2015年 織田作之助賞 青春賞受賞作品

青春賞受賞作品

「はきだめ」 犬浦 香魚子
 髪の影までくっきりと頬に浮かぶほど眩しい日差し、その強烈な夏の日光に耐えきれず爆発したような白雲を背に、あたしは一人俯いて午後の繁華街を歩く。パン屋を焼く香ばしい匂いが人いきれの間を流れ、洋食屋のオリーブオイルが制汗剤と混ざって香る。吐きそうだ。四方をビルに囲まれた巨大なピットのどん底を、あらゆる空気が混沌と澱む。あたしはその粘液にまみれてずるずると足を引き摺ってゆく。
 楢崎(ならさき)と暮すようになって、もう半年になる。
 昨晩の高校時代の友達との飲み会は、あたしに重たい記憶を植えて、それを早く捨て去りたくてシャワーを浴びてすぐ街に出た。今朝がた急にラインを送った後輩はもう喫茶店に居るだろう。待ち合わせの時刻は十五分前に過ぎている。
「あっ」
 不意にすれ違った休日出勤のサラリーマンにトートバッグがぶつかった。小さく「すみません」と謝ったあたしの声は、髪の薄い彼にぎろりと睨まれてしぼむ。
「邪魔なんだよ、ったく」
 そう舌打ちして見るからに忙しく去ってゆくクールビズのスーツを見送りながら、あたしは暫く茫然とばかみたいに固まってしまった。はっと気づいて、再び失態を犯さないように流れにのって歩きだす。舌打ちが重たく体にのしかかっている。街の熱と、寝不足と、累積されてゆく息苦しさに、猫背の背をさらに曲げて歩く足を速めた。
 汗が頬をすべるに任せて喫茶店の喫煙室に入れば、その一番奥を陣取るようにしていた巧巳(たくみ)がふっと顔を上げた。あたしは「遅れてごめん」と言って曖昧に微笑んで見せる。
「いいよ、まこは遅刻魔だって知ってた」
 巧巳はその眼鏡の奥からやや呆れたようにこちらを見上げていた。
「うん、遅れちゃった」
 あたしはほっとして気道が少しだけひらく。巧巳の吐くキャスターの煙がすっと肺へ降りてくる。片手のカフェオレをテーブルに置くと、ようやく自分の居場所を見つけられたように安心して彼の向かいへ腰を下ろした。
 巧巳とまたこうして会うようになったのは、単に地元へ戻ってきたからなのだけど、彼以外に他に気をゆるせる人間が、あたしにはもういなかったからでもある。
 大学を卒業しても実家には戻らなかった。とはいえ、小中高と過ごした土地へ帰ってきてしまったのだから、どうしても当時の友人関係に再び絡めとられてしまって、地元にいるのに家にも帰らないあたしはそこでフルボッコにされる。
 それはきっと当然で、きっと彼等の方がただしい。高いお金を払ってもらって私立の四年制大学を出たのに、その奨学金もろくに返せそうにないし、就職だってきちんとしないで月十万の契約社員。さらには二人合わせたって年収二百万にもならないような男と一緒に住んでいる。
親孝行もしない、社会の役にもたたない、ばりばり働く昔の友達には口をそろえて責められて、facebookもツイッターもやめた。月日を追うごとに息苦しさはつのり、それに負けてしまいそうで、楢崎にも何度かこの町を出ようと言ったのだけど、あたしたちには離職後の生活費どころか引っ越し代を浮かす余裕すらなかった。
「この前も会ったばっかだけど、どうしたの、まこ」
 巧巳のラインには会おうというメッセージのほか何も送っていない。実際とくに用事も無く、ただこの時間にあたしが気軽に呼び出せるのは、幼稚園から一緒のこの後輩が一番都合がよかったのだ。専門学校を卒業してからネカフェのバイトをしている巧巳は、実家にもあまり帰らずに、バイトのほかはふらふらと繁華街を出歩いたり、友達と公園に屯してはその日を暇そうに暮らしている。
「遊ぼうよ。ね、どうせ暇でしょ」
 グラスの氷をかき混ぜながらそう言えば、巧巳は気を悪くしたふうもなく頷いた。
