第26回織田作之助賞 青春賞受賞作品

青春賞受賞作品

「マニシェの林檎」 島谷明

 思えばマニシェは理解していた。理解していたからこそ、何の疑問も抱かなかった。
 マニシェは物心がつくと、すぐに粗末なベッドとトイレだけが置いてある一室にいれられた。
 「a...a...a...? 」
突然放り込まれた孤独な世界。マニシェはさすがに動揺を隠せなかった。が、マニシェは泣かなかった。不安や寂しさが押し寄せてきても、決して泣かなかった。マニシェは、理解していた。
 マニシェには、毎朝一個の林檎が与えられた。夜は日によって異なる質素な料理が運ばれたのだが、朝は決まって一個の林檎だった。初め、マニシェはしばらくその赤い物体を眺めていた。へたを摘んで顔に近づけ、臭いを嗅いだ。食べ物であることは本能でわかる。マニシェは、いよいよ林檎を頬張り、果実からにじみ出る酸味混じりの甘さを口いっぱいに広げた。マニシェは、まだ覚束ない食べ方で、シャリシャリと音を立てながら、ゆっくりと林檎を食していく。やがて、中心近くまでいくと、黒く丸い種が数個あり、それは舐めても味がせず、噛み切れもしなかったため、マニシェは床に吐き捨てた。また、その周辺の果実も固く、噛み切れなかったため、マニシェはそこに口を押し付け、果汁を吸うだけにとどめ、残りは床に置いた。林檎を食べ終えると、マニシェは満腹感から眠りについた。
 そういう日常が続いていき、マニシェは、林檎は、色の濃淡が、果実の食感が、さらには甘みと酸味のバランスがどれも同一でないことを知った。そして、マニシェに好みが生まれた。マニシェは、全体がほぼ赤一色である林檎を嫌った。固い食感の林檎を嫌った。酸味が強い林檎を嫌った。マニシェが好んだのは、下に向かうにつれて赤が薄れ、代わりに黄や緑が広がっていく色合いを持ち、乳歯が数本抜けている口でも噛み切れるほどの柔らかな食感を持ち、顎が痛くなるほどの甘みを持った林檎だった。
 マニシェは、好みと異なる林檎が運ばれてきたときは不機嫌になり、反対に、好みに合う林檎が運ばれてきたときは上機嫌になった。マニシェは、林檎により、感情を示すようになっていた。
 林檎。林檎。林檎。マニシェは、毎朝運ばれてくる林檎がとても待ち遠しく、薄暗い早朝から起きるようになった。時計もなく、陽射しも十分に届かない部屋でも、マニシェは何となく林檎が運ばれてくる頃合いがわかった。それは体内時計という類のものではなく、単なるマニシェの勘でしかなかったが、しかし、マニシェは林檎を待つようになってから、ただの一度たりとも、林檎が運ばれてくる時間を寝過ごすことはなかった。
 コツ、コツ、コツ。階段を下りる母の足音が聞こえてくる。マニシェは、パブロフの犬のごとく、唾液の量が増え、興奮して落ち着きがなくなっていく。足音はドアの前まで来ると止まり、ゆっくりとドアが開く。マニシェは母よりも、第一に母の手にある林檎に視線を送った。そして、その色合いを見て、歓喜、あるいは落胆した。マニシェの母は、そんなマニシェの反応を奇異に思ったが、何も聞こうとせず、何も関わろうとせず、いつものように、前日にマニシェが食べた林檎と夜食の食べかすを片付け、部屋から出て行った。
 マニシェの母にとって、マニシェは愛する人と自身を繋ぎ止める鎖となるはずであった。それゆえ、マニシェの母はマニシェを身に宿したとき、平静を保てぬほど喜んだ。が、愛する人、つまりマニシェの父は、マニシェの母が子を宿したことを知ると、忽然と姿を消した。マニシェの父にとって、マニシェの母は、心から愛する人でなく、また、マニシェの存在も、鎖とならず、むしろ反対に、その身に許容できぬ責任となり、二人と生きることを拒絶した。
