綱の見直しの中でも改めて出た議論ですが、政府や外務省は「国益に帰するための政府開発援助」という側面について、また言うようになった。
我々はここ数年、外交の下に位置付けられるものではなくて、純粋に貧困削減とか、人道支援、その中にはエイズの問題に取り組むこともあると思うのですが、日本のODAも狭い意味での国益ではなく、外交と切り離してほしいと思います。ここがいろいろ議論してもなかなか変わらないところなんです。そこも含め、これからも政策的な議論を続けられるように、ここまできた日本も含めたNGO側の経験や知識、それを基にした提言、提案を受け入れるような形が、政府側にもできたらいいと思います。
藤原 出かけて行った先の政府との関係はどうでしょう。
熊岡 名前はあげにくいのですが、行政、海外からの支援をきちんと使いこなす力がないいくつかの政府では、その国のNGOに海外の政府や民間の金が集まる中で、NGOが非常に大きくなっています。バングラデシュでは巨大NGOができて、政府とは別にそこだけで1万もの小学校を持っていたりします。これをどう評価するか。たぶんNGOでも意見が分かれると思います。
政府に、力やある種の信頼性がなければしょうがないというのか。特に地域行政が大事なのだと思うのですが、最終的にその国の中央政府に力をつけていってもらう。小学校でも何でも、二重のシステムができるのではなく、ある一定の基準を満たした学校がどこにでもできるように、地域行政、中央政府を通して実現できる方がいいのじゃないか。
これは意見が分かれると思うのですが。日本のNGOでもバングラデシュの地域の行政に対し、そこで得たものを返す中で、地域行政の力を強める活動をしています。個人的には現地のNGOと活動してきましたし、そこが重要なチャネルであることは間違いないんですが、その国の地域行政、中央政府の機能を助けるという部分をNGO側も意識していかないと、その国の中に二重の仕組みができる弊害の方が大きいのではないかと思います。
藤原 関連で村井さん。現地の政府、行政組織とはどういう関係にあるのですか。
村井 現地の中央政府と交渉するケースはまずないです。トルコや台湾では、被災地の地方自治体に、「私たちは日本から来た災害の経験をもっているNGOです。こういうことをやっていきたいのですがどうでしょうか」という形で入っていったりはします。
残念ながら相手国の行政とやることは非常に難しいし、支援がそのまま当事者に行くかは難しい面もあります。そこは覚悟しないといけないんですけれど、海外で支援するときに、住民組織だったら、あるいはNGOだったら、さらに地方自治体だったら十分に信頼関係がとれるかというのは、なかなか一概にはいえない状況があると思います。
結局は自治体にしても人次第ですし、住民組織もNGOでも人ということになるのかなあと思います。いつもここでは苦労していまして、いまだにこれが一番いいなあというのはありません。
今、アフガニスタンであるNGOと付き合いながらやっていますけれど、このNGOが本当にずっと日本で集めた貴重な浄財を現地のプロジェクトに生かしてくれるのか、これが10年も続くのかどうかというのは、わからない。不安な手探りの中でやっています。
でも、現地に行った時、そのスタッフと言葉は通じなくても人間としての思いを伝えていくことによって、議論をすることによって、信頼関係というのはそこから生まれてくるのかなあという期待をもって、やるしかないと思っています。
藤原 徳永さんの場合は、相手の現地政府が戦争したりして大変だと思いますが。
徳永 私たちは計画省というところと契約を結ぶわけです。計画省が外国の民間団体、NGOを監視するんですけれど、団体により5年契約でやるのか、3年契約でやるのかいろいろあります。私たちは一応、3年契約でやっておりまして、3年ごとに更新していくわけです。定期的にレポートを出して、住民の評価を得れていれば問題なく更新にサインしてくれるんですね。
どういう特権が私たちにあるかというと、車を買う時すべて無税でやってくれる。簡単にワークビザも出してくれる。私たちは医療をやっていますから、直接、関係があるのは現地の厚生省なんです。アフリカの政府の方に金を回すと横領されて住民に行き届かないという悪い印象が世界の国に強くて、どこもが民間団体におろしてくることが多いわけですよ。そうすると、12月1日の「世界エイズデー」という大きなイベントをやるんですが、政府そのものがイベントをやれるお金がないんです。だから我々民間団体にお金をいくら出せといってくるんです。逆なんですね。
そういうことで協力はしておりますし、特にフランスなんかは国境なき医師団とか、大きな民間団体に国のお金をやって、国境なき医師団が草の根レベルで住民を支援していくということで、非常に残念ながら政府を信頼していない。だから政府の大統領がフランスのボイコット運動をやったりして、そういうことでまた国がもめてきたりして火種にもなっています。
