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個人受賞 女性・難民支援12年――宝塚・アフガニスタン友好協会代表の西垣敬子さん

<上から>■タリバン政権下、空き地などを利用した「隠れ学校」で女の子たちは教育を受けた=ジャララバードで00年、西垣さん提供 ■難民キャンプで女性にミシンを教える西垣さん(左)=95年 ■整備されたサッカー場で、日本の若者も交えて親善試合が行われた=06年、いずれも西垣さん提供
 第18回毎日国際交流賞(毎日新聞社主催)は、アジア農民交流センター(AFEC、神奈川県横須賀市、山下惣一・菅野芳秀共同代表)と、宝塚・アフガニスタン友好協会代表の西垣敬子さん(71)=兵庫県宝塚市=に決まった。AFECは、タイなどアジア各地の農民と交流を深めながら、地元産品を売る市場づくりや生ゴミの堆肥(たいひ)化などを通じて循環型の地域づくりに取り組んでいる。西垣さんは、内戦が続いていた90年代からアフガニスタンで女性や子どもを中心に支援。タリバン時代からアフガン戦争後を通じ、現地で活動し続けた数少ない日本人だ。【麻生幸次郎】
 
 「ケイコ、高等裁判所に行って欲しい」

 タリバンが政権を握っていた01年3月、アフガニスタン東部のジャララバードに滞在中の西垣さんに呼び出しがかかった。「判事が『話がある』と言っている」と伝える友人の顔はこわばっていた。西垣さんも覚悟した。女性への教育を禁止していた政権の目を盗み、ひそかに開かれていた非公認の「隠れ学校」を西垣さんは支援し続けていたからだ。

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 「隠れ学校」では、女子にもコーランの勉強だけを許したタリバンの裏をかき、コーランの授業の後にこっそりと国語や算数を教えていた。しかし、そこで授業する教師たちは、資格がありながら無給に甘んじていた。見かねた西垣さんは彼女たちの給料の支払いを始めた。半年に1回入国して教師たちに給料を手渡して回った。

 そんな非合法活動がついに発覚した。

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 裁判所の入り口には、銃を持った門番3人がいかめしく立っていた。運転手を務めてくれた知人は微動だにしない。西垣さんは開き直った。「タリバンは、女性に対して学業や仕事を禁じはするが、そんなにひどい扱いはしない。今回もそんなに無茶はしないはずだ」

 案内された敷地の奥に立つ男性判事。だが彼はなぜかニコニコ笑っていた。「私の妻と娘にも給料を支払って欲しい」。教師だった判事の妻子はタリバン政権下で失業し、裁判所職員の子どもたちを対象にした隠れ学校で教えていたのだ。タリバンの建前と現実の暮らしとの矛盾が、そこにあった。

 結局、タリバン政権崩壊まで、西垣さんは17カ所の教師22人の給料を届け続けた。

 ◆仏教美術にあこがれて

 西垣さんとアフガンとの出合いは、仏教美術だった。2人の子育てが終わった後に学士入学した神戸大の卒論のテーマは「中央アジアの仏教美術史」。仏像と色鮮やかな刺しゅうの国に魅せられた。しかし、93年にアフガニスタン大使館主催の写真展に並んでいたのは、生々しい戦場だった。その衝撃に無我夢中で写真を貸してもらい、翌94年4月に地元の兵庫県宝塚市で写真展を開催、会場に置いた募金箱に集まった約40万円を持って同年11月にアフガンに飛んだ。

 パキスタン国境に近いジャララバードの難民キャンプ。テントで1年間暮らしていた難民たちは男も女もぼうぜんと毎日を過ごしていた。それでも男性には国連が職業訓練の場を提供していた。しかし、女性は何もすることがない。難民キャンプも、男女の接触に厳しいイスラム社会。スタッフが男性ばかりの援助団体は、手の出しようがないというのだ。女性たちは、配給の列にも並べない。要望があっても援助団体に伝えるすべもない。

