海外難民救援

海外難民キャンペーン2023年度 1270万円を19団体に贈呈

 皆さまから寄せられた2023年度の海外難民・世界子ども救援金は1270万円となり、今年3月、ウクライナなど各地で支援活動をしている国連救援機関や非政府組織(NGO)など19団体に贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民救援キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は17億1988万8344円になりました。このうち、東京社会事業団からは、870万円を13団体(※印)に贈呈しました。

 贈呈先は以下の通りです。(順不同)

 国連UNHCR協会※
 国連世界食糧計画WFP協会※
 日本ユニセフ協会※
 国境なき医師団日本※
 日本国際ボランティアセンター(JVC)※
 難民を助ける会(AAR Japan)※
 シェア=国際保健協力市民の会※
 AMDA※
 シャンティ国際ボランティア会※
 ワールド・ビジョン・ジャパン※
 難民支援協会(JAR)※
 緑のサヘル※
 バーンロムサイジャパン※
 ネパール震災プリタム実行委員会
 Piece of Syria
 CLOUDY
 Inna Project
 ペシャワール会
 ロシナンテス

 (2024年4月)

ウクライナ報道の本紙写真がグランプリ

小出洋平記者が撮影した「ウクライナの空を思う」
小出洋平記者が撮影した「ウクライナの空を思う」

 東京写真記者協会(新聞、通信など36社加盟)による今年の報道写真グランプリの協会賞に、毎日新聞社の小出洋平記者がロシアによる侵攻でポーランドへ避難したウクライナ難民の姿を捉えた「ウクライナの空を思う」(写真)が選ばれました。同協会が11月25日、協会賞をはじめ各部門賞などを発表しました。

 当事業団が展開している世界の飢餓、貧困、難民などを救援する「海外難民キャンペーン」の一環として、毎日新聞社が緊急取材をしました。 今年の報道写真受賞作など約300点を集めた「2022年報道写真展」は、12月14~24日、日本橋三越本店で開かれます。入場無料。

海外難民キャンペーン2022年度 1430万円を22団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2022年度の海外難民・世界子ども救援金1430万円をウクライナなど各地で支援活動をしている国連救援機関や非政府組織(NGO)など22団体に今年3月、贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民救援キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は17億718万8344円になりました。

 贈呈先は以下の通りです。(順不同)

 国連UNHCR協会
 国連世界食糧計画WFP協会
 日本ユニセフ協会
 国境なき医師団日本
 日本国際ボランティアセンター(JVC)
 難民を助ける会(AAR Japan)
 シェア=国際保健協力市民の会
 AMDA
 シャンティ国際ボランティア会
 ワールド・ビジョン・ジャパン
 難民支援協会(JAR)
 緑のサヘル
 バーンロムサイジャパン
 UNDP(国連開発計画)
 TMAT
 Community Life
 アフガニスタン女性支援プロジェクト EJAAD JAPAN
 STAND ALIVE
 ネパール・ヨードを支える会
 アジア子ども基金
 ペシャワール会
 ロシナンテス

 (2023年4月12日)

ウクライナ報道の本紙写真がグランプリ

小出洋平記者が撮影した「ウクライナの空を思う」
小出洋平記者が撮影した「ウクライナの空を思う」

 東京写真記者協会(新聞、通信など36社加盟)による今年の報道写真グランプリの協会賞に、毎日新聞社の小出洋平記者がロシアによる侵攻でポーランドへ避難したウクライナ難民の姿を捉えた「ウクライナの空を思う」(写真)が選ばれました。同協会が11月25日、協会賞をはじめ各部門賞などを発表しました。

 当事業団が展開している世界の飢餓、貧困、難民などを救援する「海外難民キャンペーン」の一環として、毎日新聞社が緊急取材をしました。 今年の報道写真受賞作など約300点を集めた「2022年報道写真展」は、12月14~24日、日本橋三越本店で開かれます。入場無料。

「離散 モルドバ報告」難民救援キャンペーン

 2022年の「海外難民救援キャンペーン」第2弾はウクライナの隣国モルドバで取材を行い、「離散」に苦しむウクライナからの避難民の現状を伝えました。以下すべて【文・宮川佐知子、写真・山田尚弘】(見出し後のカッコ内は掲載日)

戦火に惑う母娘4世代 ウクライナ追われ、別々に 自閉症の孫憂え、母残しドイツへ (6月19日)

 突然の侵攻が、4世代にわたる母娘たちの平和な日々を引き裂いた。

 ルーマニア国境にほど近いモルドバ中西部の人口約1万人の村・カルピネニ。ブドウ畑が点在し、緑豊かな田園風景が広がる。鮮やかな青色の門をくぐると、中庭に十数匹のニワトリが放し飼いにされ、犬が寝そべっていた。簡素な平屋建ての前でニナ・モシエンコさん(64)と母(86)がその様子を眺めていた。

 2人はウクライナ北東部のハリコフ州から隣国モルドバに避難してきた。「今は静かな毎日でほっとしている」と母。しかし、別れの日が近づいていた。ニナさんは自閉症の孫を育てる娘を支えるため、その避難先のドイツに行かなくてはならないのだ。「次はいつ会えるのか」。ニナさんはそう語ると目を赤くし、母は涙をこらえるように宙を見つめた。

 ニナさんは4月上旬、母と一緒にウクライナを出国し、カルピネニにある親族宅に身を寄せている。当初は状況が落ち着けばすぐに戻るつもりだったが、ロシアの侵攻はやまず、避難生活の終わりは見えない。一定の安らぎを得ていたが、どうしても心配してしまうことがあった。ドイツに避難した娘と孫の生活だ。

 ニナさんの一人娘、タチアナ・モシエンコさん(42)には自閉症の長女(9)がいる。シングルマザーで多忙な娘に代わってニナさんが平日に子育てを助け、週末は同じ州内に暮らす母の元で過ごす生活を続けてきた。タチアナさんは自閉症について学んだのをきっかけに障害がある子どもたちのリハビリなどに携わり、充実した生活を送っていた。

 ロシアの侵攻が始まった2月24日、タチアナさんは長女とアパートの地下に避難した。配管が巡る薄暗い空間で毎晩、爆発音の恐怖と寒さに震えながらブーツを履いたまま寝た。「ここに隠れ続けるのは難しい」と脱出を決意。知人のつてで20万円近く払い、国境まで送ってくれる運転手をやっと見つけた。

 3月2日にモルドバ北部の国境に到着。親族に出迎えられ1週間、首都キシナウで過ごした後、過去にタチアナさんが仕事で支援したことのある子どもの保護者を頼って、ドイツに渡った。

 ウクライナにいる時、長女は支援を受けながら通常学級に通っていた。タチアナさんによると、同級生たちと同じように物事を認識し行動するのは難しいが、将来は自立した生活が送れるよう、なるべく多くの人と関わる機会を作り、料理や掃除などを教えてきた。

 同様の環境を期待し、ドイツ南東部の都市パッサウに渡ったが、長女はドイツ語を話せず、現地の学校に通えていない。友達ができないため誕生会には誰も呼べず、代わりに帽子を五つ作って並べた。「今は友達とのコミュニケーションも減ってしまい、今後の成長に影響がでないか心配」と悩むタチアナさん。家の中で過ごすことの多い長女が少しでも人との関わりを増やせるよう、モルドバにいるニナさんに助けを求めた。3人でアパートで暮らすため、準備を進めている。

 「戦争は逃れることができたが、障害や病気の子どもを持つ親は避難先で新たな問題に直面している」。言語や制度の異なる外国で、支援を求め、安心できる生活を築くには、更なる困難が立ちはだかる。

 「『年老いた母を残していくなんて』と言う人もいる。でも娘たち親子を助けないといけない」とニナさん。母は健康に問題はないものの、高齢のため長距離移動は難しい。「こんなことがなければ家族が引き裂かれることはなかった。早く4人がウクライナで平和に暮らせる日が戻ってほしい」

