■「フリーク」 中野沙羅
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最初からEの口にその葉は合わなかった。 彼の体は黒く、背中に一筋の白い縞が斜めに横切り、透明なさらさらした液が全身を覆っている。爪の先ほどの大きさで、遠目からは鳥のフンのように見えた。 彼が生まれたのはある柚子の木の葉の上だった。そこはもともと家の建っていた場所で今や虫たちの森の一角だった。柚子の木には毎年のようにチョウが卵を生みつけて行き、取り残された塀には多くのサナギの抜け殻がくっついていた。 彼は葉を口に含むと、顔を醜く歪ませ地面に向かって勢いよく吐き出した。緑色の塊が唾液に混じり枝の上に当たってはじけた。 一体ぜんたい、どうしてこんなにまずい葉の上に自分は産み落とされたのか。疑問に思った彼は葉を貪っていた兄を捕まえて尋ねた。 兄はすでに一匹のアオ虫だ。黄緑の体には昔のなごりの白い筋が入っている。背中には擬態のための眼状模があり、黒目にうっすらと赤色の筋が滲んでいる。それは動くたびに形を崩した。 「こんなもの、食べていておいしい?」 「おいしいか、おいしくないかじゃない」 どこか高圧的な口調に少しばかりの苛立ちを感じた。 「おいしくなければ、食べている意味なんてあるの?」 兄は口元を引きつらせて笑った。そして後ろにいる兄達に向かって「おい、見ろよ!」と声をかける。 「随分と頭の悪い弟が生まれたもんだ。お前、自分の殻は食べたのか」 殻、それは生まれる時に入っていた卵のことだ。口にいれると甘くてすぐに溶けてなくなったが、その場所から動く力を得た。 「食べたよ。その次にこれときちゃ食べていられないよ」 兄は自分が何も考えずに食べている葉を吐き出す弟に苛立ちを感じた。しかし、周りが何も言わず黙々と葉を口に運ぶのを見て安堵した。自分は正しく、異端児はこの弟なのだと思った。 「かわいそうに。少しずつ慣れていけばいいさ。まだ生まれたばかりだ」 Eは自分の生まれた木の葉が食べられないだけで嗤われ、憐れみの目を向けられることに嫌気がさした。そして、自分の生まれた葉が食べられないことを疑問に思った。自分と同じ姿をした兄が同じものを食べて成長していることが不思議でならなかった。吸盤の足で枝を這い、妙なにおいの角を出すことでしか外敵に対抗出来ない兄達が急に醜く見えてきた。丸々と太って牙も刺もない醜いイモ虫になり、サナギになってアゲハチョウになるのだ。それが当然であって誰もが疑問を持たないことに、ある種の恐怖を覚えた。 Eは別の兄に対して尋ねた。 「ねえ、チョウになるのは楽しみ? きれいだとおもう?」 その兄は周りのものよりも肥太り、まるで腐った豚の腸詰めのようだった。話しかけたときも足元の葉を懸命にむさぼっていた。 「そんなことは知らないよ。ぼくはこれを食べてさなぎになるんだ」 「さなぎになれば、きれいなチョウになれるの?」 「きれいかきれいじゃないかは知らないよ。でもこれを食べていれば確実にぼく達はあのチョウになれる。それだけは知ってるよ」 ウィンナは口を葉でいっぱいにしながら言った。 「きれいか、きれいじゃないかって重要じゃないの?」 ウィンナは尻を向けてEの体よりも大きなフンをした。 Eがウィンナに尋ねるのを見ていた兄の一匹は笑った。 「まだあんなこと言ってるよ」 もう一度確かめるように足元の葉をかじる。飲みこもうとするがもはや匂いさえ受けつけなかった。再び吐き出すのをみた彼を兄達は笑った。 突如、頭上で小さな叫びがあがった。顔を上げるとムクドリが木の枝に止まってイモ虫をくちばしに咥えている。必死に触角をだすものの、すぐに飲みこまれてしまった。ムクドリはくるくるとよく回る目で辺りを見渡して、一匹で満足したのかすぐに飛び立ってしまった。 彼は力の違いを見せつけられ、ただ驚いていた。そして移動できる羽があればいいと思った。それさえあればすぐに出て行くことが出来る。短い吸盤のついた足で歩かなくてもいい。くさい角を出しても何の効果もないのだ。体が硬くなれば飲みこむのが難しくなるだろうし、長い角があれば目を突くくらいは出来るだろう。 Eは枝の先をよろよろと這った。食べられない葉の上では、どうしても生きていけない。ならば柚子の木にいても意味がないのだ。 