「どこ行く? ホテル?」
 彼はあからさまに顔をしかめたけれど、あたしは気にしない。巧巳は滅多なことではあたしを否定しないのだ、それが誘い文句なら尚更。案の定、彼はたっぷり三拍置いてから小さく「いいけど」とだけ、ふてぶてしく呟いた。
それから暫く雑談をして、巧巳が五本目のキャスターを吸い終えるのを待ってから店を出た。どちらともなく通い慣れたホテル街へ自然と足が向かってゆく。
 途中、交通規制の笛と人声が騒がしげに聞こえてきた。祭りのような喧噪に大通りの方を振り向けば、道いっぱいに布を広げたデモが景気よく行進している。見てはいけないものを見てしまったような気がしてあたしはつい目線を逸らした。幕の活字もメガホンの怒声も、その中身が何であろうと、もう胸やけしそうだった。何かを主張する人の群を前に、視界は自動でシャットダウンされる。
「あ、まこ見て、デモやってる」
 それでも巧巳はあたしの胃のむかつきなんてお構いなしで、気づくなと念じていたにも関わらず、ぐいと腕をひいて大通りの方を振り返らせた。あたしは体を向けたまま俯いた。
「あー、うん。そうだね」
「結構人いるなあ。なんのデモだろ、まこ、あの横断幕の文字見えない?」
 見えない、と小さく呟く。巧巳はしばらくカラフルなその行列の方を見ていたけれどやがて諦めたようで、今度はまるで興味なさ気に肩をすくめ、再び歩き始めた。
「まあ俺には関係ないかあ。よくやるよね、どうせ何が変わるわけでもないし、暇なのかな。周りから変な目で見られるだけなのにさ」
 あたしは黙っていた。僅かにひらいた筈の気道がまた少しずつ絞められてゆくような気がして、その閉塞感に負けないように頭のなかを空っぽにする。すっからかんの、あたしという人格付きのこの肉体。縋るように隣の腕に絡みついて、横の細道へ巧巳を引いた。繁華街の裏路地は夏の昼間にも薄暗く、やがて巧巳の方から腕を解いて、代りに指を絡めて来た。近づく吐息と肌の熱。
あたしは苛立ちに任せて街路樹を蹴っ飛ばしたあとみたいな、不愉快な満足を覚えた。

 気が付けば与えられ、知らぬ間にくり抜かれていたあたしの性器は、空洞を穿たれてはそのつど何かをむしり取られてゆく。自分じゃない部分から自分が奪われてしまうみたい。この戸惑いと憎しみをもてあましながら、それでもあたしは自分の性をしばしば現実逃避の道具にした。
 ベッドの端に腰掛けて、巧巳は静かに煙をくゆらせている。彼のむき出しの背中を見上げながらあたしは僅かに溜飲が下がったのを感じて、一方でやるせなさも、楢崎への小さな胸の痛みも感じている。
昼の陽をさえぎった室内は真っ暗で、ベッドを軋ませながらあたしに性器を突っ込んでいた巧巳は何だかすごく頼りなく、ぎらぎらと自分への恍惚でうるむ瞳に、掠めるように慄きが揺らいだ。
あたしの不可解性に惹かれ、怯え、苛立っている巧巳。臆する様子の彼を見るたび、もっと怖がれと思ってしまう。理解できずに怯えろと思う。お前の傲慢に理解なんかされない、れっきとした他者なのだと、突きつけたい憎しみを抱いてしまう。
「まこ」
 復讐心みたいなこの憎悪、どこから湧いてくるのかもわからない苛立ちを、巧巳にすら向けずにはいられない。その事実を自覚するたびあたしは少しずつ疲労する。
「まこ、もう四時だよ」
 髪がゆっくりと撫でられている。こいつはあたしの為に、延長料金も払って、あと一時間後がシフトのバイトをすっぽかしてくれるだろうか。きっとしてくれる、そして見返りに何かを求めるんだ。あたしは起き上がった。
「ありがと、行こ」

 楢崎はあたしがどん詰まりの四回生、しかもその終わり掛けに、彗星のように現れて瞬く間にあたしを連れ去った。というかあたしが彼にしがみついた。就活もズタボロで卒業しても行くあてのなかったあたしに、三つ年上のフリーターだった楢崎の存在は全ての免罪符であり、唯一の関係性だったのだ。