◇ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのは2月24日。それから3カ月以上がたったが、今も先行きは見通せず、国外への避難を強いられる人たちがいる。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、6月7日時点で約727万人がウクライナを逃れ、うち約49万人が西隣のモルドバに入国した。国連開発計画(UNDP)は自治体や地域住民と協力し、幅広い支援が受けられる体制づくりを進めている。故郷、家族らと離ればなれになった人々は、モルドバで何を思うのか。「離散」に苦しむ避難者の姿を追った。=随時掲載

◇モルドバ ウクライナとルーマニアに挟まれた欧州東部の内陸国。九州よりやや小さい3万3843平方キロに約260万人が暮らす。公用語はルーマニア語とほぼ同じモルドバ語。1991年に旧ソ連から独立。欧州連合(EU)加盟を目指す。東部には親ロシア派が90年に独立を宣言して実効支配する地域「沿ドニエストル共和国」があり、ロシア軍が駐留している。世界銀行によると、2020年のモルドバの1人当たりの国内総生産(GDP)は4547ドルで日本の約9分の1。

祖国から共にモルドバに逃れてきた母(左)に寄り添うニナ・モシエンコさん=カルピネニで5月26日
ウクライナにいた頃のタチアナ・モシエンコさん(左)と長女=タチアナさん提供

長男戦死、礼装で見送り 「幸福な時間、経験できず」(6月25日)

 軍服に身を包み、銃を構える姿には、あどけなさが残る。「息子は家族や母国を守りたいと思っていた」。スマートフォンに残された写真を見ながら、アナ・ボルギリビッチさん(41)は感情を押し殺すように語った。ウクライナ兵だった長男ビタリーさん(当時20歳)は3月中旬、ミサイル攻撃を受けて命を落とした。

 アナさんはモルドバ生まれだが、20年以上前にウクライナに移住。今年4月、ウクライナ南西部のオデッサ近郊の自宅に夫を残し、出身地に近いモルドバ北東部のショルダネシュティに避難し、次男(12)、三男(8)と教会の施設に身を寄せている。

 ビタリーさんは路面電車を整備する仕事に就いたが、徴兵されて2020年秋から兵役に就いた。直近はウクライナ南部ミコライウ州に着任。家族との間ではほぼ毎日、スマホなどで会話やメッセージのやりとりを続けてきた。3月17日を最後に連絡が途絶えたが、「忙しいのだろう」と心配はしていなかった。

 数日後の夜、地元の役場から突然、アナさん夫妻の所在を尋ねる電話が入った。間もなく、犬が騒がしくほえ、来客を伝えた。暗闇の中、家の前には軍服を着た男性らが立っていた。男性は夫に名前などを尋ねた後、ビタリーさんが亡くなったことを知らせた。就寝中に滞在先の施設が攻撃を受けたという。「息子をこの目で見て、触るまで信じない」。そう泣き叫ぶアナさんに「明日遺体が到着します」と言って軍関係者は去って行った。

 ミコライウからは道路や橋が通れず、遺体が帰ってきたのは2日後だった。夫はビタリーさんと確認した後、「見ない方がいい」と告げたが、アナさんは「どうしても息子に会いたい」とひつぎを開けた。軍服姿でブーツを履いていた。歯の形や腕に刻まれた鳥のタトゥーから本人であることが分かった。寝る時に腕を組む癖があり、ひつぎの中でも同じ状態だった。頭部や顔は負傷していたが、「攻撃を受けた時に寝ていたからかもしれないが、夢を見ているような穏やかな表情でした」。

 翌日の3月25日、自宅付近で営まれた葬儀には同級生、恩師ら多くの人たちが集まり、若すぎる死を悼んだ。「結婚とか、人生の中で最も幸福な時間を経験することなく死んでしまった。私たちにできるのは晴れ姿で送り出すこと」。軍服から礼装に着せ替えた。

 優しい性格で人と争うことはなく、弟たちをよく遊びに連れ出してくれた。「長年かけて温めてきた親子の関係、何気ない会話、その全てが記憶になっていく……」。モルドバにも何度かビタリーさんと帰省したことがあり、自らが幼少期を過ごした場所を見せて回った。その時に訪れた森に最近、次男と三男を連れて行った。悲しみがこみ上げたが、兄を亡くした弟たちを動揺させたくないと平静を装った。

 「国を守るための戦争で多くの命が失われ、残された家族に耐えがたい苦悩を残す。これは大きな悲劇だ。犠牲になるのは一般の人々。政治家はこの争いを一刻も早く止めてほしい」。アナさんはこう訴えた。

生前の長男ビタリーさんの写真が収められたスマートフォンを示すアナ・ボルギリビッチさん=ショルダネシュティで11日

歓待感謝、でも「帰りたい」 ステイ先で穏やかな日々(6月28日)

 「おじいちゃん、今日も学校楽しかったよ」。ソ連時代に建てられた古びたアパートの一室。5畳ほどのダイニングキッチンで、高齢の男性と小学生の女児らがテーブルを囲み、ロシア語で談笑している。つい数カ月前まで出会うことすらなかったウクライナからの避難者を、モルドバの人々は「家族」のように温かく迎え入れた。それでも避難者は、ふとしたことで悲しみに襲われる。心の傷が癒える日は来るのか。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ロシアによる侵攻後、7日時点で約727万人がウクライナを逃れ、約9万人がモルドバ国内に滞在している。大半が親族や知人を頼って避難してきた人々だが、見ず知らずの家庭にホームステイするケースも少なくない。

 「娘たちは海外に行ってしまって、1人暮らしで退屈していた。誰かの役に立てればいいと思った」。北西部の都市エディネットに住み、ガス関連の仕事に就くアレクシエイ・チェキナさん(62)はそう言うと、笑みを見せた。侵攻が始まって間もなく、ボランティアとして避難者の受け入れを申し出た。ウクライナにいる支援者を通じて3月8日、南部ザポロジエから逃れてきたクリスティーナ・マルギナさん(33)ら4人家族を迎えることになった。

 マルギナさん一家は侵攻が始まった直後から、義母(64)の出身地モルドバへの避難を決めた。気がかりだったのはザポロジエ原子力発電所だ。家からは離れているが、原発はドニエプル川付近にある。何かあったら、流域に住む自分たちも大きな影響がある――。マルギナさんは夫を残して3月上旬、長女(7)、長男(1)を連れてザポロジエを出発。列車などを乗り継いで4日かけてエディネットにたどり着いた。

 「ホストのチェキナさんに温かく迎えられ、久しぶりにシャワーを浴び、ベッドで寝られた時は本当にほっとした」とマルギナさん。アパートは3部屋しかなく、決して広くはない他人の家で初めは不安を感じたが、「台所など家にある物は全て自由に使っていい」などルールを確認し合い、共同生活を始めた。イタリアにいるチェキナさんの娘が家族向けに服を送ってくれたり、一緒に食卓を囲んだりするうちに少しずつ打ち解けてきた。

 マルギナさんの長女は、車で学校に送迎してくれるチェキナさんを「おじいちゃん」と呼んで懐いている。チェキナさんは「早くウクライナに戻れればいいと願う半面、いつかいなくなってしまうと思うと寂しい」。そう思うほど、かけがえのない関係になった。

 一方、避難生活が長期化するにつれ、マルギナさんは複雑な思いを抱える。長女はオンラインでウクライナの学校の授業を受けていたが、「同年代の子どもたちと交流できた方がいい」と最近、ロシア語で教育を受けられる学校に通い始めた。モルドバ語は話せなくても、ロシア語ならウクライナでも使っていたため、コミュニケーションが取れるからだ。

 しかし、教員の中にはロシア支持者もおり、マルギナさんは「なぜウクライナがこんなことになったのでしょう」と面と向かって嫌みを言われたこともあった。「モルドバには親切な人もたくさんいるが、全ての人が私たちの状況を理解してくれているわけではない。ウクライナ国旗を見るたびに帰りたいと思う」と漏らす。

