2010年 織田作之助賞 青春賞佳作作品

青春賞佳作受賞作品

「逃げるやもりと追うやもり」 森田弘輝

 茜色が眼孔を貫いていく、全体をやさしく包み込み、やがて通り過ぎると、闇は四方からじわじわと滲んでゆき、そしてなにも見えなくなった。頭を上げた。目を開けた。
  一、交通ルールの絶対厳守
      ~一人一人が会社の看板を背負っています
  一、素早い初動は気構えから
      ~ヘルメット・防刃ベスト・警戒棒の常備
  一、緊張を緩めてはならない、冷静を失ってはならない
      ~的確な判断が自らの身を守ります
『すべてはお客さまの安心と安全の為に』
 A3用紙にプリントされた訓辞がうすぼんやりと映る。冷房の風が顔に直接吹きかかる。目覚めの心地よさはすでになく、重い徒労感が感覚を占めていた。首を落とし、腕を組む。関谷がトンだ、改めて認識した。
 午前一時、労時は十三時間を超えていた。今はデポでの待機。この十五平米程の狭く汗臭い空間で、起きる何かに備えている。
 ヒノマル警備保障に入社して三年になる。
「やっぱこれ、なんて書いたらいいんですかね」
 スッスゥハゥー、スッスゥハゥー、口呼吸がいつもより荒い、大川は充血した丸い目をこちらへ向けた。大川は反省文を書いている。本部は関谷と同行していた大川に対し、報告書でも始末書でもなく、十枚の反省文を求めた。わざわざ買ってきた四百字詰めの原稿用紙がデスクに置かれている。
「すみませんすみません、で埋めてやりましょうかね? それとも一枚一枚にでっかくすいませんでしたまるって書いてやりましょうかね?」ははは、と力なく笑う。困惑し、追い詰められた表情がよく似合っている。赤茶けた、岩石みたいな顔面に紺色のヘルメットがめりこむように乗っかって、ま四角の分厚いメガネの奥にはツヤのないギョロ目が佇んでいる。当たり前みたいに肥満体。伸びた爪には黒い垢。確か今年で三十一か二。
「でも一体何なんですかねぇ、馬鹿にしているんですかねぇ、反省文なんて。小学ん時以来ですよこんなの。あんま得意な方じゃなかったんですよね、へへへ、やたら悪さして書かされる回数は多かったですけど」したり顔でこちらを向く。反応を求めているようなので、微かにうなずき、微かに笑ってやる。
「ハハ、だけどこれは悪さじゃ済まないですよね、悪さじゃ」
「............俺は辞表書かされるかもな」
「そんなあ、なに言ってるんですか長谷川さん、長谷川さんが辞めるってことにはならないでしょう、悪いのはあいつですよ、関谷ですよ関谷。長谷川さんはよくやってるじゃないですか。それは本部もよくわかってますよ、第一その歳でデポ長じゃないですか、二十五、でしたよね? 聞いたことないですよ、まさにルーキーですよルーキー、ヒノマルが見捨てるわけないです、ええ、そうですとも、なにはともかく悪いのは関谷ですから......、
大丈夫ですよ、長谷川さんは」大川は息を吐く。
 室温二十二度の弱風が、ごうごうと、吹いている。
 端末に大川から直通が入ったのは午後二時半のことだった。関谷が逃げました、それが第一声だった。大川は関谷とNB3‐8‐15アオヤマ宅に『侵入』で向かっていた。
 関谷はアオヤマ宅の庭先に置かれたミロのヴィーナス像を警戒棒で叩き壊し、社用車で走り去った。
 自分はすぐに本部へ連絡を取った。「―お願いします、自分も謝りにいかせてください。自分ここの責任者なんです、関谷の上司なんです。直接謝らせて下さい、お願いします」「......君もわからないねぇ、君に謝られたら困るのだよ」「はい」「もう認めてはいけないのだよ、幸いあの宅にカメラの設置はない。だからあれは何者かによる悪質ないたずらだよ。大川は『侵入』でアオヤマ宅に向かい、それを発見した。関谷はなんの関係もない、ただ逃げただけだ。従って君が謝る必要はない。わかるね?」「―はい」「こういったことのために補償班がいるんだ。君が出る幕ではない。わかるね?」「はい」「これはね信用の問題なんだよ」「はい」「とりあえず君は車を回収しなさい」「はい、わかりました」
