認知症の人の声を聴いていますか

家族が症状を症状として受け入れる

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 診療場面では、本人の様子についてさまざまな声が家族から聞かれる。多いのは「同じことを何度も尋ねる」「昔のことばかり話す」といったものである。「家族の話に全然入ってこない」と訴える家族もいるが「どうせさっきと同じ話だろう」と言われていれば話に入りたくもなくなるだろう。家族は“できない”ことを“やろうとしない”あるいは“やる気がない“とみてしまう。症状を症状として受け入れることができない。

 長年にわたる日本の認知症医療のご意見番(不適切な表現かもしれません。お許しください)である高橋幸男氏は、「30年前と比べれば認知症についての情報は比較にならないほど増えているうえに、当事者の発言も多くなっていて、認知症への社会的理解や受容が進展しているかのように思われているが、国民の意識の中では、今でも誤解と偏見に基づく“何もわからなくなって、迷惑をかける悲惨な病“という認知症観が深く刻印されているように思う」と記した。その通りだ。

 ある家族は「長年使っているシャンプーの名前も思い出せない」と言った。私は「シャンプーの名前なんか、なぜ聞いたの?」と尋ねたら、「名前が分かっているかどうか知りたかった」と言う。「答えられると思った?」と問うと「答えられないと思った」と言う。「答えられないと分かっているのに、どうしてわざわざ聞いたの?」「分からないことを聞かれて本人はどんな気持ちだったかなあ」と言ったら家族は不機嫌な表情になった。

 本人が分からなくなっていくことが家族は不安なのであろう。答えられないと思っても、もしかしたら今度こそ答えられるかもしれないと期待して尋ねるのかもしれない。しかし一つ答えられると、他にも答えられることがあるかもしれないと質問を重ねる。そして答えられなくなったところで家族はがっかりする。

 「食事のすぐ後に食べた内容をすっかり忘れている」と訴える家族も、食事の後にわざわざ本人に何を食べたか確認しているのだろう。「美味(おいし)しかった?」「お腹(なか)いっぱい食べた?」と聞けばいいのに、余計なことで本人を傷つけることを家族はやめられない。

 そのくらいならまだいいが、絶望的な家族もいる。「失敗を指摘しても本人は絶対に認めようとしない。言い逃れをする」と嘆く家族がいる。家族と本人は、検察と犯人ではあるまい。失敗を認めさせようとする家族の心理とはいったいどのようなものだろう。

 診察でこうした発言が続くときは一刻も早く診察を終えたいと思う。私の心が痛むのは家族が本人を家族として見なくなっているからである。家族としての関係は破綻して修復不可能に思える。

 「観(み)ていたテレビの内容を聞いても観ていなかったとごまかす」とか、「自分がした失敗を人のせいにする」とか、「自分の間違いを認めない」と言う家族もいる。そのようにみることも可能かもしれない。しかしその言い方はまるで取り調べのようだ。尋問のようにも聞こえる。こうした訴えをする家族に、それは症状であること、やらないのではなくできないのだと繰り返し説明したこともあるが、ことごとく徒労に終わった。

 やり取りの後に受診先を別の医療機関に変更する家族もいるが、それはまだマシだ。私が強い言葉で指摘しても、平然と「うそをつく」「ごまかす」と繰り返している家族もいる。私の指摘が家族には聞こえていないようにみえる。本人は聞こえない顔をしている場合もあれば、苦痛に顔をゆがめる人もいる。私が家族にできることがあるのだろうか。

 高橋幸男 認知症の人のこころの世界―“からくり”から認知症ケアへ 「認知症の人のこころを読み解く ケアに生かす精神病理」(日本評論社、2023,P9)

2024年4月