2011年 織田作之助賞 青春賞受賞作品

青春賞受賞作品

「コンシャス・デイズ」 柊(ひいらぎ)

 だんだん畑じゃなくて、だんだん田んぼっていうのかな。水が膨れあがるぐらい満ちていますね。稲はあんなに細くて頼りないのに。
 私が窓の外を見ながらつぶやくと、
「棚田だね。梅雨が明けたら、見る間に育つよ」
 安原さんは前を向いたまま答えた。山道はカーブと勾配の大きい坂の連続で、軽自動車のエンジンがうなっている。稲の弱々しさに、私は同情した。早く、一面を緑に染めるぐらい伸びて安心させてほしい、と思った。
 夜景スポットまで、まだしばらくかかりそうだ。
 ここ、良く来るんですか、と尋ねると、安原さんの横顔が照れた。
「いや、独身の頃に何度かね」
 軽に乗り換えたのは2年前、と安原さんはいつか言っていた。息子が自立してから、家族で出かける機会がないし、妻も維持費が減って喜んでいる、と。
「里美ちゃんの学生寮は、門限ないの?」
私は地方大学の女子寮に住んでいる。寮には、裕子という友人がいる。
「夜の十時。でも、誰も守ってないですけど」
「そうか、あんまり遅く帰したらいけないな」
 ドライブや食事に付き合う私を心配してくれる、安原さんは大人だ。さっき立ち寄った蕎麦屋で、彼は鰊に山椒をかけていた、ためらいもなく何度も振るところが大人だった。宝くじはボーナスでまとめ買いをする、だなんて夢の大人買いだ。お風呂は手足が少し痺れる熱さが良い、それも大人。いや、熱い湯はおじさんの傾向かもしれないが。
 大人は、変化のない日常に、ごく微量の刺激を求めているようにみえる。安原さんにとって、私との関係はたぶん、その一つだ。香辛料には勝ちたいな。その思いつきに、自分でも可笑しくなる。
 窓の外を見ると、道幅が狭くなってきた。いつの間にか、車道の左右は背の高い針葉樹で覆われている。裕子は今頃、何をしているだろう。

 寮に戻ると、まず、裕子の靴箱を見る癖がついている。オレンジ色のチェックのスリッパが入っていなければ、いる。それだけで嬉しくなるが、すぐに部屋を訪ねたりはしない。共同キッチンでゆっくり料理をしながら、裕子が通りかかるのを待つのだ。いくら仲が良くても、相手の生活のリズムを乱しては、居心地が悪くなってしまう。
「里ちゃん、おかえり」
 黒のスウェット姿で、裕子がキッチンに現われた。目の周りがむくんでいて、顔がまるっこい。
「ただいま、裕子。寝ていたんだね」
「うん、帰省して彼に会ってきたから、疲れたみたい」
 裕子には、高校時代からの、彼がいる。その人は、地元の大学に進学して、獣医を目指している勉強家らしい。新幹線が必要な距離で恋愛をするなんて、私は密かに裕子を尊敬している。
 去年の春、大学に入学と同時に寮生となった私と裕子が、仲良くなったきっかけは、たぶん外見。ありきたりな私の黒髪シャギーヘアが、裕子を安心させたという。私の方も、裕子のラフな服装と、化粧っけのないところが近づきやすかった。おしゃれに着飾った女の子たちも素敵だけれど、外側が自然体でいることが、内側の呼吸を楽にする、と私は考えている。
「里ちゃん、一緒にお風呂行こう」
「先、行ってて。食べ終わったら入るから」
「そう、じゃあ石鹸貸して」
 裕子はためらいもなく言う。
「勝手に使っていいよ」
 裕子は長風呂だから、遅れて入るとちょうどいい。私のは牛乳石鹸だから、肌の弱い裕子も使える。私達はお互いのことを知っている。他愛いもないおしゃべり、話が尽きて黙りこむ時間のゆったりした感じ、裕子のCDコレクションを聞いて過ごす夜。生産性のない時間。けれども、二人の共有する感覚が、日々増えていくことが、不思議だった。