 車の位置はGPS機能ですぐ特定出来た。車はデポ近くの神社の、セミの鳴きしきる境内のど真ん中に、乗り捨てられていた。シルバーの車体に赤いヒノマルのロゴ。そこに関谷の姿はなく、車内はヘルメット、社員証、端末、防刃ベストなどの装備品で散らかっていた。
「なーんかね、気に入らなかったんですよ......、妙に気取っているというか、なんというかねあの庭、いわゆる成金趣味ってやつですかね。ミロのヴィーナス像の他にも、金色に塗られた大釜とか、西洋風のかかしとかあって、やけに木や草が生えてまして、ムシムシムシムシしてましてね。『侵入』は、なんでもなかったんですよ。たぶん、ねずみかなんかがセンサーに反応したみたいでね......。帰り際でした。振り向いた時にはもう頭砕けてました。ええ、なんだか楽しそうでしたよ、水遊びする子供みたいで、いきいきしてて。だけどあれ石膏っていうんですか、もろいもんですねボロボロ砕けていきましたよ」補償班と入れ替わりに、結局タクシーで戻って来た大川は、汗も引かないうちから、こう語った。「これ、タクシー代出るんですかね」領収書を出して、他人事のようにこうも言った。
 アオヤマ様への誠意を見せる為、本部は夜勤の村田、小暮、三好の三人を早出させ、アオヤマ宅周辺の巡回を命じ、自分と大川には十二時間シフトの連勤を命じた。超勤はめずらしくないが、まるまる二十四時間の勤務は初めてのことだった。
 三番目の蛍光灯がチカチカと点滅している。替えがないのを思い出して億劫になる。ヘルメットが重い。防刃ベストが重い。警戒棒が重い。
 頭の奥の奥、頸椎、脊椎、股関節、膝頭、それら芯の部分がボロボロの穴だらけで、もはや空洞に近く、八月にも関わらず寒気さえ感じているのがわかるものの、眠気と開き直りによる熱に厚く覆われ表立ってはあらわれて来ない。薄気味悪くバランスが取れて、心地よくもある。ダルイ、ツカレタ、ネムイ、などという言葉はもはや存在してないが、疲れてだるくて眠い、状態には違いない。
 スッスゥハゥー、スッスゥハゥー。思うところがあったのか、ようやくボールペンを握った手が動き出す。書き方は意外に丁寧で、一字一字ゆっくりと、つながることもなく、適度な大きさで枡を埋めていく。それでも口元ではなにやらブツブツ言っている。
 スッスゥハゥー、スッスゥハゥー。......スッスゥハゥー、スッスゥハゥー。............スッスゥハゥー、スッスゥハゥー。............ひょっこりとんであらわれたのは『安』の字だった。真っ白な空間。しっかりとした二本のはらいで、すっくと降り立つと、俊馬のように走り出す。風になびくウ冠。輝かしい未来、頼もしい走りだ。突然、正面に大川が飛び出してきた。弾きとばされる、そう思って顔をしかめた。だが大川はがっしりと『安』の字を受け止める。『安』の字は慌てふためいている。そのまま『安』の字は真っ白な地面に叩きつけられる。どっかーん。もう『安』の字は走れないだろう。大川は笑っている。
 端末が震え出す。まどろみは消され、背筋を伸ばされた。液晶画面には情報が表示されていた。HS1‐53サトウ宅『侵入』。「出、だ。行くぞ大川」それでもなんとかケジメを持って、立ち上がる。「はい」大川も立ち上がった。