 子ができた途端に男が女のもとを去る。治安が悪いこの地域では、そう珍しいことではない。しかし、それでもマニシェの母は、いや、ほとんどの女は、自身の男だけは特別であり、他とは違う、とそう信じ、恋に落ちていく。とりわけ、マニシェの母は、マニシェの父が行方知らずとなってからも、一縷の望みを捨てきれず、縋りつき、身重の身で必死になって捜し、同時に、胎内にいるマニシェを、懸命に育てた。
 そうして、マニシェが生まれた。
 マニシェの母は、生まれてきた子に「manishe」という名をつけた。「emanish」と名乗ったマニシェの父。そのスペルを並び替えた名をつけることで、時が経つとともに薄れゆく、彼が戻ってくるという望みを、強引に引き伸ばそうとしたのだ。
 現実を受け入れるまで、約三年。マニシェの母は憔悴した。あの人は、もう、戻ってこない。私の前にも、マニシェの前にも。もう、二度と。崖下寸前のところで踏ん張り、マニシェを育ててきたマニシェの母。一度崩れ落ちると、這い上がることはおろか、その気力すら起こらなかった。
 その日、マニシェは粗末なベッドとトイレだけが置いてある一室にいれられた。
 幼いマニシェに、このような母の事情を理解できるわけがない。マニシェが理解していたのは、母の絶望だった。
 マニシェは、林檎が運ばれてきてもすぐには食べようとせず、しばらく観察するようになった。表面には細かい斑点があることを知り、皮の近くの果実は酸味が強いことを知り、果実は空気にさらしておくと茶に変色することを知った。こうした発見は、マニシェの林檎に対する興味をさらに深めていった。
 マニシェは、週に二度、母が夜食とともに運んでくるタオルをトイレの横にある水道で濡らし、体を拭いた。最初のうちは母がしてくれていたが、マニシェが体を洗うことを覚えると、母はタオルだけを運ぶようになった。体を洗うと、体から匂いが消える。マニシェはやや拗ねたような面持ちである。垢が溜まっている体から漂う匂いは決して良い匂いではなかったが、無臭というのも何か物足りない。...林檎。マニシェは林檎の食べかすを手に取ると、手首に擦り付けた。手首だけなら、べとべとして気持ち悪くなっても、いつでも水で洗い流せる。マニシェは、手首からほのかに林檎の匂いが漂ってくると、笑みを浮かべながら、左右の手首に何度も鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。マニシェは、食べること以外にも林檎を利用できることを発見し、満足した。
 ある日、マニシェの母は朝食の林檎を運んでくる際、片手でようやく持てるほどの大きさの紙袋を抱えていた。いつもと違う母の姿。このときばかりは、マニシェは林檎の色合いの評価もそこそこに、口をあんぐりと開き、紙袋を見上げた。
 マニシェの母は、マニシェに林檎を与えると、セロハンテープで閉じられた紙袋の封を開け、中から、一本のシャープペンシルと大量の芯、それから数百枚はあろうと思われるコピー用紙を取り出し、床に置いた。
 「Manishe? 」
 マニシェの母は、マニシェに手招きし、近くに呼ぶと、シャープペンシルに芯を詰め、コピー用紙を床に敷き、黒い線を数本描いてみせた。マニシェは不思議そうに見入っている。マニシェの母は、シャープペンシルをマニシェに持たせ、顎をコピー用紙に向かって突き出し、やってみるよう促した。マニシェは従い、見よう見まねでコピー用紙にシャープペンシルの先を当て、真横に動かした。A4サイズの白の長方形の中に、一本の黒い線が描かれる。マニシェは母の顔をうかがった。
 マニシェの母は「Yes」とだけ囁くと、いつものように部屋から出て行った。
 マニシェは、母の奇妙な行動と初めて扱う道具に戸惑いを見せ、林檎を観察するのも忘れ、しばらくシャープペンシルに焦点を合わせ、その場から動かずにいた。時折、例に倣ってコピー用紙に黒い線を描き、そのコピー用紙を、指で擦ったり、破いたり、かすかな陽射しに透かして見たりし、描くという作業を確認した。
