2010年 織田作之助賞 青春賞受賞作品

青春賞受賞作品

「おっさん」 香川みわ

「おっさん」
 ぼてぼての腹突き出して
「おっさん」
 息するたびに張りついた白い下着が上下している。
「おっさん」
 口で膨らましたときの風船を連想するけどそんな綺麗なもんと違う。
「おっさん、起き!」
 風邪ひくやんか。
 掃除機のノズルで腹をつつくとおっさんは顔を歪めて寝返りをうった。掃除機であんたの肉吸うたろかと思ったけど吸うてから出来る赤くて円い跡を想像したら愉快になってスイッチの入っていない掃除機で私はおっさんの腹を数回叩いた。
「お前何しとんねん」
 おっさんもさすがに目を覚ました。
「太鼓腹や」
「は?」
「太鼓にしたってんねん」
「あほか」
 おっさんはそう言いながら、ゆっくり起き上がった。目ヤニに囲まれた黄色い白目が、充血してちょっとだけ潤んでいた。あくび。でかい口。もわっとした口臭が私の鼻にかかった。
 おっさんはもう座っているのに、それでも私はしつこくおっさんの腹を叩いた。
「どんどんどどん」
 口では言うてみたけど、横から叩いたらあんまり太鼓らしくはならない。
「やめろや」
 おっさんは手で蝿を追い払うような仕草をした。本当に不機嫌そうな顔をしている。
 私は太鼓遊びをやめた。
「なんやねん」
「お腹空いたやろ」
 私はおっさんの目の前でスーパーのレジ袋を振って見せた。しゃらしゃらと軽い音がする。
「お前な、寝とったのに空くと思うか?」
「食べへんの」
「しゃあないな...」
 おっさんは、掛け声を出しながら象みたいな動きで立ち上がった。そしてナマケモノみたいな緩慢さでレジ袋を受け取る。
「おいしぃ作ってな」
 よれよれぶくぶくの背中に可愛く作った声をかけて、私は煙草を吸いにベランダに出た。

 去年の十二月から、おっさんと暮らすようになった。血のつながりはない。寝てへん。
 私みたいな二十をちょっと過ぎたような女が腹の出た四十六のおっさんと暮らすのは確かにどうかと思うやろし実は私もそう思ってる。でもものごとには人に分からん微妙なニュアンスがあって私とおっさんはぎりぎりのラインでなんとか一緒にいる。というか、おらなしゃあない、のが本当のところだ。
 嫌いなわけではないけれど、難しいところ。
 まあ人間が二人以上いれば、何だって難しいのかもしれない。表面にどう現れるかの違いでしかないんやったら、今はここにいようと思っている。

 一服して部屋に戻ると、インスタントのとんこつラーメンの匂いがした。
「あ、おいしそう」
 今日のラーメンにはもやしが載っている。
 おっさん、頑張ったやん。

 おっさんに手紙が来た。
 十一時過ぎに玄関に出たら、アルミの郵便受けの中に、ふにゃりと白い封筒が入っていた。この郵便受けに普段入るのはチラシか新聞か請求書かおっさんの年金関係の通知書やらのよう分からん役所関係の書類ぐらいだから、手書きで書かれたおっさんの名前は、ちょっと字が浮いて見える。
「おっさん、手紙きたで」
 だから、いつもは投げる郵便物を今日は手で渡してあげた。
「なんや」
 おっさんは寝ころんだ状態から上半身を起こして手紙を受け取った。が、宛名を見ると顔を顰め、そのまま手紙をテーブルの上に置いた。
 で、また寝ころんだ。
「見ぃひんねや」
「後でな」
「何、まだ眠いん?」
 言いながらぶちんとテレビをつけて、テーブルの上いっぱいに朝刊を広げた。手紙は新聞紙の下に埋もれて見えなくなった。
「手紙、誰から?」
「妹や」
「おっさんに妹とかおったんや」
「おる」
「ふーん。珍しい」
 何が珍しいんや、とかいう返事があるとなんとなく思っていたのだが、おっさんは黙って寝がえりをうった。
 おもろない。
 私は新聞紙に肘をついて興味のある記事を拾い読みしていた。実家にいたころはインクで黒くなるから手をつくなとよく言われた。でもおっさんは何も言わん。実際問題、ヤニで歯ぁまっきっきの人に肘の黒さを説教たれられても説得力はないけど。
