2016年 織田作之助賞 青春賞受賞作品

青春賞受賞作品

「海をわたる」 中野美月

 まだ夜の明けきらない土曜日のはじまりに目を覚ましてすぐ、海を見に行こうと彼女は決めた。すこしでもゆっくりすれば気が変わってしまいそうで、熱い紅茶を飲んでから顔を洗い、きちんと保湿をした後はかんたんに化粧をして、何も食べずに外へ出た。彼女がアパートを借りているラスマインズからバスで二十分ほど行った中心街のはずれに、大きな駅がある。そこから電車に乗ってキリニーという郊外の町へ向かうのだ。
 四月の風はきびしかった。バス停から駅へと向かう運河沿いの空は曇っていて、彼女は灰色の羊毛コートに顔をうずめた。信号を待つ彼女のそばで、「ホームレスに施しを」と書かれた段ボール紙に紐を通して首からぶら下げている男が空き缶を持って座っている。ずいぶん前に駅を利用したときにも見た男だった。彼女は目を伏せて、なかなか変わらない信号を待った。
 湾の形に沿って南東へと向かう電車の座席には、つい先ほどまで座っていた誰かの体温がまだ残っていた。窓の外の海面はとても低い。空を見ただけではほとんど差していないように感じられる光を反射して、海というよりは干潟に見える。目的地である十四番目の駅を待たずして、彼女はふいに電車を降りた。海草のにおいをかぎたかったし、何かを食べておきたかったのだ。一度駅から出てしまえばキリニーまでの料金を再び払わなければならなかったが、今日はそれくらいのことは自分に許したかった。そもそもが突然に始まった旅なのだから、思いのままに行動したほうが良い。少なくとも予定を立てないことで、自由な気分になれるはずだと思った。

 レストランの空調はあまりきいていなかった。生牡蠣にレモンの果汁を滴らせる彼女の指が、すこし震えている。控えめな照明の下に座る彼女の目の周りはかすかにくぼんで見えた。昨年三十歳の誕生日を迎えたあたりから顔立ちにどことなく思慮深い雰囲気が漂いはじめたが、長いことブロンドに染めていた髪をブルネットに戻したからかもしれない。
 あんなに早く目を覚ましてしまった理由を、彼女はよくわかっていた。恋が終わってしまったのは先週の日曜日だ――まだ、一週間も経っていない。男は九千キロも離れたところに飛び立ってしまった。夜のダブリン空港では悪天候のせいでフライトの遅延が続いていて、たくさんの人々が列をなして座り込み、何人かはスーツケースを枕に横たわっていた。しかし、男の飛行機は予定どおりに離陸した。彼女は空港内のファストフード店で夕食を済ませ、しばらくそこでぼんやりとした後、アパートに帰るためバスに乗り込んだ。さびしい景色を見たくなくてずっと目を瞑っていたら、涙がまつげに染み込んだ。
 牡蠣の身はやわらかく口の中を逃げ、潮の香りを捕まえようと彼女は慎重に舌を動かす。この一週間は仕事に行くのが苦痛だったが、お金はかかってもなるべくこうしておいしいものを毎日食べるようにした。もっと若いころは失恋するたびに何もする気が起こらなくなったものだが、今では食べている時だけ心がすこし安らぐ。牡蠣を呑み込んだ後もしばらく余韻を味わった。空っぽになった貝殻の内側は、苔むした岩肌のような、あるいは揺れるガソリンのような色をしている。となりに並べられた小さめの皿の上では茹でたじゃがいもから湯気が立ちのぼり、その脇には美しく花びらの形に盛られた揚げ玉ねぎが添えられている。牡蠣の余韻が消えかかった頃にその玉ねぎの一片を口に運んで、彼女は白ワインを注文しようと思い立つ。ふだんお酒を飲むのはだれかと一緒にいるときだけだった。この一週間は仕事終わりにパブに誘われても行く気になれなかったので、すこし久しぶりだ。生成りのシャツを着たウェイターが、グラスを持ってしずしずと近づいてくる。

 彼女の母親はアメリカ人だった。結婚を機にアイルランドに渡り、つい数年前まで週に二日ほど、ダブリン南部の住宅街にある小さな公民館で絵画教室を開いていた。子供の頃、彼女はしょっちゅう母の実家があるペンシルバニア州に遊びに行った。母に連れられて美術館に行った時、お気に入りだという絵の前で立ち止まった母は、「アイルランドに初めて行ったとき、この絵のことをなぜか思い出したの」と言った。海に屹立する崖が描かれていて、波は穏やかだが、その中にそびえ立つ岩肌の質感と光と匂いを一筆ずつ違う色を使って描いているために荒々しいような雰囲気もあった。「ここに描かれてるのは、ほんとはフランスの風景なんだけどね」と母は言った。「でも、この崖の色合い、見える? この色をアイルランドで見た時、わたしはここに住むかもしれない、ってなんとなく思った」
「そしてパパと出会ったのね」彼女が言うと、母は微笑んだ。
 海をわたるほどの両親の情熱が、いつか自分にも訪れればいいと彼女は願った。しかしあの時の母の帰省は、何度目かの父の浮気の発覚――相手は常に同じ女性だった――の後に、気持ちを整理するために行われたものだった。大人になるまで、こうしたことを彼女は知らなかった。事実よりも、いかに両親が何事もなかったかのように娘の前で振舞っていたかということのほうが、彼女を戸惑わせた。
 
