第26回織田作之助賞 青春賞佳作作品

青春賞佳作作品

 ■「換気扇」 木田肇

 換気扇が回る。その右下に、「指を入れるな」という注意を示すシールが貼られている。それらのさらに下で私は脚を伸ばし、壁にもたれてタバコを吸っている。
 あのさ、タバコ吸うときだけは換気扇の下で吸ってもらっていい? 壁とかに色つくと、まずいじゃんやっぱり。
 ここに引っ越しきた初日、宏子は申し訳なさそうな顔で私に言った。いいよ、と私は答えた。
 換気扇。
「指を入れるな」シール。
 タバコ。
私。
気のおけない友達みたいだ。時計は八時前をさしていて、この部屋も、外も静かに時間が過ぎている。ときどき表の通りをバイクが通った。
 指、入れても大丈夫なんじゃないかな、と私は思う。あいた、くらいですむんじゃないだろうか。今まで何度も経験してきた、どこにでもある痛さ。指を突っこんで、羽が止まって、その羽が私の指の形に沿ってぐにゃりと変形するところがありありと想像できた。全然痛くないんじゃないだろうか。
 ドアの向こうで目覚まし時計が鳴り、十数秒後、チン、とそれは止まる。ベッドの軋む音がして、しばらくするとドアが引かれて宏子が出てきた。
 彼女は朝、起きてくると必ず自分の部屋の前で突っ立つ。そして目を擦りながら、
「おはよう」
と言う。何だかそれは、自分が眠いことを私に認めてもらうための仕草のように見える。
 ちひろは早いね。私はこの通り眠くて眠くてあなたみたいに早く起きられなかったわ。けどそれにはちゃんと理由があって、例えば昨日だったら遅くまで研究があったからなの。私が帰ったときちひろまだ起きてたから知ってるでしょう? 大変だったのよ、昨日。ラットが実験の途中で死んじゃってね、もう一回最初からやらなくちゃならなくなって。
――そんなところだろうか。
「おはよう」
 私は言う。ちゃんと朝らしく、明るく。
 宏子は確認するみたいに、うん、と頷いて洗面所に向かう。私はタバコを灰皿に押しつけ、冷蔵庫から卵を二つ取り出して玉子焼きを作る準備を始める。

「おいしい」
 私の作ったごはんを食べると、宏子は必ずそう言ってくれる。もちろん私としても嬉しいことなのだけど、本当に毎回必ず言うので私は一度冗談っぽく言ってみた。
 宏子は何でもおいしいって言うね――と。
 すると彼女は箸を止めて心外だという顔を作り、
「だって本当に毎回おいしいんだもん」
 と言った。
 私は宏子から目を逸らして下を向き、小さく笑った。宏子の真剣な顔なんて見てないよ、それに私は冗談で言ったんだよ、と訴えるために。
 そして宏子は今日も言った。
「おいしい」
 私は微笑んで「ありがと」と言う。

 駐輪場は一階の部屋のすぐ横にあるので、窓から宏子を見送る。
 歯ブラシを口に突っこみながら眺めていると、自転車に跨った宏子が手を振ってくる。白と黒のボーダーの半袖シャツに、色の濃いジーンズを履いている。
 私も手を振り返す。
 さっき、玄関で彼女は言った。
「今日、巧連れてきていい?」
 駄目なはずはなかったし、駄目だと思ったとしても駄目だなんて言うことはできない。意外と人の会話なんてものは、ほとんど必然性でできているんじゃないかと思う。
「もちろん、いいよ」
 私が言うと、宏子は、ありがと、と嬉しそうな顔をして出ていった。

