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東日本大震災 混乱の現場で痛感

「緊急介護チーム創設を」 社会福祉法人典人会総所長 内出幸美さん

 東日本大震災は我々に多くの教訓を残したが、いち早く「災害派遣医療チーム」(DMAT)の介護版「災害派遣介護チーム」(DCAT)の創設を訴えたのが岩手県大船渡市の社会福祉法人典人会総所長の内出幸美さんだ。情報も見通しもない混乱する現場で救援システムの必要性を痛感したという本人に構想を語ってもらった。

施設に迷惑をかけないよう自分たちで賄って屋外で朝食をとる石川県からのボランティアチーム

〈災害直後の状況〉

 大震災直後から電気、水道のライフラインが断絶、通信、道路も寸断、何よりの恐怖は余震とそれによる津波だった。沿岸部は壊滅状態であったことから、直ちに被災した施設からの要介護者の受け入れや家を失った地域住民が法人内の各施設・事業所(10施設・事業所を運営)へ押し寄せてきた。

 夕方からは炊き出しが始まった。法人本部にある特別養護老人ホームのLPガスは使用可能だったので、近くの公民館からは「食べ物が無いのでおにぎり50個お願いします」と依頼され、即座に提供した。乳飲み子をかかえたお母さんからは「ミルクが無いんです」と頼られた。次々に来る住民への対応に迫られ、その場その場の判断でとにかく物資提供、寝床の提供に追われた。

 法人の中には津波のために孤立してしまった事業所もあった。自衛隊が駆けつけたのは3日後であった。当然、そこではサバイバルが始まった。過酷な状況下では管理者だけではなく、職員一人一人が瞬時に判断をしなければならなかった。一方、職員は、自分が生きていることを家族に伝えることや家族の生死を知ることもできない状況であった。

 このような状況下で、職員は肉体的、感情的にも疲労し、そのピークは3日目の3月13日だった。そして、何より見通しがつかない漠然とした恐怖がのしかかってきた。私は〝これは長丁場になる〟と感じ、職員に「応援部隊を要請に行ってくる」と告げ、通信手段の途絶えた中、唯一消防署に設置された衛星電話をかける市民の列に並び、一人3分間という時間的制約の中で、いつもお世話になっている公益社団法人日本認知症グループホーム協会(東京都新宿区)に連絡し、SOSを発信した。

 それによく応えてくれ、5日後の3月18日に第1陣の応援部隊が石川県から駆け付けてくれた。デイサービスの送迎用ワゴン車に支援物資をいっぱい積み、リーダーの精神保健福祉士、看護師2人、介護福祉士3人の構成メンバーであった。当時はまだ被災地の状況が分からない、マスコミはボランティアが行くことを制限していた中、顔見知りのメンバーだったこともあり、感極まったことを今でも覚えている。その後は、続々と各団体、個人のボランティアが介護施設・事業所に入ってきてくれた。

医療と重みは同じ 体制の組織化急務 地域内のケア事業所 避難者対応に追われ
家庭訪問したメンバーにお年寄りは手をぎゅっと握って離さない

 この応援部隊は、当法人が拠点となり、それぞれのケア事業所の被害状況、職員の疲労度等を見極めて活動場所が決められた。その活動内容は、施設内の泥かき、傾いた倉庫の撤去、利用者の話し相手、職員の精神的フォロー等実に広範囲であった。また、自分たちの寝食等の確保等は自身でまかなうという徹底ぶりで,被災地には一切負担はかけないという姿勢だった。それでも岩手の3月はまだ雪もちらついており、宿泊だけは施設の一角を提供させていただいた。

〈緊急医療はあっても緊急介護はない!!〉

 震災直後から1週間の困難は、物資がないこと、人手が足りないこと、に尽きた。入居しているお年寄りたちは、いつもと変わらない暮らしを心がけた結果、それほどの動揺や不安感は見られなかった。しかし、そこには職員たちの努力と苦心があり、同じく被災者である者のみに委ね続けることに無理もあった。また、地域に目を向けると、避難を余儀なくされ、環境の大きく変化した認知症のお年寄りやその家族は、周りの動揺にうまく適応できずに心身の自分の「居場所」をさまようこととなった。