こうしてEは自分に合う葉を見つけるべく歩き回ることになった。 まず、隣に生えている百日紅の葉の上に移った。そこには白い粉を体中に吹いたカイガラムシが枝にはりついていた。百日紅は柚子の枝よりもすべりやすく、足を踏張らないと落ちてしまいそうだった。枝の先には今にもはち切れんばかりの蕾がいくつも付いていた。葉は柚子よりも丸く匂いは青臭い。ためしに葉を一口かじってみるが、葉の表面が粘着質なもので覆われている上、口に入れると目まいがして食べられるものではなかった。 「なんてまずいんだ。こんなのを口にするやつの気がしれない」 枝の股についていたカイガラムシの一匹がそれを耳にした。 「葉なんて食べられるものじゃないよ」 確かに葉のどこにも穴はあいていなかった。枝の所々が黒く汚れて、時折白い粉が表面についているだけだ。 「どうしてこんなところにいるんだ」 自分が生まれた柚子の木にはいられなくなったことを話すと、カイガラムシは枝の汁を吸いながら答えた。 「じゃあ、葉じゃなくて枝の汁を吸ってみたら?」 枝を吸ってみようとしたが、Eの口には歯がないためにうまくいかなかった。 「だめだ、出来ない」 「だったら仕方ないよ。きっとここがきみには合わないんだ」 「でも、ぼくは自分の生まれたところの葉でさえも口に合わなかった。一体どこに行ったらいいだろう。このままじゃお腹が空いて仕方がない」 「文句を言ったって仕方ないさ。誰だってそう言いたいところを我慢してるんだ」 Eは百日紅の木を後にした。 木の根元には笹の葉が生えていた。今にも切れてしまいそうなくらいに細長い葉は、風が吹くと上下に大きく揺れてEは降りるのをためらった。そこで地面に降り、風のないときを見計って葉の先に噛みついた。味はなく食べられないことはなかったが、胃が熱くなりすぐに吐き出した。その時、足元にある筒状の巣から縞模様のジグモが這い出して来た。ジグモの口には頭と同じ大きさの鋏角が鎌状に飛び出していた。ジグモはカイガラムシと同じことを尋ね、Eも同じように答えた。 「いろんなものを食べられるようになるには、もっと成長してからでないとだめだ」 「でも、自分の生まれたところの葉が口に合わないんだ」 必死に訴えるEにジグモがうなった。 「イモ虫なんてものは、なんにも考えずに青臭い葉ばかり食べていればいいんだ」 「じゃあ一体どうしろって言うんだ。ぼくはきれいなチョウになりたいのに」 「なんにも考えないことだな。そうすればチョウにはなれる。そんなことより、お前は不味そうだから、別の獲物を探すことにするさ」 ジグモは黒く光る自分の牙を擦り合わせ、笹の葉の上に跳び移り去って行った。 Eは身震いした。ジグモに獲物として見られていた恐怖のためでなく、自分のあまりの無知さが恐ろしくなったのだ。 その時、体全体が熱く火照るのを感じた。熱に耐えられず体を左右にふると皮がずるりと剥けた。一回り大きくなった彼は周りの兄たちがはじめて脱皮をとげたときよりもはるかに小さかった。自分の脱ぎ捨てた皮を口にすると、柚子の葉よりもおいしくすぐに食べきることができた。 ある日、ウィンナがさなぎになる瞬間にEは出会った。話しかけようとすると、ウィンナは濃い緑色の水状のふんをした。壁に消化しきれなかった柚子の葉の欠片が細かく貼りついた。 「ついにその時が来たんだね」 「そうだ。E、きれいかきれいじゃないか大事じゃないのかって聞いただろ、前に」 Eは短い首を縦に振った。 「夢中に食べていたおれは、恐らくきれいなチョウになるだろうな。今からでも、考えるのを止めたほうがいいんじゃないのか」 ウィンナは彼のしわくちゃに縮れた体を見て、頭の眼状模を歪ませ笑った。そしてしばらく這って行き立ち止まった。それからは話しかけても、何も答えることはなかった。 Eは自分の体が兄達よりもはるかに小さく、成長が遅いのを知っていた。元来、アゲハチョウの幼虫は二週間もすれば黒い毛の生えた一齢幼虫から、アオ虫である五齢幼虫になる。しかし、Eは未だに体の黒いイモ虫だった。そのことが彼にはコンプレックスとなった。そして、今のウィンナの言葉が自分の口に合う葉探しをすることへ疑問を抱かせた。 「カイガラムシや、ジグモやウィンナが言っていたように、ぼくは我慢が出来ないだけで間違っていたのかな」 森の雑草から大木まで、ありとあらゆる葉を口にしてきた。