| ■ ■ ■ 青春賞受賞作品 ■ ■ ■ |
| ★『Innocent Summer』 小笠原由記 1 水平線をつき破るように空へと勢いよく盛り上がった入道雲を、ハルはじっくりと見つめた。それから彼女は筆に絵の具を含ませて、大きなスケッチブックにこすりつけた。みるまにただの白地に影ができ、質感が生まれ、気づくと雲が描かれていた。うまいものだなと僕が横で静かに感心していると、僕らの座るゆるやかな勾配の坂を風が上ってきて髪をさらっていった。ハルはときおり乱された長い髪が口の端に入って、何度も口の端を小指で撫でている。僕はその隣で、彼女の絵が出来るのを楽しみに、時々短い会話を交わして笑ったりしながら待っていた。 絵が完成したのはほとんど十二時ごろになった。さきほどのあの入道雲を書き始めてから二時間になり、もうその雲もどろりと青空に溶け込み始めていた。 「夏って感じがする絵だね。すごくいい」 「暑さが伝わってくるでしょ」 「うん、タイトルは『中二の夏の青空』ってところかな。部屋に永久に飾っておきたいくらいだよ。自分の宿題の参考にもなるしね」 「欲しいなら夏いっぱい貸してあげるわよ。画集にしてコンクールに出すのは夏休み明けだから。部屋に飾るなり何なり、お好きにどうぞ」 「じゃあ、夏の間だけ借りるよ、ありがとう。......ハルは将来画家になるの?」 「わかんない。だってあたし高校生の自分すら想像できないもの。まして大人の自分なんてぜんぜんわかんないんだ」 とそれを言ったきり彼女は少し黙り、それから僕の手を軽く握って立ち上がった。 「どこか、お昼食べに行こうよ。そろそろおなかもすいてるでしょ?」 そのあと僕らは昼を食べ、その店で新聞紙を貰ってハルの絵を梱包して持ち帰った。 しかし翌日にはどういうわけかその絵が僕の部屋から消えていた。いったいなぜ消えたのか見当もつかなかった僕は、家中を手当たり次第探してみたが結局見つからず、僕は夏休み明け、ハルに必死に謝った。そのとき確か彼女はこんなようなことを言っていた。 「しょうがないわね。きっと忘れたころに出てくるわ。何年後かしらね。六年後とか? まぁ見つかったら早く返して頂戴ね」 彼女は半ばあきれた様子で苦笑いしていたが、本気で怒ってキレしまわないところが彼女の良さだった。そして当時の僕が彼女と付き合っていたのもそういうところに惚れていたからだと思う。 その絵が再び僕の前に現れたのは彼女の予言どおり、それから六年が過ぎたある六月の事だった。 2 六月の初めごろ、大学からの帰り道で酔っ払いの中年男に理不尽な理由でからまれた僕は、少しもめた挙句、しつこいので目を覚まさせるために一発頬へビンタを入れた。その酔っ払いは急に冷静になったのか、今度は「このおにいちゃんにおれは今なぐられたぞぉ!」というような事をわめきだした。次第に周囲の人もざわめき始めてしまい、結果として警察に通報され、眠そうな警官にいくらか事情聴取を受けたあと、(僕は一切酒を飲んでいないのに)酔っ払い同士の喧嘩として処分されてしまった。僕はあまりに納得がいかないので、酔っ払いとなにやら話している警官に声をかけ、振り向いたところにまた思い切りビンタ一発入れた。眠そうだった警官も一気に目を見開いてこちらを見た。怒りというより、その目には驚きが多く含まれていた。 「なんだ、目が開くじゃないか。良くその目を使ってみておけアホ」 と流れに任せて捨てゼリフを吐いてしまうと、近くに乗り捨ててあった自転車にまたがり全力でペダルをこいで逃げた。いつまでも警官は追ってこなかった。 その日家に帰ると僕はとても疲れていた。何もかもが憂鬱に感じられ、部屋にかかった時計の音にさえ耳を塞ぎたいくらいだった。しかし五分もそうしていると、ある懐かしい音楽が不意に頭の中で流れ始めた。一時期とても好きだったジャズの曲だ。いつだったろうか、一年前......二年前......。