 ケア専門職の相談を切望する人も多くいたが、それに対応する支援機能は、地域内にあるケア事業所や地域包括支援センターであるはずであった。しかし、地域包括支援センター(市直営)は物資の仕分けで手いっぱいの状況であった。また、ケア施設・事業所の職員も自分たちの施設に避難してきた要介護者や住民の対応に追われ、うまく機能できなかった。

応援にかけつけたメンバーがお年寄りに話しかける

 こうした状況の中で痛切に感じたことは、「緊急医療」はあっても「緊急介護」という概念が全く存在しなかったことだ。近隣の病院には、被災直後から緊急ヘリ等で県内外の災害医療派遣チームが入ってきたが、介護の現場には誰も来てはくれなかった。8日目の18日に初めて訪れた支援部隊は、公的なものではなく、あくまでもボランティアとしての位置づけでしかなかった。それでも国では後づけではあるが、災害派遣に対する派遣施設・事業者の職員配置の緩和措置をとった。

 命を支えるという意味では、介護も医療も同じ重みがあるはずである。そこで、大災害時には、災害対策基本法に既に位置づけられている災害派遣医療チーム(DMAT; Disaster Medical Assistance Team)の介護版となる災害派遣介護チーム(DCAT; Disaster Care Assistance Team)を創設し、被災地へ迅速に駆け付ける体制を組織化すべきだと、私たち被災地から各方面に強く働きかけている。

〈DCATの組織化〉

 DCATの組織化とは、自助、互助、共助、公助の4本の柱を中心に、国・都道府県・全国事業者団体・ケア事業所単位で、社会福祉士、介護福祉士、理学療法士、看護師等からなる緊急災害派遣介護チームを編成し、それらを重層的に組み合わせて、被災地へ36時間内(DMATは48時間内)に対応できる体制を整備するものである。①「自助」…自分の身は自分たちで守るため、施設・事業所単位で職員自らが登録して緊急介護を意識して行動するチーム②「互助」…地元をよく知る自主防災組織と協力して、避難所や在宅のお年寄りを助け合うチーム③「共助」…全国組織などの県内外のネットワークと連携した広域チーム④「公助」…国等の行政の救助として、災害対策基本法に位置付けられた緊急派遣介護チーム。これらが重層的に組織化することで、外部支援によるケア施設・事業所が補強されるだけではなく、被災地のケア専門職が自分たちの地域や避難所へ出向くことが可能になると思われる。

〈DCATのポイント〉

 まず、財政を確保するために、災害対策基本法の防災計画に位置付けられること、また徹底した登録派遣職員に対する研修、そして地元の自主防災組織との協同が重要であると考えられる。特に、DCATに求められることは、介護全般のスペシャリストとしての任務に加え、サバイバル手法、アクシデントマネジメント(極限の判断)、コミュニケーション力、人間性を高める学び等、ゼネラリストとしての幅広い研修を重ねることが最も重要である。

〈全国の動向〉

 大震災を受けて、国会、各自治体、関係団体を中心に「緊急介護」の必要性の声が高まり、調査・研究の実施や既に名乗りを上げている組織もある。北海道では、「北海道災害派遣ケアチーム」が結成され、複数の法人と協定が締結されている。

 そして、厚生労働省では研究成果を踏まえ、「介護職員等の応援派遣体制(災害派遣介護チーム)」についての整備を促す通達を平成24年4月20日付で全国に示した。しかし、DMATのように制度化までには至らず、このままでは自治体の裁量次第でどう対応するのかが異なってしまうことが危惧される。

 世界的にみても災害派遣介護チームという存在はオーストラリアで動きがある程度で、しっかりとした支援体制は組まれていない現状である。日本は高齢化率が23%という超高齢社会である。高齢者が多いことにかんがみ、国際的にもいち早く災害派遣介護チームを組織し、地元と連携しながら高齢者の不安を払拭(ふっしょく)し、地域住民の関係性を強める使命があると確信する。

うちで ゆきみ
 社会福祉法人典人会総所長。グループホームや特別養護老人ホームなど10施設・事業所を運営。震災時は一部施設が津波の被害を受けたが、犠牲者はなかった。直後から住民や在宅の要介護高齢者を受け入れた。震災後は災害派遣介護チームの創設を提唱し活動している。

2012年6月