2012年 織田作之助賞 青春賞佳作作品

青春賞佳作作品

「アイランド2012」 未来谷 今芥 (みらたに いまぁく)

     引き潮

 この島には、港以外に明るい場所がない。港だって、一日三往復の定期船と地元の漁船が出入りするだけで、フェリーの待合所はバラックの掘っ立て小屋だし、三十本ばかりある常夜灯と、防波堤の突端にある小さな灯台、そして製氷工場の明かり......それくらいしかない。
 島といっても、本土からは僅かに数キロしか離れていない。昔は半島だったのだが、近年の温暖化の影響とやらで、本土とつながっていた土地が海に沈んでしまい、島になったという。島の反対側には険しい山ばかりがあり、道はつながっていない。いつかはトンネルを掘って大きな道路を、と大人は言うが、何年も前から話が出るだけ、着工の話はとんと聞かない。珍しい観光スポットなど何もないし、尋ねてくるのは釣り人や、海目当ての夏休み期間の観光客ばかりだ。
 小・中学校は山手のほうにある。生徒はみな合わせても三十人足らずで、高校生になれば皆が島を出てゆく。皆が本土の学生寮に入って、大学を卒業するまではここには帰らない。いや、卒業してもほとんどのやつが帰ってこない。街の暮らしのほうがいいに決まっている。何人かだけが島に残って稼業(漁師)を継ぐが、その数も年々減っている。誰もやりたがらないからだ、とおれは思っている。
 港内の渡船発着所の辺り、ここが一番水深がある。フェリー(というにはあまりにもお粗末でちんけだが)が潮の満ち引きに関係なく出入りでき、毎日スクリューで底砂を巻き上げるからだ。だから、発着所の前の水銀灯の下が一番のイカ釣りスポットになっている。しかしたまにやってくる釣り人はそのことに気が付きもせず、重い荷物を背負って長い防波堤の先まで歩いて行くか、漁船を雇って半島の沖側に瀬渡ししてもらっている。ご苦労なことだ。
 水銀灯の下にはフェリーのロープを留める大きな金具があり、そこに腰かけたまま魚釣りができる。もっとも、島の人間は殆どは釣りなどしない。仕事で散々魚を追いかけ回しているから、家に帰ってまで『慰み(島では竿を使って魚を取ることをそういう)』などしたくもないのだ。だからもっぱら、ここらはおれたち小中学生の遊び場となっている。夕食が終わる頃になると、誰や彼やと現れては夕涼みしている。釣り竿を担いでくる者、そぞろ歩きする者、犬の散歩を仰せつかった者。何しろ明るいのは港周りだけだ、他に行き場がないから仕方ない。
 波止場の端の方、最も暗い水銀灯の下には夕方から毎夜釣竿を出すおっさんがいて、大抵のやつはおっさんの手ほどきで慰みを覚えた。おっさんは発着所の前の一級ポイントには決して現れず、なぜかあまり釣れそうもない端に陣取っている。が通りすがりの初心者や小さな子供にはいちいち声をかけて仕掛けをチェックしてやり、釣り方を教え、自分の釣果を分けてやっていることもある。そして必ずこういうのだ。
「あそこの発着所の前、一番明るい水銀灯の下で釣りなさい。あそこなら、まず一匹は釣れるから」
 教えられた通りに夜中まで頑張れば、アオリイカかヤリイカ、運が良ければとても大きなモンゴウイカが釣れる。喜んで報告に行くと、おっさんはにこにこ笑いながら、
「ほら、言った通りだったろう、よかったなあ。二、三日あそこで頑張って腕を磨いたら、あとは自分でポイントを開発しなさい。あそこは初心者やこども、釣りにやってきたお客さんが全然釣れなかった時のために、空けておいてやるんだよ。」
 おっさんは、元はとても腕のいい漁師だったらしい。しかし事故で両足を無くしてからは車椅子で生活している。車椅子を波止の淵ぎりぎりまで近付け、巧みに竿を操ってはかかった魚やイカを反対の手に持つタモで上手に掬う。誰が名付けるでもなく、おれたち中学生の間では〈イカ釣り師匠〉と呼ばれている。
 師匠は仕事をしていない。親戚の家に厄介になりながら港の清掃を......車椅子を器用に走らせ、空き缶やたばこの吸い殻などを拾い集めている。でもそれも収入源ではないらしい。いつか師匠は言っていた。
「俺はずっと海に食わせてもらってきたからな。今だって、海の近くに住んでるってだけで、三度の飯にありつける。大事な海だから、これは当然の恩返しなんだよ。」
 おれたちは師匠が大好きだが、師匠に大人たちがあまりいい顔をしないのも、おれたちは知っている。若いころは相当な不良だった、チンピラヤクザの真似をしていた、シャブを売っていた......なんて噂も流れているが、本当のことは誰も知らない。すごく老けているからもう年寄りかと思っていたが、まだ五十歳にもなっていないらしい。
 ある日、ゴミ拾い中の師匠に出くわした。師匠はひどくまじめな顔で海のほうを見つめながら、
「海もずいぶん変わっちまった。昔はこの辺りの水底にはアマモが茂ってて、それは素晴らしいイカの産卵場所だった。けれど最近じゃあ、目立つのはゴミと砂とゴロタイシだけだ。誰のせいっていうんでもないだろうけど、このままだと何だか、とても怖いことが起こりそうな気がしてならんよ。」
 と寂しそうに笑った。つられて海を覗くと、最大干潮を迎えた港内は底が見えていた。確かに海藻はほとんど生えていない。代わりにドラム缶やオートバイが......一体誰があんなものを沈めたんだろう、こんな小さな島なのに......師匠はその辺にあった空き缶を拾って、車椅子にくくりつけたゴミ袋にゴミを入れつつ、
 「今がそこり、というんだ。最大干潮の潮どまりだ。英語ではEBBTIDEっていうのさ。」
 と、力なく笑った。おれも仕方なく笑った。
 夏祭りまであと二十日余り。
 シンちゃんが帰ってくるらしい。

