第25回織田作之助賞 青春賞佳作作品

■ ■ ■ 青春賞佳作作品 ■ ■ ■

★『ユメノシマ』 深山あいこ

 空はどこまでも白く、名もなき黒い鳥がはるか頭上を飛んでいた。男は視線を足元へと戻すと、自分の傍にあるごみを片っ端から車の荷台へと積み込み始めた。
 そこは「ユメノシマ」と呼ばれていた。山を越え海を越え、何十年もかけて進める限りを進むと世界の最果てに到着する。その最果ての果ての果てに存在する場所だった。世界中で捨てられたありとあらゆるものが集められるため、見渡す限りおぞましいほどのごみで埋め尽くされている。男の仕事はそのごみひたすらかき集めて、焼却炉で燃やすことだった。
 荷台が一杯になったことを確認してから男は運転席に乗り込んだ。辛うじて通れそうな場所を選びながら、ごみの山を縫うようにして車を走らせる。いくらか走ると真っ黒い煙が大量に立ち昇っているのが目に入り、やがてビルのように巨大な焼却炉が現れた。
 男は焼却炉の手前に車を止め、炉の横についているレバーを引いた。いくつもの歯車がきりきりと回り、巨大な扉が耳障りな音を立てながら開いていく。途端に周囲を熱気が包み込み、男のしわだらけの肌から一気に汗が噴き出した。
 もう、時間がない。
 舞い踊る炎の中へ板切れや紙くずを放り込みながら、男は考えた。強烈な熱風が容赦なく男の体力を削り取っていく。
 年老いたこの身体では、いつまでまともに動けるかわからない。早くごみを燃やさなくてはいけない。すべて、燃やし尽くしてしまわなくては。
 荷台に積んであったものをすべて焼却炉に捨ててしまうと、男は重い身体を引きずって再び車へ乗り込んだ。際限なく散らばる不用品を踏みつけながら、車は亀のようにとろとろと進んでいく。
 しばらく走っていると、ふと人影が目に入った。一際小高い山の上を這いつくばるようにして、夢中でごみをかき分けている。
 何だ、あれは。なぜ、こんなところに人間が。
「おい、あんた。ここで一体何をしているんだ」
 男はいぶかしく思いつつ車を止め、山の上の人影に向かって怒鳴った。しかし、距離が遠くて聞こえないのか、人影が作業をやめる気配はない。
 男は仕方なしに車を降り、悪戦苦闘しながら山を登り始めた。がらくたでできた足場はひどく不安定なうえ、サビの浮き始めた身体では余計に登りづらい。男は何度か足を取られながらもようやく山を登りきった。
 人影は中年の男性だった。恰幅が良く、高価なスーツと靴を身につけている。その仕立ての良い服が汚れるのにも構わずに、彼はごみの中にひざまずいて一心不乱に何かを探していた。
「あんた、何だってこんなところにいるんだ。ここはあんたのような人間が来る場所じゃない」
 男が声をかけると、男性はぱっと顔を上げ、必死の形相ですがり付いてきた。
「あるものを探しているんです。とても大事なものだったのに、うっかり捨ててしまったんです。ここでなら見つかるかもしれない。ご老人、お願いだ、一緒に探してください」
「困るよ、あんた。突然そんなことを言われても......」
 男はひどく困惑した。ユメノシマへ来て随分と経つが、失せ物探しを頼まれたことはもちろん、人が訪ねてきたことだって一度もない。自分にはごみを燃やすという大切な仕事があるのに、それを放り出してまで見知らぬ人間の頼みを聞く必要があるだろうか。
「すまない、俺には仕事があるんだ」
 迷った末、男は男性の頼みを断ろうとした。しかし、男性は「少しだけでいいから」と取りすがったまま、一歩も引こうとしない。
「お願いです。あなたならわかるかもしれないんだ。一緒に探してください」
「勘弁してくれ。早く仕事を片付けなくてはいけないんだ」
「仕事なら一緒に手伝います。だから、どうかこのとおり」
 地面に頭を何度もこすり付けるようにして懇願され、男はとうとう観念して探し物を手伝うことにした。
「で、あんたが探しているものは何なんだ」
