2014年 織田作之助賞 青春賞受賞作品

青春賞受賞作品

「ジンジャーガム」 柳澤 大悟

 それは東北で震災のあった年の夏のことで、自分は十九才の大学二年生だった。たしか七月の初めだったので、毎度のことのように授業を休んでの旅行だったのだろう。
 日差しが眩しく目の前を照らしていた。駅まで続く、まっすぐな道。左右はどこまでも巨大な果樹園で、さくらんぼの木が何千、何万本と規則正しく植わっていた。七月の初めは、自由気ままな一人旅には素晴らしい期間だ。衣服は冬に比べて軽く済むし、野宿をしても風邪をひかない。梅雨が明けてしまってからだと、歩くのには暑すぎる。初夏の曇りのない気分の中、自分は山梨の小さな町を歩いていた。時折、盆地の表面を撫でるような乾いた風が吹いていた。木々の背丈は低く、球状に伸びていく青空が遠くまで見渡せた。
 ようやく駅の姿がはっきりと目で捉えられたところで、すぐさま違和感のある光景が広がった。そこは果樹園の真ん中にある田舎の小さな駅だ。それなのに、改札の前の駐車場に数台の黒いワゴン車が密集して止まっている。鈍い灰色をした小型のバスも見える。どことなく異様な光景だったから、自分は注意してそれらを観察した。ナンバープレートは、すべて「品川」だった。
 黒光りする車列の脇を抜けて、改札で適当に切符を買った。ほぼ二日間ろくに眠っていなかったので、引き続いて徒歩の旅行を続けるには体力の限界だったのだ。自分は若い男の駅員に切符を見せると、そのまま上りのプラットホームで電車を待つことにした。特に目的地があったわけではないし、わざわざ陸橋を渡って向かいのホームに移る理由もない。かなり久しぶりに屋内に入ったせいで視界がひどく暗かった。自分は目の前を手探りで這い進むように、光の満ち溢れるプラットホームへと抜け出た。
 そして、すぐに駐車場をぎっしりと埋めていたワゴン車の理由が分かった。向かい側のホームで、かなり規模の大きい写真撮影が行われていたのだ。
 最初は、映画かテレビドラマの撮影だと思った。照明を反射させる銀色のボードが数枚掲げられ、その中心には被写体らしき可憐な女の子がいる。彼女は突っ立ったまま目を閉じて、為されるがままにファンデーションを塗りたくられていた。ホーム上に混み合うメイクの担当者に、汗まみれの照明係。さらには手持無沙汰に立ちすくんでいる関係者らしき人間たち。全部で、十五人ほどだろうか。ただし、動画用の撮影機材と音声用のマイクがないので写真だけだとすぐに分かった。撮影の合間らしく、カメラは日陰のベンチの上に置かれている。
 可憐な女の子。たしかに、彼女は目を惹くほどの美しさだった。ほっそりと痩せていて、髪は黒く長い。淡い紫色のワンピースを着て、なぜだか自分と同じように大きなバックパックを背負っている。おそらく、そういう衣装なのだろう。年齢は自分と同じくらいか、あるいは二つほど年下にも見えた。
 自分はホームの半ばに置かれた日陰のベンチに座り、向かいの撮影現場を眺めることにした。他にすることもない。靴の紐を弛めて、背もたれに仰け反るようにして座った。体中に溜まっていた二日分の疲れが、電化製品のアースから流れ出る静電気のように足裏からコンクリートへと逃げていった。
 それから五分間ほど、自分は放心しながら目の前の光景を見つめ続けた。心地のよい日陰から日向の眩しい中で働いている人たちを見ていると、ふいに罪悪感さえ覚えてしまう。照明機具を抱えた男性たちは大粒の汗を額に浮かべている。一眼レフを持った女性が地面に片膝をついて、何度も入念に試し撮りをしている。ただ、黒髪の女の子は水色の日傘の下でメイク担当の若い女性と愉し気に談笑をしていた。どうやら撮影はまだ始まらないらしい。自分には彼らの段取りがまるで理解できなかった。さっさと撮影すればいいのに、と焦らされた気分になってしまう。