 侵攻後、ウクライナ政府は18~60歳の男性の出国を制限しているが、3人以上子どもがいる場合など出国が認められるケースもある。長女が通う学校には、父親と一緒に暮らすウクライナからの避難児童もいるという。「夜になると娘が『なぜうちにはお父さんがいないのか』と泣き出す。ロシアには親族もおり、『なぜロシアはこんなことをするのか』と聞いてくるが、どう説明したらいいのかわからない」。マルギナさんの目に涙がにじむ。ホストファミリーの支えに感謝しつつ、本当の家族が再会できる日を切望している。

同じ食卓を囲むクリスティーナ・マルギナさん(右端)一家。アレクシエイ・チェキナさん(左から2人目)が住居を提供してくれた=エディネットで5月27日

迫る暴力の影、出国を決意 露軍「協力しないなら暴行」(7月2日)

 ウクライナ南部のヘルソン州は、ロシアのターゲットにされてきた。ミサイルにおびえる生活が100日を超えた6月上旬のある日、アレクセイ・アロヒンさん(36)は「食べ物を探し回る毎日、地下室での生活はもう終わりにしたい」と家族で国外脱出することを決めた。避難にも危険が伴うことは分かっていた。それでも決断した理由は、親類宅に迫った暴力の影だった。

 アレクセイさんは、妻イリナさん(36)と11~3歳の子ども3人の5人家族。ロシア軍が4月末に同州全域を支配下に置いたと宣言するなど、地元は侵攻の影響を大きく受け、一家は多くの時間を自宅の地下室で過ごした。アレクセイさんは警備の仕事をしていたが休職を余儀なくされた。男性はロシア軍に狙われ外出自体が危険なため、食料の買い出しはイリナさんが担った。各地の店を回り、数時間待ちの行列は当たり前。トマトやキュウリなどは自宅の庭で栽培した。

 いつの間にかテレビではウクライナの番組に代わり、ロシアの番組が流れるようになった。インターネットやスマートフォンではウクライナ語のニュースが読めなくなり、一部のSNSも使えなくなった。アレクセイさんは特別な技術で接続制限をかいくぐり、ウクライナ側の発信する情報にも触れ続けた。

 なんとか耐えていたが、ある知らせに潜伏生活の限界を悟った。突然、ロシア兵がアレクセイさんのいとこの家に立ち入り、ロシア側に協力するよう署名を求めてきた。そして「サインしないなら(9歳の)娘を暴行するぞ」と脅したのだ。「ロシアのニュースは市民を攻撃しないと言っているのに矛盾を感じた。他にも、脅されて周囲に言えない人がいるのではないか」

 国外脱出を決意したアレクセイさん一家は6月9日早朝、自家用車で西隣の国モルドバを目指し出発した。「いつ帰ってくるの」。子どもたちは住み慣れた場所を離れることをためらったが、「大切なのはここを離れること。家族の無事が一番」と言い聞かせた。

 ロシア軍によって州内各地に張り巡らせた検問をどう通過するか。「殺されるかもしれない」と恐怖もよぎったが、夫婦で冷静さを保ち、子どもにも落ち着くよう伝えた。検問で訪問先を聞かれた際は「親戚宅に行く」と答えた。州内で通過できる道路は限られており、東側のザポロジエ経由で遠回りをしてオデッサに到達した。イリナさんは「賄賂を要求されると思ったが、たばこ3本で済んだ。最後の検問では子どもたちにオレンジをくれたが、怖かったので食べなかった」と振り返る。

 車が故障したため、最後は知人が国境付近まで送り届けてくれた。ウクライナ政府は18~60歳の男性の出国を制限しているが、アレクセイさんは子どもが3人いるため出国が認められた。モルドバに脱出したのは17日。「ここではサイレンが聞こえず、安全なのだと実感した」。出発から1週間以上がたっていた。

 侵攻後、モルドバにはウクライナから多い時で1日6000人以上が押し寄せ、現在も1000人前後が避難してくる。国境検問所のある南部・パランカでは、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などが常駐し、相談や食事の提供、各地に向かうバスの運行などの支援活動をしている。

 「子どもたちが楽しそうに遊ぶのを見るのは久しぶり」。モルドバ入りした17日、ユニセフ(国連児童基金)が設けた支援施設の一角で、アレクセイさんはほっとした表情を見せた。イリナさんは「大変な状況の中、子どもたちはなんとか3カ月間頑張った。特に息子(11)は警報が鳴ったら率先して幼い妹(3)、弟(7)を地下に誘導するなど責任感が増した」と目を細める。

 これから一家はバスなどを乗り継ぎ、知人のいるポーランドを目指す。「言葉は勉強すればいいし、仕事だって何でもする。安心して暮らせることを考えたら全く問題でない。それより心配なのは、ウクライナに残る妻の両親や親族のことだ」と表情を曇らせた。

ウクライナとモルドバ国境のユニセフなどの国際機関が用意した支援施設で、ウクライナの国の形をしたパズルゲームで遊ぶアレクセイさん一家。アレクセイさんが手にするのは故郷へルソンのパーツ=パランカで6月17日

取り戻せぬ「当たり前」 働く母、収入減で生活不安(7月7日)

 ウクライナから子どもと一緒に逃げてきた母親たちは、モルドバで仕事を見つけ、生活再建を目指す。環境の変化、収入減、育児との両立……。心配事は尽きないが、何より帰郷のめどが立たないことが心をくじく。当たり前の日常はいつ、取り戻せるのか。

 3月9日に長男(10)とウクライナ北東部ハリコフ州から逃げて来たエレナ・ポードレスさん(38)は医師として働いていた。現在は避難者が暮らす宿泊施設で住民の健康管理を担う。収入はウクライナ時代の5分の1。モルドバの一般的な収入よりも下回るが、「家賃や食費はかからないし、何より、誰かの役に立っていることに意義を感じる」と話す。

 ロシアの侵攻が始まった2月24日、自宅付近で大きな爆発があった。住んでいたアパートには避難できる場所がなかったため、15分で荷物をまとめ、元夫の実家に逃げ込んだ。サイレンが鳴ったら地下に潜り、すぐに外に出られるよう携帯電話や服を近くに置いて、長男とはトイレや入浴時間も含め片時も離れなかった。約1週間後のある朝、「どこかに行こう」という長男の一言をきっかけに国外避難を決意。愛車を運転しモルドバを目指した。夜間は移動禁止のため車中泊したが、寒さで眠れない日も。約900キロ、7日間の決死行で、国境を越える時、「もう帰れない」と思うと涙が止まらなかった。

 モルドバ北東部の都市ソロカにあるおばの家にたどり着いた時は安心して、数日間、ほぼ眠り続けた。しかし「このままずっと休んでいるわけにはいかない」と思い、避難から約1週間後には職探しを始めた。

 ウクライナでは医師として地域医療に貢献した。「具合が悪くなると真っ先に私に連絡が来る。頼りにされやりがいがある仕事だった」。モルドバでも医療職に就きたいと考えたが、モルドバ語(ルーマニア語とほぼ同じ)が分からないことなどから断念。市役所で避難所の健康管理の求人があると知り、即応じた。

 約40人が暮らす施設で住み込みで働く。元々地元の子どもたちが夏休みを過ごす場所で、緑の中にコテージが並ぶ。新しく来た避難者から家族構成や基礎疾患などを聞き取り、治療が必要なら医療機関を紹介する。避難者に積極的に声をかけ、体調不良や悩み事がないか耳を傾ける。就労を望む女性も多いが、子どもの預け先の確保などがネックとなり、実際に働く人は少ないという。

 ポードレスさんは今でも母国の患者と携帯電話で連絡を取り、体調や薬の相談に乗る。「ウクライナにいる患者のことが心配。私の全てはウクライナに残してきてしまった。早く帰りたい」