 外はまだ暑熱が残っていた。ドアを閉め、社員証のICカードでロックする。もう中に人はいない。ここは小さなデポだ。プレハブ建ての簡素な建物で、配属は八名、常駐は三名しかいない。配属二十名、常駐十名の大規模なデポが四キロ行ったところと、六キロ行ったところにあり、そのサポート的な役割が大きい。それでもT市南西エリアの百二十近くの加入者宅を担当している。ロックの確認をすると、すぐにその場から走り出す。移動は常に駆け足だ。これは決まりだ。決まりは守らなければならない。先ほどから少しだらけた気配があったので、自分が先陣切って走り出す。あわてて大川もついてくる。熱を帯びた湿気のかたまりが内側へ入り込み、汗が滲み出る。目が覚めた。車は高架下の駐車場に置いてある。運転席に大川、助手席に自分が乗り込んだ。「ふぅ、ここまで来るのに汗掻いちまう」大川は袖で汗を拭った。
 サトウ宅に異常はなかった。おそらくまた小動物かなにかによるセンサーの誤作動だろう。住民のいない静かな宅内をひと廻りし、簡単な報告書をポストに入れ、それで済んだ。
 夜はぼんやりとしている。午前二時の国道に車はなく、街灯の琥珀色が等間隔でフロントガラスを過ぎていく。大川の運転は至極丁寧で、発進停車、加速減速、カーブの入り抜け、そのどれもが静かで揺れることもなく、同乗者に対する気遣い、心遣いが感じられるが、その乱雑な横顔と投げやりな目つきを見ると、それも消えてしまう。
「関谷は、どうなるんですかね」前を向いたまま、大川は言った。
「解雇は間違いないだろう、まあ戻ってくるはずもないけど」
「......」軽く、大川は首を曲げた。「だけど、それだけ、なんですかね」
「それだけ?」
「あの、変な話、解雇だけで済んじゃうんですかね?」
「まあ、おそらく。会社としては絶対公にはしたくないだろうし」
「ああ、あーそうですか、そうなんですか」
「不服なのか?」
「いやいやそんなことないですよ、ええ、全然まったく。関谷のことなんて考えるだけ、損ですから。ええ。ただなんとなく、ホントなんとなくですけど、『ヤリ得』って感じがして。てかホント、『ヤリ得』じゃないですかね」
「やり得ってなあ、お前なあ」あーあ、やだやだホントこれだからやっぱキツネ目の男は信用出来ないんだようなあ、と前かがみに顔をハンドルに近づけ、一方的に会話を閉ざした。
 端末が震え出す。OH3‐4‐6ワギュウボクジョウ『施錠』。大川はスムーズに、中央分離帯の切れたところで車をUターンさせた。
 ふだんあんま閉めやることないからとまどっちゃって、いきなり警報鳴り出したからビビりましたよ、午前三時、ワギュウボクジョウの裏口でしゃがみ込みケータイをいじっていた、サブマネージャーという若い男はこう言った。二十代前半くらいだろう、妙に着飾った男だった。「だけど早いですね、十分もたってないのに」わけ知り顔で、大川の顔に乗った汗の玉を見ていた。警報を解除し、そこを去った。
 端末が震え出す。TH2‐6‐17ミドリカワ宅『侵入』。車は走り出した。もうこれ帰れないパターンになるんじゃないですか、大川は言った。......そうかもな、適当にそう返した。
 車は住宅街の入り組んだ、狭い一車線の道に入っていく。一時停止を繰り返し、時速二十キロで進んでいく。
「いやだけどもともと俺、最初っから関谷のやつは好きになれなかったんですよね、実際。なあんかあいつねえ。どこかぶってるというか、斜に構えてるっていうか、そういうとこあったでしょ? ボクは君達とは違うんだよっていうか、本来ボクはここにいるべき人間じゃないっていうかそんな感じで、絶対俺とか仕事のこととか、小馬鹿にしてたと思うんですよ」それがまるで重大な秘め事かのように、大川は切り出した。―確かに関谷は違っていた。
 ヒノマルに緊急対処員として入ってくる人間は、不思議と皆似ているもので、だいたいが何かしら背負ってやってくる。それもつまらないものが多く、首を括らない程度の借金だったり、予定外の扶養家族だったり、ありきたりな夢の色気のない挫折だったり、する。従って必然的に身に付いた隷属性があるのだが、明らかに関谷は貴族的だった。長身痩躯、骨の細そうな立ち方をして、切れ長の一重瞼と薄い口元は非常に社交的な笑みを常に帯びていた。小振りな頭に、ぶかぶかのヘルメットで、お世話になります、と頭を下げた時は、まずモタないと思っていた。だが関谷の順応は早かった。大川なんかより、ずっと早かった。それは順応というより理解に近いと思われた。ヒノマル特有の肉体的、精神的負荷をかみ砕き、いくらかの余裕を残しながら飲みこんでいった、そんな気がした。関谷は笑っていた。