     めまい

 島に一軒だけある飲食店は眺海亭という。店主兼マダム兼ホステス兼店員のヤシオばあさんがいて、昼間は喫茶店兼軽食、夕方からパブになる。喫茶店もパブも、ばばあがそうだと言い張るだけで、おれたちからすれば食堂に角打ちコーナーがついてるだけのお粗末な場所だ。それでも、昼飯の準備ができてない時や小遣いに余裕が少しある時に足を運べば、たこ焼きでもオムライスでもかつ丼でもばばあがちゃちゃっと作ってくれるから、気に入ってはいる。
 客はまずいない。時化が続いて漁師が沖に出られない時などは、店から光が漏れて歌声が聞こえることもある。だけど大抵は看板の明かりすら消えている。看板こそ消えているが休みというわけではなく、たまに泊りがけで来た釣り人なんかがふらっと訪れては、店の重い扉をノックする。すると店内に電気がつき、寝間着にエプロン姿のばあさんが大慌てで飛び出してくるのだ。ばあさんは、滅多にない現金収入は逃さない。
 ばあさんは、派手に染めた長い髪を後ろでぐるぐる巻きにして、いつもきつめの化粧をしている。遠くから見るとまるで鬼婆だし、漁港にふさわしくない香水の匂いもぷんぷんするので、おれはばあさんのことはあまり好きじゃない。好きじゃないという気持ちは、相手に伝えなくたって伝わるものらしい。ばあさんもおれのことは何となく好きじゃないみたいで、おれがたまに店に行っても、いい扱いを受けた試しがない。友人たちからは、焼きそばを頼んでおまけにコーラを飲ませてもらったとか、たこ焼きを一皿買いに行って二皿もらったなどと気前のいい話を聞くのに、おれ相手だといつも愛想なしだ。そう思ってみるから余計によくないのかもしれないが、薄暗いカウンターの向こうにいるヤシオばばあは、やっぱり人でも取って食いそうな恐ろしいばばあで、おれは苦手だ。
 親父たちの噂だと、ああ見えても昔は『島小町』なんて呼ばれたそれはもういい女で、ばあさん目当ての恋の鞘当て騒ぎが幾度となくあったり、元々は対岸の大きな漁港の網元の娘として何不自由なく生活していたばあさんは都会の短大に行ったとか、結婚したけどすぐ離婚したとか、街にはその子供がいるとか......皆色々言うけど、結局とりとめがない。
 狭い島に住んでいるのに、おれはヤシオばばあが外に出ているのを殆ど見たことがない。夜中にうろうろしているという話も聞かないし、一体どういう人なのか、この前まではまるで分からなかった。
 先日、最終フェリーが港に入り、何人かがぞろぞろ降りてきた。殆どが島の外に用事で出ているやつらで、他には何人かの釣り人がいた。その中で燦然と輝き、しゃなりしゃなりと歩く綺麗な女性がいた。すらっと背が高く、踵の高いしゃれたサンダルを履いている。短めの薄いスカートが潮風になびき、背中まである髪がつやつやと光っていた。思わず見とれていたおれだったが、突然の風に目深にかぶっていた女性の鍔広帽が飛ばされ、おれの足元に落ちた。拾ってその人の所に駆けつければ、テレビに出ているようなすごい美人だったので驚いた。が、声を聞いて更にびっくりした。
「おや、ありがとうよアキヒロ。お前は勉強もしないで毎日毎日波止場で遊んで、のんきなもんだね。この間の焼きそばのツケの分、まだ持ってきてないだろ。母ちゃんに言って早く持ってきな」
 なんと、ヤシオばばあの化け姿だった。
 今はすっかりボケたけど、爺さんがよく
「女は魔物だ、化物だ。見た目だけじゃあ女はわからねぇ」
 と言っていたのが何となく分かった。どっちが本物のヤシオばあさんなのかは、おれに分からない。
 ヤシオばあさんはシンちゃんのレコ(夫婦未満恋人以上をそういうらしい)で、今でも体のどこかに、シンちゃんと二人で二世を誓った印に、小さな龍の彫り物があるって話だ。わざわざ島を離れて、たぶん町の美容院やエステなんかに行ったんじゃないか、とおれは推理している。
 夏祭りまであと十日余り。風が変わり、夕凪の後の夜風が吹かなくなってきた。盛夏も近い。
 シンちゃんが帰ってくるらしい。二十年ぶりに。