 大学を出てどうしようか迷っていた――というか何も考えていなかった私に、「京都で一緒に住まない?」と宏子が声をかけてきたのは、卒業間近の三月にあった中学の同窓会のときだった。彼女は四月から大学院に進学することが決まっていた。
 私たちは、小、中と一緒で、高校から別々になった。私は宏子より十くらい偏差値の高い高校に入ったのだが、三年から通い始めた予備校で再会したときにはとっくに逆転されていて、冬にかけてさらに引き離された。彼女は京都の薬科大学に入学し、私は地元神戸の、たいして勉強しなくても受かる大学に入った。
「いいよ。やろう、やろうよ」
 私の一つ返事に周りの同級生たちは驚き、笑った。けれど宏子は笑顔で「本当? すごく楽しみ」と言った。本当に嬉しかったんだと思う。私も嬉しかった。四月からは、実家で無言のプレッシャーや微かだけど確かにある焦りを感じないですむんだと思った。
 そういうわけで、私たちは四月から京都の山科という町で一緒に暮らしている。

 明日が雨の予報だったので、私は洗濯機を回し、ついでに掃除機をかけた。脱衣所、トイレ、キッチン、ダイニング、私の部屋、宏子の部屋の順にかけるのが一番効率の良い方法。私と宏子の部屋の間のコンセントを使うと、ぎりぎりだけど一度もプラグを差し替えずに掃除が終わる。
 本を読んだり借りていた映画を観たりしていると、午後になっていた。私は自転車で少し遠くのスーパーに行き、ホワイトシチューの材料を買ってくる。エコ袋を持って行って、レジでスタンプを押してもらう。二十個貯まると百円の商品券と交換してくれるのだ。こっちに来て、すでにもう二枚もらった。
 家事はほとんど私がやっている。宏子がやっているのは、朝と夜の洗い物くらいだ。彼女は平日は朝九時から夜遅くまで研究室にこもって実験をしているし、土日もアルバイトが入っている。私と住み始めてから丸一日休みだったのは、ゴールデンウィークの途中二日間だけだった。そのときは二人で河原町に出て買い物をした。
 明らかに自分の方が家事に時間と労力を費やしているが、私はそれを不満には思わない。京都にやって来たのも、今はアルバイトをせずに生活しているのも私の意志だ。
 朝は先に起きるので、私がごはんを作る。宏子が学校から帰ってくるのは夜の十時とか十一時だから、さすがにそれを待つわけにはいかないので、七時ごろにまとめて作ってしまう。自分の分だけ作るのも二人分を作るのも変わらない。
 大学時代にアルバイトで稼いだお金を切り崩して生活し始めて三ヶ月。土地柄家賃は安いし、山科に宏子以外の友達もいないから遊ぶこともない。貯金はまだ十分ある。
 何だ一人暮らしって簡単だ、と私は思った。