 車が止まる。大川はハザードを点けた。
「大川、あまり気をゆるめるなよ、こういうのは続くからな」
「―はい」車を降りる、駆け足を始める。
 ミドリカワ宅に異常はなかった。静かな邸宅がそこにあるだけだった。センサーの誤作動は夏場に多くなる。再び車は走り出す。
「ようやく、帰れますかねぇ」開いた口からは乾いた臭いがした。
「いやーでも、やっぱ俺は待機がいいですよね。待機。なにもしてないほうが。出が多い方が時間が早く進むからいいっていうやつもいますけどね。あーあ、でもなんですね、たまにはって、たまにはいいかなっていうふうに考えないとやってらんないですよね。なんせ、二十四時間働けますか、ですもんね、リアルに。働いてるってんだよ」ははは、ははは、とうつろな笑い声を一方的にはき出している。
「だけど長谷川さん、どう思います? 関谷のやつオンナいたんですかね」
「どうだかな......」車窓にはコンビニが寂しげに流れていく。
「いたと思うんですよ絶対、俺ね、こういうのはわかるんですよ。わかっちゃうんですよ。あーあ。全くいい御身分ですよね。俺らこんな目にあってるってのに。今頃は適当によろしくやってますよ」
 ブーウォン、ブーウォン、突如後ろのトラックが煽り始め、あーもううせえなあ、と大川は車を左に寄せる。トラックは走り過ぎていく。
「オンナかー、いいなーオンナ、しばらくないなーオンナ。いいですよね関谷は余裕があって。俺はね、母親抱えてるんですよ、だからね。もう七十近くて。父親はずっと前に死にましてね。んまあ、ボケてるってわけでもないんですけど、けどまあ、最近急に老けましたね。嫁さんもらえ嫁さんもらえ、うるさいんですけど、こっちから言わせれば、オンナ来ないのテメーのせいだっての」
 端末が震え出す。SM3‐2‐8ハヤマ宅『煙探知』。
「オンナ、......俺、北川景子が好きなんですよ」大川は言った。
 ハヤマ宅に着く。玄関の鍵は開いていた。廊下は火薬臭い煙がこもり、奥から甲高い嬌声が響いてくる。リビングに入ると、煙は一層濃くなった。明るい照明、音楽はない。赤いタンクトップの女がそこにいた。円筒形の太い手持ち花火を右に持ち、バチバチ火花を放ちながら振り回している。体を激しく揺らし、けたたましく笑いながら、隙間から小振りな乳房を見え隠れさせている。金髪のマッシュルームカットの男は、傍らのグレーのソファーで身を埋め、やはり狂ったように笑っている。中央のガラステーブルには飲み散らかした跡、フローリングには何点か焦げ跡が出来ている。煙のなかに、外国産の甘いタバコのような匂いも混じっていて、気持ち悪くなる。
「すいません、ヒノマルです」
 二人は動きを止めた。少し沈黙した後、あーセキュリティね、とあまり関心のないように呟いた。
「ハヤマシュウジロウさんですか?」
「いや、息子のセイジですよ」
 女は尽きかけた花火の先を白ワインの入ったグラスの中に突き入れる。ジュという音がして、透明な黄色い液体からどす黒い煙が立ち昇る。煙感知器がここと台所に付いてまして、と簡単な説明を始めた。下を向く二人が耳を傾けている様子はなく、ときどき目を合わせ子供のようにくすくすと笑い出す。反省の色はないようだ。
「あの、家の中で花火するのは危ないですよ」
 沈黙。しばしして男は声を上げて笑い出す。女も同調する。
「だってパーティーなんだもん」面倒臭そうに頭を掻き、「楽しくなきゃでしょ?」と言った。
「いやでも、危ないですよ」
