認知症のお年よりの徘徊事故は、3月1日、家族には賠償責任がないという判断が示された。さすが最高裁の判定と思ったが、事故が起きたのは2007年、9年もかかるとは長すぎる。死亡した男性も今回の判断を聞き、やっと浄土に行かれたのだと思う。
私は1993年、赤ちゃんからお年よりまで、誰もが利用できるデイサービス「このゆびとーまれ」を開所させた。20年前はデイサービスが校下(学区)に2カ所しかなく、認知症らしいお年よりがよく町を歩いていた。町の人達が「どこ行くが」、「会社に行くが」、「いってらっしゃい」と手をふってお年よりを送っていた。開所して7年間で5回、お年よりの行方がわからなくなり、警察に捜索願いを出した。
自分の家から居なくなり、3晩見つからず、生命さえも危ぶまれたが、埼玉県の山間地を歩いていたのを発見し、警察に無事保護されたこともあった。
なぜ、人は歩き続けるのか。なぜ歩きたくなるのか。
ある研修会で講師が「徘徊とは痴呆老人が目的もなく動き回ること」と説明していた。本当にそうであろうか。何か目的があるから、とりつかれたように早く歩く。ただ自分がどこに行きたいかを説明できないだけなのだ。男性は長く勤務した会社の方に向かい、女性は実家に向かっていることが多い。自分の愛した町や人に会いに行くのだとも思える。
このゆびとーまれは、どこも鍵をかけていない。出入りが常に自由である。いつ出ていくか分からない。よく見学者から、「危ないんじゃないですか」「うちは鍵をかけています。いつドアが開くかと、お年よりがいつも5人程うろうろしています」
私が大きな施設を見学に行くとよく、このような光景を見る。エレベーターなども暗証番号の操作が必要で自由に乗れないのである。
これでは拘束ではと思うが、仕方がないのだと施設の職員が説明する。
「認知症の人の尊厳を守り、地域で暮らす」とはどんなことなのであろうか。
認知症になっても、安心して外出できる社会を作ることであろう。このゆびとーまれは介護施設であるから、監督義務者に当たる余地があると、木内道祥裁判官は補足で言っている。確かに責任はあると自覚はしているが、どこまでの範囲かがわからない。
今回の訴訟はJRであったが、個人の場合もある。JRも民間になり損害を受けたのであるから、何らかの賠償金が欲しいであろう。
国が介護保険から賠償するのか、自治体が地域支援事業から出すのか、今後の課題である。
この件で気づいたことがある。最近、認知症のお年よりが町を歩いている光景を殆ど見なくなった。施設に入所したり、多くのお年よりがデイサービスに行っているからであろう。町がひっそりしている。20年前の方が認知症の人達がはつらつしていた。あのころのように、自由に歩き回って欲しい。
2016年4月