「あ、真琴おかえり」
 起き出したところらしい彼へ、曖昧に声を返して自分の部屋へ直進する。さすがに眠たかった。今週は土日が休みなので明日は朝に起きなくてもいい。週四の夜勤と週二の夕勤を組み合わせて働く楢崎が、のんびりと夜にパソコンを弄っているのを見るとたまに忌々しくなる。
 彼はあたしが他の人とセックスしていることを知らない。気づいているかは分からない。それに一応恋人とはいえ、あたしは楢崎だけが好きなわけじゃない。それでも楢崎はあたしを求めるし、あたしに楢崎は必要だった。
「なあ真琴、見てこれ」
 部屋着に着替えて居間へ入ると、朝ごはんの惣菜パンをかじっている彼がローテーブルに置かれたパソコンをこちらへ向けてきた。言われるままに覗き込めばそれはツイッターで、今日あたしが通ってきた繁華街の画像がいくつも縦に貼られている。
「今日のデモ、ここんとこで一番大きいやつやったらしいで。ほら、大学んときの教授もツイートしとる。起きとったら近くまで行ったんやけどなあ」
 あたしはたちまち脱力感に襲われた。頭のなかをノイズが埋めてゆく。「ふうん」と答えて目線を逸らすけれど、楢崎はもうおかまいなしで、興奮したように画面をどんどんスクロールしている。
「うわ、こんな警備隊来てたんか。この前の国会前のデモも機動隊すごかったけど、こんな街でもアツくなるもんやな。真夏にようやるわ、すっげー」
 はやくシャワーを浴びて寝よう、と思った。中腰を戻して伸びをする。楢崎もはやくバイトに行けばいいのに。
「興味なさそうやなあ。まあどうせ俺らじゃアツくもなれへんし、それに真琴はこういう難しそうなの分からんよな」
 柔らかく苦笑して楢崎が画面を変えていくのを、あたしは立ったまま眉をひそめて見遣ってしまう。それに気づいたのか、彼はちらりとこちらを眺めて肩をすくめた。
「どうしたん? 別にええやろこんなん分からんでも、どう転んだって巻き込まれてくしかないねんから。真琴は無理して政治っぽいこと気にするより、いつもみたいに音楽漁ってる方がらしいで」
 楢崎は苦笑の表情を変えず、だけどあたしはこういう時、その中に僅かな愛玩と侮蔑があるように思えてならない。その不愉快な可能性はことあるごとに内臓に浸透して、体を埋めるように積み上げられてゆく。
「別に分からないわけじゃないし、少なくとも楢崎よりはまともに関心あるよ」
 いくらか苛立ちの滲んだ声でそう返せば、彼はますます苦笑を深めてあたしを見上げた。
「まともって何やねん。それにそう言うても真琴が自分からそんな話したことあったか? な、ないやろ。別に気にすることでも無いねんから、ムキにならんでええやんか。すぐ感情だけで言うんやから」
 そうして彼は今度こそ苦笑の無い、愛玩と侮蔑だけの視線で柔らかく笑って、こういう時のお決まりの台詞を言った。
「まあ、そういうとこも可愛いと思うで」

 六時前には寝ていたから、夜中のうちに起きてしまうというのもおかしなことではない。けれども煙草を咥えてパソコンに向かう、人を小馬鹿にしたような顔つきだった楢崎が、泣きそうな表情であたしを揺すり起こしているとなれば話は別である。
 あたしはびっくりして目が覚めた。
「え、なに? どうしたの?」
少しの間、あたしと楢崎の視線はなんの隔たりもなく絡まっていた。やがて真正面に寄せられていた彼の顔が伏せられて、そのままタオルケット越しにきつく抱きしめられる。一体どうしたというのだ。腕をまわしてそっと背中を撫でながらベッドサイドの時計を見れば、短針はまだ二時を少し過ぎたところで、ぼんやりとあたしの中でこの状況と彼のバイトが繋がりを持ち始める。
「どうしたの、大丈夫? 今日って夜勤じゃなかったっけ?」