僕は溜まった洗濯物を処理するように思考を回転させ始めた。たしか、これは僕達が中学二年のころにはまっていた曲だ。とするともう六年も前のことになる。僕はそのころから父親の影響でとてもジャズが好きで、大半のレコードだって未開封のままの保存用といつも聞くための鑑賞用の二枚ずつを持っていた。無性にその曲が聞きたくなって、押入れの中に潜りこんであらゆるダンボールを開ける作業にすぐさま取り掛かった。もともと一人暮らしで荷物も多くなかったので、レコードの入ったダンボールもすぐに見つかった。その中から目当ての二枚を取り出した。『Alice in wonderland』という曲だった。一枚はジャケットもボロボロだが、一枚はまだ未開封だ。一体、中学生の僕はこの保存用をいつまで保存しておきたかったのだろう。そして何の為に保存したかったのだろう。百年先までとっておいたところでプレーヤーはもう無いかもしれないし、百万年先までとっておいたところで人類はもういないかもしれないというのに。 その二枚を引っ張り出し、押入れから体ごと抜け出した。まじまじとそれらを眺めていると、未開封のはずのレコードのパッケージがわずかにずれている事に気づいた。まるで一度あけたかのような跡だったが、昔の僕がそんなことをするわけが無い事はわかっていた。少し不思議に思った僕はその好奇心に身を委ねて、今となってはなんの躊躇も無くそのパッケージを開けた。中のレコードを取り出そうとしたが、中から出てきたのはレコードではなく、ちょうど同じくらいの厚さに折りたたまれた画用紙だった。僕はそれがなんだったか全く思い出せなかった。なにかのポスターを隠していたわけでもないし、それなら観賞用のケースを使えばいい。裏に名前があった。とても上品な字体だ。 「Haru Otsuka」 少し部屋に沈黙が流れた。もともと誰も喋ってはいなかったが、それでも確かに部屋の中に存在していた流動的な雰囲気というものまでがその時ばかりは動きを止めていた。それからすぐさま画用紙を開いた。それは六年前、中学生だった僕の部屋から姿を消したあの絵に違いなかった。 気づくと外では雨が降っている。とても強い雨が、僕の部屋の立て付けの悪い窓を激しく打ってピシピシと言わせている。まるで僕の先ほどのビンタと逃走をとがめるような雨だなと感じ、まだ梅雨だったのだとポツリと思った。しかし、僕は今の天気とは相反する六年前のあの青空を眺めていた。それから僕が、これを返しに行こうと決断を下すまでにさほど時間はかからなかった。人から借りていたものは返すのが当然だし、何より六年前、絵をなくした僕を怒らなかった彼女が唯一言った「見つかったら早く返して頂戴ね」という言葉を裏切るわけにはいかないと思ったのだ。 翌朝夜明け前に、リュックに荷物を詰めて高校時代から遠出をするときには決まって乗っているマウンテンバイクをアパートの共同倉庫から出してきた。 田舎の私立中学校を卒業すると同時に、進学校があるこちらの都会へ引っ越した僕はそれ以来ほとんど彼女とも連絡を取っていなかったが、半年、あるいは一年の周期で繰り返される文通がかろうじて彼女をいまでも僕の中に新鮮な存在のまま保たせていた。その文通の住所から、彼女はまだ川沿いの町にいるらしいことが分かっている。 最後に、大きめのベニヤ板に絵を広げ、それを新聞紙で梱包してリュックにくくりつけた。なにかの鎧のようになったリュックを背負い、僕はアパートを出た。まだ暗い。Gショックのバックライトをつけて時間を確認すると、まだ四時前だった。僕はバックライトをつけて時間を確認するたび、ぞくぞくする。昼間に、あるいは朝に何気なく時間を見るのとは違う。暗闇の中で、それでも時間を確認しなければならない何かしらの特別な理由がそこにはあるからだ。 まだ大型トラックばかりが過ぎてゆく未明の国道を、僕は快走していた。