 初めて美術館へ行ったときの裕子を、鮮明に覚えている。
 美術館は大学のすぐ西側にあって、外国の油絵が集められていた。入寮して間もない頃だった。新しい寮生が連れだって近所の散策をしていたとき、「大学生入館無料」に釣られて、立ち寄った。裕子はせっかちな性格のようで、一人でどんどん奥へ行ってしまったが、周りが追いついたとき、彼女は、楕円型の枠に入った、小ぶりの絵の前でたたずんでいた。
「この人、素敵」
 栗色の髪の、女性が描かれていた。これから着替えるところなのか、肌色の胸が露わになっている。お手伝いさんが髪を梳いてくれているのに、その女性の視線は真っ直ぐにこちら ―枠外にいる私達― を向いている。視線の先に誰がいるんだろう。穏やかな微笑みの表情なのに、次の瞬間には涙を落とすのではないか、と私は不安になった。空気に寂しさが混じっている。
「目が合ったの」
 裕子はそこから動きそうになかった。
 他の寮生はほどほどの時間に帰ってしまったから、帰り道は二人で、なぜか沈黙が続いた。裕子も同じことを感じたかもしれない。
「あの絵の女性、愛しい人を見てるのかな」
「うん、男の人」裕子が頷く。
「裕子、あんな表情したことある?」
「まだ、ない」
 裕子は、まだ、を強めに言った。頬が少し赤い。
 あれだけ眺めていたのに、女性の表情を覚えておくことは、難しかった。私達はたびたび美術館に行った。ほとんど、あの絵を欲しているかのように。
 たぶん、欲していたのは女性の視線の先、だった。私の経験した数少ない恋愛では、あんな表情をする場面はなかった。それなのに、いつか自分にも、その瞬間が来るかもしれないと思った。それほど、魅せられた。

 里美ちゃん、着いたよ。ここが展望台よりも良く見える、穴場なんだ。安原さんの声に、ハッとした。
 車から降りると、外の空気に身体がシンとする。草木の、生きている、濃い香りがする。暗闇で解放されて、腕や足が伸び伸びと動く。
 ガードレールまで近づいて立ち止まると、安原さんの手が私の肩を抱いた。私はお返しに、腰に手をまわす。彼のシャツは、少し湿気を含んでいる。触れている部分からお互いの熱が感じられて、手の先が少し痺れた。あなたの存在を、受け入れます。今、触れている部分から伝え合うのは、ただ、ただ、そのこと。
 光が規則的に並んでいる。その列が交差して、形を変える。赤いのも、青いのもある。夜のディズニーランドみたい。広大な土地に広がる工業地帯は、この夜景を目的に造られたのではないか、と思ってしまうほど完璧だった。ひとつひとつの工場で、夜勤をしている人々を見つけようと目を凝らしたが、見当たらない。人間は光らないからな、と一人納得した。