 コピー用紙の表面上に、自身の思うようシャープペンシルを動かせば、そこに黒い線が描かれる。マニシェは、時宜を得ると、時も忘れ、一心不乱にコピー用紙に線を描いた。縦、横、斜め。直線、曲線、螺旋。四角、三角、楕円。線を組み合わせることによって生まれる多種多様な形。線は幾重にも重なり、白のコピー用紙がほぼ黒になると、マニシェは新たなコピー用紙を敷き、また描いた。シャープペンシルの芯が無くなると、母がしていたように、シャープペンシルの蓋を外して芯を詰め、また描いた。利き手が疲れてくると、反対の手に持ち替え、また描いた。
 描くことを覚えたマニシェ。その対象が林檎となったのは、林檎への興味で日の大半を過ごしていたマニシェにとっては、自然な流れであった。マニシェは、朝運ばれてきた林檎をその日一日描き続け、次の日、新たに林檎が運ばれてくると、ようやく食べた。そうして、マニシェは毎日林檎の素描を繰り返していくうち、線を重ねることで影を表現でき、シャープペンシルを持つ力の入れ具合による色の濃淡で色合いを表現できることを知った。初めは同じ年代の子どもが描くのと変わりなかった不細工な林檎も、回を重ねるごとに精巧を極めていき、おおよそ幼児の描いた素描とは思えぬほどの出来栄えとなっていった。
 しかし、マニシェに満足はなかった。シャープペンシルでどう林檎を描いたところで、所詮、目の前に置かれている本物の林檎とはかけ離れた、偽物の林檎でしかなかったからである。マニシェが目指したのは、本物と見紛うほどの林檎であり、それに到達しうるほど、自分はもっと上手に林檎を描けるという自信があった。
 立体物を平面上に描けば、どんなに影をつけようと、どんなに濃淡をつけようと、限界があることは何となくわかってきた。残るは、色。マニシェは、黒のみで表現する赤、黄、緑に満足できなくなっていた。シャープペンシルの芯を一センチほどに折り、それを横にしてコピー用紙に押し付けたまま線を引くなど、様々な筆触で色を表現しようと試みたが、納得しうるものは描けなかった。
 マニシェは、色を欲した。はたして色を描ける道具がこの世に存在するのかどうかさえ未知であったが、マニシェは、初めて林檎とは違うものを欲した。
 「Mam、mam、apple、apple! 」
 翌朝、マニシェは林檎を描いたコピー用紙を胸の前に掲げ、拙い口調で母に話しかけた。マニシェは、言葉を覚えるのが遅かった。母から日に一度言葉を聞けるか聞けないかの生活では、当然である。今でも文法的に話すことはできない。ようやく覚えた数少ない単語を、一語一語発するだけである。それでも、マニシェは懸命に口を動かし、母に林檎の絵を見せた。
 マニシェの母は、マニシェの行動を、林檎の絵を褒めてもらいたいのだと理解し、軽くうなずいてみせた。マニシェの母は、マニシェが描いた幼児離れしている林檎の絵を前にしても、そのような対応しかできなかった。いまだ愛する人の影から抜け出せずにいたのだ。
 マニシェは不満だった。マニシェは、絵を褒めてもらいたく、母に話しかけていたわけではない。色を欲していたのだ。色があれば、もっと上手に林檎を描ける。だから、色を欲しがっていることを知ってもらいたい。マニシェは、毎日毎日、訴えるように、母に林檎の絵を見せ続けた。
 マニシェの母は、マニシェに怪訝な顔を送り、しつこさに苛立ち、手をあげようと構えたこともあった。が、マニシェはひるむことなく、林檎の絵を見せ続ける。この子、褒めてもらいたいんじゃないのかしら。マニシェの母が、マニシェが色を欲していることに感づいたのは、マニシェが黒の濃淡で表現した色合いを交互に指差し始めてからだった。マニシェの母は、マニシェのしつこさにうんざりしていたので、それが止むのならと、半信半疑のまま、マニシェに八色入りのクレヨンを与えた。