 宏子が巧くんを連れて帰ってきたのは、私が一人ぼっちの晩ごはんを食べ終えてテレビを見ているときだった。時計の針は八時過ぎをさしていた。普段より二時間か三時間早い。
 巧くんは玄関で靴も脱がずに、
「はじめまして、住川巧です」
 と小さく頭をさげて言った。
 ひょろっとした印象の、けれどちゃんと見ると背は高くない男の子だった。前髪が短く、幼い顔は二つか三つ下に見えた。宏子は彼と大学時代から付き合っている。そして一緒に大学院に進学した。
「いいよ、あがってよ」と先にあがっていた宏子が笑って言う。
 巧くんは、お邪魔します、と言って靴を脱ぎ、遠慮がちにフローリングを踏みしめた。そしてそこからは無遠慮に、洞窟でも歩くみたいに上の方ばかり視線をやりながら奥に進んだ。
「広いねえ」
 彼はソファでもなくテーブルの前でもなく、つきっぱなしのテレビに背を向けた不自然な位置に腰をおろした。
 確かに私たちの家は広かった。六畳間が二つあり、和室を私が、洋室を宏子が使っている。ダイニングとキッチンを合わせて十四畳。風呂とトイレも分かれていて、壁紙も一年前に張り替えたばかりらしく真っ白だった。
「前田さん、一人じゃもてあますでしょ」
 巧くんが私の名前を知っていた。でもその声は、「前田」というよりも「マエダ」という感じで私の耳に響いた。
「そう、一人じゃもてあますよ」
 巧くんが私の名前を知っていたことなんて何でもない、気づきもしない、というふうに答えた。
「あ、シチューだ」
 キッチンで、鍋蓋を持った宏子が声をあげる。
「もしかして、巧の分も作ってくれたの?」
 私が「うん」と微笑んで見せると、宏子は申し訳なさそうな顔で「ありがとー」と言う。
 彼女は分かっていたのだ。巧くんが来るときいた私が、ちゃんと三人分の食事を作るということ、そしておそらくシチューを作ってくれるだろうということを。
 巧くんのシチュー好きは、前に宏子からきかされていた。いっぺんに十皿分作って、三日間それを食べて過ごすこともあるらしい。
 宏子が私にシチューを作らせるために巧くんの好みとその入れこみようが分かるエピソードを伝えていたとは言わないが、彼女はそういうことをほとんど無意識にやっているのだと思う。
「本当? 俺――シチューすげえ好きなんだ」
 巧くんはそう言って立ちあがり、鍋の蓋を持って中を覗く宏子のところまで歩く。
「良かったね」
 と宏子は半分自分の手柄みたいに言う。
「めちゃくちゃうまそうじゃん」
「ちひろのごはん、ほんとおいしいのよ」
「ああ、宏子、よく言ってたよなあ」
 笑顔で私のことを話して、しかも褒めてくれているのに、私は自分がただの話のネタにしかすぎないことを思い知らされる。
「二人、いいよ、座ってて」
 私がシチューに向かって歩きながら言うと、二人は「いいの?」「俺もやるよ?」とか言いながらもそこをどき、テーブルについて今日学校でやったらしい実験について話し始めた。あのラットの血圧が下がりすぎただの何だのと二人は真剣に話していた。私はシチューを温めながら、横ではオムレツを作った。
「シチュー、ごはんにかけたことある?」
 巧くんが言った。急に声が大きくなったので、私に話しかけていることが分かって振り返る。
 彼はあぐらをかいて、つまさきを手で持って、左右にぐらんぐらんと揺れていた。
 巧くんが特に馬鹿っぽい顔をしているわけではないけれど、何となく馬鹿っぽい置物に見えた。
「え、ないなあ。宏子、ある?」
 私が話を振ると、ありえない、という顔で宏子は顔を横に振った。そして実際に「ありえない」と声に出して呆れたように笑った。
 いや、うまいんだってこれが、と巧くんは揺れを激しくして言った。
 テーブルには、ごはんとシチューとオムレツが並んだ。二時間前に一人で食べたとき、オムレツはなかった。けれど今宏子と巧くんがテーブルについているのを見ると、オムレツ作ってよかった、と思った。二人以上の食事になると、急に彩りが重要になる。
 二人は、最初にシチューを啜った。
「ん、うまい」
「おいしい」
「な、ほんとにうまいよ。宏子が褒めるのが分かる」
 私はそれを、コンロの前でタバコを吸いながらきいていた。
 宏子も巧くんも、私にきこえるように、けれどあからさまには私を見ないのがおかしかった。ふふふ、と笑うと、料理を褒められて喜んでいると思われたな、と私は思った。
 二人の晩ごはんは十五分で終わった。おいしい、ということ以外、ほとんど喋らなかった。私はその間に三本タバコを吸った。
 シチューはまだ少し残っていた。
 そのあとは、三人でビールを十本以上飲んだ。宏子も巧も圧倒的に酒に強い。私は一本で顔が真っ赤になる。
 酒が入ると私たちの会話もそれなりに盛りあがった。私と宏子の高校時代の話がほとんどだったけど、巧くんはところどころで質問を入れて「へえ、そうなんだ」と興味深そうな声をあげた。