 寮に入って半年が経ち、蝉の声がやんで、静けさが戻った頃のことだった。
 サークルの先輩に告白された。私がそう打ち明けたとき裕子は驚いて、それから合点がいった、という顔をした。
「やっぱり」
「最近、里ちゃんの瞳が潤んでいたもの」
「身体のラインが滑らかになった。お風呂場で見惚れたもの」
 裕子はたたみかける。
「まだ、何もしていないわ」
 弁解すると、
「里ちゃん、かわいい」
 今日は裕子に勝てない、と思った。ちらっと時計を見ると、まだ夜の八時過ぎ。長い尋問になりそうだ。ねえ、ご飯食べようよ、ちょっとしたお祝いもしよう、と言いながら裕子は料理の準備を始めた。里ちゃん、大きいボール持っていたよね、貸して。彼女は物の貸し借りに頓着がない。私より嬉しそうな裕子を見て、私も少し幸福を感じた。
 先輩についての尋問が終わって、私が安堵していたら、裕子が唐突に言った。
「大学へ来たら、わかると思っていた」
 何が、と私が問うと、間ができた。裕子が作った冷製パスタには、くしゅっとなったミニトマトが散りばめられている。
「サークルとか、恋愛とか、授業とかに、あると思っていたもの」
 あると思っていたのに、もしかしたら、最初から無かったのかも。裕子はひとり言のようにつぶやく。
「バイトばかりしているのが、つらい?」
 実際、寮に入る学生は、経済的に苦しい家の子が多かったし、私と裕子も例外ではなかった。
「違うの。もっと大きな何か。未来に向かうような心持。」
 言葉の意味を掴みかねて、裕子の顔を見た。彼女はお皿を見詰めて、いつになく深刻な表情をしていた。開け放した窓から、りん、りん、という虫が鳴く音が入ってくる。
 私もしばらく黙っていたが、思いつくことを口にしてみた。
「大学へ来たから、裕子とこうしていられるんだけどな」
 裕子は顔を上げて、にやっとした。
「今の、効いた」
 私には里ちゃんがいるもんなぁ、と言いながら裕子は食器を片づけ始めた。裕子は、だいたい、明るい。私よりもずっと陽気だ。でも、たまに見せる繊細な感情を、読み取ることが難しい。
「私が洗うから、お風呂に行って」
「今日はお祝いなのに?」
「裕子は長風呂だから」
 二人とも吹き出した。顔が笑ってしまうと、気分まで明るくなるようだった。

 里ちゃんの、穏やかなところがいい、と先輩は言った。
 テニスサークルで知り合った先輩は、なぜか日に焼けない白い腕に、シルバーの時計を付けていて、その腕はラケットを握ると血管が少し浮きでるので、私はそれをじっと見てしまう。先輩は、他人を見るときの目が優しい。そこが、一番好きだ。先輩のその目に包まれると穏やかな気持ちになる。先輩の生い立ちや、無機化学を研究しているということは聞いた。
 けれども、知っているのは、まだそれだけなのだ。
 里ちゃんのことを教えて、と言われて話した。家族のこと、高校でもテニスをしていたこと、それから、裕子のこと。先輩はうん、うん、と頷く。テニスの話と、裕子の話に、同じ笑顔を見せる。
 そうして私達は、夕方の構内を散歩している。先輩の左手と私の右手は繋がっていて、話をしているのに、意識は繋いだ手の方へいってしまう。
「里ちゃんがいてくれたら、頑張れる」
 告白されたときにも、先輩が言った言葉だ。
「私がとっても太っても?」
 先輩は真面目に頷く。笑ってくれることを期待していた私は、少し面食らった。出会う前からまるまると太っていたら? と聞くのは、意地悪が過ぎると思ってやめた。
 向かいから歩いて来る学生が、私と先輩を一瞬見て、何もなかったかのように視線を戻してすれ違った。構内で良く見かける、カップルの散歩だと思われただろうか。私は衝動的に振りかえった。その学生の後ろ姿は、迷うことなく私達から離れていった。
「知り合い?」
「いえ、違います」
「敬語は使わないでよ。打ち解けていないみたいだから」
 先輩の、拗ねた声がかわいい。
「分かった。そうします」
 あっ、早速使ったな。と言って、彼は私の頭をポンっと叩いてから撫でた。

 隣で先輩が寝息を立てている。私はそのリズムに合わせて呼吸をしてみたが、すぐに苦しくなってやめた。目が冴えている。最近はいつも、先輩が眠りに落ちてしまった後、急に不安になる。腕と足、頭も重たい。自分のものではなくなったような身体の鈍さに、途方に暮れる。一人ぼっちだ。つい数時間前まで、ひどく濃い幸福な時間を過ごしていたはずなのに。