 と、そのとき、二つのプラットホームを繋ぐ階段から痩せた若い男性が降りてきた。撮影の関係者のうちの一人だ。自分は少しだけ身構えながら、その男を見つめた。そして次の瞬間に、どんな表情をすればいいのか迷ってしまった。向こうの方は、ひと目で笑みだと分かるような、はっきりとした笑みを浮かべている。まっすぐにこちらを見ながら、迷わずこちらへと向かって来る。自分が身の振り方に戸惑っている間に、男は小さく頭を下げて会釈をくれた。自分も出来るだけ愛想よく微笑んで、それに返した。男は目の前を通り過ぎると、一 人分の間を空けて自分の隣に無言で腰を下ろした。ベンチの重心が移動するのが確かに感じられた。
「大学生?」
 と、男が口を開いた。
「はい」と自分は乾いた声で答えた。
 男からはミント系の香水の匂いがした。自分の警戒心は少しだけ弛んだ。男の年齢は三十才を少し過ぎたくらい。色の濃いジーンズに、細かいドット柄のオクスフォードシャツを着ていた。腕まくりをして、白い肌を剥き出しにしている。
 そっか、そっか。と男は相変わらずの笑顔でうなずいて、さらに続けた。
「あのさ、もし違ってたら悪いんだけど、君はバックパッカーじゃない?」
「そうです」と自分は答えた。「たぶん、そうだと思う」
「やっぱり。その顔つきが、さすらいの旅人だよ。疲れきった表情のなかに、精悍さが滲み出てる。君はかっこいいね」
 それは、どうも。と自分は照れながら笑った。本当に照れくさい。
「彼女もそうなんだ。君と同じで、大学生のバックパッカー」
「へ?」
「そういう設定なんだよ。リュックサックひとつで気ままに旅をしている女の子。広告用の写真なんだ、地下鉄の車両とかに貼る」
 向かいのホームで談笑している黒髪の女の子に目をやった。自分は何度も旅をしていて、彼女のように可愛いらしい旅人に出会ったことがない。きっと、運が悪いのだろう。
「何の広告ですか?」と自分は尋ねた。
 新発売のガム。と、すぐに回答が来た。「俺は商品開発部なんだ。ガムの担当。実をいうと、今日みたいな広告撮影にはあんまり必要ないんだよね。向こうにいるのはウチの会社の宣伝部と、あいつらが依頼した広告業者だけ。だけど、まあ、俺が開発に直接関わった商品だからさ、こうしてわざわざ見学に来てる訳よ」
「なるほど」と自分は答えた。社会人は大変そうだ。
「君は今、ガムは持ってる?」
 いいえ、と自分は低い声で否定をした。そして、無言でバックパックの外ポケットからタブレット型の清涼菓子を取り出した。バスの酔い止めになるので、清涼感の強いタブレットを愛用していたのだ。それを見た男はやるせない表情を浮かべて、何度か大きくうなずいた。
「分かるよ。ガムは落ち目なんだ。君の持ってるタブレット型のやつに、押されに押されまくってる。まあ、納得できるよね。ガムは捨てる手間もあるし、目上の人の前で噛んでると印象が悪い。それに比べると、タブレットは便利だよ。勝手に溶けてなくなってくれるんだから。会社の会議でも、大学の授業でも、好きな女の子との初めてのデートでも、とりあえずは口の中に入れておける。だけど、ガムは駄目だ。どうしてもね」
 しばしの沈黙。こちらの日陰は、どことなく暗い雰囲気になった。向かいのプラットホームは相変わらず賑やかに混み合っていて、撮影はまだ始まりそうにない。
「何ていう会社ですか?」と自分は冷たい沈黙を破った。
 男は会社名を教えてくれた。自分でも聞いたことのある比較的に有名な菓子メーカーだった。おそらく、その会社のチョコレートは食べたことがある。自分は男にそう伝えた。
「どうだった? そのチョコレート」と男が素っ気ない調子で言った。
「美味しかったと思います」と、自分は微笑んで答えた。「もしも美味しくなかったら、きっと記憶してると思うから。僕は甘いものはチョコしか食べないんで、ハズレのものは忘れない」