「金でできた懐中時計です。細めの鎖が付いているもので、文字盤は確かギリシア文字だったと思います」
「懐中時計、か」
 男はその時計を知っているような気がした。長く繊細な金の鎖が動くたびにしゃらりと鳴り、曇り一つない本体には美しい彫刻が施されていたはずだ。一体、どこで見たのだろうか。
「随分高そうな時計だな。そんなものを、どうして捨てるようなまねをしたんだ」
 隣で四つんばいになってごみを漁る男性に問いかけると、男性は困ったように微笑んだ。
「実は、友人に盗られてしまったんです。彼とは古くからの間柄ですが、起こした事業がうまく軌道に乗らず苦しんでいました。何度か資金の援助をして欲しいと頼まれたので、お金を貸したこともあります。まあ、結果的には戻ってこなかったのですが......」
 返すつもりがなかったわけじゃなく、返す算段がつかなかったんだ。
 男は考えながら男性に話の続きを促した。額に汗をかきながら時計を探している男性の横顔は、遠い昔に親しくしていた、もう顔も思い出せない友人のことを思い出させた。
「ある日、友人から『借りた金を返したい』という連絡がありました。僕は彼の会社がようやく波に乗り始めたのだと思い、喜んで彼を家に招待しました。応接室でしばらく話をしてから、手洗いに行こうと彼を残して席を立ちました。戻ってくると、テーブルの上に置いていた懐中時計ごと彼の姿が消えてしまっていたんです。それから彼とは一切連絡が取れなくなり、今に至るというわけです」
「なるほど。あんたも大概お人よしだな。散々金の工面をさせられて、あげく時計まで盗られるなんて」
 男は皮肉を口にしつつも、時計の行方を記憶の底から引っ張り出そうと懸命になった。
 絶対に見たことがあるし、この手に持ったことだってあるはずだ。なぜなら、自分の手のひらがその重さを覚えているのだから。
「その友人を憎まなかったのか」
「もちろん憎みましたとも。本当に、思い返すだけで頭が張り裂け、気が狂いそうになるほどに憎みました。もちろん時計のこともありましたが、僕が彼に受けた仕打ちの中で最も辛かったのはそんなことじゃないんです」
 金の鎖を手繰り寄せるように、男は記憶の鎖を手繰っていく。
 本当は借りた金を返すつもりではなく、重ねて無心を頼もうと思って友人の元を訪れたのだ。だが、何も知らずに喜ぶ友人を前にして、あまりの体裁の悪さにどうしても頼むことができなかった。
 そのとき、無造作に置かれていた時計が目に入った。金でできた美しい懐中時計。見るたびに友人を羨み、自分もいつかはこんな時計を持ちたいと思い続けてきた時計。
 俺は馬鹿だった。こんな時計、一生かかっても俺なんぞに持てるはずがない。これを見るたびに嫉妬と劣等感に苛まれながら生きていかなくてはいけないのか。
 唐突に友人が憎くてたまらなくなった。男は金の時計を引っ掴むと、友人の家を脱兎のごとく走り去った。
「辛かったのは、彼が僕を裏切ったことなんです。長く友人として過ごしてきた時間を、互いに信頼を築き上げてきた時間を捨てたんだ。僕は彼を親友だと思っていたのに」
「信頼......」
 男ははっとして外套のポケットを探った。指先に何かひやりとしたものが触れている。ゆっくりとポケットから出した手のひらの上には、懐かしい重みと共にくすんで傷だらけになった懐中時計があった。何度も金に換えようと質屋まで持っていったが、店の中に足を踏み入れることがどうしてもできなかったのだ。
 こんなに大切なことをどうして忘れていたのだろう。そうとも、捨てることなんてできなかった。この時計は、長きに渡って男性との友情を刻み続けてくれた物なのだから。
「ああ、これです! これこそ僕がずっと探していた時計だ!」
 時計を目にするなり、男性は目じりに涙を溜めて大喜びした。男の手から時計を受け取り、長い年月の間に付いた傷や汚れを指先で何度もなぞっている。友人の喜ぶ様子を見ているうちに申し訳なさで胸が一杯になり、男はごみの中に手を付いて頭を下げた。