 カーペットの上でうつ伏せになって寝そべっているといつの間にか寝てしまったようで、目を覚ましたときは首の関節に違和感があった。けれどそれはゆっくりと慎重に首を回すと初めからなかったみたいに消えた。
 私のいるダイニングは真っ暗で、そのせいで宏子の部屋のドアの縁沿いにもれる細い光にすぐ気がついた。多分二人はその中にいる。壁にかかったアナログ時計に視線をやると、蛍光塗料のついた針は二時半をさしていた。
 一度体を起こそうとしたがすぐに諦めた。頭痛がするし、体が重い。
「あ」
 とメガホンを逆さに使ったような、こもった声があがる。宏子の声だ。私は目を開けて宏子の部屋のドアに顔を向けた。どうも首から下を動かす気になれなかった。
 ドアは閉まっていた。
「ああ」
 さっきより大きな声がきこえた。巧くんは、宏子に何をしているんだろう。一度目と二度目の声の間隔を考えると、挿入しているわけではなさそうだった。どこかを舐めているのだろうか。どこを?
 私は何だか急に彼らがくだらなく思えてきて、カーペットの短い毛に鼻をつけ、そこからゆっくりと力を抜いていった。鼻は横に広がって、つぶれた。思ったより痛くはなかった。私は鼻が低い。鼻骨が小さいのだ。
「鼻が低い」より、「鼻が小さい」より、「鼻骨が小さい」と言った方がかわいくきこえることを、私は発見した。すると今度は急に嬉しくなった。顔を横に向けて目をつぶると、自分があと一分あれば眠りにつけることが分かった。
 う、という巧くんの声がきこえて、私は笑ってしまったがすぐに眠れた。

 土曜日、宏子は午後一時から夜遅くまでドラッグストアで働いている。
「今日、早めにでるね。研究室のラットに餌をやらなくちゃならないの」
 十時ごろ、宏子は冷えた玉子焼きをおかずに朝ごはんを食べながら言った。私は七時半に起きて玉子焼きを作り、一人で半分食べていた。
「ラットとマウスって違うの?」
 タバコを口から離して、私はきいた。
「全然違う」
 当然じゃない、という顔をして宏子は言った。
「ラットはかなりでかいよ。大人になったら、その、ティッシュケースの半分くらいの大きさになるの」
 と、宏子は箸で私の横にあったティッシュボックスを指して言った。
 ティッシュケースってそれはポケットティッシュを入れるカバーのことじゃないの、っていうかティッシュボックスの半分って言われても分かりにくいよと私は思ったが、何も言わずに宏子を見つめた。そして、
「じゃあ、マウスは? 小さいの?」
 ときいた。
「マウスはちっちゃいよ。パソコンのマウスよりちっちゃい」
「ラットって、和訳したら何になるの?」
「ねずみ」
 宏子は言った。少し面倒くさそうだった。
「マウスは?」
「ねずみ。どっちもねずみ」
 宏子は会話を結ぶようにそう言うと、お椀で顔を隠して味噌汁を啜った。
 へえ、どっちもねずみなんだ、と私は声に出してみた。宏子は反応しなかった。