 そっか、と男も微笑んでくれた。「やっぱり、ガムは淋しいね。『ギブミー、チョコレート』とは叫んでも、『ギブミー、ガム』とは誰も言わなかっただろうしさ。今年の三月の震災も、食料支援でぎりぎりまで迷ったんだ。結局は被災地まで送ることにしたけどね」
「何を迷ったんですか?」と自分は聞いた。
 男は少しだけ間を置いた。そして、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「結構、リアルに想像して欲しいんだけどさ。例えば、君が震災で自分の家を失って避難所で生活していたとする。被災者の数は圧倒的に多く、慢性的に食料が不足していて、君はいつでも腹ペコだ。そんな時に、はるか遠くの街からシュガーレスのガムが箱いっぱいに送られてきたら、どんな気分になる?」
 自分は黙った。男の言わんとすることは理解できた。ガムとは、つくづく難しい存在だ。
 そして、そこまで会話をしたところで、向かいのホームの撮影班が小さな動きを見せた。黒髪の女の子が日陰のベンチに座ったのだ。彼女はマネージャーらしき女性から渡されたペットボトルの水を口に含む程度に飲んだ。彼女は丁度、自分の真正面にいた。膝上丈のワンピースの裾から、白くて細い脚がすらりと伸びていた。
「パンツが見えそうだ」と隣の男が小さく言った。
「ですね」と自分も小さく同意して、それとなく目を凝らした。だけど、見えそうで見えない。
「ここ何年間か、ティーン向けの女性ファッション誌でモデルをしてる。最近は映画やドラマに出演し始めたらしいけどね」
 相変わらずに蚊の鳴くような声で、男は言った。「十六才の高校二年生だって。どうして宣伝部のやつらが、彼女を選んだのかは知らないけどさ」
「写真の撮影はいつから始まるんですか?」
 ずいぶんと前から気になっていたことを、思い切って聞いてみた。
「分からないよ。正直に言うと、俺にはあの人たちの考えてることが、さっぱり分からないんだ。まあ、何かしらの都合があるんだろうね、彼らなりの」
 それから、しばしの無言の時間があった。自分は線路脇を吹き抜ける弱い風を感じながら、正面に見える山々の山裾の辺りを眺めていた。白いお皿のような雲が一枚、二枚と流れていく。向かいの撮影隊は相変わらず撮影をする気配がなく、黒髪の女の子は退屈そうにペットボトルの側面を指先で弾いていた。隣に座る商品開発部の男は、その間に何を見ていたのか分からない。ただ、男は唐突に沈黙を破った。
「なんか、賭けでもしない?」
「賭け?」と自分は思わず聞き返した。
「どっちのホームに、先に電車が来ると思う? こっちか、向こうか」
 自分は黙ってしまった。初対面の人間と賭け事をするなんて、なんだか物騒なことに思えたのだ。
 すると、男は力なく笑った。「まあ、あんまり難しく考えないで。暇つぶしの気楽な遊びだよ。ちなみに、俺は答えを知ってるんだ。撮影が他の乗客さんの邪魔にならないように、駅の時刻表は把握してなくちゃいけないからね。だから、君が好きな方に賭けたらいい。確率は、ぴったりの五割だ」
「僕が当てたら?」
「君の、真正面にいる女の子」
 男はふたたび声量を小さくして言った。「彼女に、君のことを紹介してあげるよ。バックパッカーの役作りの参考に、君を本物のバックパッカーとして紹介する。あの娘も退屈そうだし、撮影が始まるまで二人きりで話してればいい」
 自分は思わず彼女を見つめた。直後に、心臓が湿ったような重みをもって脈打ち始めた。自分は取り留めもない心のまま口を開く。
「写真だけなのに、役作りなんて無いでしょう?」
「あるさ。ていうか、それぐらいの熱意は彼女に持っていて欲しいな。こっちは高い広告料を払って、其処ら中に写真を載せてもらうんだし」