夜明け前の青白い世界は、トラックのエンジン音をどこまでも響かせる事が出来る。そしてそれは僕を少し孤独な気分にさせる。 三十分も走ると急に空のふちが明るみだし、車もだんだんと自家用車が増えてきた。こんなにも早くから出かけるとは、この車たちはいったいどこへ行くというのだろう? 『自転車に乗るということは果てしない考え事と疑問の海を泳ぐ事に似ている』ということに気づいたのは高校一年生のころだった。自転車に乗っているとき決まって僕は考え事をしていたし、忙しかったそのころの僕にとってそれはとても貴重な思考の時間だった。僕は自転車の上であらゆることを考え、またそのまま自転車でどこまでも遠出した。僕が当時少しでも仲の良かったクラスメートに必ず漏らしていた言葉は「自転車ってのは、哲学の入り口なんだ」ということだった。言いふらすのはかっこつけに他ならないが、いまだにその事実だけはあながち間違いでもないと思っている。 世界が完全に朝を迎えると、僕は国道沿いの大きな公園で軽い食事をとった。乾いた口の中でパサついたカロリーメイトを、スポーツドリンクで流し込みながら地図を広げた。今きたルートを指先でなぞり、尺取虫のように指を広げては閉じて距離を測る。この分ならどうやら昼ごろには山のふもとの峠の入り口にはつけそうだ。山頂の食堂で昼が食べられるだろう。そこでは、このぱさぱさした食事じゃなく、何か食べやすい麺類を食べる事に決めた。 僕は八時には公園を出た。まだ風は涼しいが、その空気にはわずかな夏の気配を、しかし確かに感じとることが出来る。僕はそういった瞬間をとても幸せに感じる。あの嫌気が差すほど暑い夏が、まだこんなにも心地よい。猛獣だって子どものころはかわいいように、夏だって最初は親しみやすいものなのだ。 町を抜け、田畑のわき道を走り、橋を渡り、ひたすらに僕は走り続けた。 少し遅れはしたものの、大体予想通りに峠の入り口につくことが出来た。昨日まで降っていた雨で、山林は随分湿っていた。風が吹き、木々が揺れるたびに水滴が落ちる音がした。峠を登り始めると、山頂から流れる雨水が道の側溝をさらさらとながれている。どうやら昨日もかなり雨が降ったらしい。僕は木々の間から空を見上げ、どんよりとした高曇りの空にうんざりとした気分になった。ひょっとすると、また雨が降るかもしれない。 同時に僕はひどく腹が減っていた。生きるものの宿命だ。僕はとにかく山頂までの辛抱、と歯を食いしばってペダルをこぎ続けていたが、ついに中腹にも及ばない地点でぱたりと足が動かなくなった。 「あまりに腹が減りすぎるとね、本当に体が動かなくなることがある。おなかが減って動けないよぅ、というのじゃなくて、本当に、動かなくなってしまうんだ。ハンガーノックって言ってね。私も無茶な若者だったころなったことがある」 行きつけのバイクショップの主人がいつか僕に語ってくれた話だ。今、ちょうど僕もそれになってしまったというわけか。つまり僕は無茶な若者だったのだ。......それで、ハンガーノックになったときはどうすればいいのだったろうか? たしかその話には続きがあったはずだ。しかしいくら頭を絞っても一向に思い出せない、どうやら動かないのは体だけでなく頭もらしい。しばらくそうして黙って途方にくれていると、足元がふらついてよたついてきて、自転車ごと真横に倒れてしまった。あまりの情けなさに泣きそうになっていると、ちょうど横を通り過ぎた車が、僕のすぐ前に停車した。人は降りてこなかったが変わりに助手席の窓が開きぬっと男性が顔を出してこちらを見た。僕と同じくらいの年で、厚ぼったくない長めのお洒落な髪型の利発そうな雰囲気のある人だった。開いた窓枠の下に細い指が五本かかった。 「もしかして怪我でもしているのかい?」 僕は道端に倒れた情けない格好で「いえ、おなかがすきすぎて体が動かなくなってしまったんです」と答えた。言ってしまってから少し後悔した。