しかし、どれも口に合うものはなかった。彼は久しぶりに柚子の木へ帰って来た。鼻につく匂いが掠めた。大勢の兄達がいるのに彼は安堵した。彼らは今や、ウィンナにひけをとらないくらいに太っていた。兄達は久しぶりに見た弟の姿に呆気にとられていた。 「今まで一体何をやってきたんだ」 「探してたんだ、自分の口に合う葉を」 「この木の上で生まれたんだから、この木の葉が結局お前には合うんだよ」 「でも、口に合わない。食べられないんだ」 「我慢すればいい」 Eは再度柚子の葉をかじった。やはり彼はもどしてしまった。兄達はもう弟のことを笑わなかった。黒くてしわくちゃの体の弟を彼らは不幸に思うと同時に、Eのようにならなくて良かったと思った。 柚子の葉を食べることを止め、Eは再び他の葉を目指して歩きはじめた。もはや醜く太った兄達にも、同じ模様のチョウにもなりたくなかった。どうして生まれた場所の葉が食べられないのかという疑問が彼を突き動かしていた。自分には必ず口に合う葉があるのだ、それを食べれば同じ柄のチョウでなく、自分の思ううつくしいチョウになれるのだと信じて疑わなかった。 壁沿いを移動しているとき一匹のミノムシに出会った。ぞろぞろと身にまとった木の枝から黒光りする頭を出して、壁の側面を慎重に這っている。動くたびに枝は揺れたが、しっかりと止められており、もはや体の一部のように見えた。ミノムシは痩せたイモ虫がいるのに目を丸くした。 「なんでこんなところを歩いてるんだ」 幾度となく繰り返された質問に彼は同じように答える。するとミノムシは言った。 「ぼくなんかは、枝を統一して住みやすいようにしているし、いつもより良質な木の枝を探しているよ」 「これからずっと葉を探して行って見つかることはあるのかな」 「生まれたところの葉が食べられない虫には、その虫なりの生き方があると思うよ」 今までEのことを肯定するものはいなかった。誰もが否定し、疑問を持ち、笑い、憐れみの目を向けた。はじめてのことに彼は興奮して今までのことを話した。 「兄は我慢し続けろ、カイガラムシは文句を言ってもはじまらないって言うんだ。ジグモは考えることを止めれば誰だってチョウになれるって。でも、そんなにあの同じ柄のチョウになることは大事なの」 ミノムシは黒い体を反らしながら言った。 「さあ、それ以外に知らなかったらそう思うしかないんじゃないの。現にぼくもこうしてミノを集めて蛾になる以外の生き方を知らないし。もちろん、君達みたいにきれいな柄じゃないけどね」 ミノムシはEの脇を通り過ぎて行くと、頭を引っ込めその場に垂れ下がった。 口に合う葉を探し続けてうつくしいチョウになることが自分の生き方なら、それはすごく辛く苦しいことだと彼は思った。そして、柚子の葉だけを食べていれば良い兄達を羨んだ。 ある日のことだった。突然、甲高い叫び声がEの耳を貫いた。 声のするほうを見ると、ウィンナのサナギがあった。数日前まで若草色だったのに茶色く濁り腐った色をしていた。 サナギは前後左右に激しく揺れていた。ウィンナが中で動いて出ようとしているのがわかった。しかし、自分で作った殻を破ることは出来ない。その上、頑丈な糸で支えられたサナギは中身がいくら動いても落ちることはない。 Eはサナギの近くに駆け寄った。 「どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてなんだ」 何が起きたのか分からなかった。中からは何かが潰れて煮詰まる耳障りな音がしていた。悲痛な叫びを聞いていられなくて、彼はすぐにその場から去ろうとした。その時、叫びがぴたりとやんだ。そしてサナギの背の一部が軽く裂けた。 一瞬、美しいチョウに変身したウィンナが出てくるのにEの胸は期待に膨らんだ。しかし、出て来たのは真っ黒な虫だった。頭に生えた二本の触角で辺りを探るように小刻みに動かしていた。 彼は唖然とした。あれだけ意気込んでずっと柚子の葉を食べ続けていたウィンナからどうしてハチが現れるのか理解出来なかった。 「いったいいつからハチになったんだ」 ハチは透明な二枚の羽を擦り合わせ、機械的に羽ばたいた。 「いつからでもない。最初からおれは体にいたんだ。