 おっさんの妹。なんだか不思議な感じがした。おっさんは一人で生きてきた人のように思っていたけれど、考えてみれば生み育ててくれた親がいて、妹も居て、家族で過ごしてきた日々があったのだ。信じられへんけど昔は小さな指を持った赤ん坊で、小学校に行ってひらがなの教科書で勉強をしていた時期があったのだ。
 私にもあった。
 うん。そんなもん、ってことやね。
「あ、卵が安い」
 なんとなく眺めていた文字列の中から、ふいに意味を持つ情報が目に飛び込んできてつぶやいた。新聞を見終わった私は、スーパーのチラシを眺めていた。ツルツルペラペラの紙にモノクロで印刷されている、ゴシック文字の一パック八十八円。
 時計を見ると十一時半だった。私は慌てて立ち上がった。
「ミカワ行ってくるわ」
「んー」
「なんか欲しいものある?」
「いや...」
「なんや、しゃきっとせえへんなぁ」
「んー」
 おっさんはたるんだ腕で目元を覆ったまま転がる。水分の少なそうな、小じわの寄った肌は、古くなった鶏肉の皮みたいにしょぼくれて見えた。
「じゃ、行ってくるわ」
 たいていの変化はいつのまにか始まっていて、気がついた時にはもうほとんどのことが終わっていたりする。そして喜んだり後悔したりして、あとからその理由を考える。
 その瞬間は確かに小さな出来事だった。目に見える変化も小さかった。
 新聞紙の下敷きになったままだった封筒が、いつのまにかなくなっていたことに、私は気付いてもいなかった。

 喉の奥で白米がつっかかってむせそうになったけれど、むせるのを遠慮してしまうくらい空気が重かった。だから、慌てて立ち上がって、台所で水を飲んでなんとか危機を脱することにした。
 ぬるい水道水の甘さが気持ち悪い。
 部屋にもどるとおっさんがゾンビみたいな速度で起き上がって、隣の部屋に敷きっぱなしの布団の上にどすんと寝転がった。
 あ、とも、お、ともつかない声が口から漏れて、一瞬どんぶり片付けてや、と言おうと思ったけれど、言えなくて、余計な言葉は自分の体の中にどろりと溜まった。
 仕方なく一人で座って、しょうゆが染みて茶色くなった、固い卵焼きに取りかかる。しかし、ごはんの上にのせてつぶそうが、誤魔化しのためのマヨネーズをかけてみようが、卵焼きは喉につっかえる固形でしかなかった。
 ぐちゃぐちゃになった卵焼きとごはんを二口ほど口に押し込んだあと、諦めて私も箸を置いた。両手に残りご飯の入ったお茶碗を持って立ち上がり、三角コーナーに全部捨てた。お茶碗にまだ残っているわずかな熱を勢いよくかけた水で抹消する。卵焼きの残りも捨てた。
 三角コーナーの中に卵丼ができた。
 もう一杯水を飲んで、雑誌を眺めることにした。しかし無理やりカラーの写真を印刷したような薄い紙が、ぺたぺたと指にくっつくような気がしてそれがむやみに気に障った。ページをめくる音が、やけに大きく耳に張り付いた。
 あああもういやや。
 おっさんには調子が悪い時があって、その時は家の中の空気が水を吸ったように重くなる。でも私はそれにはもう慣れていてあまり気にせずにちょっとだけ音を小さくしたテレビを見たり雑誌を眺めたりできる。
 今回のことはそれとは根本的に違う。
 今日、家に帰ってきた時、おっさんの姿を見て玄関に立ちつくした。せみの鳴き声が遠くから聞こえて、こんなときでも音が聞こえる自分というものを不思議に思った。
 なんでなん、と言ってもおっさんは答えてくれなかった。目のはしから液体が流れるのを感じながら瞬きもせずにおっさんの目を見たけれど、おっさんの目は何も語ってくれなかった。
 タクシーに乗せて、無理やり病院に連れて行った。待合室でたくさん待たされて、その間私とおっさんは一言も口を聞かなかった。おっさんが診察を受けている間、誰もいない待合室で雑誌を開いたらすごく泣けてきた。受付のお姉さんがティッシュをくれた。ティッシュのほこりが鼻に入ってくしゃみをしたら、余計に泣けてきてその後はおっさんが出てくるまでずっと泣いていた。
 ショックなんやって言葉にしたら簡単なことなんやけど、そういう意識もなくただ泣けてしょうがなかった。
 おっさんのあほ!