 マニシェは、シャープペンシルの形をした色とりどりの棒を手にすると、瞬時にそれが色を描く道具だとわかり、母へとびきりの笑みを見せ、次の瞬間にはもうコピー用紙に向かっていた。マニシェの母は、無表情のまま、小さなため息をついた。
 マニシェは、色が手に入ったからといって、林檎を赤一色だけで描くという、単純かつ幼稚な手法はとらなかった。林檎の赤は、赤のみで創られているわけではない。色が濃く、あるいは薄くなっている箇所もあれば、他の色と混合している箇所もある。マニシェは、できるだけ正確に林檎の色合いを描こうと、全色のクレヨンを用い、シャープペンシルで培った筆触の知識を活かし、林檎を描いた。
 初めて色を付けて描いた林檎は、マニシェにこれまで以上の創作意欲をもたらした。クレヨンを扱ったのは初めてであるため、今回の林檎の絵はひどく駄作で、シャープペンシルの黒一色で描いた林檎よりも質が落ちている。しかし、色がある。色のある林檎が、描けるのだ。マニシェは、どうすればクレヨンで上手に林檎を描けるか研究し始めた。シャープペンシルを扱い始めたときのように、クレヨンで何本も線を引き、どの程度の力で描けばどの程度の色の濃淡になるのかを見極め、数種の色の重ね合わせによる色合いの具合を見極めた。マニシェは、その作業を楽しんだ。
 思えば、マニシェは数百枚林檎を描いてきたものの、飽きることはなかった。不出来な完成品に苛立ったことはある。紙をくしゃくしゃに丸めて放ったこともある。しかし、林檎を描くことをやめる気には、一度も、ほんのわずかすらもならなかった。林檎を描きたい。上手に描きたい。いつしか、マニシェの心身は林檎を描くことを、呼吸や排泄と同等のところに位置させていた。
 様々な色を用いながら描くといっても、林檎を描くときに用いる色の大半は赤であり、どうしても、他と比べて赤のクレヨンの減りが進む。マニシェはクレヨンが入った箱をゆすり、すき間の空いたがちゃがちゃという音を確認すると、クレヨンを全色床にばら撒き、短くなっているクレヨンと長いままのクレヨンの差を憂いた。
 しかし、赤のクレヨンを使わずに林檎を描けば、納得しうる絵にはならない。マニシェは、そのまま林檎を描き続け、やがて、赤が無くなった。
 「Mam、mam、crayon.crayon、please? 」
 マニシェは夜食を運んできた母に、途中まで描いた林檎の赤の部分を指差し、赤のクレヨンを催促した。
 マニシェの母は、マニシェが言いたいことを理解した。「No」と首を横に振り、クレヨンの箱を手に取り、残っている七色のクレヨンをマニシェに見せ、もう一度「No」と首を横に振った。
 マニシェは、初めて母に反発した。「No! 」と声を荒げて言い返し、駄々をこね、母の手にしがみついた。マニシェの母は、マニシェをにらみつけ、マニシェの手を振りほどくと、マニシェの声を背中で跳ね返しながら、部屋から出て行った。
 マニシェは、クレヨンが入った箱を壁に放り投げ、怒りを露にすると、寝転がり、眠ろうと目を閉じた。
 暗闇の中に、一個の林檎。今朝、母が持ってきた、林檎。マニシェは、赤のクレヨンが無くなったために描きかけとなっていた、今日の林檎の絵が頭から離れなかった。呼吸をせずに、排泄をせずに、人は、生きていけない。マニシェは起き上がり、不貞腐れながらも、床に散らばったクレヨンを拾い集め、林檎の絵の続きを描き始めた。黒、青、茶のクレヨンは、他の色と比べてあまり用いてこず、長いままだったので、なるべく用いるようにし、描いた。マニシェは、林檎を描くことに関しては、少しも妥協したくなかったが、赤のクレヨンは既に無く、このままいけば、黄、緑、橙のクレヨンも無くなってしまい、シャープペンシルで描いていたときとほとんど変わらない、黒や青のクレヨンだけで林檎を描くことになってしまうので、仕方なく、思う色とは異なる色使いで、林檎を描いた。マニシェは、林檎の絵の質を落とさぬよう、これまでよりも考えながら、ゆっくり、丁寧に描いた。