だから、こいつが何をしようとおれの餌になるためだけに存在していたんだ」 信じられないという目を向ける彼にハチは続ける。 「自分がハチになることも知らずに、チョウになると信じ込んでせっせと葉を食べ続けただけだよ」 「どうして植え付けることをするんだ」 「おれは生まれた時から、この虫の体内にいて外には出られなかったんだ。なら、出られるまで待つしかないだろう」 そう言い残すと、不快な羽音を残してその場から飛び立った。あとには、ぽっかりと穴の開いたサナギが風に吹かれて乾いた音をたてているだけだった。 Eはいつになっても兄達のようなアオ虫にならなかった。生まれたときの姿のまま体だけが少しずつ大きくなっていった。皮膚は渇き、背中の縞も縮れてしまい判別できなくなっていた。今や彼の体は弱り果てていた。時折、脱皮した皮を食べる以外に口に合うものはなかった。 Eが生まれたときにまわりにいた兄達のほとんどがサナギになり、ある者はチョウになって飛んで行った。ある者はウィンナと同じように寄生された。またあるものはサナギになったが、いつになってもチョウが出て来ることはなかった。多くのイモ虫がアゲハチョウになろうとして失敗して行った。 自分の生まれた葉を食べ続けているのにも関わらず、少数しかチョウになれない。その事実がEにはショックだった。きれいなチョウになることを信じ、我慢して自分の境遇を受け入れ柚子の葉を食べ続ける兄達をどこかで軽蔑していたことに気がついた。 それでも葉を探すことをやめなかったのは、たった一つのことに納得出来なかったからだ。クモに勧められるがまま虫の死骸を口にしたこともあった。カブトムシと一緒に甘い樹液を舐めることもあった。しかし、物を変えたとしても口にあうものは決してなかった。また、いくら他の葉を食べても体が硬くなることや、くさい角が鋭利に尖ることもなかった。いつまでたってもEは黒色の醜いイモ虫のままだった。 やがて彼の体も兄達と同じように動かなくなった。サナギになるときが来たのだ。彼は自分が安全にサナギになれる場所を探した。その時になってようやく、兄達が塀で羽化の準備を行ったことを理解した。平らで足場が安定している上、蔦の葉が辺りを覆っているため鳥に見つかる心配もない。彼はウィンナの骸の前まで来て、ここにしようと決めた。サナギは風に飛ばされてほとんど残っておらず、頭と尻の糸だけが壁にくっついているだけだった。 こうして葉を求めて探しているのは、もしかしたらすでに何かに寄生されているのではないか。ウィンナがハチになる運命だったように、すでに生まれる前から自分はチョウではなかったのではないか。だから兄達と同じように柚子の葉を食べることは出来なかった。それならば今までの疑問が解決できる。 ウィンナが苦しんだのを想像すると、彼はサナギになることへの恐怖を覚えた。サナギになる途中に敵に襲われるかもしれない。無防備なところで襲われたらひとたまりもない。その上、兄達とは違って黒いイモ虫のままだ。果たしてほんとうにサナギが作れるのか。もしサナギになれたとしてもチョウになれるのか。 水状のフンを出すと体は硬くなり、恐怖とは反対にEは一歩も動けなくなった。やがて尻に粘着質な糸を吐き出して足場を固定した。体を反らして半円状に回転しながら、糸の端を壁にくっ付ける。糸の輪のなかに頭を潜らせると、固定されて身動きがとれない状態になった。 動けなくなるとこれから別の形に変身するのだと分かった。今までずっと葉を食べて養分を体に蓄えていたのは、まさにこの時のためだった。そして、兄達の体が肥太るのは、サナギからチョウに変るのに力がいるためなのだと分かった。 幾日かして体液が枯れ果てた。すると、背中から小指の先ほどの角が皮膚を貫いて突き出した。体をふって古皮を脱ぐ。それと同時に、頭を割って左右に一本ずつ角が突き出した。皮肉にもサナギになる段階になって、彼の望んだ角が生えて来たのである。 Eは墨のように黒いサナギとなった。壁の色に同化してサナギがついているとは分からない。頭の横に二本、背中から一本角が突き出している。腹にかけて丸みをおび、尻に向かってすぼまっている。触角や羽など、諸々の器官がサナギの上から透けていた。 Eは、どうして口に合わない葉の上に産み落とされたのか考えていた。でも、ようやく分かった気がした。