「大丈夫ですよ、だって僕たち分別ある大人だから」さもおかしそうに、まず男がケタケタ笑い出し、次に女が笑い出した。
 報告書に男のサインをもらい、ハヤマ宅を去った。車のシートに腰を下ろして初めて、緊張していたことに気がついた。スッスゥハゥー、スッスゥハゥー、大川はじっと宙を見ている。何かに耐えているようにも見える。今の現場にはキツイものがあった。
 端末は震え続けた。KS3‐10‐13モリカワ邸『侵入』。異常ナシ。OW5-42ムラカミ宅『侵入』。異常ナシ。SW1‐2‐4セガワ宅『侵入』。異常ナシ。HS2‐115アカガワ宅『侵入』。―車は走り続ける。
 単純に暑さにやられたのだろうか。それとも、もともと内に秘めたものがあって、じっと放出する機会を待っていたのか。炎天下、紺色のヘルメットは熱波を溜め込んで、吹き出る汗で節々を蒸らし、朦朧とした意識の中、草木生い茂る視界に入るヴィーナス像、なんだか嘘っぽくて安っぽい。警戒棒をふり下げる。シャ、という音で飛び出す先端。第一撃、まだ戸惑いが残っている。第二撃、戸惑いは消え、黒いアルミ合金の硬い材質はまず前頭部を砕き崩す。決意する。第三撃第四撃、続ける続ける打ち続ける、握る手が痛み出す、粉が汗ばんだ頬に貼り付く。対象は充分に破壊された。後悔やむなしさ、申し訳のなさは微塵もなくて、達成感だけがある。ハハハ、走り出す。心地よい夏の蒸し暑さ......。関谷はいまどこにいるのか。
 宅を出る。大川は駆け足を始めない。自分を妨げるようにして前を行く。「―おい、大川」返事もしない。下向きに、大きな背中はのっそのっそと歩き続けている。「大川!」肩をつかみ、ひくと、歪んだ顔がそこにあった。スッスゥハゥー、スッスゥハゥー。
「......もういいんじゃないですかね」目は決して合わせようとはしない、「もういいんじゃないですかね、どうでもいいんじゃないですかね、今日のところはもう駄目ですよ、やになっちゃいました」下を向いたまま、ぶつぶつぶつぶつとやっている。掴んだ手を押し放して、自分だけ駆け足を始めた。ハザードを点けたまま、路肩に停めた車に先に乗り込み、座る。スピードを全く上げて来なかったのがわかる時間が経ってから、大川は来た。
 大川は無言。車内には熱がこもり、じっとした状態で、立ってる時とは別のところから汗が出てくる。ハッハァースゥー、ハッハァースゥー、いつもより息が荒く肩を上下させている。動こうとはしない。青ぼけた弱い光がフロントガラスから入り込み、月が出ているのがわかる。「あの、」顔は動かさない「すいませんでした。気をつけます」決められたセリフのように大川は言った。ああ、と一言だけ、どうにか返してやった。大川はエンジンをかけた。車は走り出す。最大にしたカーエアコンで汗が引く。下着の裏側にべたつきだけが残る。
 どうでもいい、と先ほど大川は言った。もうどうでもいいのであろうか。確かにそうなのかもしれない、もういいのかもしれない。どうでもいい、どうでもいい、どうでもいい、いや、やめろ。否定するんじゃない。我々の存在を否定するんじゃない。我々に警察力はない。拳銃はもちろん催涙スプレー、スタンガン、さすまたさえ持つ事は許されない。特別な訓練を受けた人物というわけでもない。入社当初に行われた入隊訓練に合気道の師範代が作成したというヒノマルオリジナルの捕縛術、護身術のメニューがあったが、定期的に講習があるわけではないのでほとんどの者が覚束無い。またその時行われた街中での十キロ走は宣伝の意味合いが強いだろう。実質的に市民を守る為ではなく、安全を演出する為の存在なのだ。すべては演出だ。演出は過剰に、わかりやすく、固持され続けなければならない。―これって結局、サービス業みたいなものですよね。ある時関谷はこう言った。すべてを悟ったみたいな涼しげな顔だった。否定は出来ない、むしろ気持ちの良いくらい的を得た、説得力のある一言だったが、それゆえに腹立たしかった。ふざけるな、単純にそう感じた。思いのまま関谷を怒鳴った。だが明確な否定はやはり出来なかった。