グローバルファンドを国連のアナンが提案しまして、世界の3大感染症、エイズ、結核、マラリア撲滅のための基金があるんですね。エイズの抗レトロウイルス剤を買えるすごく大きなお金が中央アフリカ共和国におりてきているんですが、結局、国連はそれを絶対、政府に渡しませんでした。
じゃあ、誰がやるかということになって、国境なき医師団にやってくれっていうことになったら、そんな大きいお金は動かせない。他の民間団体もみんな断ったんですね。そしたら次はWHOじゃなくて、国連開発局というところに回っていって、そこもどうしたらいいかわからない。もう何か月もたっているのですけれど、そのお金の配分ができないんです。
その間にエイズで人はじゃんじゃん死んでいっているという現状なんです。非常にこれは難しい問題で、私たちのレベルではどうにもならないような感じです。政府と民間団体、国連という三つ巴の問題というのがあります。
藤原 アジア、アフリカを中心に、世界で1時間に1255人の5歳未満の子どもたちが病気や飢餓や貧困でなくなっています。これまでや今回の交流賞の受賞者たちは、そういったところで活動していて、そこで触れあったさまざまな素敵な人たち、苦しんでいる人たちの報告を、熱く語っていただきました。
この国際交流賞は、来年以降も続きます。3人が話の中でおっしゃってました。「若い人たちが続いてほしい」ということですね。きょう、これほど多くの人たちが長い時間、聞いてくださって、このうち何人でも結構ですから、続いてもらったらいいな、と思います。そのために催したパネルディスカッションです。長いことありがとうございました。そして熱いメッセージを送ってくださった3人に、改めて拍手をお願いします。
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【質疑応答】
会場に若い人も多くいます。どんなことでも結構ですから、ぜひともこの機会に3人にこれだけは聞いておきたいという質問を受けます。
会場の女性 一番、大変なことは何でしょうか?
熊岡 最初の段階でいうと、興味で追いかけることから道は開ける部分はあると思います。国内でもいろいろな活動の大変さはあると思うのですが、私が行った海外は飛行機がすごく古いものを使っていたことが多かったので、そういう交通面。実際には協力隊も含めて、交通事故でけがをすることがあるのですが、これは必ずしも自分で防げない部分もあります。
8月にイラクに行ってきたのですが、まともに飲める水がない中で、出していただいたものを飲んで、おなかをこわしたりします。カンボジアもすごく水がきたなかったんです。脅かしているような感じになるとまずいんですが、やはり自分の健康を守るところが結構、難しい。心身の健康を保持していくことが、長期に働く場合の大切なところになります。
村井 向こうで余り体を壊すことはないのですが、この前、アフガニスタンに行ってちょっと熱射病にかかったんです。そこで少ししんどかったものですから、いつも、どこに行っても健康保持しておくことは大事かなあと。それは、気持ちをきちんと持ちうるということですから、心地よい状態をいつも自分が作れるにはどうしたらいいのかなと考えておく。
これは別に海外でなくても普段の日常生活でも自分が心地良いということはどういうことなのかが、すごく大事かなあと。友だちにしても、一人が心地よければ相手も心地よいはずだから、心地よいということはどういうことかと考えるのはすごく大事と思います。
それから、身近で大事なのは、やはり政治だということを考えてほしい。もう少ししたら選挙権がもらえると思いますが、自分たちが託している議員が信頼できるかどうかということはものすごく大事なことです。そのことが国連でどういうことが議論されるかということとも関連する。
年内にイラクに自衛隊を派遣するというような記事も出ていましたが、あなたたちのお兄さんが、弟がもし自衛隊に入ってイラクに行くということになったらどうしますか。そういうこから、政治はものすごく大事だということをぜひ考えてほしい。
徳永 アフリカに行きたいという看護婦(師)さんがよくみえるんです。その時、私は「孤独に耐えられる人じゃなければだめですよ」って、いつもいうんです。毎日、何分ごとに携帯電話で連絡を取り合っていたような人ではね。