 描いてみると、意外なことに、マニシェは、赤のない林檎もいたく気に入った。赤を使わぬよう、色合いを工夫しながら描くことによって、林檎の絵は、目の前にある物体としての林檎ではなく、マニシェの思考の中で創造された林檎、いうなれば、写実派的な林檎の絵から、印象派的な林檎の絵となり、マニシェに、新鮮な鑑賞観を抱かせた。林檎ではない、けれど、林檎。林檎、けれど、林檎ではない。マニシェは、黒や青が大部分を占めている林檎の絵を、どうやって描いたか忘れぬよう、一から思い出しながら、その日のうちに、また数枚描いた。
 八色中六色のクレヨンを使い切り、残りの二色も一センチほどに短くなると、マニシェの母は、マニシェに新しいクレヨンを与えた。マニシェの母は、マニシェがさぞかし喜ぶだろうと思っていたが、マニシェは、顔色の一つも変えず、クレヨンを受け取ると、コピー用紙を敷き、なにやら熟考を重ね始めた。マニシェは、ここ数日描いてきた赤のない印象派的な林檎の絵に、赤が入り込んだとき、はたして受け入れられるか、つまり、写実派的な絵と印象派的な絵は融合し、より高質な絵となるか、そのことにのみ、関心を示していたのだ。
 マニシェは、すぐには林檎の絵を描かなかった。まずは、これまで描いてきた写実派的な林檎の絵と印象派的な林檎の絵を床に並べ、両者を交互に見比べ、頭の中で理想とする林檎を思い描いた。林檎の基本的な色は、赤。だから、ここに赤を取り入れれば、いや、そうしたら、色合いのバランスが崩れてしまう。だったら、ここの茶は残したまま、赤を重ねてみたらどうかしら。マニシェは、クレヨンを無駄にせぬよう、いくつもの仮定を整理しながら、想像を膨らませ、その上でどうしても実際にクレヨンで描いてみなければわからないときにだけ、クレヨンを手に取り、コピー用紙上で実験した。そうして、マニシェは林檎を描き始めた。
 久々の赤を用いた林檎は、マニシェの納得しうるものではなかった。マニシェは、落ち込んだ。不出来な絵だったからではない。赤と他の色との色合いのバランスを、余念無く想像し、悩んだはずなのに、それが結果として表れていなかったからである。マニシェは、その絵を破いた。何度も何度も、切手ほどに細かくなるまで破いた。
 マニシェは、自惚れていた。自分はもう既にかなり上手に林檎を描くことができる、その潜在意識が、マニシェにわずかながら林檎への観察力や描写力を散漫させていた。描くたびに洗練されていく林檎の絵を目の当たりにしていれば、やむを得ないことだろう。ただ、マニシェの林檎への飽くなき探求心は、自身の自惚れにも、気づくのにそう時間はとらせなかった。
 もう一度、最初からやり直し。もう一度、基本的なことからやり直し。マニシェは、シャープペンシルを持ち、コピー用紙に線を引いた。ゆっくりと、筆触を確認しながら、何本も引いた。林檎も描いた。直線、曲線を組み合わせ、濃淡を織り交ぜ、丁寧に林檎を描いた。少しでも気になる箇所があると、そこだけを修正するということはせず、また新たなコピー用紙に、一個の林檎を描いた。 マニシェは、少しも面倒とは思わなかった。この作業は、遠回りではなく、近道。きっと、近道。マニシェは、林檎を上手に描くことを切望していた。
 マニシェは、シャープペンシルで納得のいく林檎を描くと、全色のクレヨンを用いて写実派的な林檎を、次に赤のクレヨンを用いず印象派的な林檎を描いた。マニシェは、過去の手法に立ち戻り、林檎を描くことで、林檎を描ききれていなかったことを痛感した。マニシェは、笑った。けらけらと、珍しく声を上げて笑った。林檎は、まだまだ知らない一面を持っている。林檎は、まだまだ上手に描くことができる。マニシェは、心を躍らせた。