     *


 もう一杯だけ白ワインを注文し、ものすごくゆっくりと時間をかけて飲む。ようやくお昼時になって店内に人が入りはじめた頃に彼女は席を立ち、駅へと戻る。朝は空一面を覆っていた雲が少し薄くなり、そこから太陽の光が透けている。この分だと、キリニーの丘からはすてきな景色が見えるかもしれない。レストランでは誰にも話しかけられなくてよかった、と思う。すこし酔いが回っていたのもあって、駅へと戻る道のりは来た時よりも早く感じられる。
 今度は予定通りの駅で電車を降りた。キリニー駅は簡素なつくりの寂しげな建物で、こうした場所にはすこし不釣り合いな感じの髭を生やしたおしゃれな青年がキオスクで店番をしている。丘へと向かう道のりにはかわいい家が立ち並び、ときどきとても大きな屋敷もある。キリニーは有名人の邸宅がいくつかあることで有名な土地だったが、彼女にはどの家が誰のものなのかわからない。丘は公園になっていて、地元の人間や観光客がちらほらと歩いている。ゆるい傾斜を歩き続けたために彼女は少し汗ばみ、風でからだの熱を冷まそうと立ち止まる。すると、聞き覚えのある言語が聞こえてくる。少し口を尖らせて、不満げにも聞こえる響き。男が家族と電話で話をするときに使っていた言語だ。彼女の視界が、一瞬ぐらりと歪む。

 男の話す英単語のひとつひとつは申し分なく、彼の母語には存在すらしない音がていねいに発音されていたが、長い文章を喋るときにはそれぞれの音を明確にしようとするあまりになめらかな流れは犠牲にされ、最終的にはとてもエキゾチックな印象がつくりだされるのだった。はじめて男と会った場所は、彼女が事務員として働く大学――語学学校が併設されている――の留学生向けのオフィスで、男は同郷の友人がコースの変更をする手助けをしに来ていた。この友人はどうやら午後のクラスに出席するのをやめて、その分午前中のクラスに通える期間を延ばしたいらしかった。彼がどうにか留学プログラムの担当者と二人きりで話をすることにこぎつけた後、男はソファに座って友人が戻ってくるのを待っていた。しばし仕事の手の空いた彼女は男に、「さっきの彼のクラスメートなの?」と声をかけた。
「いえ、彼は語学学校の生徒で、ぼくは学部のほうで勉強しているんです」男は背が高く角ばった顔をしていて、しっかりとした黒い髪を整髪剤で後ろにきれいに撫でつけていた。「アジア人なら誰でも雇うタイ料理屋でバイトしてるんですよ、ぼ くも彼も」男は微笑んだ。
「そうなの」彼女は男のことを魅力的な子だと思った。もちろん、男は彼女よりもだいぶん若かったし、あくまでも大学の一職員として、彼のことを「いい子」だと思っただけだ。「それにしても、あなたの英語はとても上手ね。つまり、なんていうか、あなたの国の言葉とは全然違うんでしょう」
「アジア人にしちゃあ英語が上手、ってこと?」男が笑っているのかそうでないのかよくわからない表情で言ったので、彼女の顔は熱くなり、「そういう意味では」と言った声はひどく焦っているように聞こえた。
「ごめんなさい、冗談ですよ」男は今度こそ笑って言った。「友達が戻ってきました。それじゃあ、よい午後を」
 その日が金曜日だったこと、そのあとに起こった出来事、なにもかもがすばらしい偶然だったと彼女は思う。夕方仕事がひけた後、友人とパブへ飲みに行く約束をしていた彼女は一度アパートへ帰って軽くシャワーを浴びた。その時点ではまだたっぷりと時間があったはずなのに、待ち合わせに遅れてしまうことになった理由は、なかなか思うように眉が描けなかったからだった。いつもならば多少満足がいかなくても時間どおりに家を出ることを優先するのに、どうしてあの日はあんなにむきになって鏡と向き合っていたのだろうか。週末はどこのパブも早い時間に埋まってしまう。ようやく彼女が待ち合わせ場所に辿りついた時には、もともと行く予定だった店もすでに人で溢れていた。彼女と友人は別の店を探す羽目になった。そのうえ雨が降りはじめ、クラブの入り口で酔っ払って列を作る男たちが彼女たちに声をかけてきたものだから、彼女は友人に対して申し訳ない気持ちになり、つぎの店では空席がありますように、と願った。二軒目のパブに入った時の彼女の失望にさっと光を射したのが、男のあの慎重な感じの申し分ない英語だった。「偶然ですね」男はカウンターからギネスビールのパイントグラスを受け取って来たところだった。「例のレストランで働く友人たちと飲んでいるんです。椅子の上に置いたぼくらのカバンをどければ座れますけど、よかったら?」