     夕凪

 島の中学生は、受験生の四人を合わせても十二人しかいない。そのうち女が五人だから、残りの男全員で分担して、夏祭りの準備をしなくてはならない。
 おれたちの島の夏祭りは少々荒っぽい。港の横の広場に小さなやぐらを立てて太鼓を持ち込み、その周りを女たちが一晩中踊る。祖先の霊魂や海で死んだ人の慰霊をするためだ。どこの町の盆踊りともあまり変わらないと思う。変わっているのは、その踊りの合間合間に舟神輿が練り動くことだ。神輿とはいえ、昔廃船になった伝馬船にちょっと手を加えたシンプルなもので、担ぎ棒を六本ばかり取り付け、島中の男がふんどし一枚の姿でそれを担いで練り動き、毎年十人ほど選ばれる当番(神様の代理人のことを当番という。どういう決め方なのかはよくわからない)が練り動く舟神輿の上によじ登り、舵にしっかりしがみつき、振り落とされないようにしているのだ。舵は舟にしっかり固定してあるので握ってさえいれば落ちることはないらしいが、担ぎ手はそれを落とそうと躍起になり、神輿をうねらせる。当番同士も何とか自分が舵を最後まで取り続けようと、揺れる舟神輿の上で舵の取り合いをする。もう勇壮なんてもんじゃなくて、まるで修羅場の喧嘩騒ぎだ。殺し合いをしてるんじゃないかと思うくらい激しく、まだ一人も死人が出ていないのが不思議なほど荒っぽい漁師の祭りだが、島の皆はそれをとても楽しみにしている。
 そして今年の当番の一人に、とうとうおれも選ばれた。島では十五歳からは立派な男だ。昔ならとっくに漁師になっているはずだし、今だって本人が望めば漁師デビュー(といっても飯炊きくらいのものだが)できる。当番に選ばれたと聞かされた時、あまりの名誉に体が震えた。この夏は忙しい。高校には行く予定だから受験勉強もしなくちゃならない。夜の波止場散策も日課だからやめたくない。ヤシオばあさんが美人なのか山姥なのか、真実を確かめるためにも眺海亭に時々顔を出さなくてはならない。加えて祭りのやぐら組みや舟神輿の修繕やお浄め......こんなに忙しい夏は生まれて初めてだ。
 しかも、おれがこの島でもっとも嫌いな二つ上の三太......今年の当番にはやつも選ばれたらしい。やつには小学生、いやその前から散々煮え湯を飲まされてきた。随分と殴られたし、大切なおもちゃを奪われ、海で溺れかけさせられたことだってある。都会の高校にでも行って、いなくなってくれれば気が楽だったが、勉強ができない暴れ者の三太は、迷うことなく中卒で漁師デビューした。そうじゃなくても小さなゴリラのようだった三太は、荒海に鍛えられ、今では立派なゴリラだ。何年か後には漁港を担う親分になるだろうともっぱらの噂だが、そうなる前にきっちりとケリだけは着けておきたい。おれは高校を出て、大学なり専門学校なりに行って、その先はこれから決めるつもりだ。もしかしたらサラリーマンになって、陸の暮らしを選ぶかもしれない。あるいはこの海恋しさに戻ってきて、漁師になるのかもしれない。どちらにしてもその前に、けじめだけは着けておかないといけない。何故ならこのままではおれは、「島で二番の男」という不名誉な記憶として、皆の記憶に刻まれそうな気がするからだ。この機会を逃せば二度とチャンスは巡ってこないだろう。この夏の当番でこそ決着を......やつを舟神輿から叩き落とし、どちらが本物の海の男なのかを分からせてやりたいのだ。
 シンちゃんは伝説の当番といわれている。二年続けて当番になって舟神輿に上がったのだが、ただの一度も舵から手を放すことなく、群がってかかってくる他の当番を一晩中地面に叩き落とし続けた。祭りは大盛り上がりを見せ、秋にはヒラマサとタイ、ヒラメが大漁だった。それでほとんどの家にテレビと風呂がついたんだというが......
 シンちゃんが、シンちゃんが、伝説のシンちゃんが、とうとう島に帰ってくる。
 夏祭りまであと一週間。