 マニシェは、写実派的な林檎の絵と印象派的な林檎の絵、両者の融合に再挑戦した。クレヨンがコピー用紙上に擦れる感触が小気味好い。マニシェは、下唇を前に突き出し、首を左右に振り、軽快なリズムを取りながら、林檎を描いた。
 やはり、ダメ。赤が入ってしまうと、どうしても無意識のうちに赤に頼ってしまい、写実派的な要素が濃くなってしまう。両者を中和させてこそ、マニシェが今描きたい林檎が描けるのだ。
 二度目の挑戦も失敗。ただ、マニシェに苛立ちはなかった。マニシェは、自身にとって林檎を描くことが苦でなく楽であると、一度原点に立ち返ってみたことで、はっきりと認識できたのだ。
 納得しうる林檎が描けたのは、偶然の発見によってだった。林檎の絵を見ていたマニシェは、瞬きを繰り返すうち、粘液質の目やにが右目の眼球の中央に移動し、視界の邪魔になったため、しばらく右目を閉じ、その間、左目だけで林檎の絵を見た。右方向が狭まった視界に映る林檎の絵。マニシェは、この時点では平然とした顔つきを崩さなかったが、目やにを瞼の裏に押しやり、右目を開いた瞬間、林檎の絵が若干ぼやけたことを見逃さず、眉をつり上げ、林檎の絵に食い入った。もう一度、右目を閉じてみる。左目で林檎の絵を見る。右目を開く。両目で林檎の絵を見る。間違いない。ぼやけている。マニシェは、さらに左右の目を逆にして確かめてみた。やはり、ぼやけている。マニシェは、この現象が解決の糸口になりはしないかと、クレヨンを手に取り、コピー用紙に向かった。右目を閉じ、開き、左目を閉じ、開き、コピー用紙に描かれていく林檎をぼやかしながら、マニシェは、クレヨンを走らせた。
 そして、途中で手を止めた。
 マニシェが林檎を最後まで描かなかったことは、これまで一度もなかった。しかし、マニシェは手を止め、機敏に新たなコピー用紙を床に敷き、その左右に、写実派的な林檎の絵と印象派的な林檎の絵を並べた。マニシェがこのような行動をとったのは、左右の目を交互に開閉しながら林檎を描いているうちに、右目で見たときの林檎の絵と、左目で見たときの林檎の絵が、同じ位置にないことを発見したためであった。妙な感覚である。一枚のコピー用紙上に一個の林檎を描いている紛れもない事実が、左右それぞれの目で見ることにより、覆され、二個の林檎を描いているようだ。マニシェは、それが錯覚であるとわかっていた。わかりながらも、胸を駆け抜ける衝動を抑えることができず、手を止めた。
 マニシェは、白紙のコピー用紙を真ん中にして、右に写実派的な林檎の絵を置き、左に印象派的な林檎の絵を置いた。そして、右目を開いているときは、写実派的な林檎の絵を視界に入れながら、赤のクレヨンを用いて林檎を描き、左目を開けているときは、印象派的な林檎の絵を視界に入れながら、思考を巡らせ、林檎を描いた。マニシェは、二つの手法を、一筆入れるごと、約五秒間ごとに繰り返した。
 林檎を描き終わり、マニシェは両目を開ける。コピー用紙には、赤と他の色が見事に調和された、一個の林檎が描かれていた。マニシェは、興奮の色を隠せなかった。手足をばたつかせ、奇声を発す。体力の全てを使い果たし、朦朧とする意識の中でも、マニシェは狂喜し続けた。まるで、林檎がマニシェを操っているようだった。
 それから、マニシェはさらに林檎を描くことに没頭した。取り憑かれたように、昼夜問わず、右手に痙攣を起こすまで、コピー用紙に向かった。もっと美しく、もっと美しく。理想とする林檎を描くコツを掴んだマニシェは、自身に芽生えた無限の可能性を、林檎を描き続けなければ縮小してしまうであろう無限の可能性を、寵愛し、そして、焦っていた。