 ウクライナ南部オデッサ出身のナリア・ズボンナロバさん(38)は、3月末にモルドバに避難し、東部クリウレニの職業訓練学校に開設された避難施設に長女(8)と一緒に住んでいる。モルドバ各地にある避難施設では国連世界食糧計画(WFP)などによる支援で食事が提供されている。ズボンナロバさんは施設内の食堂で働いている。育児との両立が心配だったが、長女は朝昼晩、母親が働く食堂に食べに来るため、様子が確認できて安心という。

 ウクライナでは水道の検査に関わる仕事をしていた。現在は朝から晩まで皿洗いや掃除を任され、体力的にハードな毎日を「スポーツみたい」と語る。それでも「ずっと部屋にこもって憂鬱になるよりはいい」と気持ちを切り替える。賃金はウクライナ時代の半分以下。避難生活は家賃や食事代はかからず、金銭補助で必要最低限の物は賄えるが、支援が切れた時のことを考えると眠れない。

 「冬服しか持ってこなかったので、子どもに新しい服や靴を買ってあげようと思うとあっという間にお金がなくなる。動物園などにも連れ出したい」「安い車を買って、娘といろいろな場所に行くのが私のささやかな夢」。そんな当たり前の生活を、これほど遠くに感じたことはない。

長男と話すエレナ・ポードレスさん(右)=ソロカで6月4日

「客人に最善の部屋」 裕福でない小国、善意が支え(7月8日)

 2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻で、西隣のモルドバには6月末までに約51万人が逃げ込み、今も約8万人が避難生活を続けている。経済的に裕福とは言えない人口約260万人の小国にとって受け入れの負担は重い。それでも人々が助けの手を差し伸べるのはなぜなのか。

 南部の都市コムラトに住むナタリア・ペトロバさん(56)は3月上旬から2カ月間、ウクライナ南部ミコライウから来たいとこら10~81歳の親族7人を自宅で受け入れた。7人分の食材は自治体から支給されたが、光熱費や水道代などを合わせると世界食糧計画(WFP)からの給付では足りず、自己負担している。

 ペトロバさんは視覚障害のある母と難病を抱え車椅子で生活する娘の介護で働くことができず、母の障害年金などで生活している。借金もあるため予想外の出費は痛手だったが、「自分はこれまで、困っても人に助けを求めることができなかった。他の人にはつらい思いをしてほしくない」と涙ながらに語る。

 7人は現在、ドイツやイスラエルに滞在しているが、ペトロバさんの家に車や荷物を残しており、秋ごろモルドバに戻る予定だ。「ウクライナの状況次第だが、また頼りにされたら拒めない。秋以降は気温が下がり暖房費がかさむだろう。神が助けてくれると信じるしかない」

 モルドバの避難者受け入れは国民の善意に支えられる部分が大きい。避難者は主に▽公共施設などに設けられた宿泊所▽モルドバ人の一般家庭▽賃貸住宅――に滞在しており、多くは親族や知人のつてで一般家庭にホームステイしているとされる。避難者には国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から1人月2200モルドバレイ(約1万5000円)が支給される。WFPは避難者2人以上を受け入れる家庭に5月以降に計2回、各3500モルドバレイ(約2万5000円)を支給している。一方、5月時点で食料品が前月比2・5%、前年同月比では3割上昇するなど、物価の値上がりは深刻だ。戦況も長引いており、負担増には懸念が広がる。

 避難者支援を統括するモルドバ政府危機管理センター長のアドリアン・エフロス大佐は「モルドバでの人道支援に対して、日本を含む各国、国際社会からの資金援助には大変感謝している。しかし、故郷に戻れない人はいまだ多く、今後さらに支援が必要だが、それはモルドバだけでは賄いきれない」と訴える。

 UNHCRモルドバ事務所のフランチェスカ・ボネリ代表は「モルドバ政府や国民による迅速な対応、団結力には驚いた。『客人には最善の部屋を用意する』という国民性を反映しているのではないか」と話す。避難生活が長期に及ぶことから「避難者の社会統合を目指し、就労支援や教育の提供などをモルドバだけに任せるのではなく、財政面などで国際社会の支援が必要だ」と指摘する。

 ペトロバさんと同じコムラトに住むアンドレイ・シェビルさん(26)はロシア語の教員を務める傍ら、ボランティアで避難者の支援に携わる。コムラトはウクライナ国境に近いため避難者が多く、3月ごろは昼夜問わず携帯電話が鳴った。ほとんどが送迎依頼で、シェビルさんは車を持っていないため知人に運転を頼み、燃料費は貯金を取り崩して負担した。夜間は避難者向けの宿泊施設に泊まり込み安全確認に当たった。最近は新たな避難者が減ったが、SNS(ネット交流サービス)で情報発信したり、生活の相談に乗ったりしている。

 シェビルさんによると、地元住民の感情は複雑だ。近所の人や職場の同僚には「モルドバ人も困っているのになぜウクライナ人を助けるのか」と嫌みを言われることもあるという。

 コムラトのあるガガウズ自治区は、モルドバ語のほか、少数民族ガガウズ人が話すガガウズ語、ロシア語が公用語になっているが、学校や日常生活ではロシア語が使われることが多い。シェビルさんは「ロシアのニュースを情報源にしていたり、ロシアに親近感を持ったりする人も多いのではないか」と話す。勤務先では特に年配の教員の間で避難者を快く思っていない人が多く、生徒も家庭での影響か「ウクライナ人が悪い」と口にすることがある。

 シェビルさんの祖父はウクライナ出身だが、それ以上に「困っている人の力になりたい」との思いで支援に携わる。生徒には「何人だろうと目の前に困っている人がいたら助けなくてはいけないよ」と諭す。

 このままでは、いずれ限界が訪れる。そう感じるシェビルさんは「ウクライナの人たちも地域に溶け込むことが大切なのではないか」と指摘する。モルドバ政府はウクライナからの避難者の積極的な雇用を呼びかけており、「仕事に就く避難者が増えることで、『自分たちの社会保障が減る』といった不安が消え、モルドバ人の受け止め方も変わってくるのではないか」とも言う。そして「受け入れは突然の出来事だったが、政府や自治体、国民は短期間でそれぞれができることをやってきた。今後のモルドバにとって貴重な経験になるはず」と力を込めた。

ウクライナの避難民から相談を聞くアンドレイ・シェビルさん(左)=コムラトで6月

「ウクライナ侵攻」難民救援キャンペーン

 毎日新聞と毎日新聞社会事業団による「海外難民救援キャンペーン」としてポーランドに取材チームが入り、戦火を逃れたウクライナ難民の現状を随時掲載しました。新聞に掲載された全文と全写真を紹介します。以下すべて【文・平野光芳、写真・小出洋平】(見出し後のカッコ内は掲載日)

「元の生活、戻りたい」 手荷物わずか、母子脱出 (3月15日)

 ウクライナ西部に隣接するポーランドの国境の町、メディカ。13日朝、国境検問所を歩いて越えてきたオレナ・ジンチェンコさん(30)の長女ヤロスラバちゃん(4)は、ボランティアからぬいぐるみを受け取ると久しぶりに明るい表情を見せた。

ウクライナから国境を越え、歩くヤロスラバちゃん(手前右)とイエゴールさん(同左)=ポーランド・メディカで13日

 「おもちゃも教科書も学用品も何も持ってこられなかったんです」とオレナさん。ウクライナ南部クリビリフで、エンジニアの夫と小学2年生の長男イエゴールさん(8)の4人で暮らしていた。仕事はスーパーのレジ係。「住まいや子供たちの学校、幼稚園にも満足していました」

 しかし2月下旬に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻で生活は一変した。クリビリフの空港もロシア軍の爆撃を受け、約20キロ離れた自宅までごう音が響いた。「ここでは安全を確保できない」。そう考えたオレナさんは脱出を決意。ウクライナでは現在、18~60歳の男性の出国が認められていないため、避難者の多くは女性や子供だ。家族が離れ離れになるのは苦しかったが、オレナさんらは母子だけで11日に避難を始めた。