 あたしの上で楢崎は僅かに震えている。家に籠ってお酒を飲んで、煙草も紙巻きを吸う楢崎。相変わらず鶏ガラのように細く、骨ばって、髪も少しずつ薄くなっている。二人合わせても月二十万に達さない生活で、彼は嗜好品へまわす為に自分の医療費や食費を削っているから、一人での食事は全てカップラーメンか半額の惣菜パンだ。それは楢崎の選択だから別にいいとは思う。実際彼より稼いでいるあたしに、自分とタイミングのズレた奴の食事まで作る余裕はないのだ。自分で料理するより惣菜パンがいいと言うなら好きにすればいい。けれど、そうして次第に痩せてゆく彼を見るとやっぱり少し痛ましい。
「真琴......」
 今日は満月だと、そういえば星座アプリから通知が来ていた。月明かりがまっすぐ白い壁を照らしていて、顔をあげた楢崎の表情があたしにはっきりと見えた。彼は泣きそうな目で言った。
「海、行こう」
あたしは一瞬ぽかんと彼を見上げた。いきなり何を言い出すんだろう。だけどまあ、何だかそういう気分になってしまうこともあるだろう、と背中を撫でながら相槌を打つ。
「いいよ。そのうち行こうか」
 しかし楢崎は曖昧ななぐさめを求めていたわけではないらしかった。
「バイト、やめた」
「え?」
「カラオケの方」
 それだけ呟くようにして言って、彼はまた顔を臥せた。あたしは黙った。 彼が突然バイトをやめるのは初めてのことではないし、向こうからクビにされたのか自分からブッチしてきたのか、どちらでもありうるだろう。ただ、メインにしていたカラオケの夜勤をやめたのであれば、彼の月収はこの先三万だ。何か言わなければとあたしは口を開きかけて、しかしそれを遮るように楢崎が小さく言葉を吐き出す。
「引っ越そ」
あたしの開きかけた口からは思わず「は?」と間の抜けた声が飛び出した。タオルケットを震わせて楢崎は言葉を継ぐ。
「海の近くの街にな、引っ越そ」
 楢崎はゆっくりと顔を上げた。涙で潤んだ彼の眼は熱く、絞れば絞っただけどんどんその涙は浮かんでくるようにみえる。
「海、行こうや......」
 あたしは一つ呼吸をおいて、瞼を閉じた。自分の中を静かにしてゆく。楢崎の涙の熱に絡め取られないように、自分の輪郭を忘れてしまわないように。あたしには彼が現実逃避的にそんなことを言って、青春ごっこをしようとしているようにしか見えない。今のこの、先ゆきのなにも見えない現状のべとついた粘液を振り払いたくて、不安で仕方なくて、衝動的にほかの遊びに縋りたがっているだけのようにしか。
 その現実だって、作り上げているのは自分なのに。楢崎は絶対余分に働こうとしないし、したくない家事は全部非協力、将来のあてもゼロ。人生嫌んなったら死ねばいいとか言いながら、毎日すごく嫌そうなのに死ぬそぶりなんて一度も見せない。親が産んだのが悪いだなんて未だに言い続けているくせに、年金も社会保険も親に払って貰っている。あたしは目を開けて、いくらか冷えた声で呟いた。
「引っ越すのは無理だよ。お金も足んないし」
契約社員をやめたらあたしはもう何もない、友達に罵倒される要因が一つ増えるだけだ。
「海に行きたいだけならいいよ、今度行こ」
 しかし髪を撫でながらそう言えば、彼は頭を小さく横に振った。そうしてぶつぶつと、何かを吐露するような囁きを漏らした。
「こんなとこで燻ぶっとっても何にもならん。このままゆっくり腐ってくだけや。俺はほんまに駄目なんや、何も出来ひん、もうあかん。死にたい、死にたい、死にたい......」 夜のアスファルトを走り来ては去ってゆく車、遠くで騒ぐ大学生の声、小さな喧噪、植え込みの鈴虫。暗い部屋の中に小さな音たちが滲んで、じわりと染み入る夏の夜に楢崎のすすり泣きが混ざる。あたしは黙って彼の頭を撫で続けた。彼が可哀想だった。そしてこんな時、あたしは楢崎を切るべきか迷う。