 ぐにゃぐにゃのおっさんをもう一度タクシーに積み込んで家に帰った。ドアを開けて、床に散らばったネクタイを片づけるときに、空気が圧縮されたみたいにもう一段階重たくなった。ごまかしのようにテレビをつけたけれどうるさいばかりで、それでもテレビでもつけていないととても間が持たない。晩ごはんはおっさんが作る当番だったけれど私が卵を焼いた。お茶碗をごとりとテーブルの上に置いたとき、おっさんがテレビを消した。そうして私は米をのどにつまらせたのだった。
 おっさんはさっきと同じ姿勢で隣の部屋にぼたりと体を投げ出していた。
「薬は」
 おっさんは答えない。
 息をするのも面倒くさくなってきたので、食器を洗うのも風呂に入るのも延期にして、私はおっさんの横に寝転がった。
 おっさんは寝てなかった。とても静かに呼吸をしていた。
 しばらくおっさんの背中を見ていたら、分かった。
 おっさん、泣いてる。
 おっさんの背中に手を当ててあげようか、とか、ちょっと思ったけど、しなかった。
 私に出来るのは、一緒に、辛い時間を過ごすことだけだった。
 おっさん。
 おっさん
 なんでなん?
 一瞬、頭の中を白い封筒がよぎる。
 あれが原因? でも分からへん。
 おっさんのことが大事や。
 ぬくい贅肉の塊でも、おっさんが側にいることが、すごく、私にとって大事やねん。
 隣の部屋から光が差して、電気のついてない今いる部屋の目覚まし時計がくっきりと影を作っている。そんな、存在感。
 大事やのに。

 おっさんは相変わらず調子が悪い。
 調子の悪い人が家にいると、家の空気がよどんでいる気がする。空気の色まで少し暗く見える。たぶん、そんな風に見えるのは、私もつられて調子が悪くなっていたからだろう。
 特に嫌なのは家事だった。家事全般を分担してやってきたのを、このごろは全部私がやっている。おっさんの下着を洗うのだけは最初抵抗があったが、今ではおっさんの、びよびよにのびたブリーフを平気で四角いハンガーに干すようになった。
 でもそういうことではなくて、一人で他人の分までの家事をやるっていうのは、すごく重い。辛いとかやなくて、重い。
 毎朝起きて、食べれるかどうかもわからんおっさんの朝ごはんを準備して、たいていは一人で食べることになって、だらだら洗濯をして、昼ごはんはあり合わせに朝ごはんの残りでおっさんもちょっとだけ食べて、休憩しながらチラシを見ながら夕飯のこと考えて、そろりそろりと掃除して、洗濯物を取り込んで、畳んで、買い物に行って晩ごはんを作って晩ごはんを食べて食器を洗って風呂を沸かす。それで一日がほぼ終わってしまう。
 今までやっていたこともたいして変わりはなかったんやけど、その合間におっさんと買い物に行ったりおっさんがごはんを作ってくれたり風呂を沸かしておいてくれたりして、「一人でやっているのではない」と感じられることがどれだけ自分にとって大きかったんかということが分かった。
 ほんまに徐々にではあるけれど、私はなんでもないような時にいらいらするようになってきた。買い物をしていても、ごはんを食べても、空を見上げても、なんとなく自分の心の中に入ってこない。胸のあたりにずっと沈んでいる重い塊が、ときどき爆発しそうになる。おっさんのことが嫌いになりそうで、そのうちにひどいことを言ってしまいそうで、そういう自分が嫌でたまらなかった。
 はっきりした理由が分からんのもたちが悪い。時々おっさんに手紙のことを聞こうかと思う。でも、そのたびに言いようのない不安がやってくる。イライラは持続する。気力は減退する。それがただ、続く。
 おっさんの気持ちは少し分かるようになるかもしれんけど、そんなきれいごと、今は考える余裕ない。
 そんな時に、専門学校時代の友人からメールが来た。というより、来ていた。前のバイトを辞めてから、私は社会性のある人間関係からすっかり遠ざかっていて、携帯電話なんて存在すら忘れかけていた。高いしもう解約しようかと思っていたけれどそれも面倒くさくて、鞄に突っ込んで放置していたのだ。
 何日も前のメールを開いてみると、経営している古本屋のセールを手伝ってほしい、という内容だった。
 セールは明日。