 自分は意識的に呼吸を深くした。あんなに可愛い女の子の前に立ったら、おそらく顔を真っ赤にして何も話せないだろう。でも、まあ、それでもいいのかもしれない。どうせ、彼女に会うのはこれが最後なのだから。
「どう?」と男は笑みを浮かべて言った。
 やります。と自分は短く答えた。「もし僕が負けたら、どうすればいいですか?」
「君は何か持ってる? 賭けの景品になるようなもの」
「賭けの景品・・・」と呟いたまま、しばらく考え込んでしまった。足元のバックパックには、旅行に必要なもの以外は何も入れていない。どれかひとつでも他人にあげると自分が困るし、貰った人も大して喜んではくれないだろう。仕方なく、自分は言った。
「何も持ってないです。財布に、ほんの少しの金なら入ってるけど」
「お金なんて駄目だよ」と男はおかしそうに笑った。「大学生から、そんなものは貰えない。モノマネか、一発ギャグでもやる?」
 あ、と自分は大きく声を上げた。とっておきのものを思い出したのだ。どうして今まで忘れていたんだろう、と自分は思った。急いで、バックパックの中に右手を突っ込んで探ってみる。
「何かあったの?」と、男は興味深げに手元を覗き込んできた。
 自分は苦心して、それを探り当てた。そして、バックパックの底の方から引っ張り出した。手のひらに収まるほどの小さな厚紙製の青い箱だ。自分は慎重に箱の蓋を開けた。白い綿がぎっしりと詰まっていて、その中心には蝶のサナギが置かれている。
「サナギ」と自分は簡単に言った。男は驚いて言葉を失ったまま、じっと箱の中身を見つめている。続けて、自分は話した。
「昨日、蝶の工場に寄ったんですよ。大きな温室の中で、何百匹っていう芋虫を飼ってるんです。本物の熱帯雨林みたいな空間に、何種類もの芋虫が放し飼いの状態で。やがて成長してサナギになった彼らは、作業員たちに回収されます。そして全国の動物園やテーマパークに箱詰めで出荷される。サナギになってから羽化するまで一週間から十日ほどです。どれも海外原産で、美しい蝶になります」
 へえ、と男は感心したように息を漏らした。「そんな商売があるんだな」
「僕も知りませんでした。温室の前を通りかかったときに、偶然、見学ツアーの看板が目に入ったんです。面白そうだったから参加することにしました。入園料は駄菓子並みに安かったし、参加者は僕だけしかいなかった。それでも係員のおじさんが温室や蝶のことを丁寧に説明してくれました。それで最後に、サナギもくれた」
「触ってもいい?」と男は言った。どうぞ、と自分は笑みを浮かべて答えた。男はそっと指を伸ばして、それを掴んだ。焦げ茶色の、大きなサナギだ。
「触れたよ、サナギは生まれて初めて触った。バッタとか、カブトムシとか、体の硬いやつらは大丈夫なんだけど、芋虫系は全般的に駄目なんだ。子供の頃から全く触れない。サナギは、ぎりぎりでセーフだな」
 男は少し興奮気味に喋ったあと、ふたたび白い綿の上にサナギを戻した。
「いいよ、賭けは成立。君が当てたら、俺はあの娘に君を紹介する。もしも君が負けたら、サナギは俺のもの。それでいいね?」
「はい」と自分は答える。まったく奇妙な賭けだ。
「で、どっちに賭ける?」
「こっちのホームに、先に電車が来ます。こっちに賭ける」
 自分は大した考えもなく言った。まあ、悩んでも意味がない。それに、負けて困ることなんて何もないのだ。
「こっちのホームだね。本当に、それでいい?」
「はい」と自分は強く答えた。遠くで山鳥が鳴いていた。
 直後に、男は微笑みを浮かべた。「残念だけど、君の負けだよ。次に電車が来るのは向こう側のホーム。時刻表の通りだと、これから七分ほどで来る」
 ああ、と自分は落胆の声を吐いた。そして眉間にしわを寄せて、わざとらしく顔を歪ませてみた。とても悔しいという表情。男は、にこやかに笑ってくれた。
「まあ、二択だからね。半分はハズレなんだ。君は、こんなくだらないことで運を使わなくてよかったよ。まあ、彼女に紹介してあげられなくて残念だけどさ」