「本当にすまなかった。ひどい裏切り方をしてしまったことを、ずっと後悔していた。君はあんなに俺のことを気にかけてくれていたのに」
「いや、もういいんだ。だって君は時計を捨てずにいてくれたじゃないか」
 男性はにっこりと微笑むと、ひざまずいて俯いたまま謝り続ける男の肩にそっと手を置いた。汚れた軍手をはめた男の右手を取り、友情の証にと、懐中時計をしっかりと握らせる。懐中時計は失っていた輝きを取り戻し、光を反射してきらめいた。
「僕の信頼をずっと持っていてくれて、どうもありがとう。本当に嬉しかったよ」
 不意に、右手に触れていた暖かさが消えた。

 男が顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。ただ一面に無機的なごみの山が広がるばかりだ。握り締めた手のひらをそっと広げてみたが、くたびれた軍手がはまっているだけだった。
「......俺は一体、何をしていたんだ?」
 おかしい。今まで誰かと話していたような気がするのだが。
 男は釈然としない思いに首をかしげながらも、再びごみを集めようと山を下って車へ戻った。体はひどく重かったが、不思議と心は軽く、朝方の薄青い空気を吸い込んだかのようにすがすがしい気持ちで一杯だった。男は鼻歌を歌いながら、手近にあった紙の束を持ち上げた。
「何かいいことがあったの?」
 突然背後から子どもの声が聞こえ、男は飛び上がらんばかりに驚いた。
 見れば、七つか八つほどの年の少年が男の顔を見上げている。少年の着ている服は襟も袖も伸びきっており、そこから覗く手首は骨が浮き出るほどに痩せていた。頬もこけていて、どんぐりのように大きな目が忙しなく動き回っている。
「何だ、坊主。一体どこから現れたんだ」
「さあ、どこからか忘れちゃったよ」
「ふざけたことを言うな。親はどこへ行ったんだ」
 辺りを見回してみたものの、親らしき人間はどこにもいなかった。だが、親を探して歩き回ってやるほどの義理も時間も持ち合わせていない。無視して仕事を再開しようとした瞬間、少年が「親なんていないよ」とぽつりと呟いた。男は思わず作業の手を止めて少年を見やった。
「親がいないってのは本当か」
 少年は険しい表情で男の目を見つめていたが、やがてため息をついて小さく頷いた。
「お母さんは病気でとっくの昔に死んじゃった。お父さんは借金をたくさん作って、ぼくを捨ててどこかへ行っちゃったよ。だから、ぼく施設で育ったんだ」
 少年があまりにも淡々と話すので、男は何と声をかければいいのかわからなくなった。困り果てて黙ってしまった男をよそに、少年はごみの中からめっきの剥がれたロボットを見つけてきて、無邪気に遊んでいる。
「気の毒だが、俺にはどうすることもできない。ユメノシマの入り口まで送ってやるから、早く帰るんだ」
 車へ乗せてやろうと少年の腕を掴んだ途端、少年は激しく暴れて男の手を振り解いた。
「嫌だよ。ぼく、やらなきゃいけないことがあるんだから」
「こんなごみ溜めで一体何をやる必要があるんだ。いいから早く乗れ」
「紙飛行機を探してるんだよ」
「紙飛行機?」
 男はあっけに取られて少年の顔を覗きこんだ。少年は大真面目な顔をして頷き返す。
「紙飛行機なんて探す必要もないだろう。その辺に転がっている紙くずで作ればいいじゃないか」
 いろいろな形のものが腐るほど作れるぞと、男は笑いながらそこら中に落ちている紙切れの山を指差した。男のその態度がひどく癇に障ったらしく、少年の頬が見る間に怒りで赤く染まっていく。
「ばかにするな。そんなものいらないよ。ぼくが探しているのは、お父さんが作ってくれた紙飛行機だけだ」
 震える声で叫ぶと、少年は泣き出してしまった。
 これだから子どもは苦手なんだ。男は苦々しく思いながら少年を無視してごみを片付け始めた。だが、背後から途切れることなく聞こえてくるすすり泣きが、針のように良心を突き刺してくる。とうとう耐え切れなくなり、男は仕方なしに「おい」と声をかけた。