     土用波

 島には一軒だけ民宿がある。町のホテルや温泉宿のような施設ではなく、港から少し離れた高台にある木造平屋建て、敷地ばかりがただ広い、まるで掘っ建て小屋だ。ここはあらかじめ予約があった時だけ開館する。少し前までは大きな会社の慰安旅行や大学の運動部合宿などに利用されていたが、最近では夏のほんの数日しか開いていない。オーナーは対岸で飲み屋をやっている夫婦で、予約があった時だけ島に渡ってくる。大慌てで掃除をし、仲居や下働きを島で急募する。温泉なんかあるはずもなく、風呂は海水を使った塩っぽいものだという。それでもどこでどう騙されるのか、夏休み頃になると一組、二組と団体がやってきては大騒ぎし、何事もなかったように帰っていく。
 そして今年もやっぱりやってきた。T大学ラクビー部御一行様だ。いかめしい筋肉男三十数名を乗せた渡船を、島民総出で出迎えて(勿論雇われて仕方なくだ)、宿にお送りする。島にはグラウンドはおろか、運動施設などまるでない。それでも野郎どもはわずかに開けたゴロタイシ交じりの砂浜を、汗水たらして走り回り、海に飛び込んだりしては楽しんでいた。しかし一日で飽きてしまったのか、翌日からは昼間っから宴会を始めていた。島の大人の男たちは昼間は漁に出ている。残った年寄りと女子供だけでは、酔い乱れて暴れまくる体育会系の若者にはとても敵わず、まるで台風が通り過ぎるのを待つように各々家にこもり、禍神(まがつがみ)の酒宴が終わるのをただじっと待つばかりだ。本当はこんなやつらになんて来てほしくない。これが島民全体の本音なのだろうが、それでも島には外貨ってものが必要だから、皆我慢している。
 大抵の場合トラブルにはならないのだが、それでも時々は酔っぱらった学生に島の施設を壊されたり、ちょっとした喧嘩沙汰が起こったり......トラブルは常にギリギリのところに潜んでいた。
 そして運の悪いことに、よりにもよって今年のこの夏、それは起こった。
 おれには同級生が五人いる。そのうち女子は二人で、一つ上に一人、一つ下には四人いる。その女子たちが夏祭りの踊りの練習を終えて島の集会場から帰ろうとした時に、酔ってふらふらと散歩している、強暴そうな五、六人の男たちと出くわしてしまった。あとは想像に難くない、お決まりのトラブルだ。無理やり誘う酔った男たち、それを嫌って振りほどこうとする女子たち。大声、下卑た笑い声、悲鳴が静かな島の午後の港に響き渡った。聞こえてしまった以上は放っておけないのが、島の男だ。おれは珍しく家で数学の宿題をしていたのだが、取るものも取りあえず、上半身裸の短パン姿のまま、裸足で飛び出し駆けつけた。既に五人ほどの年寄りや同年代の男が集まって、酔っぱらいのラクビー野郎を諌めようとしていた。しかしやり方がよくないのか、諌めようとすればするほど逆効果で、かなり酩酊している男たちは大声を上げて暴れ、また、島という隔離された場所にいるという変な安心感からか、どうにかして女子をモノにしようとますます興奮しているようだ。