これではただの根性なしみたいではないか。やはり彼は不思議そうに眉をひそめ、首を窓の中へと引っ込めた。後ろの窓から見える車内のシルエットで、彼が運転手と話しているらしいことがわかった。すぐに話がまとまったらしく、また首が出てきた。 「ハンガーノック」と彼は言った。「というやつだね。運転手のハーリーがライダーなんだ。事情は分かった。山頂までとりあえず送るよ」 僕は面食らった。突然道端で出会った僕を山頂まで送ってくれるのはうれしいけれど、申し訳ない気分だった。僕がまごついているのを見て彼は、 「この頂上にね、僕らの店があるんだ。そこで食べて行ってくれるなら送るよ。それなら、こっちもお客さまを連れて行くっていう正当な理由になる」 後ろの窓越しに、運転席から親指をつきたてたグーサインが高らかに上がるのが見えた。 「でも自転車がありますし」 「ハーリーはライダーだからね。車の屋根の上に自転車をとめられるようにしてあるのさ。よし、決まりだ。ここで話している時間ももったいないし早く行こう」 言うが早いか彼は車から降り、僕にチョコレートを無理やり含ませて自転車から引き剥がすと僕を車に引きずり乗せ、自転車を屋根にくくりつけていた。僕はいつでも強引さに弱い。そのとき、耳打ちするように彼は自己紹介をした。「僕は春日という名前だ」 車に乗ると、ハーリーと呼ばれた運転手がいた。予想に反して彼は清潔な風貌をしていて、ひげはきれいに整えられているし、ブラウンの短い髪の毛も適度にムースで立てられていた。ライダーというから、もっと筋肉質でいかつい外人を想像していたがまったくの的外れだった。腕には血管が浮き出ていて、彼もまたハンドルを握る指が細く長かった。乗り込んできた春日君と一度バックミラー越しに目が合ったが、彼はびっくりしたようにすぐ目を逸らした。 ハーリーのヴィブラートがかかった美しい口笛を聞きながら、数十分も峠を行くと、車はレンガとクリーム色のお洒落な外壁の小さな店の前に止まった。気づくといつのまにか体も動くようになっていて、頭も同時に回りだし、僕はやっと思い出した。主人はあの時こう続けたのだ。「そういう時はチョコレートを一つ食べるといい。すぐに体が動くよ」と。 「お客様、到着でございます。今オーダーをお取りしますので、どうぞ」 春日君はつくろったように微笑みながら僕に訊いた。 「あたたかい汁物はあるかな。山頂の食堂でラーメンでも食べようと思っていたんだけれど、この様子の店にラーメンなんてなさそうだね」 「ラーメンならあるとも。こんな場所でコーヒーとケーキしか出さない店を作ったところでやっていけないよ。なんせ俺らが相手するのは君みたいな腹ペコのライダー達が大半だぜ?」 それもそうだと僕は納得して、塩ラーメンを頼んだ。 数分間、僕が恐ろしい空腹にもだえながら塩ラーメンを待っていると、比較的早く彼が店から盆にどんぶりを乗せて帰ってきた。 「急患だって言ってどのお客さんよりも優先して作らせた。たぶん硬いけれど我慢してくれ」 ちょうどそう言ったとき、彼はまぶたをぴくりと動かした。 「いま、雨粒がまぶたにあたったんだ」彼は注意深い目で空を眺めた。僕も真似して空を見てみた。雲が非常にゆっくりと流れている。山の上だけあって、涼しい風が吹き抜けていった。 「雨が来ると思う。もう歩けるだろ? ラーメン持って店に入ったほうがいい」 僕は言われたとおり店の中へラーメンを持っていって、夢中でがっついた。おいしいラーメンだった。あっさりとした辛味の無い塩スープに、シャキシャキとした野菜がよくあっている。ハーリーと春日君は厨房で自分達と従業員(といっても彼らのほかには一人しか見当たらなかったが)の食事のためにパンを切ってトマトやレタスや大きなハムを適当な厚さに切ってはさんでいた。客も僕の他に、派手な服をきたライダーが二、三人カウンターに座っている。