「坊主、悪かったな。俺も一緒に探してやるよ」
「......ほんと?」
「ああ。だから、いい加減泣き止め」
 少年はしばらく鼻をすすったりしゃくりあげたりしていたが、ようやく涙が止まったのか、しっかり顔を上げて男を見た。
「で、その飛行機は何色でどんな形をしているんだ」
「白くて、形は普通だよ。それから、胴体のところにぼくの名前が書いてある」
 大して参考にならない答えに、男はこっそりと息を吐いた。辺りを見渡すと、書類の束から紙くずまで、白い紙なんて数え切れないほど落ちている。飛行機の形を留めたまま落ちていればいいが、ぐしゃぐしゃに丸まっていたり破れていたりするかもしれないし、この膨大な量のごみの下に埋もれてしまっているかもしれない。ひょっとしたら、とっくの昔に焼却炉で燃やしてしまった可能性もある。
 少年は男の懸念など露ほども知らず、黙々と紙くずを拾っては自分の名前がないかどうか確認している。少年が動くたびに擦り切れたズボンの裾から筋張った足首が見え隠れし、それがひどく哀れを誘った。
「坊主、どうして紙飛行機なんぞにそこまで執着するんだ。お前の親父はお前を捨てたんだろう。大事にする必要はないはずだ」
 少年はしばらく俯いたまま言葉を発しなかったが、「誕生日にくれたんだ」とやっと聞こえるほどの大きさで呟いた。
「ほんとは誕生日におもちゃの飛行機をお願いしてたんだ。ちゃんと動くし、空も飛べるやつだよ。でも『お金がないから飛行機が買えない』って、お父さんが泣きながらぼくに謝るんだ」
 男の脳裏に悲しそうな少年の顔がふと浮かんだ。そういえば、自分にも子どもがいたような気がする。その子どもは今どうしているだろう。
「それで、紙飛行機を折ってくれたんだ。いつかちゃんと飛ぶやつを買ってあげるから、今はこれで我慢してくれって。でも、お父さんはいなくなっちゃった。......ぼくのこと、嫌いになったのかな」
 そうだ、確かに自分にも息子がいた。満足に食わせてやれなかったせいでいつも腹を空かせていた。背は低く痩せていて、大きな瞳でじっと相手の目を見る癖がある子だった。家が困窮していることを知っていたのか、わがまま一つ言おうとしなかった。
 その子が言ったのだ、たった一度だけ「飛行機が欲しい」と。だからどうしても用意してやりたかったのに、日々の食事にさえ事欠くような状態だったため、おもちゃを買うこどなどできるはずがない。無理を承知で知人のところをいくつも回ったが、すでに借金まみれだった男に金を貸してくれる人は一人もいなかった。
 紙飛行機は男にできる精一杯の気持ちの表れだった。息子はぺらぺらの飛行機を見て顔を曇らせたが、すぐに笑顔を作って喜ぶふりをした。「大事にするから」と言って名前を書き込む姿を見るうちに、悔しさで胸が張り裂けそうになった。
 大切な子どもにさえ無理をさせてしまうなんて、なんて不甲斐ない親だろう。自分などと一緒にいるよりも施設に預けるほうが、この子は幸せになれるのではないだろうか。
「親が子どもを嫌いになるわけなどないだろう。お前を施設に預けたのだって、お前を思ってのことだ」
「......じゃあ、どうして迎えに来てくれなかったの? お父さん!」
 少年は悲鳴に近い声で叫び、目に涙を一杯溜めて男を見上げた。上を向いた拍子に涙がいくつも流れ落ち、頬を伝ってごみの上に降り注いでいく。
 ああ、俺はなんて馬鹿なんだ。これは俺の息子じゃないか。どうして今まで、こんなに愛しい顔を忘れてしまっていたのだろう。
 男は少年を引き寄せると抱きしめた。しがみ付いて大声で泣き続ける少年の頭を撫でながら、何度も「すまなかった」と繰り返した。
 決して捨てたわけじゃなかった。いつも気にかけていたし、一時だって忘れたことはなかった。顔を見たくてたまらなくなり、施設の前まで行って中の様子を探ろうとしたことだって何度もある。しかし、乞食同然の父の姿を見たときにどんな顔をするだろうかと考えると、恐ろしくて会いに行くことができなかったのだ。