 ガソリンスタンド、ファミリーレストラン、スーパーマーケット、明かりが流れていく。ああ、頭が痛い。ここはどこだろう、一瞬一瞬わからなくなる。いやになりそうだ、このグレーの布張りの少しカビ臭くて湿った感のあるシート。床ずれ起こしそうなくらい座っている。汗、汗、汗、滲む汗。嘘臭い。本当は、ここはどこだろう。車の中とわかっているつもりではあるが、嘘っぽいから見えなくなってきている。目的、目標、理想、夢、楽しみ、あるいは課題、現実、ノルマ、忍耐、仕事。もうどうでもいい、ああどうでもいい。おい大川、どうした大川、なんか喋ろよ大川。大川は喋らない、じっと前を見て進行方向だけを確認している。不細工な男。ああ、頭が痛い。
 端末が震え出す。HK4―13セキグチ宅『侵入』。大川は「はい」とだけ言った。
 車は丘陵沿いの曲がりくねった道を進んでいく。カーブ手前の減速と曲がり切る手前の加速を、ゆるやかに繰り返す。だいぶ高いところに来たようだ。闇夜には家並みがうっすらと沈んでいる。やがて車は止まる。二人は黙ったまま降りる。駆け足を始める。朝は近い。なんとかふんばるんだ、そう思った。
 セキグチ宅へと入る。左に家庭菜園、右に芝生が広がり、奥に本宅の平家造りが建っている。玄関先の門灯の下、丸い陰があった。近づくとそれは老人だった。老人はやせ衰えている。腰は折れ曲がり、額は禿げ上がり、全体にしみが広がっている。白い股引に、羽織ったベージュ色のカーディガンがただれきった皮膚のように見えた。自然と頭が熱くなり痛みが強くなる。汗が吹き出る。消え去ってしまえ、一瞬そう思った。
「アァーアァーアァーアァー」
 玄関に額を押しつけたまま、半開きの皺皺の口から掠れた声を上げる。老人は震えている。「おじいさん、どうしました?」背中に手をあてた。「アァーアァーアァーアァー」こちらへの反応はない。よく見ると、ヒノマル製の呼び出しアラームを首から提げている。加入宅の高齢者向けに売り出していたものだ。おそらくこの老人はこの家の者だ。「アァーアァーアァーアァー、アァーアァーアァーアァー」不愉快に思ったのか、ますます声を荒げ、首を振る。皺で潰れた瞼がかすかに歪む。涙が出ていた。「おじいさん、おうちのかたは、どうされました?」ゆっくりと、頭を下げて、言い放つ。背中にあてた手をそっと、さする。爬虫類みたいな感触で、下に押せば死ぬ、そう思った。「アァーアァーアァーアァー」「おじいさん?」「アァーアァーアァーアァー」「おじいさん?」「アァーアァーアァーアァー」
「おじいさん?」「アァーアァーアァーアァー」
 どうしてこんな深夜に老人がいるのか、どうしてこんなボケた老人がいるのに家族のものはいないのか、どうしてこの老人は話が出来ないのか......。もう、どうでもよかった。なにによって自分が動いているのか、さっぱりわからない。ただ、どうでもいいが、目の前のものはきっちりと処理しなければ、僅かにそう思えた。それだけだった。「駄目だ大川、主人に連絡しよう」と言った。「......」返事はなかった。シャ、という音が空気を裂いた。振り向いた。大川はうっすら笑っていた。警戒棒は伸びていた。ふっと、ロシアのバレイダンサーを思わせる、軽やかで華麗なステップで、防犯用の強化窓ガラスに近づくと、強くこれを打った。―がっ、割れはしない、細やかなヒビで白くなる。がっ、ヒビの中心を打つ。強化ガラスはおれ曲がり、ついに穴が開く。そこから砕けるのは早かった。がっ、がっ、がっ、がっ、力強く、芯は外さず、打ちつけていく。
 ―楽しそうに、大川は歌い出す。

  きいろッとーくぅろはゆうぅきのしるっしィー
  にじゅぅよっじかっんはたらぁけまぁすかァー
  リッゲイン リッゲイン ボクラノリゲイン!