私たちがしているアフリカの生活は、朝5時半に起きて、6時半に診療所に行き、午後3時ぐらいに仕事が終わって7時ぐらいにはお互いに「バイバイ」って自分の部屋に入っていくわけですよ。電話もかけられない、テレビをつけても意味がわからない、言葉が分からない。そうした時に、夜の7時から翌朝まですごく長いんです。日本語の本を持っていっても、一緒に来た人がもう2週間したら「徳永さん、読んでいても何が書いてあるのかわからなくなりました」っておっしゃったんですよね。 やはり、孤独って自分を見つめることなんです。人間は一番怖いのが自分を見つめること。今の若い人たちは、自分を見詰めるのが嫌だから常時常時、人と連絡を取り合ってるじゃないですか。そういう自分自身を見詰められない、自分自身の孤独に勝てないような人は、途上国に行ったって本当にもたないと私は思うんですね。
私がふざけて「じゃあ、きょうから7時になったらテレビもラジオも止めて、携帯電話もいっさい切って、1週間それをやってごらん。そしたら連れていくわよ」っていうと、みんな「じゃあ、できない」っていうんですよ。だから、来た何人かの人が最初、言葉ができず、現地の人とコミュニケーションがとれなくて、やはり孤独になって途中でお帰りになったんですね。心の豊かさというのが非常に大切なんじゃないかと、私は思うんですね。
藤原 徳永さん、孤独に勝つために何をされています。どうしたら孤独に勝てますか。
徳永 例えばフランスのルーブル美術館に行くと、生徒さんたちを先生が一つの絵の前に座らせて何時間も見させる教育をやっているんです。日本人は何秒か見て走り回って忙しい。日本の教育の中でもそうなんですが、なかなか落ち着かないんですね。だから本当に海辺に座ってじっとしていられる、空を見ててもじっと自分の思いをもって退屈しないでいられることが今、日本の教育の中で欠けているんじゃないかなって、私は思うんです。
外国人とずっと一緒に生活してきて、やはり最初はすごくさみしかったし、大変な思いをしてきました。だからこそ、そういう訓練が足りなかったなあと自分でも思うんです。やはり、若い人たちがくると、同じ問題に突き当たってしまっていることを、私は感じています。
会場の男性 本日はありがとうございました。活動の中でいろいろな人と出会うと思いますが、どのような志なり思いをもった人と、一緒に活動したいと思われますか。
熊岡 難しい質問だと思います。必ずしも選ばない、選べないということはあると思います。一緒に働くしかないということはもちろんあります。その中から自ずと見えてくるものがあります。こちらが選ぶように向こうも選んでいる。お互いにふるいにかけあって、3年、2年、1年残ればなんか縁もあるし、近いものがあるというそんな自然なプロセスじゃないかと。
少しずれますが、ベトナム難民の男性で、非常に難しい難民キャンプの自治会のまとめ役をしていた人がいます。彼ともけんかしながら3カ月か4カ月なんですけれど、一緒にやって、すごく印象に残っています。今、アメリカのカリフォルニアに住んでいて、何度も会えないんですけれど一生、心に残る人です。そういう人があちこちにいます。
村井 私はどちらかというと暗いですから、相手は明るい人。とにかく徹底して明るければ好かれると思います。それと、私が結構、口うるさくいうし、大きな声でしゃべるから、それでもへこたれずに向かってきて、私との関係を途切れさせないようにしていただける人。関係が切れてしまうのがものすごくつらい。修復するのが至難の技ですから。まず、明るい人が私としてはありがたい人ですね。
徳永 私は一番最初にアフリカをやりました。そのあとカンボジア、ベトナムをちょっとやってみたんです。そしたら、どうしてもカンボジア、ベトナムは自分に合わなかった。やっぱりアフリカじゃなければいけないって。私たちみたいにウロウロしている人たちのことを、「大陸浪人」というらしいんですが、大陸浪人の中にはアフリカ向きとアジア向きの人に分かれてしまうんですね。
私はなぜアフリカ向きなのかというと、言いたい放題なんです。アフリカの人たちも言いたい放題。アフリカの人に10知らせるためには、20も30も言わなければいけない。でも、アジアの場合は以心伝心だとか、根回し、きまわしの世界で生きていくからどうしてもぬるま湯につかり、出るに出れないような難しいものがありました。アフリカでは本当にけんかしながら、わかりあえるまで言い合っていく。私自身はアフリカがすごくあっていると思うんです。
私はいろいろと言ってくれる人がものすごく心に残って、働きやすいです。日本の事務局との関係をいいますと、すごくギャップがあるんですね。現場にいる人と国内にいる人との考え方の違いで、実際にアフリカに来てもらうんですけれど、日本の物差しで測ってしまう。現地におりますと、そこらへんがすごく難しいです。
(2003年10月13日毎日新聞大阪朝刊)



<左から>▲日本国際ボランティアセンター(JVC)代表・熊岡路矢さん ▲被災地NGO恊働センター代表・村井雅清さん ▲アフリカ友の会代表・徳永瑞子さん ▲毎日新聞大阪本社・藤原健編集局次長
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