 「手伝うでー」とメールを送ると、大喜びした友人が顔文字だらけのメールを返してきた。
 おっさんのことは心配やったし、側におることも時と場合によってはむちゃくちゃ大事かもしれんけど、今はちょっと違う気がした。それにとにかく私は外に出たかった。
 早寝早起きして、きっちりと朝ごはんを食べて、久しぶりに隣町に出かけた。日差しが強くて、立ち並ぶ家の壁がくっきりと白く見えた。毎日買い物には出かけているのに、季節の変化に気づいていなかった自分に少し驚いた。朝のコンビニに寄るのも久しぶりだった。
 友人の古本屋は、児童書ばかり扱っている少し変わった店だった。ビジュアルデザイン科でイラストを勉強していた彼女は、奇抜な色のかわいい絵を店内のいたるところに張っていて、作品の合間に本が並べられている。
「可愛いなぁ」
「あ、そのへんはバーゲン品ちゃうでぇ」
 どっすん。
 暖簾の奥から出てきた友人が、きたない本が入ってるボロボロのダンボール箱を床に落とした。
「変わらへんな」
 『個性的』という枠の中に収まってしまえるような服装、やわらかそうな茶色の髪、細いたれ目。雑誌で紹介されていそうな、夢の中にいる今風の女の子みたいな可愛らしさが懐かしかった。
「みーちゃんは変わったなぁ」
「そう?」
「なんか生活臭がする」
「どういう意味」
「別に変ではないんよ」
「わからんけど」
 久しぶりに会う友人との会話は、ぎこちない。
 荷物を置いてすぐに、開店準備を手伝った。重いダンボールをたくさん表に出して、ある程度見栄えのするように並べ方を工夫する。今時のチェーンの古本屋ではありえないような古い本が多くて、本を触っているうちに手がざらざらしてきた。裏表紙をめくったら、黒いマジックで乱暴に「10円」と書いてあった。
「安っ」
「今日の本は全部百円せえへんで」
「儲かる? そんなんで」
「儲かるはずないやん。ご奉仕。ごみにするのも可哀相やしな」
 セールは年三回やねんけど、このときしか来ん人も多い、と言って友人は笑った。
 開店の十五分前くらいから、ぽつぽつと人が来はじめた。表に本を出してあるので、好き勝手に手にとって、本を選び始めている。小さい子供を連れた女性や、白髪の混じった男性、年齢性別不詳の、トレーナーとジャージ姿の人なんかもいた。
 私はレジの横で本を袋に詰めたり、本をたくさん抱えて往生している人に買い物カゴを渡しに行ったり、本を並べなおしたり、風で飛んだ張り紙を追いかけたり、雑用をこまごまと手伝った。途中からレジも打たせてもらった。友人はレジを打ったりお客さんに挨拶をしたり世間話をしたり本が見つからない人の相談にのったり、ものすごく忙しそうだった。私には店を回すことなんてとても出来ないなぁと思って見ていたけれど、友人はずっと安定して笑顔のままだった。真似して私もなるべくニコニコしていたのだけれど、すぐに頬が引きつってきたので、お客さんと目が合ったときだけ心を込めてニコッとすることにした。
 店員さんが笑顔でいるのなんて当たり前のことだと思っていたけれど、実はすごくエネルギーの必要なことなんやと思った。そういえばおっさんとおる時なんかほとんど笑わへん。でも別につまらん訳でもない。
 笑うって大変なことなんやわ。
 最近おっさん笑わへんなと思ってた。そのことにイライラしてる部分があったけど、なんか、わからへんけどスッキリした。でも感慨にふけるような暇はなくて、ぴんときてちょっとすっきりした頭で、ひたすら体を動かし続けた。
 お昼を過ぎたあたりになって、ぱたっとお客さんが来なくなった。だから私も休憩をもらって、店の奥にある部屋でお昼ごはんを食べた。
 コンビニで買った緑茶とおにぎりで昼食にした。海苔をぱりぱり言わせて、薄暗い部屋の壁に頭をもたせかけたら、体の力が抜けて溜まっていた疲れが重さになって感じられた。気持ち良い。
「お先でしたー」
 友人は三分ほどでご飯を済ませて戻ってきた。専門学校に通っていたころはお喋りをしながら二十分くらいかかっていたのに。最初に会ったときには変わっていないと思ったけれど、やっぱり人間って変わるものなんやなと思った。