兄達のように我慢して食べ続ければ立派なアオ虫になれただろう。おいしいおいしくないは別にして、生きるために必要な糧として受け入れられたならば、サナギになるまでにこんなにも時間はかからなかった。意固地になって、口に合う葉を探さずに全部受け入れていれば良かった。はじめて母に申し訳ない気持ちでいた。Eに必要だと分かっていたから柚子の葉に生んだのだ。 Eの体はサナギの中で溶けはじめた。体が熱く、衣から抜け出したくて彼は暴れた。サナギは横に大きく揺れたが壁から落ちることはなかった。頭の先から尻まで溶けると、熱さは治まり、隅々にまで神経が張りめぐらされるのが分かった。そして少しの揺れに敏感になり、風が吹くたびに落ちるのではないかと怯えた。 次第にEの意識は眠りについていった。そして幾億年もの夢をみていた。生命の歴史の夢だった。大気があり、水があり、地上があった。鳥や虫が舞い、動物が這った。境遇を受け入れ、苦しみながらも生きている姿がEにはうつくしくかんじられた。Eは自分のようなものはこれから生まれなければいいと願った。そしてウィンナのことを考えた。肥えたウィンナから出て来たハチのことを考えた。自分はハチになるのかもしれないと思った。チョウになることなくサナギのまま眠る兄について考えた。そして、生まれた場所の葉を食べられなかった自分のことを考えた。 Eは問う。兄達に、森で会った虫たちに、そして自分自身に。このまま自分はアゲハチョウになるのだろうか。どうして彼らは同じ柄のチョウになることを受け入れたのだろうか。イモ虫はチョウにならねばならないのか。しかし最初からチョウではないイモ虫がいたら、自分は果たして何だったのか。そして、これから一体何になるのだろうか......。 それから雨がずっと降り続けていた。壁際のサナギも湿気で腐り落ちたものが多かった。虫達は葉の裏に隠れて止むのをじっと待っていた。 しかしある日の朝方、雨は突然止んだ。雲の切れ間から太陽の日差しが漏れて来た。百日紅の蕾がはち切れて、中からちりめんのように縮れた花びらが飛び出した。甘い香りに誘われて、飴玉大のクマバチが飛び回った。その羽音で葉の裏から虫達が出て来た。 塀の片隅で一匹のサナギの背中が裂ける音がした。黒いサナギから体液に濡れた羽を引きずって奇怪な虫がはい出していた。体は黒く大人の小指くらいの大きさだ。しかし、背中に生えた四枚の羽は体に釣り合わず、扇子を広げたように大きい。羽は目玉模様を中心に赤、黄、黒、青、緑、紫が渦のように混ざり合い、陽のあたる角度によって色が変って見えた。 Eはしばらく何も考えられなかった。しわの寄った羽を太陽に向けおそるおそる伸ばした。自分の吸盤が六本の黒い華奢な足になっていることに気がついた。そこにいたのはアゲハチョウではなかった。極彩色の羽をもつEという一匹の虫だった。 彼は飛ぶことをためらった。自分に羽が生えていることが信じられなかった。しかし、ゆっくりと羽を動かすと風にのって浮きあがりそうになり、慌てて足を踏ん張った。羽化を祝福するように雲は颯爽とどこかへ消え失せ、太陽の光を浴びると彼は力が湧くのを感じた。 Eは羽ばたいて一瞬の間宙を浮いた。 しかし、直後大きな網の中にいた。羽ばたきながら、一体どこにいるのか理解できなかった。彼は空への渇望に網に向かって何度も体をぶつけた。 「おお、見たことのないやつがいる」 男はEを虫籠に入れ自分の部屋へ持ち帰った。壁には沢山のチョウが箱に敷き詰められ並んでいた。見たこともないチョウに彼は興奮していた。図鑑をめくったが、同じ柄のものはなかった。 「これは、新種のチョウかもしれないな」 男はEを自分のものにするため、注射器を持ってきた。 男の手におさえられながら、Eは羽があると気がついたときの高揚、太陽の眩しさ、吹き付ける風を思い出す。そして姿形が変っても自分自身に全く変化がないのは、やはり生まれたときから寄生されていて、既にチョウでない何かだったのだろうかと考えた。 しかし、ハチでもなくチョウでもない自分は果たして何だったのだろうか。 疑問を残したまま、注射器を刺されたEの意識は暗いところへ落ちて行った。 |
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