■「ふたりだけの記憶」 滝口 浩平
|
記憶はいつだって唐突に蘇る。 すっかり肌寒くなった道を歩いている時に、大学の講義のことを思い出す。部屋の片付けをしている時に、昨日の晩御飯のことが蘇る。喫茶店でコーヒーを待っている間に、楽しみにしていたテレビ番組を見逃したことに気がつく。そういうことは誰にだってあるはずだ。記憶はいつだって神様のいたずらみたいに何の脈絡もなく、すうっと僕の表面まで浮かんでくる。 だからと言って、もうすぐ中学時代からずっと使っていた携帯とメールアドレスを変えてしまった時に、ふとあいつのことを思い出したのは、決して偶然なんかじゃない。バスを待ちながら「携帯とアドレスを変えました」という文面を打ち込んでいる時にあいつの口癖を思い出したのは、神様のいたずらなんかじゃない。 「んなこと、シラねえよ」 たった今思い出した口癖をなぞるようにして、僕はため息をついた。吐き出したもやもやは冬間近のバス停で一瞬白く凝結してすぐに消えた。空は見渡す限り黒い雲に覆われている。今にも降り出しそうな空を少しだけ眺めて、僕は買ったばかりの携帯に表示されたアドレス帳に目を移す。あいつの名前。 あいつが一番の親友だった時期のことで、今も覚えていることはほとんどない。 あいつは中学生になってはじめて出来た友達だった。中学校生活の約半分、誰よりも仲が良かった。何をするにも一緒で、親友というのはこういう奴のことを言うのだろうと当時の僕は思ったものだった。あいつは僕が持っていないものをなんでも持っているような気がした。僕は臆病で優柔不断だったから、まっすぐで、時に乱暴な性格に憧れた。先生相手でも物怖じせず、あいつは言いたいことを言った。先生からはあまり好まれていなかったような覚えが、ぼんやりとある。それから、髪は短くて、青いフレームのメガネを掛けていた。後は、そう、笑うとえくぼができた。 それが今思い出せる、あいつの全てだ。 そんな細かいことばかり思い出して、日曜日に駅前で待ち合わせてどこに行き、何をして遊び、どんな話して、何が面白くて笑いあったのかなんて、そんな親友らしいエピソードは一つとして覚えていない。これ以上のことを思い出せないのだ。 思い出せるのはその後のこと。仲がこじれてしまった後のことばかりだ。 あいつとケンカをしたのは、中学二年生の二学期のことだった。夏休みが明けてすぐのことだったのか、秋も深まってきた頃のことなのか、それほど細かくは覚えていない。もう何年も前の話だし、当時は色々なことを覚えておこうと思わなかったし、それに、日付だけでなく、もっと重要な「どうしてケンカがはじまったのか」という理由すら僕には思い出せないのだから。 あまりにも思い出したくないことだと、人は自分の記憶をどこかに隠してしまうらしい。僕もまた、彼が親友だった時の記憶と一緒に、ケンカのはじまりをどこかに隠してしまった。あの時のことは、今もどこかで埃を被っている。 とにかく、激しい口論があった(という事実すら、僕は人伝いに聞いて思い出すことになる)次の日から、僕らはお互いを無視するようになった。口も聞かず、目も合わせようとしなかった。そうして数日が過ぎ、一週間が終わり、気が付くと一ヶ月が経っていた。 このケンカについてはっきり覚えている最初の記憶は職員室だ。ケンカのことについて聞きたいと、僕らの担任は放課後に僕らを職員室に連れて来たのだった。その年は冬が早くて、職員室ではもう暖房が点けられていた。焦げたコーヒーの香りがただ僕の思考能力を奪った。 「何が原因なの?」 「んなこと、シラねえよ」 先生の質問にあいつは吐き捨てるように言った。あいつはいつもシとラを鋭く発音するので、僕にはそれがカタカナに聞こえてきた。ケンカをしていても、その鋭さは耳に良かった。 