 午後になると、商品が残り少ないこともあって、大人のお客さんの数は減った。かわりに学校が終わった小学生がわらわらとやってくる。指を折りながらお金を計算したり、三十分も突っ立って本を読みふけったり、友人の選んだ本を指差して「お前まだこんな本読んでるんか、ガキやのぉ」とか高い声で威張ったりしていた。子どもがあまり好きではない私からすると、たいして本を買いもしない彼らを客とは思えないのだが、友人は子どもたちの一人ひとりの話に耳を傾けていた。皆が時間をかけて本を選ぶので、レジは暇になり、私は小さな手から汗ばんだ硬貨を受け取って、薄っぺらいビニール袋に本を入れて渡した。
 四時くらいには、ほとんどの本がなくなった。お店を閉めて、居住部分になっている二階のリビングで、冷たい麦茶を二人で飲んだ。
 茶色い封筒に入った薄謝(本当に薄い)と、余っていた本を二冊もらって、帰路についた。
 空は、ちょっと間の抜けた薄いオレンジ色で、風は涼しかった。
 疲れた体は歩くにつれてからっぽになっていくようで、私は小さく鼻歌を歌いながら歩いた。
 アパートについて、こげ茶色のドアをがちゃりと開ける。夕方でも外はまだまだ明るいから目が慣れなくて、家の中がとても暗く感じられる。
「ただいま」
 おっさんは寝ていた。背中を丸めて、小さくなって寝ていた。
 自分でもよくわからないけれど少しだけやさしい気持ちになって、おっさんの背中に毛布をかけた。おっさんは低くうなって体をねじった。顔をしかめたので起きるかと思ったけれど、またすぐに顔の筋肉を緩めて寝てしまった。
 さっき浴びてきた風の気持ちよさが、少しでもおっさんに伝わるといい。
 一瞬、祈るように感じた。

 目を開けたら窓の外がぼんやりと白く光っていた。晴れたのかな、と一瞬思ったけれど、少し遅れて、穏やかに降り続ける雨のささやかなざわめきが耳にしみこんできた。胸の上の重みは、読みかけていた本。時計を見ると、三時を少し回ったところだった。一時間以上寝ていたらしい。
 体を起こして伸びをすると、涙でにじんだ視界の向こうに、おっさんがトドのように転がっているのが見えた。おなかがゆっくり上下している。おっさんも昼寝中やったんか。
 テーブルの上に残っていたカフェオレはすっかり冷めていた。一口飲んでみたが、インスタントなので美味しくはない。それでも唇にあたる陶器の柔らかい感触は、私を少し安心させる。
 ぶちんとテレビをつけると、情報バラエティーとかいうタイプのゆるいノリの番組が始まっていた。天気予報士のおじさんが、明日は晴れるでしょうと言っていた。洗濯物が干せるのは助かるけど、実際干すのは面倒くさいなぁ、と思いながら、おっさんを起こさないように音量を小さくした。
 畳に転がっていた本を拾い上げて、続きを読み始めた。厚みのある白いページに、黒い文字がくっきりと浮かび上がっていた。
 ときどきカフェオレ。
 二十分ほどして、おっさんが目を覚ました。
「あ、おはよう」
「んん」
 おっさんは曖昧に答えてお腹をぼりぼり掻いた。そしてそのままベランダに向かう。しかし、途中でズボンのポケットに手を突っ込んで、立ち止った。
「せや、煙草もうあれへんのやった」
 寝起きのおっさんの声はがさがさしている。
「あぁ、もうすぐ買い物行くからついでに買ってきたんで」
「今吸いたいねん」
 おっさんはぶすくれた顔で言った。煙草がないから不機嫌なのではなく、寝起きのおっさんは、それはもうほんまに人相が悪い。小さな子どもやと泣くかもしれん。
 想像したらちょっとおかしい。
「じゃあ私の一本あげるわ。そこのハンガーにかかってるジャケットに入れてあるから」
「おお、ありがとう」
 ありがたみなんて露ほども感じてなさそうな顔でおっさんは礼を言い、ジャケットのポケットから煙草の箱を取り出して外に出た。
 ベランダのガラス戸がからからと間の抜けた音を立てると、風に吹かれた雨粒が吹き込んで、私の顔に降りかかった。
「冷たい!」
「ほんま、目ぇ覚めるわ」
「覚めた顔してへんで。てか、人に雨粒かけてんから謝り」
「すまん」
 おっさんはやっとちょっと笑って、背を向けて煙草を吸い始めた。
 ガラス戸を後ろ手で静かに閉めて。
 しわしわの薄いブルーのシャツの背中を眺めながら、私はもう一度カーペットの上に寝転がった。
 あ、そういえばおっさん、笑った。