だけど、切れるものならとっくにそうしている。フリーターの何が悪いと嘯く一方で、常に社会からの承認に飢えている彼。その矛盾と自己嫌悪はそうはいってもあたしを安心させるのだった。自己に執着せざるを得ない自分のことを、心底憎んでいるような彼だからあたしは一緒にいることができる。
この、一緒にいることができる、ということと、恋情だとか唯一の相手だとかそれこそ愛してる、なんてものとは必ずしも一致するものじゃないとは思うのだけれど、あたしはそういうものの存在を恐れ、楢崎を離れることが出来ない。
そんな自分の現状に目を向けないよう意識しながら、いつものようにとりあえずこの場だけでも楢崎を慰めようとした。
けれど彼が小さくその声を吐き出したのは、「大丈夫だよ」というあたしの言葉とほぼ同時だった。
「俺以外の奴と、セックスせんといて」

 住宅街の夜道は静かで、月明かりと街燈がアスファルトに白を塗る。自転車をゆっくりと押しながら、昨日の今日だけれど巧巳にラインを送った。別に深夜とはいえ土曜の夜なのだから他に人のあてが無くはないのだけれど、今のあたしは自分より社会的にまっとうな人達と話したくなかったし、自分は正しいと思ってはばからない人間なんかには会った瞬間叫んで逃げ出しかねなかった。
 巧巳はバイトを終えて繁華街にいるという。とにかく楢崎との生活圏から抜け出したくて、サドルにまたがると中学生みたいな勢いでペダルを漕いだ。早く巧巳に会いたかった。楢崎から離れたかった。
 京都の大学へ逃げ出して、大学から地元へ逃げ帰って、そんなことばかり繰り返してきたこの失踪は行き詰まり、閉塞感から遁れたくて、打開の見えない現実を見たくなくて、あたしはセックスにもつれ込む。一度逃げ出した共同体の、まだ食べられる部分だけ齧っている。
一体何をやっているんだろう。呆れて溜息も出ない。けれどあたしは彼以外の人と関係をもたずにはいられない。だってあたしの現実と息苦しさには、楢崎の存在が入っている。
 とはいえ、彼の言葉を聞いた瞬間、あたしは錆びたキリでえぐられたような羞恥と罪悪感を覚えずにはいられなかった。結局はあたしだって、自分のことしか考えていない俗な人間でしかないのだ。その衝動に突き動かされて、ベッドに丸まる彼をそのままに、逃げるようにあの部屋を飛び出してきたのだった。
「まこ、自転車で来たの?」
 待ち合わせの噴水に腰かけた巧巳は、停めた原付のハンドルになにか大きな白い袋を吊り下げて、本人は手持無沙汰にライターの火を弄んでいた。
「うん。もしかしてどっか行くとこだった?」
「これから友達に届け物しなくちゃいけなくてさ。ここにチャリ置いといていいなら、まこも一緒に乗ってく?」
 そうして原付を指す巧巳にあたしは躊躇うことなく頷いた。
 夜ふけをきらきらと華やかな眩しさで刺すストリートのネオンを縫って、原付はゆっくりと細い路地裏に入っていく。バーテンダーがゴミを出したり、茶髪が数人しゃがんでいたり、そういう道をいくらか進んで、看板もなにもない錆びた扉の前まで来たところで巧巳はエンジンを止めた。
「あ、もしもし? うん、いま裏口の前まで来た。あけて」
 ラインか何かで通話する巧巳の後ろで、原付に乗せてもらう前に持たされたビニール袋のうちの一つを抱え直す。そんなに重たくもないし、感触はどこか柔らかい。何だろう、と思っているとガコン、と金属がへこんだ時のような音を立てて目の前の扉が開いた。 「巧巳? おまたせ」
 そう言いながら顔を出したのはスウェットを着た女の人で、巧巳は「大丈夫」と返しながらあたしの腕から荷物を取った。
「はい、これ。余ったの詰め込んだだけだから男女適当になってるけど、ぜんぶ洗濯はしてある筈だよ」
