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個人受賞 中国の視覚障害者の道開く―― 「アジア視覚障害者教育協会」会長・青木陽子さん

模型を使って、視覚障害者の生徒に鳥の形を教える青木さん
 「カイシィバ」(始めましょうか)。天津市の住宅街にあるアパートの一室。「天津市視覚障害者日本語訓練学校」の12畳ほどの食堂兼教室に、青木さんの張りのある声が響いた。生徒は視覚障害者3人と健常者2人。昼過ぎに始まった初級クラスの授業は4時間にも及んだ。「教え終わると、もうぐったり。生徒は『今日は取材があるから短いね』と喜んでましたよ」と笑顔で汗をぬぐった。

 青木さんが中国でこの学校を開いたきっかけは、15年ほど前、留学先のアメリカでの何気ない会話からだった。アジアからの留学生と話していると、あることに気が付いた。「台湾や香港からはハンディのある学生も来てるけど、中国本土からは来ていないね、という話になったんです」

 当時、中国は改革・開放路線を推進し、大きな変革を遂げていた。一方で視覚障害者の社会的地位は低かった。「ダイナミックに変わる大国で、新しい人材を育てたいと思ったんです」と言う。

 同校では95年の開校以来、200人以上の視覚障害者が日本語を習得。8人が日本への留学も果たした。評判を呼び、今では生徒65人のうち、健常者も27人いる。しかし、これまでの道のりは平たんではなかった。

 開校当初は、その設立の趣旨を理解してもらえなかった。「中国国内で日本人が中国人の障害者に日本語を教えるというボランティアの概念を理解してもらえなかった」と青木さん。また、生徒が難関の日本語能力試験に合格するなど実績を上げ始めると、やっかみの声も出た。

 「もう日本に帰ろうか」と何度も思った。その度、「これまで自分でやりたいと思ったことをあきらめたことはなかった。負けてたまるか」と思いとどまった。「その原動力は夢。私はそれを追うことが出来た。その夢を中国の視覚障害者にも持ってほしいんです」と話す。

 それは両親の考えでもあった。父の武夫さん(80)は「娘は小さいころから、言い出したことは必ずやり遂げる。だから、最大限、好きなことをやらせてあげた」と言う。「目が見えず、ふびんだからではない。ただ、まさか中国に学校を作るとは思いませんでしたが」と笑った。

 開校して10年。教え子から後継者も育ち始めた。郭麗華さん(35)だ。天津市内で小学校教諭をしていたが、先天性の緑内障が悪化し失明した。失意の中でめぐり合ったのが青木さんだった。

 「絶望していた自分に青木先生は日本語習得という新しい道を示してくれた」。郭さんは青木さんの授業を録音し、1日7、8時間も勉強した。それが認められ、97年に日本に留学。3年後に日本語学校に先生として"復帰"、初級クラスの17人を教える。「今の私があるのは青木先生のおかげ。今度は私が自分の知識を祖国の視覚障害者に伝えたい」と意欲を見せる。

 最近、青木さんはアラビア語の勉強を始めた。「イラクに関心があるんです。戦乱できっと希望の持てない障害者がたくさんいるはず。イスラム圏だから女性が目立つのは煙たがられそう。けど、その方がやりがいがありそうでしょ」

 新しい道を切り開くため、青木さんがまた動き出した。

 ◆支え続ける「中国の両親」

 たゆまぬ努力と強い意志で困難を乗り越えてきた青木さんを支えたのが、日本語学校校長の李勝彦さん(61)と傳春霞さん(60)夫妻だ。青木さんが94年に天津外国語学院に留学した時から「中国の両親」役だった。

 2人との縁は、青木さんが日本で中国語を勉強し始めた91年から。中国語の個人レッスンをしていたのが夫妻の長男の李爽さん(34)だった。「分からないことは分かるまで聞く。一度教えたことは忘れない。レッスンは週1回だったが、半年後には教えることがなかった」と爽さん。

 しばらくして、青木さんから「中国に留学したい」と聞き、「すごい日本人がいる」と勝彦さんに橋渡しを依頼。「とりあえず来てみたら」と勝彦さんが言い、訪中が決まった。しかし留学は困難を極めた。日本人女性、しかも全盲の学生を受け入れる大学はなかなか見つからない。勝彦さんが天津市や大学の関係者を一人一人回って熱心に説いた。「彼女は優秀で熱心だ。留学させてほしい」。夫妻のバックアップを条件にやっと認められた。

 それでも、勝彦さんは「当初、長くは続かないだろうと思っていた」と打ち明ける。勝彦さんの祖母と母は日本人だ。「自分のルーツである日本人で、目の見えない可哀そうな女性を手助けできればいい」という気持ちだったという。しかし、留学後の青木さんの猛勉強を見て、その気持ちは吹き飛んだ。「週末も休まない。難しい発音もすぐマスターした」

 転機は、留学して半年後にあった学内中国語スピーチコンテスト。健常者を抑えて優勝し、全国大会に出場。地元のマスコミがこぞって青木さんを取り上げた。「これで中国人の見る目が変わった」と勝彦さん。小学校教諭だった傳さんも学校を退職、青木さんや生徒のサポートを始めた。

 傳さんには忘れられない思い出がある。外国人に贈られる「友誼賞」を青木さんが受賞した01年、北京の人民大会堂であった授賞式で青木さんのプロフィルが流れると、銭其副首相が傳さんを見てほほ笑み、うなずいた。「陽子の努力が認められた。私たち夫婦がやってきたことも副首相に分かってもらえた」と誇らしげに振り返る。

 青木さんは夫妻を「李パパ」「李ママ」と親しみを込めて呼ぶ。「知り合いもいなかった中国でやって来られたのは、2人のおかげ」と感謝する。勝彦さんは言う。「陽子は自分の力で中国人の見る目まで変えた。一緒にいる人も元気にさせる不思議なエネルギーがある。陽子が行くところならどこにでも行くよ。だってうちの娘だから」


 ◆プロフィル◆埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。先天性の弱視だったが、予防接種後の高熱で、6歳の時に視力を失う。筑波大学付属盲学校、南山大学を経て、89年に米ニューヨーク州立大バッファロー校修士課程修了。「不遇な中国の視覚障害者が、夢をもって生きていく手助けをしたい」と、94年、アジア視覚障害者教育協会を創設。天津市に「天津市視覚障害者日本語訓練学校」を設立した。以来、現地に在住して指導を続け、日本への留学生も輩出している。〒337―0033 さいたま市見沼区御蔵1538の3。電話048・683・2588。

 ◆受賞理由◆障害者の入学が難しかった中国の大学に単身留学。その後、中国で初の視覚障害者のための日本語学校を開設するなど、常に困難を克服し、新しい道を切り開いてきた。教え子8人の日本留学を実現させたほか、天津で持っているラジオ番組などを通じて視覚障害者の地位向上に力を尽くしている。中国政府が教育・文化などに貢献した外国人に贈る「友誼賞」を受賞するなど、中国国内の評価も高い。

2004年8月30日毎日新聞大阪朝刊