 頭の隅っこでちょっとだけ思っただけやったのに、その瞬間に、大きな変化があった。
 すーっと、視界が明るくなったような気がした。体にたまっていた何か重いものが軽くなって、浮力のような心地よさを感じた。色が戻ってきた。靄が晴れた。皮がむけた。
 いろんな言い方ができるけれど、とにかく「何か大丈夫なもの」が私のなかに発生したのが感じられた。
 今寝転んだところやのに、私は起き上った。
 そして勢いよくベランダに向かって歩き、ガラス戸を勢いよくあけて顔を出した。
 そして言った。
「おっさん、カレー! 今日カレーにしよ!」
 もちろんそこには、おっさんがいた。ぼさぼさの頭で振り向いて、まだ半分寝ているような目で私のほうを見た。
 おっさんはしばらく怪訝な顔で私を見ていたが、その後でふにゃりと笑みを作って言った。
「ええなぁ、カレー」

 言うてもそんなにすぐにおっさんは元気にはならなかった。こっちがはらはらするようなことを言う日もあるし、今日はものすごい元気になったなと思ったら次の日調子が悪くなったりして、でもいつのまにか、気づいたら、といった感じで、少しずつ起きていられる時間が増えてきた。
 私も楽観的になったりいらいらしたりを繰り返しながら、少しずつおっさんとの付き合い方を覚えてきたように思う。例えばその間におっさんが調子を崩した原因を突き止めようとすることも出来たけれど、私はおっさんに何も聞かなかった。なんとなく、その方が良いような気がした。
 半年くらい経って。ある日。
 おっさんが旅行に行きたいと言い出した。
 近所の公立図書館の、ロビーでジュースを飲んでいた時のことだった。
「山に登りたいんやけど」
 何の前触れもなく言われたので、口の中に入っていたレモン味の炭酸飲料の、飲み込むタイミングが一瞬わからなくってしまった。のどの中途半端なところで液体が止まって、のどがじゅわじゅわと刺激されて、顔をしかめながら飲み込む。飲み込んだ後も少しだけのどがひりひりした。
「何なん、急に」
「いや、さっき本を借りて」
 と言ってよれよれの鞄から取り出したのは、隣県の観光ガイドだった。カウンターの前に立ってるなぁと思ったが、これを借りていたらしい。
「これを見て?」
「実はな、前から行きたいとは思っとった。ちょっとだけな」
「行けばいいやん」
「うん」
 おっさんは小さく頷くと、紙コップを両手で持って中身を飲んだ。
 幼稚園児のような可愛らしい動作だが、飲んでいるのはおっさんで、飲んでる中身はブラックコーヒーだ。やっぱりどうしようもなくおっさんだ。
 私は紙コップを揺らして黄色いジュースの表面を見つめる。小さな氷が涼しげな音をたてた。ジュースより私はこの音が好きかも知れない。
「一緒に来るか?」
「おっさんは、来てほしい?」
「日帰りでも行けるけど、どうせなら泊まりたい思てるからなぁ」
「ちょっと心配?」
「用事とかはないんか」
「いつもどぉーり、暇。行ったげるよ」
 軽く言うと、おっさんはあんまり嬉しくなさそうな顔をしてコーヒーを飲みほした。
 でも紙コップがのけられて、その向こう側に見えた顔はにやけていた。
「てかどこに登るつもり? 何山? 高い?」
「お前そんなんも知らんと行くゆうたんか」
「言わんかったんはおっさんやろ。あんま高いとこやったら私下で待っとくからな」
「ピクニックみたいなもんやから安心しぃ。ちょっと待ちや、お、これやこれ」
「あ、なんや。うち登ったことあるし」
「ほんまか」
「小学校の時の遠足。なんやぁ、山言うからちょっと身構えたやんかぁ。ほんまピクニックやわ」
「まぁ、安心ちゅうこっちゃ」
「でも道覚えてへんで」
「んなもん山やねんから登ったら終いや」
「降りた後どうすんねん、宿とるんやろ」
「あ、せや、どこ泊まろ」
 何かしたいとおっさんが言うのは久しぶりだった。もちろんそれも大事なことやけど、それとはお構いなしに、私は妙に嬉しくなってきた。
 大切なのは理由なんかじゃない。状態だ。
 ガイドブックを開きながら、私とおっさんは夢中で旅行の計画を立てた。
 私の手の中のジュースはいつのまにか炭酸が抜けて、気がついたころには、すっかりぬるい砂糖水へと変わっていた。