「全然おっけー、超助かる! ありがとね」 
 女の人は黒いロングヘアーを揺らしながら、床にしゃがんで袋をがさがさ漁り始めた。路地が薄暗くてあまりはっきりはしないけれど、ロッカーの見え隠れするそこは更衣室みたいだった。その床に次々と、ビニール袋から出された色とりどりの布が散らばってゆく。
「もうほんと、みんな服まで全然手が回んないみたいでさあ。あと靴。今度靴出たらまた連絡してくんない?」
 それは子供服だった。サイズや季節もばらばらに、広がる小さな布の山。身近になかった光景になんだか気後れしてしまって、あたしは一人後ずさりして原付の横まで戻った。巧巳たちはいつのまにか会話を進めて、スウェットの女の人も気怠げに受け答えしている。
「......ほんと、睡眠剤も安定剤も無いとやってらんない。もう無理って感じ。巧巳も持ってるならちょっと分けてよ」
「昔の残りならいいけどさ、ちゃんとしたの欲しかったら通販か病院行きなよ」
 荷物を渡して手が空いたのか、巧巳はポケットから出した煙草に火を点けている。
「稼ぎあるならともかく、寮組はそんな余裕ないよ。子供いなきゃ別かもしんないけど」
 不意に路地の口で喧噪が沸いた。思わず振り向けば中年の男の人がなにかを抱えて体を曲げていて、すぐ隣のゴミ箱ごと男を囲むようにさっきの茶髪の子らが騒いでいた。「この店のもん漁ってんじゃねえよ」「まじて臭えっての」。そんなやりとりが遠巻きに聞こえてきて、あたしは足元へ視線を戻した。
 話を終えたらしい巧巳がドアから踵を返してきた頃には、あたしの視界の切れ端で行われていたごたごたは収束して、男の人はどこかへゆき、茶髪たちは何もなかったかのように再び地面に屯していた。巧巳は落とした吸い殻を靴で踏んで、「おまたせ」とヘルメットを投げて寄越した。
「荷物って子供服だったんだ」
 彼の後ろに座りながらそう言えば、原付に跨った前の背中が頷いた。
「俺の母親、地区の役員やっててさ。バザーのたびにかり出されるから、ついてけば余ったの分けて貰えるんだ」
 やがて原付はゆっくりと動きだし、野良猫もねぐらにはしないような薄暗い路地から大通りへと進む。メインストリートはまだ活気よく動いていて、酔った人達が蟻のように行き来してはふらふらとどこかの店に入ったり出たりを繰り返している。
「今のは高校の時の友達。店の寮で暮らしてて、あいつも周りももう結構子供がいてなんか大変なんだって。だからまあ丁度いいかなって持ってってるわけ」
 あたしは「そっか」とだけ返して黙った。そしてふと楢崎や、精神安定剤漬けだったり、リスカ跡だらけだったりする友達のことを思った。
どうして世の中にこれだけ、普通に生きて行きがたい人々が存在してしまっているのか、あたしには不思議でならない。しかも彼等は決して少数派ではない。未来が不安でたまらなくって毎日何度も過呼吸をおこしていたり、あるいは実際に家賃どころかその日のご飯にも悩んでいたり。
生きて行くのが容易でないほどの、不安や抑圧、貧困というのは信じられないくらい身近にあって、だけど皆その生をやめずに何とかかんとか暮している。時折はずみに引っかかってしまう人が出る。でもそれだけだ、流れに組み込まれて再び見えなくなる。
 原付はスピードをいくらか上げて、ヘルスやピンサロの並ぶ通りを抜け、今はもっと賑やかな飲み屋やカラオケがメインの通りに入っていた。スカートで跨っている自分も馬鹿だとは思うけれど、原付が舗道の際に寄ったりすると若いスーツやはしゃぐ男子の集団からおもちゃを見るような視線を受けた。こういう時あたしは自分が四六時中、精液をかけられどおしていることに思い至る。それは傍から見ればどうしようもないことで、どうでもいいことなんだろうけれど。