 「頭にきた」西垣さんは、女性ばかりをテントに集めた。「一日何してるの?」「何かやりたいんじゃないの?」。女性たちはせきを切ったように訴えた。「刺しゅうしたい」

 翌95年、パキスタン・ペシャワルで買った25台の手回しミシンを持って難民キャンプに入り、裁縫教室を開設した。女性たちへの援助の始まりだった。

 ◆女子寮

 西垣さんは今、ジャララバードにある国立ナンガルハル大学の女子寮建設のため奔走している。01年に崩壊するまでの6年間、タリバン政権は女性の学業を禁じたため、02年春に学校が再開されると学問に飢えていた女子高校生たちが一斉に通学を始めた。その彼女たちが大学に進学しつつある。

 西垣さんは03年には同大学教育学部に女子用トイレを建設した。「トイレが必要だとは思ってもいなかった。でも現地の要請を聞くと、女子の進学に不可欠だと分かったんです」と振り返る。外から見ていては決して気付かない暮らしの問題だった。

 女子寮も同様だ。市外の高校に通っている女子たちが、大学まで通学する交通機関はない。女子が下宿できるような場所も、イスラム社会のジャララバードにはない。結局、寮が建設されなければ進学をあきらめざるを得ない状況なのだが、同大学には医学部の女子寮があるだけだ。多くの女子高校生が不安を抱えており、西垣さんは今月にもアフガンを訪れ自ら建設業者や大学関係者と打ち合わせるなど、急ピッチで準備を進めている。

 ◆「後戻りさせてはならない」

 「訪れた難民キャンプの惨状を見たら、『やるっきゃない』と思って。それから夢中で走り続けてきた」と、1人の主婦が始めた長い活動を西垣さんは振り返る。その原動力は、タリバンの若者も含め知り合った人々への愛着だ。「貧しくても卑しくない。誇り高くジョーク好き。家族を大切にして年長者を敬う。私も『自分の母親より年上だ』と大切にされてきた。この国が大好き」と言う。

 アフガン戦争後、西垣さんらが援助してサッカー場も整備され、日本の若者を連れて交流することが出来た。この国にかかわって12年間。子どもたちが元気にボールをける日が来るとは思えなかったという。それだけに再び不安定化の兆しを見せる現状に、「決して後戻りさせてはならない」と危機感を募らせている。

 ◆プロフィル

 ◇西垣敬子さん 台湾生まれ。結婚して子育てを終えた46歳のとき、神戸大に学士入学して東洋史を学び、仏教美術などを研究。93年に東京でアフガン内戦を紹介した写真展を見たのをきっかけに、94年1月に「宝塚・アフガニスタン友好協会」(TAFA)を設立、代表となって支援を始めた。同年11月に訪問して以来、毎年2回以上のペースでアフガン入りし、息の長い活動を続けてきた。今年8月までに訪問は約30回に及ぶ。米国人のアフガン文化研究家、ナンシー・デュプリーさんの講演録「アフガニスタンの女性たち」の翻訳がある。兵庫県宝塚市武庫川町5の45の117。電話・ファクス0797・84・8446。

 ◆受賞理由

 日本で大きく取り上げられることがほとんどない時代から支援を続けた。タリバン政権時代にも、政治と距離を置いて人道支援に徹する活動が評価され、入国が許されていた。「難民に毛布を」キャンペーン、ミシンを使った女性の自立プロジェクト、隠れ学校、孤児院の整備、「片足の少女に義足を」キャンペーンなど、その活動は常に現地の思いをくみ取り、成果を上げてきた。アフガン戦争後も、女性たちの学問への思いを受け止め、女子トイレや寮などの建設に取り組む。さらに内戦時代は望むべくもなかったスポーツ環境の向上にもいち早く着手し、サッカー場を整備。若者の交流の場を提供した。

2006年8月22日毎日新聞朝刊掲載