「仕方ないです」
「うん、仕方がない。それがルールなんだから。さあ、これで君のサナギは俺のものだよ」
 自分は黙ったまま一度だけ大きくうなずいた。そして、サナギの入った箱を男の前に差し出した。男は注意深く指先で綿の中のそれを摘まみ、しげしげと眺め始めた。自分はその様子を見ながら、本当にこんなものを人様にあげていいのかな、と強く感じた。なんとも不思議な気分だ。「邪魔ものが引き取られて、いい厄介払いができた」とも思うし、「貴重なものを取られて、ひどく損をした」とも思う。
 そんな複雑な感情に包まれている最中に、男が絶妙に素敵な提案をしてくれた。
「もしよかったら、サナギをこの場所に置いていきたいんだけど、どう思う?」
 自分は思わず笑みを浮かべてしまった。そして、まあ当たり前だよな、と思った。やはり、サナギなんて貰っても扱いに困るのだ。
「駄目かな?」
 いいえ。と自分は静かに答えた。「それがいいと思いますよ。この場所で羽化すれば周りは自然に囲まれているし。それに、そのサナギはあなたのものだから、あなたの好きにして下さい。僕に気を遣わないで」
 すると男は体を捻じり、ベンチの背もたれに身を乗り出した。そしてプラットホームの屋根を支える鉄製の桟の角に、とても慎重な手先でサナギを立て掛けた。自分も注意深くそれを見守る。サナギは茶色く錆びついた鉄の色に、すっかりと同化していた。
「こんな所に置いて大丈夫かな、暑さで腐ったりしない?」
「ちゃんと羽化できると思います。暑さは心配いらないです。元々は熱帯の蝶だから、このくらいの気温が丁度いいと思う」
 そっか、そっか。と男はうなずいた。それから体を捻じり返すと、満足そうな顔で青空を見つめていた。そうして、二度目の無言の時間が自分たちに訪れた。およそ三分間ほど。今回も沈黙を破ったのは男の方だった。
ん、そうだ。男は素っ気ない声で口を開いた。「君にガムをあげるよ。封を切ってないのがあるからさ」
 そう言うと、男は胸元のポケットからパッケージ入りのガムを取り出して、自分にくれた。自分はお礼を言った。
「ジンジャーガム。珍しいでしょ? 生姜味のガムだよ。一粒が大きいから、噛みごたえも充分にある」
「撮影は、これの宣伝用ですか?」
「いや違う。新発売のやつはもっと爽やかだよ。ターゲットは若い女性なんだ。生姜味みたいな色物じゃない。でも、このガムだって悪くないよ。あんまり売れてないんだけどさ。まあ、旅の途中に気が向いたら噛んでみて」
「ありがとうございます」と自分はもう一度お礼を言って、貰ったガムをバックパックの外ポケットに入れた。賭けの残念賞のガム。
 よし。と男は立ち上がって、こちらを向いた。正面から見ると、かなり痩せた体型なのが分かる。彼は柔らかい表情を浮かべて言った。
「じゃあ、俺は仕事に戻るよ。とは言っても、別にすることもないんだけどさ。ありがとね、話し相手になってくれて」
「いいえ、こちらこそ」と自分も柔らかい表情を努めて応えた。
「よい旅を。またどこかで会えたら嬉しいな」
 そう言って小さく手を振ると、男は陸橋の階段へと歩いていった。自分はその後ろ姿を見つめた。向こう側のホームへと降り立つまで目で追った。
「いい人だな」と自分はしみじみと思った。気さくで、誠実で、余裕がある。ああいう大人は意外に少ない気がする。自分は十五年後に、あれほど朗らかにいられるだろうか・・。
 しかし、そんな淡い憧れは五分も経たない内に崩れ去ってしまう。電車が、こちら側のプラットホームにやって来たのだ。
 話が違う。自分は視界を塞ぐ三両編成の電車の前で、呆然とした。男は時刻表を間違えて覚えていたのだろうか。あるいは、知っているのに故意の嘘をついたのかもしれない。いや、そもそも時刻表なんて初めから覚えていなかったのだろう。そんな気がする。