    *


 丘は思ったよりも急で、ブーツではなくもっときちんとした靴を履いてくるべきだったかもしれない、と彼女は思う。頂上へと上る道中にいくつか分かれ道があったが、一番大きな道をまっすぐ進む。近くに海があることを忘れるほど、木々は強いにおいをはなっている。さっきまで彼女の前では外国人の集団が息をきらせながらもひっきりなしにしゃべり続けていたが、彼女の歩くペースが遅くなったのだろう、いつのまにか彼らはずっと遠くを歩いている。いまは彼女のブーツがじゃり 、じゃり、と砂を押しつぶす音と、風がぶつかりあっているのか葉がこすれあっているのか彼女にはよくわからない音、そしてやけに近くにいるように聞こえる鳥のさえずりだけが聞こえる。

 恋が終わってしまうたびに、いつも二度と立ち直れないような気持ちになった。それでも何度か失恋を重ねるうちに、彼女の中でどこか冷静な気持ちが生まれていったのは事実だ。悲しくてやりきれない、と思いながらも、いつかは恋人のことを忘れていく自分の姿を思い描くことができたし、恋の終わりが永遠の別れではないことも、次第によくわかった。結局ダブリンはちいさな街なのだ。別れた恋人たちをバスの窓ごしに見つけたことは幾度もあった。けれども、今回ばかりはそうした偶然の出会いがもう起こりえないことを彼女はよく知っていた。九千キロも離れているのだ。丘から見える海をわたっても、彼の故郷にはたどり着くことができない。
 いずれ別れなくてはならないのだから、それまでの時間を大切にしよう、というのがはじめからの二人の約束事だった。彼が大学で学ぶ期間は決まっていて、この国で単位を取り終えた後は自分の国に帰って学業を終えることになっていた。それは変えようのない現実だった。もちろん傷つくことはわかっていたけれど、もうわたしは大人なのだから大丈夫だと彼女は思った。けれど彼がこの国を離れてからの一週間は、ダブリンに溢れかえるさまざまな思い出の断片――それらはかつて、別の人間との思い出の場所でもあったはずだった――を目にするたびに、自分がもっと子供だったら何かが違っていただろうか、と思った。たとえば泣きわめいて駄々をこねれば、彼をこの国に引き止めることができていただろうか。そんなありえない幻想を、コーヒーショップの窓から見る濡れた舗道に、週末に家で食べるためのピザを二人で買ったスーパーマーケットに、下に備え付けられた照明で薄ぼんやりと浮き上がった夜の大聖堂に見た。

 頂上の景色はこれまで登ってきた道とはまったく違うものに見える。ごつごつとした岩肌の上にはたくさんの菜の花が咲いており、名前のわからない地味な植物の棘のような、枯れた葉のような尖ったものが彼女のコートにひっかかる。すこし離れたところに白い小ぶりなオベリスクが建てられている。
「岩肌がこんな色をしてるなんて、考えたこともなかった」人の足音とひそかな咳払いのみが響く美術館で、母はかすかにささやいた。「画家の目を通して、はじめてわたしは景色をほんとうに眺めたのよ」
 それがどんな色だったのか、彼女は明確に覚えていない。ただ、いま目の前に広がる光景に、彼女はありきたりの色――海は青、草木は緑といった色――以外を見出すことができない。彼女が乗ってきた電車の線路が、海岸から少し離れたところで陸の地形を縫うように敷かれている。海をせき止めるような湾と、お城のような建物がいくつか見える。午前中よりも太陽の光は強いのに、この美しい景色に心を動かされていないだなんて、なんと不幸なことだろう。こんなはずではなかった。そもそも、海を見ればすっきりするだなんて月並みなことを、どうして思ったりしたのだろう。彼女は気分が悪くなる。結局、この景色を見ても感動できないのは、彼が隣にいないせいだ。自分のことは自分でできるし、自分で稼いだお金で好きなこともできる。自分のための自由な時間だってあるのに、自分ひとりでは景色ひとつ楽しめないなんて。彼女は座り込み、目を閉じる。認めたくはなかったが、来るんじゃなかった、と思っていることに気づく。