 巧巳が「どこに行く?」と聞くから馬鹿の一つ覚えみたいに「ホテル」と返した。今度は彼が渋面を作っているのか、呆れた表情をしているのかは、熱い背中にくっ付いているあたしには分からなかった。

あたしの周りには沢山の穴が開いていて、それは暗く、臭く、どろどろとして底は見えない。間欠泉のように吹き出した泥が時折視界へ飛び込んでくることがあるけれど、そういうものを直視することにあたしはすっかり食あたりしてしまって、なるべく目を瞑って過ごし、自分のか細い骨組みの足場にただ膝を震わせて立つ。泥の吹く音を聞くごとに、首に掛かる縄は絞まってゆく。
活路。そんなものがあるんだろうか。
 最後に部屋を出る前に、「もうヤらないよ」と小さく言えば、巧巳はつまらなそうに「ふうん」とだけ返した。一瞬だけ大きくなった目が、かろうじて動揺を示している気がしたけれど、見間違いかもしれない。自転車を置きっぱなしの噴水広場まで原付で送ってもらって、巧巳とはそこで別れた。去り際に「またね」とだけ彼は言ってくれた。あたしはゆっくりと自転車を押して、巧巳が去ったのとは反対の方向へと歩きだした。
 昨夜の明暗が嘘みたいに、繁華街はぼんやりとした朝に染まっていた。何車線かの日影、遠くのひなた。クリーム色の斜光、朝もや、白映えのビル群。埃をかぶった街路樹、けだるげな信号、くすんだ青空。朝に燻された街は宿酔に薄く目をひらいて、澱んだ光彩に昨夜の残滓を匂わせながら死骸みたいに横たわっている。行き交う人が異星人に見える。
 ふと、もっと単純なのだろうか、と思う。あたしのこの倦怠や劣等感、閉塞感や胸やけ、それらは存在しているだけで希望だった筈の自分が、人にも自分にも、存在しているだけで邪魔な役立たずになってしまったから、というそれだけのことなんだろうか。 「大丈夫......」
 あたしは小さく声にだして呟いた。スマホの電源を入れて、タッチし慣れたアイコンに触れる。
 大丈夫。それはむしろ普通のことだ。多くの存在は大抵邪魔にされるだろうし、ほとんどのことにおいて役立たずだ。そうして少しだけ、どこかの何か、どこかの誰か、あるいは自分に対してだけでも、必要になることがきっとある。あたしの喉元に、無力感や徒労感を突き立てるような社会や現実の色んな事柄だって、それがどんなに息苦しく窒息しそうなほどであったとしても、この生活はまだ潰えない。
 楢崎が出るまでに数コールかかった。彼は鬱屈したようにしわがれた声であたしの名前を呼んだ。
「どうしたん?」
 寝ていたにしても起きていたにしても、楢崎はずっと部屋で鬱々と閉じこもっていたに違いない。彼はあたしが今どこにいるかとも聞かなかった。少しの罪悪感に再び苛まれながら、図々しいような気もするけれど、どうしても言いたくてあたしは彼に訊く。 「あたしのこと、好き?」
 彼はきっと電話の向こうで、ひっそりと目を閉じているんだろう。そう思わせる声が通話口から流れ出た。
「好きや。真琴がいなくなったら、俺もう死ぬ」
 それだけ聞けば十分だった。あたしは一気に明るい口調になってまくしたてる。 「海にさ、行こうか。べつに引越してもいいよ。街を変えたって何も変わらないだろうけど、それでも海の近くがいいならいいよ。だけど、引越すかどうかは別にしても、とにかく行こうよ、海。夏だし。そういうことしてさ、それで、なんとか一緒に暮らしてこう」
 それから最後に思い出したように「あたしも好きだよ」と付け足せば、楢崎はあたしの長口舌に圧されたのか呆れたのか、海の件には何も触れずに和らいだ声で訊いて来た。 「俺のどこが好きなん?」
 あたしは小さく笑う。
 それでも生きてるとこ。



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