 その姿を目にした時、おれのボケてしまった爺さんが言っていたことを思い出した。大昔、嵐のように海賊が現れ島に上陸しては、奪い、犯し、様々なものを叩き潰してはまた海に消えていったんだと......。理屈なんかじゃない、こんなまるで海賊みたいなやつらに、おれたちの島の草一本好き勝手にさせてはならない。大人の男がいない今、おれたちが島を守らないで誰が守るんだ。
 おれはそこいらに放り出されていた、太さ十センチほどの枯れ竹(筏なんかに使うやつだ)を掴むと、最も傍若無人に振舞っていた男(こいつはおれが密かに憧れていたヒサミに抱き着き、浴衣の襟口から無理やり手を突っ込んでいた)の背中に、思いっきり叩き付けてやった。
 ......何ということだ。男は一瞬顔をしかめたが、ヒサミから手を放しておれのほうを振り向き、ものすごいスピードでおれに向かってきた。
 覚えているのはそこまでだ。気付くとおれはヒサミの家の玄関先に寝かされていた。後から聞いたが、おれはやつらにボコボコに殴られ、見せ場もいいところもないままやっつけられ放題だったという。機転を利かせた弟の哲司が漁協の無線でみんなを呼び寄せたことと、本土の警察署から警邏に来ていた二名の巡査が間髪入れずに駆けつけてくれたことで、騒ぎは収まったらしい。いくら泥酔しているとはいえ、制服を着ている警察官の姿を目にした大学生どもはすっかり酔いが醒め、今はすっかり反省しているらしい。今度、学校ややつらの父兄を通してかなりの示談金や島への寄付金が送られるとのことで、結局やつらの罪はうやむやに揉み消された。おれは殴られ損ってわけだ。
 おれが殴られたことは別にどうでもいい。おれの力が足りなかった、それだけのことだ。ただ、ショックなことが一つある。それは同級生のヒサミ......子どものころからずっと好きで、いつかは恋人、できれば夫婦になってずっと一緒にいられたらいいなと思っていたヒサミが、よりにもよって三太と許嫁の約束をしているというのだ。それだけでも相当なショックだったのに、漁を終えて駆けつけた三太の野郎、殴られ腫れ上がったおれの顔を冷ややかに見て、
 「あーあ、島を守ってるやつらがこんなふうじゃあ、安心して漁もできやしねぇよ。この島もそろそろ終わりがちけぇなあ」
 とほざきやがったのだ。おれは、あまりの悔しさと惨めさに少しだけ体が震えたが、立ち上がって三太に掴みかかっていく体力すら残っていなかった。あと五日で夏祭りだというのに、何という体たらくだ。こんなことで、当番として舵を守り切れるのか......おれはすっかり意気消沈した。
 三十年以上も前に同じような事件が起こった時には、当時おれと同い年だったシンちゃんが十五人を相手にたった一人で大立ち回りを演じ、十人を防波堤から外海に叩き落とし、そのうち溺れた四人を一人で救助したという伝説が残っている。ヤシオばばあは時々(といっても二年に一回ほどだが)、
「お前は真の字に少し似ている。まかり間違ったらいい男になるかもしれないねぇ」
 と言ってくれたのに、蓋を開けたらこのザマだ。大違いじゃないか。がっかりだ、自分自身にがっかりする。何もかもが嫌になっちまう。
 シンちゃんなら、こんな時どうすんだろう
 シンちゃんが、シンちゃんが、もうすぐシンちゃんが帰ってくる。おれは、どんな顔をしてシンちゃんに会えばいいんだろう。