    *


 彼女はゆっくりと丘を下り、浜へとつながる遊歩道を歩く。さきほどよりも気分は悪くなっている。雲はまた太陽を覆い隠し、汗はすっかり乾いてしまった。彼女の体は荒っぽい風の中で冷えていく。浜では海水浴が許可されていたが、四月の曇り空のもとでは、海は人を寄せ付けないように見える。砂浜には小さい石がたくさん埋まっており、そのどれもが波にもまれ、やわらかな丸い形をしている。彼女は母のことを思った。故郷を離れ、はるばる海をわたった母。恋が終わったことを電話で告げた時、母は安心したようなかすかなため息とともに、「そう」と言った。そして、一言でも言葉を発してしまえば泣き出してしまったであろう彼女が何も答えなくていいように、「疲れたでしょう、たくさん眠りなさい」と言った。それから彼女は、母がもはや咎めなくなってもなお、毎週木曜日に申し訳なさそうに肩を丸めて二十年近く付き合い続けている恋人に会いに行く、真面目そうな父の顔を思い出した。これを最後に恋人にはもう二度と会わないと幾度も心に決めながら も、その約束をどうしても守ることができなかった父。どうして離婚しなかったのかと聞くと母は、「ほんとうの人間関係は、いつでも矛盾を抱えているものよ」と言った。

 彼女はブーツが海の先端に触れるところまで歩いて行く。腹の中が泡立つような感覚は次第に強まり、もしかして午前中に食べた牡蠣のせいだろうか、と思う。だけどあんなにちゃんとしたレストランの食べ物にあたるなんて考えられない、しかも食べてから数時間もたっていないのだから。彼女はゆっくり息を吸って落ち着こうとするが、うまくいかない。遠くの方に薄い雨雲が見える。早く帰らないと濡れてしまうかもしれないのに、彼女はそこから動けないばかりか、しゃがみこんでしまう。動悸が速まり、それはどこか取り返しのつかないもののように彼女には思える。それから砂に手をついてからだを丸める――その姿は、一心不乱に祈っているひとのように見える。腹の中の泡は膨張して逆流し、彼女はこれまでの人生で使ったことのないような筋肉を総動員してボゴボゴと全てを吐き出す。汗は額と脇の下をじっとりと冷ややかに濡らし、涙が流れ、信じがたいほどに嘔吐というひとつの行為に集中しながらも、ここに男がいることを空想していることに彼女は気付く。一度だけひどく酔っ払って、「わたし一緒にあなたの国にいく」と言ったことがあった。男の一重まぶたは悲しそうに優しいかたちに変わり、「それがぼくのためなら、そんなことしないほうがいい」と言った。彼も、そして彼女自身も、彼女がそうはしないだろうことを知っていた。そのことに彼女は怒り、泣いて、もっと飲み、最後は吐いた。男はトイレにうずくまる彼女の側に座り、汗に濡れた髪が顔にかからないように束ねてくれていた。「こんなときにこんなことを言うのは、とても変だと思うけれど」男は彼女の背中をさすりながら言った。「あなたのことをすごく愛してる」
 彼女は手を海水で洗い、顔に張り付いた髪の毛を払う。そして、自分が泣いていることに気付く。再び吐き気に襲われ、また手をついて前かがみになる。今度はもっと強く手のひらに砂や小石が食い込み、あまりの苦しみに、もう生きていたくないとすら思う。これからどうやって生きていけばいいのだろう? 自転車の空気入れにつながれているみたいに何度も空の嗚咽に突き上げられていると、いつのまにこの浜辺に来ていたのだろうか、おそらく観光客であろう外国人が彼女の背後から問いかける。「あなた大丈夫」
 彼女は片手を砂浜につけたまま、顔もあげることができない。もう片方の手で大丈夫だと合図する。腸が下から地鳴りのように振動し、再び全てがせり上がる。全身の筋肉を引き攣らせ、何もかもが耐え難いほど痛く、このまま死んでしまうのではないかと彼女は一瞬恐ろしくなる。こんなときに、あまりにも唐突に生きたいという衝動が湧き上がるのはとても奇妙だ。やがて彼女の息は落ち着く。
 悲しみが海をわたろうとしていた。消化されなかった今日のランチの残骸が、近づいては浜辺に留まりながら、少しずつ遠くへ流されていく。彼女の目の前に続く海面はとても低く、かすかな光を反射して海というよりは干潟に見える。
 背後で外国人が再び言う。「あなた大丈夫」



◎紙面特集を読む
◎U-18賞受賞作を読む
◎選考結果詳細を読む
◎受賞作発表