 クリビリフから西部リビウに向かう電車は避難客で大混雑し、大型の手荷物は持ち込めなかった。リュックに詰め込んだのは母子3人の1~2日分の着替えだけで精いっぱい。リビウ到着後は、知人に車で国境まで送ってもらった。今後はポーランドで暮らす親族の手助けで仮住まいに移る。

 子供が教育を受ける機会を失ったのが残念でならないという。「夫の安全が心配です。子供たちも『早く家に帰りたい』と話しています。ただ元の生活に戻りたいだけなのです」。オレナさんは手で涙を拭った。

 検問所前には約150メートルにわたり、援助団体などが設置した無料の屋台が並ぶ。ピザやスープといった食事が振る舞われ、医療品やおむつ、粉ミルク、離乳食、おもちゃも配布される。わずかな手荷物で避難してきた母子が次々と手に取っていた。

 検問所近くの路上では、生後3カ月という男児がベビーカーの中で寝ていた。ウクライナ中部から避難してきたボロニナ・バレンティナさん(32)の五男ムイコラちゃんだ。ボロニナさんは9歳までの6人の子供をバスに乗せて移動し、13日未明に国境を越えたばかり。「出入国手続きの際、子供たちが散らばらないようにするのが一番大変でした」。疲れ切った表情だが、子供たちは配布された人形や車のおもちゃを手にしてはしゃいでいる。「通信状態が悪く、家に残る夫とはなかなか連絡が取れません。心配です。戦争は大嫌いです」

ウクライナから逃れる避難民たち 祖国に残る父親と離れ、母親に連れられた子供たちが目立つ=ポーランド・メディカで

「露軍の恐怖よみがえる」 71歳、暗闇と寒さに耐え脱出 (3月17日)

 真っ暗な部屋でただ一人、ロシア侵攻の恐怖と氷点下の寒さに耐えた。「電気も水道もガスも壊されて来なくなりました。暖房が使えず、ろうそくすらありませんでした。3日間続きました」。戦禍のウクライナ南部ニコラエフ郊外から国境を越え、友人らとポーランド南東部メディカに逃れたタチアナ・ドフチェンコさん(71)は振り返った。

 ロシア軍の侵攻が始まった2月24日以降、自宅の近くにも爆弾が落ち、窓ガラスが爆風で壊れた。「自宅周辺の地区がロシア軍に包囲され、外に出られなくなりました」。インフラが破壊され、1人暮らしの高齢者がとても生活できる状況ではない。見かねた親族が車を出し、危険を冒して包囲網を突破した。1000キロ近い距離を電車や車を乗り継ぎ、3月12日にメディカに到着。国境検問所近くの体育館に設けられた避難所でようやく一息ついた。

 避難所には簡易ベッドで数百人が寝泊まりし、ここから親族や知人、援助団体を頼って別の場所に移動する人が多い。無料で食事や衣類が手に入り、常駐するカウンセラーが避難者の心身にも気を配る。ただ子供たちが大声を上げたり、どたばたと走ったりすることもある。「そんな音ですら怖いと思ってしまいます。自宅で経験した爆発の恐怖がよみがえってくるのです」。長女が暮らすイタリアに向かうという。

 ドフチェンコさんの近所に住み、一緒に逃れてきたエリザベス・ドラグシニエッツさん(61)は、故郷に残る息子家族のことが片時も頭から離れない。連日の爆撃が恐ろしく「危ないから一緒に逃げよう」と説得したものの、家族は「ウクライナ軍がすぐに勝つから大丈夫だ」と信じて動かなかったという。「今は自分だけ避難してしまったことに罪悪感を覚えます」。こらえきれずにすすり泣いた。

 ドラグシニエッツさんの母方はロシア出身で、自身もロシア語が堪能だ。しかし「ロシア軍を憎みます。もうロシア語は話したくない」。穏やかだった日常は一変した。「こんなことが起こるとは思いもしませんでした。恐ろしい悲劇です。だれにもこんな思いをしてもらいたくありません」

ウクライナから逃れた人たち向けに用意された避難所で悲しみに暮れるタチアナ・ドフチェンコさん(右)とエリザベス・ドラグシニエッツさん=ポーランド南東部の国境の町メディカで13日午後

「毎日爆撃」車椅子で脱出 ポーランド無料列車で西へ (3月20日)

 ポーランドの東端に位置するプシェミシル駅は、ロシアによる攻撃を逃れてウクライナから国境を越えてきた難民が集まる駅だ。人々はここからポーランドや欧州各地に向かう。18日午前、急行電車がホームに入ると、大きな荷物を抱えた難民が次々と乗り込んできた。座席の半分以上が埋まった。ポーランド政府は難民の電車代を無料にして移動を支援している。定刻の午前10時1分、電車は西に向かって進み始めた。

 2等車の端にある障害者用スペースで車椅子に座っていたセルゲイ・イレンコさん(52)は、妻ユレアさん(42)と17日に600キロ以上離れた首都キエフ南郊の町を出発して逃げてきたばかり。「階段を一人で下りられません。警報が鳴っても防空壕(ごう)に避難できないんです」

ポーランドに入国後、列車で西へ向かうセルゲイ・イレンコさん

 けがで障害を負い、20年ほど前から車椅子で生活する。自宅はアパートの3階。非常事態のためエレベーターが使用停止となり、外出が困難になった。「自分が生まれ育った町を離れたくはありませんでした。でも町は毎日のように爆撃され、戦争がいつ終わるか分かりません」。食料や日用品も手に入りにくくなっていた。

 ウクライナ国内に援助物資を届けに来たポーランドのボランティア団体が、帰りの車で避難させてくれることになった。ミニバンなど車2台に女性や子供ら20人ほどが分乗し、13時間かけて国境を越えた。ウクライナは18~60歳の男性の出国を禁止しているが、障害がある人などは除外される。「とても疲れました」。ポーランド国内の親戚を頼って仮住まいを探す。

 同じ電車に乗っていたマリア・フィデブさん(38)は、次女ロマナちゃん(4)を抱っこして座っていた。「今朝の空爆を知り、急いで避難してきました」。比較的安全とされてきたウクライナ西部の都市リビウのアパートで暮らしていた。国内の別の町に住む友人からは「ロシア軍に包囲され、水や食料が手に入りにくくなった」と聞いていたが、自分の周りでは侵攻の実感があまりなかった。

子供たちと列車で避難するマリア・フィデブさん=いずれもポーランド東部で18日

 ところが18日朝になってリビウの空港近くにもロシア軍のミサイルが着弾した。子供たちの安全を確保しようと、長女ヤレナさん(15)と3人で脱出を決意。夫に国境まで車で送ってもらい、徒歩でポーランドに入った。「夫のことが心配です。戦争は恐ろしいです」

 マリアさんらはプシェミシルから1時間ほど電車に乗り、途中駅で下車していった。近くの友人を頼って滞在先を探すという。戦火を逃れた後も、人々の苦難の旅は続く。

見通せぬ未来、戦火逃れ (3月21日)

 ロシア軍による攻撃から逃れるため、ウクライナから周辺国に避難する人々が増加の一途をたどっている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、18日時点でその数は約327万人。半数以上をポーランドが占め、他にルーマニアやモルドバ、ハンガリーなどに多くの人々が逃れている。そこから親族や知人、支援団体を通じてドイツ、フランスなど別の国に渡るケースも多い。

ポーランドへ避難した状況を振り返り、涙するエリザベス・ドラグシニエッツさん=ポーランド南東部の国境の町メディカで13日
難民向けに用意されたバスに乗り込み、空を見上げる女性=メディカで13日