     夕立、大雨、竜巻、嵐の予感

 祭りの準備はほぼ終わった。おれは体の節々が痛み、顔は岩石のように腫れ上がっていたが、それでも平気な顔をして作業を急いだ。夕方はいつものように波止場に出かけ、イカ釣りをする仲間たちに声をかけたり、師匠の昔語りを聞いたり、踊りの練習から帰る女子たちをそっと見送ったりしていた。ヒサミの顔を見るのは辛い。どうしてこんなに可愛い子が、あんなゴリラみたいなやつの婚約者なのか......まったくもって納得いかないが、どこに文句を言っていいのか分からないし、そもそもおれはヒサミとは小学二年生の時以来、口をきいたことすらないのだ。つべこべ言える筋合いじゃないと分かっているだけに、余計に苦しい。おれにもっと力があれば、せめて溢れるくらいの財力があれば、ヒサミのことを掻っ攫い、港で一番でっかい海王丸をかっぱらって、沖に沖に、どこまでも逃げ延びてやるのに......そんな下らない妄想をしては一人で悶え、忙しさの中に哀愁を漂わせながらも何とかやっている。
 いよいよ祭りも近づいてきて、渡船から降りる乗客の数が増えてきた。殆どは島の出身者や親類縁者で、他には何かのはずみで一度祭りに参加し、すっかり虜になっちまった人たちもいるが......待てど暮らせど、シンちゃんの姿はない。今日は到着するんじゃないか、次の便にこそ搭乗しているんじゃないか、と噂は絶えないが、シンちゃんの姿はない。
 おれは、シンちゃんの姿が見えない理由を知っている。が、それを知った経緯を、おれはあまり言いたくない。しかし、これを言わなければ、おれは当番としての務めを全うすることができない気がしているのも事実だ。だから、思い切って告白する。
 三日前、小腹が減ったおれは、眺海亭におやつを食いに行った。このところ夏祭りの準備と学校の宿題で無駄遣い(自販機でジュースを買うか、店に一軒だけある何でも屋で少年雑誌でも買うか、眺海亭でおやつをたべるくらいしかないのだが)をしていなかったから手元に金があったので、お好み焼きと焼きそばでも焼いてもらおうと思っていたのだ。いつも通りに眺海亭の重い木の扉を開ける。やっぱりいつも通りに店内は薄暗く、人の気配もなかったが、そこは慣れたもので、おれは
「お好み焼きと焼きそば!」
 とだけ言うと、勝手にウォータージャグから冷たい水をコップに注ぎ、二杯くらい立て続けに飲んでから、ガタガタいうテーブル席に腰かけた。いつもならこの辺で、
 「なんだい騒々しいねぇ。もう少し静かにドアの開け閉めってもんができないのかい」
 とか憎まれ口を叩きながら、ヤシオばばあが顔を出すのだが、その日に限って物音一つしなかった。もしかしたらばばあが倒れているのかも知れない......そう思ったおれはかまちから住居のほうへ顔を突き出し、息を飲むほど驚いた。
 そこには見慣れた車椅子が......小さな窓から差し込む真夏の光の下、妙に荘厳な顔をしたおっさんが......イカ師匠が座っていた。そしてそのすぐ下にはヤシオばばあが、和服のまま布団も敷かず、畳の上に仰向けになっていた。ばばあのいつもの巻いた髪は綺麗にほどけ、畳の上に広がっている。薄く淡い化粧をしたばばあの顔はまるで少女のようにはにかみ、着物は完全にはだけ、白く美しく形のいい胸と、黒い影で覆われた陰部が露わになっていた。ばばあの両手はそれぞれの部分にそっと添えられ、二人がどういう関係なのか、今まさに何をしていたのか、さすがのおれにもすぐに分かっってしまった。
「あっ......す、すいません、おれ帰ります!」