 宏子が帰ってきたのは、日付も変わった夜中の三時だった。玄関の鍵を開ける音で目を私は覚ました。
 アルバイト先の飲み会だったの、と彼女は言った。すいぶん飲まされたらしく、珍しく顔を赤くしていた。
「ごめん、連絡できなくて」
 彼女は言った。フライパンには、とっくに冷めたエリンギとホウレンソウと牛肉のバター炒めが残っている。
「うん、大丈夫」
 そう言いながらも、私は自分が何を大丈夫と言ったのかよく分からなかった。最近、あまり考えずに言葉を出している気がする。
 宏子はもう一度「ごめん」と言って洗面所に向かった。私はその間に、炊飯器の保温ボタンを切っておく。
 彼女は明日も、朝九時半からまた違うドラッグストアでアルバイトだ。
 タフだな、と私は感心する。私にはできない。
 宏子はタフで、しかも努力家だ。だから薬剤師にもなれた。薬剤師免許を持っていると、ドラッグストアで時給二千五百円で働けたりしてしまう。免許を取る前、宏子が去年働いていた三条にある居酒屋が時給千円だとして、今はその二・五倍だ。つまり、彼女は去年の五分の二働くだけでいい。いい、というのは宏子が生活レベルと落とさずにいられる、ということで、五分の二、というのも私が勝手に計算しただけなのだが。
 宏子がそれをどう思っているのかは知らない。薬剤師の仕事がその時給に見合っていると考えているだろうか。楽だと思っているだろうか。しんどいと思っているだろうか。
 薬剤師でもなければ薬学について学んだこともない私には、それを判別できない。薬剤師といえば、小さい頃よく行った薬局で働く白衣の大人たちしか思い浮かばない。
 小さい頃の私は体が弱く、二ヶ月に一度は風邪をひいた。その度に病院に連れていかれ、つまり処方箋をもらって調剤薬局にも行くことになるわけだが、薬剤師たちは皆つまらなそうに働いていた。処方箋に目を通し、白い大きな棚から薬を選び出し、袋につめる。その動作は、わざとじゃないかと疑ってしまうほど機械じみていた。客から見えていないとでも思っているかのようだった。
 見えてますよー大きなガラス窓から丸見えですよー、と言ってやりたかった。え、見えてたんですか、と薬剤師たちがびっくりしたら面白いなと、薬臭い中、私はやけに立派なソファに座って想像していた。
 前に、「家で簡単に作れる薬ってないの」と宏子にきいたことがある。彼女は「薬剤師は薬を作ったりしないよ。選ぶだけ」と言った。
 何だ作れないのか、と私の薬剤師を見る目が変わった。もちろん悪い方へ。いや、悪くはないか。
 けど、なんだ、選ぶだけか、と肩透かしを食らった気分だった。
 宏子は冷蔵庫からお茶を取り出してコップで飲み、また洗面所に向かった。私は目が冴えてしまい、寝るのを諦めた。換気扇の下でタバコに火をつけると、浴室からシャワーの音が響き始めた。

 翌日の夕方、私と巧くんはスーパーの惣菜売り場でほとんど同時にお互いに気づいた。
 私はただ通りがかっただけで、巧くんは惣菜を物色していた。ほんの少し、私の方が先に気づいたのかもしれない。けど、ほとんど同時だった。
 巧くんは、恥ずかしそうな顔をして笑った。
「めんどくさくてさ」
 惣菜売り場の冷蔵棚には、ひじき、からあげ、切干大根、そして大量のマカロニサラダが並んでいた。このスーパーのマカロニサラダは一度だけ買ったことがあって、結構おいしかった。
「一人分だとやっぱりね」
 私はそう言ってから、自分のセリフが巧くんに次の言葉――じゃあウチに来て作ってよ――を促す引き金になってしまうかもしれないと思った。
 そして私は言った。
「行って作ってあげるよ」
 巧くんは「本当に?」と遠慮するみたいに言ったけど、来てほしがっているのが私には分かった。