  あたあっしゅけ~すにゆうぅきのしるっしィー
  はぁるっかせぇかいではたらぁけまぁすかァー
  ビジネスマァーアン! ビジネスマァーアン!
  ジャッパニィーイズゥ ビジネスマァーアン!

 振りかぶって斜めに叩きおろす、その勢いで一回転しながら右から左、ふりもどし左から右、また右から左、移動しながら一枚二枚、連続しながら打ちこんで、端で立ち止まるとまた回転して、そこを突く、突く、突く、一点集中で突き続ける。その運動は躍動的で非常にわがまま、にもかかわらずひどく効率的なものだった。老人は黙った。黙ってそっちを見ている。もう駄目だ。もはやごまかしは効かない、弁明も謝罪すら出来ない、そう思った。やがてすべてが砕け落ちた。大川は立っていた。こちらを向いた。
「ひょややかあぁ、テメエは働けェ」
 明らかな挑発。威嚇するエリマキトカゲのように、まっすぐにひとつとび跳ね、ひょっと着地すると、大川は駆け出した。
「大川!」叫んで初めて気がついた、逃げた。
 わああああ、と大川は軽快な足取り、その背中を追いかける。「止まれ! 大川、止まれ!」「ハハハ、馬ァ鹿、馬ァ鹿」差は縮まらない。大川は門を抜け、右に曲がり、車に乗り込んだ。しれっとした顔がルームミラーに映り込む。「おいこら待てこのやろう!」走りながら、警戒棒を抜き出し振り下ろし伸ばしてそのままリアガラスを叩きつける。バンパーと共にリアガラスは弾け飛ぶ。「死ね! 死ね! 死ね! クズ野郎!」叩きつける、叩きつける。大川はもたついている。腰につけたキーを取り出せないでいる。まわり込み、運転席の窓を叩き割る。降りかかるガラス片でよろめく大川を引きずり出そうと両手をのばしたところ、大川はヘルメットを取って投げつける。ヘルメットは鼻を直撃した。「がはあ、あう」その場にうずくまる。エンジンのかかる音がして、車は急発進した。くそぉ、くそぉ、鼻を押さえつつ、立ち上がり、車を追いかけ始める。車はみるみる小さくなっていく。それでも追いかけ続ける。左に曲がり、しばらくまっすぐ進むと、右に曲がる。走る、走る。丘陵沿いの道に出た。右に、いた。くそぉ、くそぉ、くそぉ、殺してやる、吊るしあげて、皮を剥ぎ、燃やしてやる。もうどうだっていい、なんだっていい。走る、走る。もう車は見えない。絶対、捕まえてやる、走る、走る、走る。
 やがて、尽きた。その場にうずくまる。ハァ、ハァ、ハァ、鼻が腫れ、燃えるように痛み出す。血が出ている。膝がガクガク震えている。頭痛も消えてない。去来したのは、敗北感だった。負けた、ざっくりそう思った。なんなんだ、これは。大川は、関谷は、なにを考えているのか。アァ、アァ、アァ。だけども自分はなにを考えているのか、なにをするのかするべきか、アァ、アァ、アァ。―頭を上げた。
 朝焼け。濃いオレンジが横にのびた雲に反照し、そこを境にして薄い青空が高いところで広がっている。雀、雀。青い瓦屋根に赤い瓦屋根。並んだ団地、向こうには山。下には草むら。今日も暑くなりそうだ。もうすでに熱がうっすら漂い始めている。ヘルメットを投げ捨てた。防刃ベストを投げ捨てた。警戒棒を投げ捨てた。端末を投げ捨てた。
 とりあえず、大川を殺す。関谷も、いずれ殺す。絶対、殺す。
 ―それからだ。睡魔と憎悪、いくらかの快楽に浸りながら、息もきれぎれ、再び大川を追いかけ始めた。