 叫ぶようにして店の外へ飛び出そうとしたおれに、師匠は振り向き、
「いいから、上がっておいで。見てしまった以上は、責任を取らなくっちゃいけない。それが男ってもんだろう、違うか? ご覧のとおり、俺はこんな体で、こいつに何ひとつしてやれないのさ。だけど、可哀想じゃないか。だから俺は時々、こうしてじいっと、見てやっているのさ。」
 そういって、笑顔でおれを手招きした。その迫力というか、吸引力に抗うこともできず、おれはふらふらと上り込んだ。
 そして二人に言われるままに行動し、その日、おれは男になった。何だかすごく淫らで変質的なことをしたのだという苦い後悔と同時に、これはこれでいいんだ、形はどうであれおれたちの間には、何か分かち合うもの......感じあえるものがあったのだ、という気もした。
 ヤシオばばあ、ってみんなが呼んでいるからおれも当然のように呼んでいたが、実はまだ四十を過ぎたばかりだという。島の女たちと違い殆ど日光に当たらない肌は、陶磁器のように白く美しかった。そんなことだけを、かすかに覚えている。
「......二度目はないんだ。男なら、このことを胸にしまって、絶対に喋ったりしちゃだめだ。いいね。もし誰かに喋ったりしたら、俺はお前を絶対に許さない。お前は今日、俺の代わりにいい仕事をしてくれたが、それでもお前は、俺の代わりにはなれない。俺は、俺の女をお前みたいなガキに渡す気は更々ない。」
 厳しい声でそう宣言された。ヤシオばばあは妙に諦めたような、それでいて今まで見たこともないような優しい顔で、
 「あんた、ヒサミのことが好きなんだろ。みんな知ってる。あの娘の婚約は、親同士が決めたものさ。紙に書いた餅みたいなものだ。破るか破らないかは、あんた次第さ」
 そう言って、微笑(わら)った。
 ヤシオばばあの部屋の片隅には、白木の箱と骨壺が無造作に置かれた、小さな仏壇があった。これが伝説のシンちゃんだという。シンちゃんは立派な不良で、立派な海の男で、腕っぷしも強く、魚を獲るのも上手で、女にも男にもモテて......でも、今や島の伝説となっているシンちゃんは、とっくの昔に死んでしまっていた。シンちゃんのおっかけをして、十五でシンちゃんのオンナになったのがヤシオばばあだ。そして、シンちゃんと一緒の船に乗り、皆が嫌がる荒海での素潜り漁中に事故で両足を失ったのがイカ師匠だという。シンちゃんは、若い頃の無理と十代の頃に町で覚えたヤクのせいで、四十代になった頃にはほぼ廃人と化し、対岸にある町はずれの隔離病棟で、小さくなって死んでしまったという。それを、その人柄を懐かしむ海の人々が伝説として語り継いできたんだ、と......だからいくら待っても、シンちゃんがこの島に帰って来ることなんてない。それでも夏が来るたびに島民はこぞって、シンちゃんが帰ってくる、シンちゃんが帰ってくる、と言って懐かしんでいるんだ......そう教えられた。おれは少しだけ大人になった気がした。
 それからおれは何もなかったような顔をして家に帰り、風呂場で何杯も水を浴びた。そして締め込みを巻き、法被をひっかけて、新品の地下足袋を履いた。
 いよいよだ。祭りが始まる。今夜、おれは三太を舟から叩き落とし、ヒサミをおれのものにする。
 そして舵棒をおれはしっかりと握り、暗い夏の夜の海に向かって、こう叫んでやる。

 シンちゃんは帰ってこない。シンちゃんは帰ってこないが、シンちゃんは、きっと帰ってくる。きっと。


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