担任はあいつの乱暴な言葉に呆れたように首を振って、僕の方を向いた。その目は、何らかの答えを期待していた。裏切ってやりたくなった。 「僕も知りません」 ひどく手短に答えた。それから後は、僕らは何も答えなかった。理由を言ったら負けだと思った。多分、あいつもそう思っていた。 友達からもケンカのことで色々言われた。「前はあんなに仲が良かったのに」とか「そろそろ仲直りしろよ」とか。その中でも「なんでケンカしているんだっけ?」という質問は何度となく聞かれた。僕はいつだって「さあね」とだけ答えて、その会話を流してしまっていた。誰にもケンカの理由を言わず、思い出そうともしなかった。 いつしか、友達もその質問をしなくなった。 僕が、その質問に無言以外で答えることができなくなっていると気がついたのは、ずっと後になってのことだった。本当におかしなことなのだが、「何があったの?」と聞く人がいなくなると、今度は「一体どうしてこんなことになったのだろう?」と自問せざるを得なくなってしまった。自問すればするほど、ケンカの理由は白く霞んでいってしまい、謝る理由も、それと一緒に溶けてなくなってしまった。そうして、ケンカをしている、という事実だけが残った。季節が変わるころには、お互いにもっと仲の良い友人が出来た。そして、仲直りの理由はますます失われてしまった。 あいつも、きっとそうだったのだと僕ひとりが気付いていた。 バスは進んだり止まったりを繰り返しながら、ゆっくりと駅へ向かっている。手持ち無沙汰な時間を利用して、アドレス帳を整理して、アドレス変更メールを送るべき人には送り終えてしまう。高校の時に登録して以来そのままになっていた生徒会役員のアドレスとか、もう二度と連絡を取ることもない前のバイト先の人たちのアドレスを消した。アドレス変更を知らせるかどうか迷う微妙な関係の知り合いも、何人か消した。指一本で、その人との関係を何もかも切っているような、嫌な気持ちだった。 あいつは、保留。 何十通とメールを送ったのに、大した反応はない。送信不可を知らせるメールが一通、あとは同じ学科の友達から「とうとうボロ携帯卒業か」なんて返ってきただけだ。それはそうだろう、と僕は思う。こんなメール、事務的なものでしかないのだから。 それでも僕は、緊張しないわけにはいかない。 窓越しの空はさっきよりもずっと暗くなっている。分厚い雲が油絵のように複雑に渦巻いて、地上低くまで下がってきている。街路樹の緑はいつもよりずっと濃い。昼間なのにひどく暗くて、対向車のライトが点灯している。道行く人々も傘を片手に、空模様をちらちら気にしている。誰もが雨を待っているような気がする。それなのに、空はまだ一滴も零さない。 自分にも聞こえないくらい小さなため息をついて、僕はまた携帯の画面を見つめる。今からあいつにメールを送るのだ、と考えて僕の気分は空模様よりずっと重くなる。「アドレス変えました」とだけしか書かないメールで、特に返信を期待するわけでもないけれど、これがあいつとアドレスを交換した後で最初のメールになるのだ。緊張や苛立ちは仕方がない。 考え込む時間ばかりが増え、メールを送る決心がつかないまま、僕はバスに揺られ続けている。携帯をホーム画面に戻しては、またメール画面を開き、送信先からあいつの名前を選んでは消去し、流れていく景色を眺めて気を紛らわす。それを何度も繰り返している。 目的地もなく、ひたすら市内を回り続けているこのバスと同じだ、と僕は思う。行動も思考も、さっきからぐるぐるとループし続けている。僕は窓に身を預けてバスの前方をぼんやりと眺めた。バックミラーに運転手の顔が映っている。雨が降ればいい、そういう変化がどこかで起きればいい、と思っているような退屈そうな顔だった。 