 やがて電車は完全に静止し、ドアが開いた。自分はほとんど反射的にバックパックを片手で持ち上げて、落ちてくる瓦礫から身を守るような姿勢で乗り込んだ。車内では年代物の扇風機がノラ猫のうめき声のような音をたてて回っていた。
 ガラス窓の前に立って向かい側のホームを見ると、さっきの男が笑顔でこちらに手を振っていた。途端に、自分は馬鹿らしくなった。そして声をあげて笑ってしまった。慌てて口元を右手の甲で抑えながら、男に左手を振り返す。ふと見ると、何を勘違いしたのか黒髪の女の子も手を振ってくれていた。自分のすぐ目の前で。自分は彼女にも笑顔で応えた。
 やがて電車は走り出し、彼らの姿は段々と遠のいていく。駅の向こうに見える山の輪郭が大きくなった。その向こうに見える青空の深さが増した。初夏の日差しが少しずつ、自分の手の届かない場所へと永遠に離れていった。
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 それから五日後の夜、自分は長野県の南部の町にいた。やはり桃や林檎の果樹園の多い、田舎の小さな町だ。
 自分は県道沿いのバス停で、二時間ほどの仮眠をとろうとしていた。古びた水色のプラスチックのベンチは、トタン製の低い屋根に覆われていた。人通りはない。近くに商業店はないし、夜も遅すぎるのだ。果樹園を貫くように伸びる直線の道路が、街灯のオレンジ色で一様に染められていた。
 靴を脱ぎ、ベンチの背もたれに体重をかけ、両足を車道の方へと投げ出した。硬いアスファルトの上を半日以上も歩いたせいで、足の裏が腫れたように火照っている。くたくたに疲れてはいたが、眠くはなかった。自分は控えめに鳴いている虫たちの声を聞きながら、眠気が訪れるのを静かに待った。
 そして、ふと思い出した。ジンジャーガム。なんとなく噛むのに気が乗らずに、ずっとバックパックの外ポケットに突っ込んだままだった。自分は考える間もなく手を伸ばして、勢いよくガムの封を切った。いま噛まなければ、このまま死ぬまで噛まないような気がしたのだ。
 箱を開け、紙に包まれたガムを抜き出してみる。たしかに一粒が大きなガムだ。包み紙を開き、指先で摘まんだガムを口のなかに放り込んだ。噛んだその瞬間、濃厚な甘い汁が舌の上に広がり、唾液が噴き出すように口内を満たしていった。
 それほど悪くはない。だけど売れていない理由も少しだけ分かる気がする。
 自分は道路沿いに等間隔に並ぶ街灯の光を目で追った。そして、ここで眠っている間に暴走族に取り囲まれたら終わりだな、とぼんやりとした頭で考えた。まあ大丈夫だろう。バイクの音で、きっと目が覚めるはずだ。
 勢いをつけて、ジンジャーガムを吐き出す。そのサナギのような塊は、自分の足の少しだけ先に落ちた。オレンジ色の街灯の下で、小さな影をつくっている。
 ごめんね、と自分は心の中で言った。噛むことに飽きちゃったよ。
 それから十五分ほど経っただろう、ようやくサナギから飛び立った蝶は淡い光のなかに残像をつくりながら舞っている。
 自分たちはプラスチックのベンチに並んで座った。自分は蝶の方に、ほとんど顔を向けなかった。隣にいてくれるだけで充分に素敵な気持ちになれたのだ。その代わりに、左手に握りしめていたガムのパッケージに目をやった。青みがかった銀色の光沢紙の上に、鮮やかな黄色のポップな字体で『ジンジャーガム』と印刷されている。ふと、自分が子供の頃に、気に入ったお菓子のパッケージを少しずつ集めては、大切に保管していたことを思い出した。あれは今、どこにあるのだろう。
 夜の風が生温かく唾液を混ぜ合わせていた。自分と蝶は無言で心を通わせた。自分たちは、これから更けていく夜の真ん中に二人きりでいた。


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