よく見回すと店内は二階までが吹き抜けになっていて、とても広く見える。春日君とハーリーとそのほかの従業員の生活スペースは地下と三階にあると彼らが説明してくれた。店のすみには小さなステージがあり、小さめのグランドピアノにスポットが当たっていた。 「ここはジャズ喫茶なんですか?」 「いや、強いて言うならジャズ茶屋だね」とハーリーが流暢な日本語で答えた。 「誰がピアノを?」と続けて聞くと、二人ともがお互いを指差した。なるほど、二人ともピアニストなわけだ。そういえば、と彼らの細長い指を思い出して納得するところがあった。 「僕も、ジャズが好きです。アルトサックスが吹けるんですよ。中高と吹奏楽をやっていて、今でも細々続けているんです」 「アルトかぁ、そういえば、地下に俺のおじさんのがあったはずだな。古いけどいい鳴りのセルマーだよ。ちょっと待ってて」 春日君はそういうと店のはじにある階段を下って地下へもぐり、サックスを取ってきた。ほとんど傷の無いいいもので、彼のおじさんがいかに大事に扱っていたかが分かる。僕はケースに一緒に入っていた未開封のリードを取り出してマウスピースにつけ、すこし音を出してみた。甘い音がする。久しく吹いていなかったが、少し肺活量が落ちた程度でまだ力は衰えていない。吹き抜けにサックスのヴィブラートが響き、ほかの客が「演奏会が始まるのかな?」という様子でステージの様子を覗きに来ていた。響きに耳を澄ませて天井を見上げたとき、天窓の存在に気がついた。いつの間にか雨は強くなっていたらしい。天窓の表面を雨が流れている。 「すこし何か演奏しよう」と春日君がカウンターから出てきてピアノの椅子に腰掛けた。よく見ると、そのピアノはベヒシュタイン製のものだった。世界三大ピアノの一つであり、まぁその分値段も恐ろしく高いピアノの一つだ。よくもこの小さな店で買えたものだと僕は思った。 「Alice in wonderland なんてどうかな」 と春日君が言った。 僕は不意に飛び出したその名前に驚いた。僕がこの旅に出るときに探し当てたレコードの曲であり、僕の思い出の曲だ。春日君とは趣味が合うようだ、僕は喜んで承諾した。 春日君が前奏を奏で始め、僕はそれを聞き彼と目で合図しながらメロディが入るタイミングを探っている。彼の演奏はアレンジもほどほどで、メロディが美しく栄(は)えるようにできていた。僕のメロディが入ると、彼は僕に合わせるように自由自在にピアノを弾いた。なぜだかとても吹きやすかった。彼の細く長い指は鍵盤上で躍っているようにさえ見えた。ベヒシュタインで弾くジャズははじめて聴いたが、それは素敵なものだった。時々トッピングされる高音が、舞い落ちる雪のようにきらきらと光っている。 演奏が終るとお客さんが拍手をくれたので、僕らは立ち上がって軽くおじぎをした。 「いい演奏だったよ。ありがとう」と僕と春日君は握手を交わした。しかし僕は演奏中に、なぜだかとても寂しい気持ちになった。いったいなぜだろう、彼のピアノのせいだろうか。 「今日、君はもちろん泊まっていくね」とハーリーが窓の外のどしゃ降りの風景を指差していった。「ここにはお客さんを泊めるための部屋も二部屋あるんだ」と続けて彼はこう耳打ちをしてきた。「本当は予約なしで当日に料金を払って泊まってもらうんだけど、今日は春日のヤツのサービスでただで泊めてやるとよ」ここで彼は声を戻した。「雨風もひどいし、このまま行くと逆に危ないぜ」 「せっかく会って演奏したのもなにかの縁さ。今日はゆっくりしていくんだね」 そういわれて吹き抜けにせり出した二階の部屋を借りた僕は、鍵を受け取ると荷物を置いてから下のカウンターで夜の九時ごろまでピアノで遊んだりしながら彼らと談笑した。 そのあと、疲れていた僕はすぐに寝てしまった。 翌日に起きたのは四時ごろだったが、それでも七時間近くは寝ていたのだから驚きだった。僕は店から流れる静かなピアノで目が覚めた。