 周辺国は必死に難民を受け入れている。ポーランドでは入国直後からボランティア団体などが食事や衣服、日用品、子供用品を無償で提供。携帯電話のSIMカードも配布し、母国とスムーズに連絡が取れるように配慮している。ポーランド南東部メディカの国境検問所前で衣料品を配布していたボランティア、トマシ・ビエルズビッチさん(22)は、「ポーランドだっていつ戦争に巻き込まれるか分かりません。明日は自分が助けられる側になるかもという思いで支援しています」と話した。

ドイツ行きの列車に向かうウクライナからの難民たち=ポーランド・クラクフの駅で16日
疲れた様子でバスを待つお年寄り=メディカで13日

 メディカでは13日朝、国境検問所を歩いて越えてきたオレナ・ジンチェンコさん(30)の長女ヤロスラバちゃん(4)がこうしたボランティアの人々からぬいぐるみを受け取り、笑顔を見せた。「おもちゃも教科書も学用品も何も持ってこられなかった」と母のオレナさんは振り返る。長男イエゴールさん(8)と母子3人で戦火を逃れてきたが、オレナさんの夫は今もウクライナに残っているという。

 今回は「欧州における今世紀最大の難民危機」とも言われる。長期化すれば住宅や雇用、教育など受け入れる側にとっても影響は大きい。欧州各国も難しいかじ取りを迫られる中、難民の未来は見通せない。

幼児を抱き、バスを待つ列に向かう女性
数百床のベッドが並ぶ避難所では、母子らがつかの間の休息を取っていた=いずれもメディカで13日

滞在先、見つからない 相談所に長い列 (3月22日)

 ポーランド南部の古都クラクフは、ウクライナとの国境から電車で3時間半の交通の要衝だ。クラクフの中央駅は今、難民でごった返し、炊き出しや衣料・日用品の配布といった支援の拠点にもなっている。16日昼、駅構内にある難民向けの住宅相談所を訪れると、数十人が列を作っていた。

 ウクライナ東部から娘2人とポーランド入りしたイリナ・ソロマシェンコさん(39)は「利便性が高いクラクフ中心部で滞在先を探しています」と話す。今は民家の一室を無料で間借りしているが、中心部から50キロ離れた郊外にあり、移動が大変だ。新しい物件を探す相談に来たが、この日は条件に合う住まいが見つからず、引き返すしかなかった。紹介所の担当者は「物件は限られており、希望に応えるのがだんだん難しくなっています」と話す。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ロシア軍による2月24日のウクライナ侵攻開始以降、ポーランドには3月18日時点で約200万人の難民が押し寄せている。ポーランドの人口の5%にも相当する膨大な人数だ。国民はおおむね受け入れや支援に前向きで、自宅の一室を無料で貸し出す市民もいるが、安定した滞在先の確保は常に課題だ。

 クラクフ中心部のワンルームのアパートではカリナ・チェルカシナさん(31)が10歳と3歳の息子に本の読み聞かせをしていた。それを見ていたカリナさんの母ラリサ・イエレメンコさん(51)は話した。「避難先がすぐに見つかったのは幸運でした」

親族が借りてくれたワンルームのアパートで過ごすカリナ・チェルカシナさんと子どもたち=16日

 ウクライナ東部ドニプロから、12日に3世代4人で逃れてきた。「頻繁に空襲警報が鳴るのに避難できる防空壕(ごう)もありませんでした」。すし詰めの列車やバスで国境を越え、クラクフで暮らす親族が借りてくれたこのアパートにやって来た。部屋は8畳ほどで手狭だが、政府やボランティアの支援で衣料品や薬も手に入った。

 ただ、少しずつ整っていく自分たちの生活と爆撃にさらされる故郷との隔たりは大きくなっていく。「ここでは皆に良くしてもらっています。でも自宅に残る夫らのことがとても心配です」。戦争についてどう思うかと尋ねると、しばらく沈黙した。ほおには涙が伝っていた。「言葉になりません」

戦争が家族を裂いた クリミア出身、両親は露支持 (3月23日)

 ウクライナの戦火を逃れてポーランドに避難してきたオリガ・ルミャンツェワさん(27)は14日、2週間ぶりに故郷を見ようとポーランド側から国境線の柵のすぐそばまで来た。林や草原が広がるのどかな景色で、柵の向こうから犬の鳴き声が聞こえてくる。「こんなに近いのに、今はカナダより遠くに感じます」。そう語ると、目から涙があふれてきた。「戦争中の国の空はどんよりしていると思い込んでいました。でも空は青く美しいままです」

ウクライナとの国境地帯(後方)が見える場所に立つオリガ・ルミャンツェワさん=ポーランド東部のコルチョバで14日午後

 ソ連崩壊3年後の1994年、ウクライナ南部クリミア半島で生まれた。父はロシア・シベリア、母はウクライナ南部オデッサの出身で高校卒業までは家でも学校でもロシア語を使っていた。2012年に首都キエフの大学に進学した時は「ウクライナ語がうまく話せませんでした」。友達との交流を通じて次第に上達した。

 14年、在学中に起きたロシアによるクリミア併合が家族の分岐点になった。クリミアではロシアへの同化政策が進み、キエフからの直通列車は廃止。検問所が設けられ、年3、4回していた帰省も気軽にはできなくなった。父は少しは理解できていたウクライナ語を忘れた。そのままキエフで就職、結婚しウクライナ人としての意識が高まる自分とは正反対だった。

 キエフにロシアが侵攻してくるとは想像もしなかった。2月24日朝、突然、空襲警報のサイレンが鳴った。その後、警報の度に自宅アパートから近所の地下にある小劇場に避難した。

 翌25日、友人が「今から車で避難する。席が空いているので、乗りたければ30分以内に来てほしい」と電話をかけてきた。夫と別れたくなかったが、夫は「君は安全な場所にいてほしい」と後を押した。急いで荷物をまとめた。ポーランドとの国境検問所は大渋滞で、通過に三日三晩かかった。ただ、ようやく国境を越えてこみ上げてきたのは安堵(あんど)ではなく、「罪悪感」だった。「多くの人が国を守るために残っている」と自分を責めた。

 実家の両親はロシアのメディアを通じて戦況を知り、「ロシアがウクライナを救うために介入している」と信じている。娘に「おまえは間違っている。ウクライナ政府が言っていることはすべてウソだ」と、携帯電話に頻繁にロシア発のニュースを転送してくる。「あまりに不快で最後まで読めません」。反論はせずに放置している。「家族の関係にはさまざまな要素があります。政治的な見解の違いだけで関係を破綻させたくはありません」

 今はポーランド南部クラクフの知人宅に身を寄せる。少しでも母国の役に立ちたいと、避難してきた友人らとウクライナに子供用品や医療品など支援物資を送る活動をしている。

 いつか必ずウクライナに帰る。「廃虚のままにはさせません。戦争前よりももっと美しく、輝く国をつくるために全力を尽くします」

「戦争終わって」日本で祈る 母娘、大好きな母国脱出 (3月27日)

 日の丸の旗がはためくポーランド・ワルシャワの日本大使館。3月21日午前9時、ウクライナ・キエフから逃れてきた主婦のオレシア・サブリバさん(49)は20歳と13歳の娘2人と共に、日本滞在のためのビザ申請に訪れた。「爆発が毎日朝から晩まで。本当に怖い」。日本語で思いを語った。

ビザの申請に日本大使館を訪れたオレシア・サブリバさん=ポーランド・ワルシャワで21日

 ロシアの侵攻は2月24日に始まったものの、当初は自分たちが暮らすキエフ中心部はあまり被害を受けなかったという。ところが3月5日ごろから状況が一変した。友人宅の隣のマンションが攻撃を受けたり、近所の駐車場でも爆撃で車が全て破壊されたりした。

 危機は身近に迫るが、大好きな母国を離れる決断はなかなかできなかった。「すぐ終わる、明日終わる、あさって終わる」と祈るような気持ちだった。「本当に怖いのは最初の1日だけです。あとは映画の中に自分が入っているみたい。信じられないことになっています」。夫を家に残し、娘らとボランティアが運行する避難バスに乗って、19日にポーランドに逃れた。