 気がつけば、マニシェの体は、桜の苗木のように痩せ細っていた。物心がついてからずっと、狭い一室の中で、運動もせず、朝は林檎一個、夜は質素な食事という生活を送り、それでいて、いまや心身の悲鳴にも聞く耳を持たず、林檎を描き続けていれば、慮外なことではない。ただし、そんな状態でもマニシェが林檎を描くことをやめなかったことは、常人の思慮の外にある行動であった。
 マニシェが吐血したのは、林檎を描いている最中だった。マニシェの身体は、病に侵されていた。病は、林檎を描いているときのマニシェの高ぶった精神状態の中では、黙殺され、影を潜めていたが、確実にマニシェの身を蝕んでいき、この日、牙を剥いた。
 林檎を描いているマニシェを、得体の知れぬ不快感が急襲する。次の瞬間、マニシェは、大量の血液を吐き出した。身を引き裂かれるような痛みが走り、気が遠のく。が、マニシェは、身体の激痛を伴いながらも、コピー用紙に滴り落ちた血液を見て、脆弱な笑みを浮かべた。林檎の輪郭までを描いたコピー用紙に飛び散った、血液の、赤。唾液と胃液が混ざり、粘り気を持っている、赤。黒に近く濃くなっている箇所と、桃に近く薄まっている箇所が、分離し切れず、一つの色として成立している、赤。マニシェは、この血液の赤こそが、林檎を描くに用いるべき最適な赤であると悟った。
 マニシェは、震える指を血液に浸し、林檎を描き始めた。シャープペンシルやクレヨンで描くときのような、物体を介した間接的ではなく、神経が通った自身の指が、直接、コピー用紙を赤に染めていく。その手法は、マニシェに、完全に世界を創造させた。痛みなど、とうに感じていない。ここには、マニシェと、林檎だけ。マニシェは、コピー用紙に命を吹き込むよう、指を動かした。血液が固まってくると、唾液を垂らし、融解させ、再び描いた。
 マニシェは、血液の赤で林檎の基盤を描くと、クレヨンを手に取り、他の色を血液の赤に織り込むよう、描いた。黄を用い、緑を用い、橙を用い、桃を用い、黒を用い、青を用い、茶を用い、クレヨンの色が血液の赤を際立たせるよう、描いた。そして、血液の赤が、クレヨンの色合いとともに、林檎へと変化していった。
 マニシェは、クレヨンの太い筆先では描けぬ細かな影は、シャープペンシルで描いた。黒に近く濃い血液の赤に、シャープペンシルの黒い線を付け足すと、コピー用紙が凹んでいるよう見紛うほど、立体を表現することができた。そして、血液の赤が、クレヨンの色合いが、シャープペンシルの黒とともに、林檎へと変化していった。
 マニシェは、この林檎を完成させることを望み、一方で、恐れた。今の境地には、おそらく、二度と踏み入ることはない。林檎を描き終えるとともに、手放さなければならないのだ。マニシェは、ひっそりと泣いていた。咽びはない。震えもない。眼球に膜を張った涙が、視界を遮ることもない。林檎を描くことの邪魔にならぬよう、マニシェは泣いていた。
 早く描きたい。上手に描きたい。林檎を、描きたい。止まるな、手よ。瞬くな、目よ。林檎の真を知れ。マニシェに迷いはなかった。マニシェは、林檎を描けるのだ!
 「OK」
 消え入りそうな声を上げ、マニシェは、シャープペンシルを置き、クレヨンを置き、血に染まった自身の両手を置き、垂れていた唾液を飲み込んだ。
 マニシェの林檎。
 コピー用紙には、マニシェが追い求めてきた理想の林檎と寸分の違いもない、一個の林檎が描かれていた。精神が宙に舞い、マニシェを最大の幸福が包む。マニシェは、もはや動かすのもやっとの身体で、モデルとなった林檎を掴み、一口だけ、弱々しくかじりついた。マニシェの口内に、酸味混じりの林檎の甘みが広がる。そして、そのまま、マニシェは林檎の絵と軽くキスを交わした。
 「Thank you,apple」
 思えばマニシェは理解していた。理解していたからこそ、静かに眠りについた。