「朝日の如くさわやかに」というジャズだった。僕と、隣の部屋で寝ていたライダーはそれでまさしくさわやかに目覚め、部屋から出て伸びをした。隣のライダーは伸びたひげの感触を指先で確かめたりしていた。 「ここの朝は早いんだ」とハーリーは誰に言うでもなく言っていた。 六時にはライダーが店を出発し、雨のやんでいる隙に水溜りを蹴散らしながら勢いよく山を下っていった。僕は部屋のシーツの取替えや皿洗いを手伝いながら今日の予定を立てていた。昼には彼女のいるアパートに着きたいと考えたので、その旨を春日君に伝えると、七時過ぎにここを出るといい、と忠告を与えてくれた。 時々暇なハーリーが弾くピアノに耳を傾けながら、僕は何の滞りも無く準備を進め、七時過ぎを迎えた。いざ、僕がボロのマウンテンバイクに乗って出発せんとしているときに、春日君が僕を引きとめた。そうして店から戻ってきた彼が持っていたのは黄ばんだ紙だった。 「楽譜さ。今は時間が無い。山を降りて音楽と触れ合う機会があったらぜひ見てみてくれ。俺たちが作曲した曲だ」彼はすこし微笑んだ。 僕はそれと、泊めてもらった事や助けてもらった事に何度も頭を下げ、自転車にまたがって緩やかな坂を下り始めた。「また寄れよ!」というハーリーの声が遠い後ろから聞こえた。 峠を下っていると案の定ぽつぽつとまた霧雨が降り始めた。僕は絵も心配だからリュックからレインコートを取り出してリュックの上から着て、なおもこぎ続けた。 登りよりもはるかに楽に山のふもとに到着すると、またも高曇りの空を見てうんざりとした気分になった。時計を確かめ、休憩を取りチョコレートを食べ、また走り、休んでは走った。自転車をこぎながら、いまさら自分が彼女を突然訪れる事の突拍子の無さに驚いていた。もしかしたら彼女は留守かもしれないというのに。僕は何だってこんな必死に走るのだろう。彼女に会うためか、あるいは絵を返すためか? 彼女の住む大きな川の支流沿いにやっと出たころ、僕は自分の中で先ほどの疑問について結論が出始めていた。 「僕は、あのころの僕自身に会いたいのだ」 あのころの僕は研究に追われることも無く、教授にくどくどいやみを言われながら研究室に泊り込むことも無かった。思春期と反抗期を盾に多少の自由とわがままがまかり通る時期で、青春を武器に何もおそれることの無い自分がいた時期でもあった。僕は自分の過去を振り返るという段になると必ずそのころの自分をうらやましく思う。本を一冊も読まない無知な幼いころに行った数々のばかげた遊びや、純粋な中学生のころに彼女とデートした時見た化粧っ気の無い彼女の横顔、どれもおそらくもう戻っては来ない記憶の中のことなのだ。たとえ今おなじ場所で同じ事をしたとしても過去には帰れない。なぜなら僕はもうあのころの僕ではないし、友達も、彼女もまたあのころのままではないからだ。 彼の言ったとおり、僕は昼ごろには彼女のアパート付近で地図を広げていた。まだぱらつく雨の中、川沿いで番地を確認し、彼女のアパートのある方向を探った。ふと、川の対岸で増水した川を眺めている女の人がいるのに気がついた。僕は彼女に道を聞こうと考えて、橋を渡ると、すぐに声をかけた。振り返ったときに目が合って、お互いに「あ」と思ったのが表情から読み取れた。 「道を聞こうと思ったんだけど、もしかしてハル?」 「そうよ、ハルよ。久しぶりね、坂田君」彼女は親しみを込めた笑顔で僕を見た。 「ハル、用があってきたんだ」というと、ハルは僕の風貌を見て吹き出した。 「坂田君、世界一周旅行にでも行くのかと思った。いいわよ、うちにいきましょ」 ハルは僕の手をひいて歩き始めた。悲しい事に、やはりそこにはあのころの初々しさと興奮はなかった。 「ハル、彼氏はいるの?」と訊くと、ハルは歩きながら見落としてしまいそうなほど小さく頷いた。しかし彼女が僕の手を握る強さはさらに一段と強くなった。