 1Kの先輩のアパートで、レポートをして過ごすのが習慣になっている。コーヒーが飲めない私のために、先輩はいつも麦茶を用意していた。
 レポートに飽きたのか、先輩の指が、私の手の甲を押したり滑ったりする。触られている手は冷たいのに、なぜか頬と首の後ろが熱を帯びている。先輩の黒目が、私の黒目とぶつかって、吸い込まれそうになる。里ちゃん、という小さな声を受けとる。私達はどちらも子犬だ、と思った。子犬同士がじゃれあい、慈しみあうことに意味はなかった。ただ、愛しい空間が、ある。
 先輩は、意味をもたせようとしている。それに気付いたのは、先輩の下敷きになっているときだった。男の人はいつも、意味と目的を重んじる。先輩の下で、彼の思い描くように振る舞うことは、難しくなかった。むしろ自然だった。私はひたすらに、彼の表現するものを、受ける。受けると、私の身体は考える前に反応する。私の喉が、望まれているとおりに声を発する。自分でも驚く。でも、さっきまでの愛しい空間は消えてしまっていた。心が追いつかない。

 静かな寝息が、続いている。私は音を立てないように気を付けて、アパートの外へ出た。ドアがガチャン、と鳴った。先輩が起きないことを祈る。
 コートを着てこなかったことを後悔するほど、冷たい夜だった。街灯の白い光が寒々しい。
「裕子、起きてる?」
「もちろん、まだ十時だよ」
 この声が聞きたかった。
 電話越しの裕子が、あまりにいつも通りなので、私も調子をあわせる。
「明日のレポート終わった?」
 と私が明るく訊くと、
「もうちょっとかかりそう。ひねくれた問題だよね」
 裕子の声がうんざりしている。寮に帰ったら、レポートを写させてもらう約束をして、電話を切った。裕子が寮の部屋で一人、ストーブの前に座り込んで、レポートをしている姿を想像した。黒のスウェット、その上に紺のセーター、キャラクターものの、派手で分厚い靴下。良く知っている裕子が思い浮かんで、私は少し、自分を取り戻したような気持ちになった。

 再び暖かさが戻ってきた、春の中頃だった。
 私が先輩と別れて、そのうえ、安原さんと関係を持っていることを裕子に告げたとき、私達はお風呂場にいた。
 寮の庭には、桜の木が数本根づいている。その下で、新しく入寮した学生達と花見をした日の夜だったと思う。
「里ちゃん、ひどい」
 先輩が可哀そう、と裕子は言った。
 先輩のことは嫌いじゃないし、好意は今も持っているのだけれど、付き合うことをやめただけ。安原さんとの事があるから別れた訳でもない。落ち着いて、そのことを伝えようとしたけれど、裕子が興奮してしまっていたから、無駄だった。
「安原さんっておじさん、既婚者なんでしょ」
 冷たくて鋭い言葉が、裸の身体に刺さった。
「関係ない。素敵な人なんだから」
 里ちゃんの考えていること、わからない。この先、どうしたいの? 裕子の声が、どんどん大きくなってお風呂場の壁に響く。何人かの寮生が、こちらを時々見ている。裕子が言葉を発するたびに、私の体に刺さって、息が詰まる。
「私のことなんだから、ほうっておいて」
 最後には、冷たい口調で言ってしまった。彼女はふてくされて、髪の毛を洗い続けるふりをするので、私は先にお風呂場を出た。
 胸の真ん中が、ジンジンと疼く。理解されないことが苦しいという、言葉にしてしまえば単純な感情が、私を覆っている。裕子が憎い。世間が言うような言葉を、私に使わないでよ。憎い、嫌い。
 私には、嫌いな人がいない。意地悪な人、は抑圧された大きなストレスを抱えていることがある。自分のことばかり話す人、は寂しくて誰かれ構わず認めてもらいたい。常識がすべての人、は怖がり屋でいつも仕事や人間関係に忙しい。みんな、精一杯なのだ。私だってそうだから。
 それなのに、今は裕子が憎い。嫌い。裕子と自分との距離感を見失っている。好き、と、嫌い、が一人に対して両方、これほど強く持てる感情なのだと、今まで知らなかった。