 男は零れそうになる涙を堪えようと上を向いた。視界いっぱいに空が広がり、そのあまりの白さに目が痛くなる。無意識に目を細めた瞬間に、上空をゆっくりと旋回している黒い鳥の群れが飛び込んできた。その鳥たちの中に小さな違和感を覚えて、男は目を凝らした。
 黒い鳥の中に、白く光るものが混じっている。
「......見つけたぞ」
「え?」
「お前の飛行機だ」
 少年は勢いよく顔を上げ、涙を湛えたまま、目を皿のようにして鳥の群れを凝視した。紙飛行機は白い空に溶け込むようにして、ひっそりと飛び続けている。
「本当だ、ぼくの飛行機だ!」
 男は歓声を上げて跳ね回る少年を抱き上げた。紙飛行機は群れから離れると静かに滑空してきて、まるで意思を持っているかのように小さな手の中へと滑り込んだ。厚みのない胴体にはたどたどしい文字で少年の名が刻まれている。
「お父さん、ぼくの飛行機見つかったよ」
 少年が真っ白な飛行機に頬を寄せて笑う。男は言葉を発することができずに、ただ力いっぱい少年を抱きしめた。今まで伝えられなかったありったけの思いと愛情を込めて。
 捨てるわけなどない。本当はずっと一緒にいたかった。抱きしめてあげたかった。
「お父さん、大好きだよ」
 耳元で少年がささやいた。その瞬間、腕の中の少年は跡形もなく掻き消えた。

 男はしばらく何が起こったのかわからずに呆然としていた。中途半端に広げられた腕を見つめながら、たった今までこの腕に誰かを抱いていたような気がするのだが、と考えた。
 何だか体が重くて仕方がない。ほんの少し腕を上げることさえ難儀なくらいだ。それに目もよく見えないような気がする。
 息を切らしながらごみを車に積み込んでいると、「すみません」とためらいがちな声が聞こえた。
 男はもう驚かなかった。重い体を引きずるようにして、声が聞こえた方向を振り返った。
 声の主は若い女性だった。背がすらりと高く、ゆったりした白いワンピースを着ている。整った顔立ちをしていたが、とりわけ目元にあるほくろが印象的だった。
「あんたも探し物かい。一体何を探しているんだ」
「あの、鍵を」
「鍵? どんな鍵なんだ」
 女性は困ったように眉根を寄せた。しばらく言いよどんだ後、「それが、よくわからないんです」と蚊の鳴くような声で言った。
「よくわからない? 色や形がわからないと探しようがないだろう」
「でも、すごく大切なものなので、見ればきっとわかります。お願いします、一緒に探してください」
 深く頭を下げる女性の控えめだが必死な姿を見て、男は女性に好感を覚えた。
 どんなに頑張っても、おそらく仕事を終わらせることはできないだろう。どうせ終わらないのなら、最後にこの女性の頼みを聞いてやることぐらい許されるのではないだろうか。
「よし。見つかるかどうかわからないが、できる限りのことはしてやろう」
「本当ですか? ありがとうございます」
 女性の顔がぱっと明るくなった。
「その鍵は一体何の鍵なんだ」
 男は女性に尋ねながら、手当たり次第にごみを漁った。これだけ大量にものが溢れかえっているような場所で、鍵のように小さなものが見つかるとは到底思えない。しかし、投げ出すことはできなかった。
 女性は男の隣で足元に転がる不用品を確認しつつ、幸せそうに微笑んだ。
「新居の鍵なんです。今度子どもが産まれるので、思い切って引越しすることにしたんです。今住んでいるところでは手狭になってしまうので」
「ほう、それはめでたいことだ」
 言われてみれば腹が大きいような気がする。ワンピースを着ているのもそのためだろう。男は不躾にならないように女性の様子を確認した。女性は腹を圧迫しないように尻をついて座った状態で熱心に鍵を探していたが、男の視線に気づいて顔を上げた。
「あなたはどうしてここへ?」
 どうしてここへ?