僕は先ほどとは真逆の感情として幸せを感じていた。 彼女はこの界隈では比較的あたらしいアパートに住んでいた。彼女は僕を家の中に通すと、タオルで服についた雨粒を拭きとり、髪の毛を拭いてくれた。タオルで僕の頭をもみながら、ハルは「用事って何かしら?」と愉快そうに言った。 「絵だよ」と僕は言った。「六年前、僕が無くしたあの絵のこと」彼女の手がはたと止まった。「『中二の夏の青空』ね」 「昨日、レコードの中から出てきたんだ。たぶん、おやじが僕のレコードを盗んだときカモフラージュに折って入れたんだと思う」 彼女は、ジャズ好きだったもんね、あなたもお父さんも、と言った。 「ほら、あなたと水野さんと古関君でジャズのバンド組んでたじゃない。たしか『Young diehards』って名前の」 僕はそのとき久しぶりに水野と古関、そして『Young diehards』の名前を聞いた。 水野はテナーサックスを吹く女の子だった。透き通る彼女の低音は美しいと呼ぶに値した。「だった」というのは彼女がもう亡くなったからだ。中三の夏、彼女は犬に噛まれた傷が元で急死した。ウイルスか何かが入ってしまったらしく、入院してから一週間ほど高熱を出し続け亡くなった。僕はそのとき初めて人というのは本当に簡単に死んでしまうということを知って、ことあるごとにひと夏中泣き続けていた。 古関という男子はピアノを担当していた。彼のジャズセンスたるや驚きで、先生や生徒、果ては保護者の間でも彼がプロになるのは間違いないとまことしやかにささやかれていた。その古関は水野の死から半年後の冬、ある晴れた日に先生を殴って退学になった。しかし僕は彼が家庭の金銭的な事情で私立の高い学費を払えなくなっていて、卒業できないのは知っていたから、彼が先生を殴って退学になったときはなるほどと思った。彼は家庭の名誉を守ると共に(教師を殴ったという話は、そのプライドの高い教師自身が徹底的に口止めしていたから一般的な保護者は彼の親の転勤のためと信じ込んだ)、生徒から嫌われていたその先生を殴って日ごろの生徒のうっぷんを一挙に解消して木枯らしの如く学校を去った。その後彼は連絡も取ってこないし、住所もわからないので会えなくなってしまった。 一人残された『Young diehards』の僕は受験して都会の進学校に進学し、本当に何もなく大学へと進んだ。人を殴りもしなかったし、犬に噛まれもしなかった。この旅の発端となったあの酔っ払いを殴ったのも本当に久しぶりだった。僕はいまだに酔っ払いを殴った事も、警官を殴った事も後悔していない、きっと古関もあれを後悔してはいないだろう。なんたって『Young diehards』(若き反抗者たち)なのだから、今も僕と同じ十九歳で彼はこの世のどこかで生活しているはずだ。 「あなたたちあのころ作曲活動もしてたわよね」という彼女の言葉で、僕は彼から渡された楽譜を思い出した。ポケットからすこし湿った紙を取り出し広げてみる。 表題をみて僕は声も出ないほどに驚いた。それは僕らが作曲したはずの曲だった。しかも、解散して以来行方が分からなくなっていたその作曲途中の譜面は完成していた。僕は、春日君が僕に紙を渡す時に言った言葉を思い出した。 「俺たちが作曲した曲だ」 僕はあまりに驚いてハルの顔を見た。 「どうしたの?」と心配そうにハルが目を覗いてきた。僕はなるべく冷静を装って、「なんでもないよ、すごくいい曲なんだ、これ」とだけ答えた。窓の外に見えていた高曇りの風景がいつの間にか晴れ始めていた。青空を見るのは何日ぶりだろう? そして彼女と見る青空は、いったい何年ぶりだろう? 僕とハルは持ってきた絵を広げてベランダに出た。湿気を帯びた生ぬるい風が吹き抜け、僕にとって大学二年の夏がもう目の前に来ていることを強く予感した。 |




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