 ハンバーグと付け合せのニンジンとエリンギ、それと白ご飯が食卓には並んだ。私たちは円卓で向かい合って手を合わせた。
 うまい、と巧くんは言ってくれた。自分でも上手くできたと思った。
 食事の途中から私たちはビールを飲み始め、巧くんは三本飲んでほんのり顔を赤くしていた。
「宏子と、どう?」
 と私はきいた。
 うん、まあ、と巧くんは言いよどんだあと、何かねえ、と最近本当に好きなのか分からないというようなことを喋り始めた。巧くんのビールのペースはあがり、また三本空けると今度はどこからかワインを出してきた。
 私は巧くんの話をうんうんときいていた。
 巧くんは、べらべらと喋りながらものすごいペースでワインを飲んだ。私も舐めるようにときどき口をつけた。
 ワインも空にしてしまうと巧くんは喋ることがなくなったのか、仕事を失った肉体労働者みたいに黙りこくって、ぼうっと少し上の宙を眺めていた。
 どれくらいの静寂だったろうか。唐突に巧くんが「よいしょ」なんて言って腰をあげ、ベッドにもたれていた私の横に並んで座った。再び沈黙が訪れる。私は宙に視線を留めたまま、巧くんがときどきこっちを見ているのを体で感じていた。
 手を握られた瞬間、やっぱりな、と私は思った。
 巧くんの不器用なキスを、たまらない、という表情で受けてあげた。「あ」と声を出してあげた。興奮している巧くんの表情をじっくり眺められるくらい、私は落ち着いていた。服を脱がされ、体中を舐めまわされ、巧くんを私の中に導いた。
 全てが終わった十時過ぎだった。私たちは裸でベッドに並んで天井を見ていた。恋人の友達とセックスしてしまった巧くんが焦っているのが分かった。宏子どうこうより、私の口止めを考えているはずだ。
 私はそれを、逆撫でしたくなった。
「宏子の晩ごはん作らないと」
 と言って私は起き上がり、服を拾いあげた。
 うん、という声を背中できいた。私はできるだけ巧くんを見ないように支度をし、最後、玄関を出るときだけまっすぐに巧くんを見た。
「ばいばい」
 私は笑顔で言った。
 ジャージのズボンだけ穿いた巧くんは、小さく「うん」と言ってドアを支えてくれた。

 宏子は零時前にアパートに帰ってきた。
「電車遅れちゃってさあ」
 ぶつぶつ言いながら冷蔵庫からお茶を取り出してコップについだ。喉に流しながら横目でコンロの上を見る。彼女がそこに何も――料理どころかフライパンも――ないことに驚いているのが分かった。宏子は声には出さない。それは意地だ。けれど帰れば晩ごはん用意されていることが当たり前になっていた宏子は明らかに混乱している。
 どうして私のごはんがないの?
 そこで私は言ってやる。
「冷蔵庫の一番上の段に、ハンバーグ用意してるから。あとニンジンとエリンギと一緒に炒めて食べて」
 巧くんの家からの帰り、私はスーパーで今日二回目のハンバーグの材料を買った。宏子にも私のハンバーグを食べさせたいと思った。
「本当に?」
 宏子は驚いたみたいな顔を作って、冷蔵庫を開ける。ラップに包まれた生のハンバーグと、一口大に切ってボウルに入れられたニンジンとエリンギを手に宏子は振り返る。「ありがとおお」「気づかなかったあ」とやけにありがたそうな声を出す。
――本当に?
 本当だと分かってるくせにこんなことを言う宏子と巧くん。
 くだらない。
「ちひろ、もう食べたの?」
 宏子がフライパンを温めながらきく。
 うん食べたよ、と私は答える。
 そっか、と言って宏子は換気扇の紐を引いた。四枚の羽が勢いよく回り始める。その右下には、「指を入れるな」のシール。
 フライパンに油を敷いて、ハンバーグを焼く宏子。そのすぐ後ろでタバコを吸う私。こんなにも近いのに、というか一緒に住んでいるのに、一体何なのだ私たちは。
 顔がにやけそうになるのを、ぐっと堪える。
 巧くんは、私としたことを宏子には言わない。誰にも言わない。私には分かる。そして私の体を一生懸命に舐めたことを、コンドームもつけずに私を突いたことを、一生忘れないだろう。忘れられないだろう。
 私も、誰にも、何も言わない。宏子とは仲良く暮らしていくし、これから先巧くんと会うことがあっても何もなかったふうに接してあげられる。
 何も変わらない。宏子と巧くんは、これからも上手くやっていく。
私は、それを見ている。