主な事業/国際協力に関する事業(世界子ども救援事業)

2012年パキスタンから 終わらぬ旅 (1)

パキスタン南部 4000人 病と隣り合わせ

野焼きの煙が充満する中、1歳の弟をあやすモハンマド・ルビナさん。スラムで生活するこの家族にはルビナさんを含め弱視が多い=パキスタン・カラチ郊外で2012年3月21日、小川昌宏撮影

野焼きの煙が充満する中、1歳の弟をあやすモハンマド・ルビナさん。
スラムで生活するこの家族にはルビナさんを含め弱視が多い
=パキスタン・カラチ郊外で2012年3月21日、小川昌宏撮影

 白煙の向こうに牛や犬とともに、ごみに群がる人々の姿が浮かび上がった。ごみの山は見渡す限り続き、煙が目や喉に突き刺さる。

 パキスタン南部・カラチ郊外の「カチラ・クンディ」地区。数キロ四方に及ぶ集積場で、人々はトラックが吐き出したごみを野焼きし、カネになる金属やガラス片を探していた。水道、電気、トイレもない地区は、ごみを生活の糧にする約4000人が暮らし、一つの町と化していた。

 当局が居住を認めていないため、住民に福祉の手は届かない。山でごみ拾いを手伝う子どもたちは約2000人。うち学校に通うのは約300人に過ぎない。裸足の子が多く、破傷風や狂犬病と隣り合わせの毎日だ。

ゴーデボー難民キャンプ

カラチ

 「家族を食わせるだけで精いっぱい」。地区で約40年暮らすモハンマド・サディークさん(60)は激しくせき込み、すくった灰をふるいにかけた。集積場近 くの集落で親戚と身を寄せ合い、集めたごみは妻や子どもらが分類して業者に売る。一家の稼ぎは1日100円ほど。長女ルビナさん(18)らきょうだい4人 は生まれつき目が悪く、眼球の動きが安定しない。野焼きとの関係が疑われるが、原因は不明だ。サディークさんは「うちには病院に行く金もない」と言って肩 をすくめた。

 学校関係者によると、住民は農村から仕事を求めてたどり着いた人やその子孫が多く、学校ができた10年前に比べ、人口は約4倍に増えたという。

 キスタンでは人口約1億8000万人のうち、3人に1人が、世界銀行が定める「貧困ライン」(1日1・25ドル)以下で暮らす。カチラ・クンディのように、都市部でごみを集めて暮らす人は珍しくない。

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 79年に始まった旧ソ連軍のアフガニスタン侵攻で、隣国のパキスタンには多くの難民が流入し、今も約170万人が暮らす。米同時多発テロ(01年)に続くアフガン戦争後は、タリバンなどの武装勢力が台頭し、掃討作戦によって国内避難民が増え続けている。故郷に帰る日を夢見ながら、過酷な環境を生きる彼らの姿を追った。【文・堀江拓哉、写真・小川昌宏】

過密キャンプ脱し荷役

難民キャンプの登録のために集まった国内避難民は敷地の外にもあふれた。この約15分後、UNHCRの車両に対する発砲事件が起こった=パキスタン・ジャロザイキャンプで2012年3月26日、小川昌宏撮影

難民キャンプの登録のために集まった国内避難民は敷地の外にもあふれた。
この約15分後、UNHCRの車両に対する発砲事件が起こった
=パキスタン・ジャロザイキャンプで2012年3月26日、小川昌宏撮影

 「パーン、パーン」。乾いた銃声が数発、青空に響いた。パキスタン北西部のジャロザイキャンプ。記者の目前で何者かが突然、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の車に向けて発砲した。避難民の登録を受けようと、数百人が列をなしているすぐそば。けが人はなかったが、この日の作業は中止になった。

 アフガニスタンと国境を接する北西部の部族地域は、01年の米同時多発テロを受けたアフガニスタン戦争の影響で戦火にまみれ、アフガンのタリバン政権崩壊後はパキスタン軍と武装勢力との争いが絶えない。今年1月以降、戦闘が激化したカイバル地区周辺では約2カ月間で約8万8000人が故郷を追われ、国内避難民の数は20万人(4月末時点)に膨れ上がった。

ジャロザイキャンプ

ジャロザイキャンプ

 避難した人たちはキャンプで名前を登録されると、テントや食料などが与えられ、当面の生活を約束される。だが、朝から強い日差しが照りつけ、夏は最高気温が40度にもなるキャンプは決して安住の地ではない。発砲した男は、進まない登録作業にいらだっていたようだ。銃声に驚き、屋内に避難したスタッフの男性は「我々も休みなしで働いているが、キャンプに逃れてくる人の数が多過ぎる」と困惑の表情を浮かべた。UNHCRペシャワル事務所のタイムールさん(30)は「戦闘に巻き込まれて夫を亡くし、子連れで逃げてくる女性も多い。状況が良くなる兆しはなく、国際社会の支援が必要だ」と訴えた。

 白いテントが延々と続くジャロザイキャンプには、かつてアフガン難民が暮らしていた。帰還や転居が進んで閉鎖されたが、09年に国内避難民用に再開された。「我々パキスタン人は助ける側から助けてもらう側になった。皮肉なことだ」。近くに住む男性(40)はそう言って、ため息をついた。

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騒々しい野菜市場で、客を待つガファル君(中央)=パキスタン・イスラマバードで2012年3月10日、小川昌宏撮影

騒々しい野菜市場で、客を待つ
ガファル君(中央)
=パキスタン・イスラマバードで
2012年3月10日、小川昌宏撮影

 キャンプから車で3時間。首都イスラマバードとラワルピンディの境にある市場を訪ねると、キャンプ生活を脱したアフガン難民らが野菜商や荷役として働いていた。子どもたちは売り物にならない形の悪い野菜をもらって回るのが日課だ。

 ガファル君(17)は、自慢のロバ車で客の荷物を運び、母や妹らを養っている。アフガンから逃れてきた父は6年前に結核で死んだ。1日の稼ぎ約300円からロバの餌代などを引くと、手元に残るのは半分ほど。食べていくのがやっとだ。ロバは兄が数年間ためたお金で買ってくれたという。ガファル君は「しっかり働いて、今度は僕が兄さんの結婚資金を稼ぐんだ」と話し、雑踏に消えた。【文・堀江拓哉、写真・小川昌宏】

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