駅が近づいてくるにつれて交通量が増えてきて、いつの間にかバスは渋滞に捕まってしまった。信号を待っている間、僕はふと道路に視線を落とす。もうずっと修繕されていないらしく、アスファルトはヒビだらけだった。こういうヒビは直さないのだろうかと僕は思った。それとも、もう直らないのだろうか。 直らない。直らない。呪文のように何度も繰り返すうちにその言葉がすとん、と胸に落ちた。直らない。そうなのかもしれない。そうだ、そういうことがあると、僕は知っている。 「このクラスで過ごせる時間もあと少しなんだから、みんな仲良くしようよ」 そんな無責任で適当な言葉で僕らのケンカに一区切り付くなんて、ケンカがはじまった頃は思ってもいなかった。放課後のホームルームで学級長がこの言葉を放ったのは、高校受験を全員が意識し始めた頃だった。もちろん、それが僕らふたりに向けられたものであることは明らかだった。教室中が、それに気が付いた。全員が前を向いていたのに、クラス中の視線が僕らに集まったのを肌で感じた。とくん、と心臓が脈打った。 ケンカをはじめて、だいたい一年くらい。日は短くなって、授業が終わる頃にはもう一日が終わるような季節だった。その頃には、どうしてあいつと口を聞かないのかなんてさっぱり思い出せなくなっていて、あいつへの怒りとか嫌悪とかいう感情も薄れてきてしまっていた。「あいつらは仲が悪い」という周囲の言葉だけが、ケンカをしているという事実を支えていた。 本当は、僕らはただ、クラスで一番遠い知り合いでしかなかった。 学級長の言葉は千載一遇のチャンスだった。この機を逃したら、あいつと再び友人になる機会は二度とめぐってこないだろう。ケンカの理由を忘れてしまった僕らには、ただの知り合いの僕らには、もう仲直りをする理由がなかったのだ。僕らはふたりともそれを分かっていた。だからこそ僕らは、ふたりとも同時に立ち上がってお互いを見たのだった。 僕らふたりは教室の前に担ぎ出され、固い握手を交わすことになった。夕焼けで赤く染まった教室はしんとしていて、その雰囲気の中で誰もが僕らを見ていた。学級委員は得意顔だった。先生は「これでクラスが一つにまとまった」という安堵の表情を浮かべていた。そして密かに僕らも、これでようやく元通りになるのだと思っていた。僕らは期待に答えるように、お互い手を伸ばした。 溝だ、溝がある。崖みたいに深い溝だ。 それが、ほぼ一年ぶりにあいつの手に触れ、肩を叩き合った時のイメージだった。 草の一本だって生えない涸れ果てた荒野に、どこまでも深い溝が地平線の果てまで伸びている。そして、あと一歩で音もなく吸い込まれていってしまうその溝の淵で、僕らは向かい合うようにして立っていた。飛び越えて向こう側に行くには、溝の幅はすこしだけ広い。溝の向こうで、あいつが僕を見つめている。僕もまた、あいつを見つめ返している。そういう情景が僕の心のなかに広がっていった。そしてあいつの中にもまた、同じようなイメージが広がったのだと、強すぎる握手が伝えていた。 時間が解決しないこともあると、僕らは知った。多分、この溝は深すぎて、一生かけても埋めることは出来ないのだ。そして、この溝のことを忘れることもまた出来ないだろうと、僕は密かに感じていた。 結局、あいつが再び親友に戻ることはなかった。握手をしてからも、僕らの間に会話らしい会話はなかった。お互い新しく出来ていた友人たちと中学生活を終え、別々の高校へ進学することが決まった。 卒業式が終わった後の教室で向かい合ったのが、あいつに関する最後の記憶だ。あいつの目を見たのは、本当に久しぶりだった。教室はみんなの話し声が詰まっていつもの何倍もうるさかったはずなのに、僕らふたりの周りだけ妙に静かだった。 話したいことがあったわけじゃない。