 ふと、横を見ると、安原さんが私の瞳に映るものを探っている。
「里美ちゃん、考えごとかな」
 いえ、夜景に見とれていました。あんまりにも、整った光だから。ここは本当に、穴場ですね。私が一気に言うと、安原さんが微笑んだ。
「車へ戻ろうか」
 背中を優しい力で押されて、私は歩きだす。来た時よりも、草木の香りが薄くなっている。私の身体の中も、ここの空気で満たされたからだろうか。
 そういえば、明日は裕子の誕生日だ。重要なことを忘れていた自分が、恥ずかしくなった。お風呂場で口論した日から、裕子とあまり話していないせいだ、と言い訳がましくも考える。車に乗り込む前に、「明日、一緒にご飯食べよう(彼が地元から来るなら、また今度でいいから)」と、素早くメールを送った。

 裕子にメールをするのも久しぶりだ、と思った。
 口論をした次の朝、洗面所で裕子と会った。相変わらず、寝起きの顔がむくんでいる。
「昨日はごめんね」
 なぜか、自分から謝ってしまった。
「私こそ」
 でもさ、ああいうことを、里ちゃんの一大事を、事後報告だなんて、ちょっと切ない。裕子は口ごもった。ひどく傷ついているように見える。
 私は立ちすくんでしまった。裕子に抱きつきたい、と思った。粘土みたいに、丸めてしまいたい。でも、私だって傷ついているのだ。混ぜこぜになった感情のやり場がなくて、目の前にある洗面台の四角い鏡を、直視できない。黙り込んだ私を見て、裕子は洗面所を後にした。それから数週間、私達は寮ですれ違っても、挨拶を交わす程度のままだ。

 夜景スポットからの帰り道は早く感じて、寂しい。安原さんも、さっきから黙っている。
 急に視界が開けて、行きに通ってきた、だんだん田んぼが左右に広がった。やはり稲は頼りなくて、満ちた水に漂っている。水面に反射する弱い光が、きらきら、飛び散る。
「稲が育ったら、もう一度来たいです」
 急に喋ったから、力の入った声が出た。
「夜景じゃなくて、これを見に来るの?」
「そう、ちゃんと育ったところを確かめたいから」
 僕はいいよ。里美ちゃんとのデートの約束が増えた、と言って安原さんは笑った。

 明日はOK。彼とは週末に会うから。あのね、私の身体の一部は、里ちゃんでできているって気づいた。でも、一部。他の部分は、家族だったり、彼だったり、地元の空気とか、商店街とか。他の友人達も、少しずつ。私だけなのかな。心だけじゃなくて、身体も記憶から作られているような気がする。

 裕子の返信メールは抽象的で、返事に困った。「その話、面白そうだから明日聞かせて!お祝いにご馳走するから、お腹も空かせておいてね」と打って、携帯をバッグにしまう。
「良いことあったの?」
 安原さんに訊かれて、自分がにやけていることに気がついた。お腹のあたりが暖かい。
「ちょっとだけ、ありました」
 山を下りて、車は平地を走っている。寮へ戻る道ではなくて、南の県道にいるということは、私達はホテルへ向かっているようだ。少し開けた窓から、いろいろなものが混ざりあった、街の空気が入ってくる。
 安原さんとは食事とドライブをして、帰り際にキスと、少し触れあって別れることが多い。彼も遅くなり過ぎてはいけないし、私がセックスに積極的でないことを知っているから。ごく稀にホテルへ行くとき、そこへ着くまでの愛しい空間を、私は楽しむ。楽しんだ後は、安原さんの思い描くものに、寄り添う。寄り添うのも悪くないな、と最近は思うようになった。私はまだ若く、柔軟な生きものだから。
 ハンドルから左手を離して、安原さんは私の足に手を置いた。私は優しい気持ちになって、その上に手を重ねる。
「この空間が、好き」
 私がつぶやくと、安原さんは満足そうな顔をした。
 明日、裕子はメールに書いてあった、繊細で抽象的な話をするだろう。私は理解できるような、できないような気持ちになって、きっと困惑する。
 そしたら次は、私が裕子を困らせよう。私はもう、あの絵の女性の表情をしたことがあるかもしれない、と言って。それを見た人がいるとすれば、裕子だ、と言って。


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