 2000年まで4年間、日本で暮らし、旅行会社で働くなどした。その後も毎年のように日本を訪れ、家族ぐるみで付き合う友人も多い。今回は大阪の友人が受け入れ先となってくれて、深く感謝しているという。

 ただ21日は日本の祝日・春分の日で、ポーランドの日本大使館も休館だった。サブリバさんは22日に出直してビザを申請し、23日に受領。28日に渡航する予定だ。ポーランドには頼れる人がおらず、滞在費もかかるため、早く支援者がいる日本に行きたいという。「あと2週間で(戦争が)終わるかな……。終わってほしい。戦争が終わればすぐにウクライナに戻りたい」。自分に言い聞かせるように話した。

 22日は開館と同時に数組のウクライナ人家族が大使館に入り、日本ビザの申請や受け取りを行った。東京在住の30代のウクライナ人男性は、ウクライナ北東部ハリコフからバスでワルシャワに避難してきた母親のビザ申請を手伝うため急きょポーランド入りした。戦争に心を痛め、都内の反戦デモにも参加。今回は母親を日本に連れて帰り、しばらく面倒を見る。ただ自宅は決して広くなく、長期化への不安もある。「悲惨な戦争です」。男性はそうつぶやいた。

避難の児童、1割占め 授業理解に言葉の壁 (3月28日)

 20人ほどの児童のうち、7人が手を挙げた。17日、取材に訪れたポーランド南東部ジェシュフの公立ジェシュフ第16小学校で、記者が「最近ウクライナから来た子は手を挙げてください」と頼んだ時のことだ。見学したのは5年生の2時間目のポーランド語(国語)。教室では女性教諭が黒板を使って授業をしていた。

 前から3列目に座っていたマリアナ・スリブニツカさん(11)も首都キエフから逃れ、3年生の妹クリスティナさん(8)と9日から通い始めたばかり。近所の高層アパートで母親らと仮住まいし、毎朝姉妹で20分ほどかけて徒歩で登校する。「好きな授業は体育。言葉が分からなくても楽しめるから」。小学校の玄関にはカラフルなリュックサックが30個ほど山積みになっていた。ウクライナから満足な荷物も持てずに避難してきた子供に使ってもらおうと、保護者らが用意した無料の通学用かばんだ。

ウクライナから避難後、ポーランドの公立小学校に通うマリアナ・スリブニツカさん(中央)=ポーランド南東部ジェシュフで17日

 国連児童基金(ユニセフ)によると、約750万人のウクライナの子供のうち約430万人が今回のロシアによるウクライナ侵攻で自宅を追われ、うち180万人以上は国外に避難した。戦闘の長期化が懸念される中、子供たちの「学ぶ権利」をどう保障するかも大きな課題だ。第16小でも2月下旬以降、難民の子が続々と入学しており、全校児童約570人の1割を占めるまでになった。

 「一番の問題はコミュニケーションです」と話すのはドロタ・ジョンサ校長だ。ウクライナ語とポーランド語は同じスラブ系の言葉で、通訳なしでも意思疎通できることはある。ただウクライナから来たばかりの子供がポーランド語の授業を即座に理解するのは困難。学校側はウクライナ人教員を採用して、一部学年では難民専用クラスを設ける方針だ。

 ポーランドでは近年、ウクライナから仕事を求めて移り住む人が増えており、第16小にも以前から10人ほどのウクライナ人児童がいた。ある教諭は「ウクライナ人の友達や知り合いがいない人はいなかった。それが今回、ロシアに侵攻されたウクライナへの共感、支援につながっている」と話す。ウクライナ人の子供たちは支援すればポーランド語もうまく話せるようになってきた。ただ、これほど多数の難民の子を急激に受け入れるのは経験がなく、対応は手探り状態でもある。それでもジョンサ校長は話す。「困難な状況の子供たちを助けたいです。協力したり、お互いの文化を尊重したりする。在校生もその大切さを学べます」

国境越え、続く苦難 ポーランドに逃れた人々 (4月4日)

 ウクライナから周辺国に逃れてきた難民は400万人を超えた。戦火を避けて国境にたどり着くまでには、ロシア軍の包囲網を命がけで突破したり、満員の列車やバスで十数時間移動したりしてきた人も少なくない。

 ただ国境を越えた後の道のりも厳しい。ポーランドをはじめとする受け入れ国では、難民の増加に伴って住宅事情が悪化している。利便性が高い大都市部では賃料が上がり、希望通りの家を見つけるのが難しい。一部の難民はテレワークで元の仕事を続けるが、多くの人は避難と同時に失業し、収入を失った。言語が違う国で子供の教育の機会をどう確保するのかも課題だ。

ウクライナのへルソンから避難し、ポーランドで働く夫と再会を果たして涙する妻と子。ポーランド南東部の国境の町メディカには今もウクライナ難民が次々と入国している=3月23日
大きな荷物に埋もれるように座り込み、列車を待つ子供たち=ポーランド南東部のプシェミシル駅で3月17日

 約230万人が避難するポーランドでは、政府が難民に住民サービスを提供するためのID番号発行が始まった。教育や医療、福祉などで地元住民並みの支援が受けられるようになるため、登録会場には多くの難民が殺到。政府側の作業が追いつかずに混乱する場面も見られた。

ポーランド国内で医療や教育などの公的サービスを受けたり、働いたりするための登録証を得ようと、手続き会場前で列を作る難民たち=首都ワルシャワで19日

 精神的な苦痛に悩まされる人々も多い。親族や友人を母国に残し、「自分だけ安全な場所に避難してしまった」と罪の意識を抱く難民もいる。避難前に自宅で聞いた爆音が心の傷となり、避難所でささいな物音におびえる人がいた。スマートフォンで侵攻関連の速報がすぐに入手できる半面、「心が痛んで他のことができなくなるから」と、ニュースをチェックする時間や回数を自分で制限する人もいた。

足元を気にしながらつえをつき、ポーランドに入国したお年寄り。うつむきがちな顔を上げると、険しい表情が傾きかけた太陽に照らし出された=メディカで17日

 住む場所、収入、仕事、教育、家族との暮らし、心の平穏……。市民からそれを根こそぎ奪うのが、戦争の一面だ。

 「早く元の暮らしに戻りたい」。難民たちの思いがかなうのは、一体いつになるのだろうか。

徒歩で国境を越え、用意されたバスで市街地方面へ向かう難民たち。混み合う車内で皆、疲れ果てた様子だった=メディカで3月24日

海外難民キャンペーン2021年度 1260万円を20団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2021年度の海外難民救援金1260万円をウクライナなど各地で難民支援活動をしている国連救援機関や非政府組織(NGO)など20団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億6488万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団日本▽日本国際ボランティアセンター(JVC)▽AAR Japan(難民を助ける会)▽シェア=国際保健協力市民の会▽AMDA▽シャンティ国際ボランティア会▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽緑のサヘル▽バーンロムサイジャパン▽アジア協会アジア友の会▽アクセス(共生社会をめざす地球市民の会)▽ラリグラス▽ネパール震災プリタム実行委員会▽シャプラニール=市民による海外協力の会▽ペシャワール会▽ロシナンテス

(2022年04月09日)

海外難民キャンペーン2020年度 980万円を22団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2020年度の海外難民救援金980万円を国連救援機関や難民支援活動をしている非政府組織(NGO)など22団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億5228万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団日本▽日本国際ボランティアセンター(JVC)▽AAR Japan(難民を助ける会)▽シェア=国際保健協力市民の会▽AMDA▽シャンティ国際ボランティア会▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽緑のサヘル▽アジア協会アジア友の会▽アクセス(共生社会をめざす地球市民の会)▽JIM—NET(日本イラク医療支援ネットワーク)▽高遠菜穂子(ピース・セル・プロジェクト)▽マハムニ母子寮関西連絡所▽ネパール震災プリタム実行委員会▽テラ・ルネッサンス▽ガリレオクラブインターナショナル▽ペシャワール会▽ロシナンテス