だからいざ面と向かい合うと、二人とも黙ってしまった。「高校どこ行くんだっけ?」「いろいろあったね」「じゃあ元気で」どれを言ってもぎこちなくなってしまう気がして、黙っていることしか出来なかった。 「なあ」 沈黙を破るように、あいつはおもむろにポケットから携帯を取り出した。 「アドレス?」 「ん」 あいつは小さく頷いた。僕は赤外線をあいつの携帯に向けた。 ふたりの携帯にアドレスが登録されてしまうと、あいつはまた自分のグループに戻っていった。僕もまた、自分の友達の中に混ざった。 別にあいつのアドレスを聞きたかったわけじゃない。あいつも、僕のアドレスなんかどうでも良かったのだ。ただ最後に、一言だけでも言葉をかわしたかっただけなのだ。もう二度と、話すことはないだろうから。それでも中学時代の思い出は、良くも悪くも、こいつが中心になるのだろうと気付いていたから。 アドレス交換は、精一杯の歩み寄りだった。僕らの距離は、ふたりが手を伸ばしてかろうじて携帯の赤外線が届くくらいのものでしかなかったのだ。そして、その距離が二度と近づくことがないことを僕らふたりだけは知っていた。 僕は携帯を握りしめたまま、重苦しい気持ちで外を眺め続けている。硝子に当てたこめかみが、僕の気持ちを冷やしているような気がした。一度大きく揺れた後、バスは再び動き出す。 長い間アドレス帳に登録されていたくせに、あいつにメールを送ったこともなければ、あいつからメールがきたこともない。アドレス変更のメールすら、ない。 あいつもまた、中学の終わりからずっとアドレスを変えていないのか、それともあいつのアドレス帳からは僕の名前はとうに消えてしまっているのか、それは分からないままだった。僕から連絡することはないし、相手からの連絡を期待することもない。ただ、ボタン一つで簡単に消してしまうには、いろいろな事があり過ぎた。僕とあいつはそういう関係だった。 ところがこんな関係は、アドレス一つ変えるだけで簡単に崩れてしまうものだったらしい。アドレス変更メールを送らないという決断をしたら、僕はあいつの名前をアドレス帳から削除してしまうだろう。仮に送って、サーバーから「送信できませんでした」というメールが返ってきたら、やはり僕は(むしゃくしゃしながら)あいつの名前を削除するだろう。もし、何の問題もなく送れたとしても、今までの名前だけがそこにある、特別な関係ではいられないのだ。 道路を眺めていると、ふと水滴が落ちてきた気がした。バスが駅前の大きな交差点を曲がろうとした時のことだった。もういっそアドレス帳から消してしまえばいい、そんな冷えるような考えが僕の頭にも落ちてきた。これから一生連絡を取るつもりはないのだ。そんなやつの名前をアドレス帳にだけ残しておくことに何の意味があるというのだろう。 でも、それなら、と僕は考え直す。とりあえず送ってみた方がいいんじゃないか。きちんと届くなら、僕らは「少なくともアドレス変更くらいは教える仲」になる。送信不可のメールが返ってきたら、あいつをアドレス帳から消せばいい。それだけの話だ。 僕はまた道路を眺めて雨の気配を探してみる。さっきの一滴は気のせいだったのだろうか、空は頑なに曇りを突き通している。 バスが駅に着いた。ドアが開き、乗っていた乗客のほとんどが降りてしまう。僕も列になるようにしてバスを降りた。暖房の効いた車内から一歩外に出ると、北風が僕に向かって吹いてくる。雨ではなく雪でも降るのではないか、と思うほどの寒さだ。遠くで雷の音が聞こえる。雨が近い。 僕は目的地までの切符を買い、改札前の人ごみを避け、一番線のホームに出る階段を登った。次の電車の時間を確認する。電車は十分遅れで運行しているようだった。ホームはいつもよりずっと混んでいる。