 そういえば、俺はどうしてここにいるんだろう。一体、いつこのユメノシマへ来たんだろうか。
 瞬時に男の頭の中をいろいろなことが駆け巡った。両親のこと、友人のこと。死んでしまった妻と捨ててしまった子どものこと。誰かを傷つけたこともあるし、傷つけられたこともあった。愛したこともあるし、愛されたことも。
「思い出したよ、お嬢さん。俺はもうずっと昔に橋の下で息を引き取ったんだ。誰にも見取られず、寂しい最期だった」
 女性は何も言わず、静かに男の話を聴いている。男はそんな女性の顔を見て、なぜだか懐かしい気持ちでいっぱいになった。
「会社は倒産するし、たくさんの人間に騙された。現金なもんで、金がなくなったら友人だと思っていたやつらが手のひら返したように冷たくなった。妻が難病で苦しんでいるのに治療費さえ出すことができず、彼女は隙間風が吹くような小さな部屋で血を吐きながら死んでいったよ。小さな息子に飯を食わせることさえできなくなって、結局育てきれずに施設へ預けちまった。俺は夫としても父親としても、最低の人間だ」
 男は話し続ける。どうして自分がここにいるのか、やっと理解できたような気がした。
「俺は運命を憎んでいた。たった一人寒空の下で、枯れ木のような体で死の瞬間を待ち続けながら、社会を憎み、友を憎み、息子さえも憎もうとしていた。すべてをなかったことにしてしまいたかった。捨ててしまいたいと思っていたんだ。......このユメノシマは、俺が捨てたすべてのものでできていたんだ」
 限りなく続くごみの山のどれを取っても、男の記憶のかけらが詰まっている。ごみなどではなかった。ユメノシマは男にとって、かけがえのないものだったのだ。
「今も許せませんか? あなたの運命を。あなた自身を」
「いいや」
 男は微笑んだ。
「人生なんて、ごみのようなものだと思っていた。捨てても悔やむことはないだろうと思い込んでいた。だが、俺は危うく捨ててはいけないものまで一緒に捨ててしまうところだった。友人にやっと時計を返すことができた。息子の笑顔を何十年かぶりに見ることができた。それだけで十分だ」
 辺りを埋め尽くしていた大量のごみが、突然溶けるようになくなった。白い空がひび割れ、大地が胎動しているかのように脈打ち始める。
「すまないな。あんたの鍵を見つけることができなかった」
 男は地面に横たわった。体が重くていうことを利かず、言葉さえうまく話せているかわからない。しかし、不思議と恐ろしくはなかった。地面から心地よい振動が手を差し伸べ、男の意識を持ち去ろうとする。
「いいえ。鍵はもう見つかりましたよ」
 今にも閉じようとするまぶたを何とかこじ開けて、男は女性の顔を見つめた。女性は静かに座り込むと、優しい手つきで男の頭を撫でてくる。その心地よさと懐かしさに、男の目から涙が溢れた。
 どうしてこんなに懐かしいのかわかった。この人は、俺の。
「また会えるわ。約束よ。私のかわいい――」
 男の意識はそこで途切れた。

 暗い。狭い。どこにいるのかわからない。怖い。
 彼は抜け出そうと必死に手足を動かした。ひどく狭くて押しつぶされそうだ。
 どこからか声が聞こえる。
「もう少しよ、頑張って」
 懐かしい声に後押しされて、懸命にもがき続ける。やがて、小さな鍵穴が見えてきた。
 鍵は持っている。大丈夫、通れる。
 彼はためらわずに、小さな鍵穴をこじ開けて奥へと進んだ。

「産まれましたよ。男の赤ちゃんです」
 歓喜に満ちた看護婦の声に、女性は安堵のため息をついた。隣では夫が泣きながら「頑張ったな、よくやった」と繰り返している。
 看護婦の一人が泣き喚く赤ん坊を抱いて連れてきた。すでに産湯をつかわせ、産着を着せてある。女性は赤ん坊をぎこちない手で抱き、泣きぼくろのある目元をくしゃくしゃにして笑った。優しい手つきで小さな頭を撫でると、赤ん坊はすぐに泣き止んだ。
「また会えたわね、私のかわいい赤ちゃん」
 赤ん坊は小さなあくびをすると、穏やかな寝息を立て始めた。