スーツ姿の男が何度も時計を確認している。「遅れてるみたい」と電話越しに愚痴をこぼす女性がベンチに腰掛けている。「大雨の影響で、上下線共に十分程度の遅れが出ています」とアナウンスが告げている。この線路の先では、もう雨が降っているらしい。 向かい側のホームに目を移すと、やはり電車待ちの人々が苛立たしげに電光掲示板を眺めている。まるで反転コピーしたように、あちらのホームでも、ある人は電話をし、ある人は時間ばかり気にしている。それから――。 その時、中学生と目があった。息が止まった。心臓を掴まれる思いがした。 あいつにそっくりだったのだ。もちろん、彼本人ではない。そんなことは分かっていた。分かっていても、僕はあいつと瓜二つの少年から目を話すことが出来なかった。魔法にかけられたみたいに、僕はその場から動けなくなってしまった。寒かったはずなのに、体が火照って、携帯を握る手は汗ばんできた。鼓動が聞こえてくる。 少年の方は、今しがた僕と目があったことすら気づいていない様子で、電光掲示板を眺めている。それから俯いて、何かを考えだした。しばらくすると、ビニール傘の先端でホームの床に、少年にしか見えない絵を描き始めた。短く切りそろえているのに、右側の髪に不自然な寝ぐせがついている。ネジが緩くなっているのか、眼鏡の位置を頻繁に直す。靴紐がほどけていることを全く気にしていない。そういう些細な事の全てが、あいつを彷彿とさせた。親友だった頃のあいつを。 すっかり忘れてしまっていたことが、鮮明に蘇ってきた。 あいつは絵が好きだった。中学生とは思えないほど、飛び抜けて上手かった。赤色をふんだんに使った作品で、何か大きな賞を貰ったはずだ。全校生徒の前で渡された賞状を、嬉しそうに自慢してきたことがあった。冬になると、輝くほど真っ赤なフリースを着ていたことを思い出した。雪の中で、よく映えた。雪の日に、あいつの家に行ったことがあった。あいつのベッドの上に座って、一日中レースゲームをして過ごしたものだった。僕がショートカットをすると「そんな技、シラねえし」と口を尖らせた。ベッドの上にはパジャマが脱ぎ捨てられていて、いたるところに漫画本やプリントなんかが散乱していた。ズボラな性格だった。よくボタンを掛け違えていて、それを指摘すると、あいつは照れ笑いを浮かべたものだった。そうだ、僕が覚えていたえくぼは、この時のものだ。 失くしていた宝箱が開いたみたいだった。親友の記憶が次から次へ溢れだしてきた。今まで思い出せなかったのが不思議なくらいだった。数年ぶりに、あいつに親しさを感じた。今ならあいつにメールを送ることが出来る気がした。それも仲の良い友達に送るのと同じように、ごく自然に出来ると思った。 僕が携帯電話をポケットから取り出した時、少年が再び顔を上げて僕と目を合わせた。僕と少年の二人の動きが止まった。今度は少年も目があったことに気付いたようで、すぐに目を背けられてしまった。瞬間、ホームに十分遅れの電車が滑りこんできた。少年の姿が見えなくなり、少年に重ねていたあいつの姿も消えた。 魔法が解けた。 たった今思い出したことが、あっという間に色あせてしまっていた。冷たい風がホームを吹き抜けていったのと一緒に、彼の賞状も、赤いフリースも、ずぼらな性格も、えくぼも、メールを送る勇気も、何もかもが遠い寒空の向こうへ吹き飛ばされてしまった気がした。 あれは、他人の空似だった。今起きたことは全部、神様のいたずらだった。 僕は誰にも気付かれないほど小さく頭を振ってあいつの幻影を振り払った。朝から中学時代のことを強く意識してしまっているから、あいつの幻なんか見るのだ。あいつとは何の関係もない人物だ。一度頭を空にしたほうがいいかもしれない。そうだ、そうすべきだ。 電車のドアが開いた。僕は携帯を握りしめたまま、電車に乗り込んだ。一瞬、向かいの窓硝子から少年が見えた。それは間違いなく、あいつとは別の人物だった。 発車メロディーが鳴り響き、電車は駅を後にした。つり革に掴まり、努めて何も考えないようにしながら、通りすぎていく景色を眺めた。隙間なく詰まった家々、信号待ちの渋滞、降り出しそうな雨に走りだす人々、満杯の無料駐輪場、その全てが目に入った途端に通り過ぎていく。次から次へ。ひとつひとつの風景に気を留める暇もなく、窓硝子の向こうを流れていく。窓の向こうで起きていることを全て無視して、電車は雨に向けて走っていく。 パッと雲の奥で雷が光り、空全体が輝いた。その瞬間、恐ろしい考えが僕を照らした。 実はあいつのことを、今までずっと気にし続けていたのは僕だけなのではないか。あいつにとっては、僕とのケンカなど流れていく景色の中の一つだったんじゃないか。ほんの数分前、僕があいつの幻影を無視してホームを去ったように、あいつは溝の対岸にいた僕の存在など全く気にもかけずに、とっくの昔に背を向けて、どこか別に場所に旅立って行ってしまったのではないだろうか。あいつがその場を去ってしまったことに気付かず、僕だけが、荒野の溝の淵で、アドレス帳の中だけで、あいつの幻を見つめ続けていたのではないか。 確かめなきゃいけない。 僕は汗にまみれた手で携帯を操作し、メール画面を開いた。送信先を選び、ごく簡単な文章を入力する。 「アドレス変えました。登録お願いします」 何の感情もこもっていないような文章だった。だが、そこには今までに送ったどの文章より深い想いが込められていた。家族に送るメールより、恋人に送るメールより、もっとずっと大切な感情が、この文章には隠されていた。普通の人には分からないだろう。でも、もしこのメールが届いたら、あいつはそれに気付く。このメールが様々な葛藤の末に送られてきたことを、あいつは知るのだ。 もし、あいつに届かなかったら、僕はあいつの幻をアドレス帳から消すだろう。そして、このメールに込められた想いは、誰にも知られないまま、どこかをさまよい続けるだろう。僕はまた、中学時代の記憶を、どこかに隠してしまうだろう。 震える手で送信ボタンを押してからの数秒は、時空が歪んでいるように感じた。間違いなく、世界で一番長い数秒だった。腕時計の秒針は、すっかり止まってしまったようだった。 息が詰まるような三分間、僕は携帯を見つめ続けた。その間、一通もメールは届かなかった。あいつからも、送信不可を知らせるメールも。そして僕は微動だにしない携帯によって、あのメールがあいつに届いたことを知った。それを実感しはじめると、不意に、思い切り笑い飛ばしたいような衝動に駆られた。 あいつもまた、中学を卒業していったあの日から、アドレスを変えていなかったのだ。僕もあいつも、自分の方からは絶対にメールを送らないことで、誰よりもお互いを意識していたのだ。荒野の溝のぎりぎりの位置に立ちながら、ふたりとも動こうともせず、お互いを見つめ続けていたのだ。 あの時のことなんか、もう誰も覚えていないだろうに! いつか、もし、あいつに会うことがあったらケンカの理由を聞いてみよう。きっとあいつも覚えていないけれど、それだって構わない。「んなこと、シラねえよ」とあいつは笑いながら言うだろう。それをきっかけに、また話が続いていくだろう。 とうとう雨が降ってきた。電車の窓硝子に鋭い雨跡を残していく。線路沿いの道々で色とりどりの傘が開いていく。水たまりが増えていく。暗い空の下で、街並みが白くおぼろげに霞んでいく。 ふたりがいる荒野にも、雨が降り始めた気がした。 |
◎紙面特集を読む
◎青春賞受賞作を読む
◎青春賞佳作を読む
◎選考結果詳細を読む
◎受賞作発表を読む




ホーム