海外難民キャンペーン2019年度 970万円を22団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2019年度の海外難民救援金970万円を国連救援機関や難民支援活動をしている非政府組織(NGO)など22団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億4248万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団日本▽日本国際ボランティアセンター(JVC)▽AAR Japan(難民を助ける会)▽シェア(国際保健協力市民の会)▽AMDA▽シャンティ国際ボランティア会▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽緑のサヘル▽国連開発計画(UNDP)▽国連人道問題調整事務所(OCHA)▽JIM—NET(日本イラク医療支援ネットワーク)▽高遠菜穂子(ピース・セル・プロジェクト)▽CODE海外災害援助市民センター▽地雷廃絶日本キャンペーン▽ユナイテッド・アース▽ラリグラス▽ペシャワール会▽ロシナンテス

終わらぬ恐怖 ナイジェリア報告

 毎日新聞と毎日新聞社会事業団による「海外難民救援キャンペーン」は2019年度で41年目を迎えました。今回は、西アフリカの大国・ナイジェリアを訪れ、ボコ・ハラムの支配下から逃れた少女や元少年兵たちの現状や、貧困にあえぐ人々の様子を報告しました。新聞連載の全文と全写真を紹介します。以下すべて【文・岡村崇、写真・山崎一輝】

言葉を奪う記憶

 静かなたたずまいに、深い怒りがにじむ。あの記憶を伝えたいのに、うまく語れない。少女は今「終わらぬ恐怖」と闘っている――。

 イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」の襲撃におびえるナイジェリアで、約7000人もの女性が拘束されたままになっている。「性奴隷」として扱われるケースも多いとされる。

 同国北東部ボルノ州の州都マイドゥグリは、ボコ・ハラムとナイジェリア政府軍が戦闘を繰り広げた街だ。人々は今も襲撃を恐れて暮らす。9月下旬、地元民でにぎわうレストラン。白い民族衣装に身を包んだ少女が現れた。ザラウ・カラウさん(18)。私たちを見つめ、はっきりとした口調で語り始めた。「人生をめちゃくちゃにされた。最悪の日々だった」

 2014年に住んでいた町で、両親が殺害された。当時13歳だったカラウさんは連れ去られ、戦闘員たちの性奴隷となり結婚を無理強いされた。「毎日2、3人の男たちに……」。暴力を受けた日々を語ろうとし、言葉が出なくなった。両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 カラウさんは実名や写真の掲載を了承してくれた。しかし、恐怖の記憶から逃れられず、心の傷も癒えていない。「あの時の生活を思い出すと、悔しくてたまらない」。言葉を絞り出す姿が痛々しかった。

 ■ことば
 ◇ボコ・ハラム
 2002年、ナイジェリア北東部ボルノ州の州都マイドゥグリで結成されたイスラム過激派組織。組織名は現地語で「西洋の教育は罪」を意味する。当初の反体制運動が09年以降に過激化し、政府機関などのほか、一般市民に対しても無差別的にテロを繰り返す。14年に276人の女子生徒を拉致し、注目が集まった。襲撃などによる死者は2万人を超える。

ボコ・ハラムに拉致されて、性奴隷として扱われたザラウ・カラウさん。勇気を振り絞り、当時の記憶を少しずつ語り始めた=ナイジェリア・ボルノ州マイドゥグリで9月

「性奴隷」決死の逃走

 「思い出すだけで怒りがこみ上げてくる」。ナイジェリアではイスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」の支配下で、多くの女性たちが「結婚」の名の下、「性奴隷」として扱われてきた。戦闘員との間に生まれた子を抱きかかえ、決死の逃走を果たした女性たちの言葉には、「終わらぬ恐怖」と闘う悲壮な決意がにじむ。

 ボルノ州南部の町で平穏に暮らしていたザラウ・カラウさん(18)は2014年8月、ボコ・ハラムの襲撃を受け、父母を殺害された。自身は姉たちと共に捕らえられ、廃虚のような街に運ばれた。

 住宅のような建物内には、同様に連れて来られた数十人の女性たちがいた。そこで毎日、ボコ・ハラムの戦闘員たちから性的暴行を受けた。「心身ともにぼろぼろになった……」。間もなく、戦闘員と強制結婚させられた。夫が戦死すると別の戦闘員の妻となり、延べ3回、結婚を繰り返した。

 「暴力をふるう夫から逃れたい」。最初に拉致されてから約4年後の18年、チャンスが訪れた。ある夜、夫や戦闘員たちが寝付いたのを見計らい、戦闘員との間に生まれた男児(当時1歳)を背負って、逃げ出した。暗闇の中、バイク音が近づくと、とっさに身を隠した。緊張で心臓がバクバクと音を立てた。「いつ追っ手につかまるか、恐ろしくてたまらなかった」。ほとんど寝ずに、飲まず食わずで2日間逃げ続け、ボルノ州南部の村に逃げ込み、ナイジェリア軍に助けを求めた。

 カラウさんと息子は、現在、国内避難民(IDP)キャンプで国連などの支援を受けながら生活している。「子どもの成長を見守りながら、学校で勉強したい」とささやかな希望を抱いている。

 ◇「私たちの話、聞いて」

 「父親のような悪い人間にはならないでほしい」。10代でボコ・ハラムの戦闘員と強制結婚させられた女性(22)は、スヤスヤと眠る1歳の息子を優しく見つめ、つぶやいた。

 13年、ナイジェリア北東部ボルノ州の州都マイドゥグリの道端で、ボコ・ハラム戦闘員たちに連れ去られた。多くの女性と大部屋に入れられた。性暴力は受けなかったが、強制的に戦闘員の妻となった。当時16歳。結婚とはいえ実態は「性奴隷」で「食事や水も満足に与えられなかった」。

 夫から逃げ出したのは約1年前。生後2週間(当時)の息子を抱え、危険だと分かっていたが「一日でも早くあの生活から逃げ出したかった」。他の女性1人も一緒に逃げた。土地勘がないためどこに逃げればいいか分からず、人の気配におびえながら森をさまよった。3日後にナイジェリア軍の施設に逃げ込んだ時は、ホッとして全身の力が抜けた。

 現在、マイドゥグリの親類宅に身を寄せる。差別をおそれ、息子の出自が知られないように心を砕く。「奪われた教育の機会を取り戻したい」と願い、医者になるのが夢だが、学校に通うめどは立っていない。

 記憶への恐怖と将来の不安は消えない。それでも「私たちの話を、よく聞いてほしい」と勇気を振り絞る。尊厳を取り戻そうとする叫びが、胸に刺さった。

ボコ・ハラムの戦闘員と強制結婚させられた女性(22)。「夫は憎いが子供に罪はない。健康に育って、世間に『ボコ・ハラムの子』だと知られないように生きてほしい」と話した=ナイジェリア・ボルノ州マイドゥグリで9月

少年兵に戻りたい~白眼視され、職見つからず

 子どもたちを訓練し、襲撃に送り出す「少年兵」は、最悪の児童労働の一つだ。ナイジェリア、カメルーン、チャドの国境地帯を中心に活動するイスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」は、昨年末時点で約300人(国連)を「徴兵」している。少年たちは解放後にまともな生活を望むが、仕事に就けない。ある元少年兵は「ボコ・ハラムに戻りたい」とさえ語る。社会からの「憎き存在」とのスティグマ(負のレッテル)にも追い詰められた少年たちは今、「地獄の選択」を迫られている。

 イブラヒム・クンドゥリさん(18)は昨年、ボルノ州の州都マイドゥグリに近いボコ・ハラムの駐留施設にいたところを、ナイジェリア政府軍に救出された。現在はマイドゥグリにある国内避難民キャンプで1人で生活する。

 2014年、ナイジェリア政府軍とボコ・ハラムの戦闘に巻き込まれ、両親を失った。「生きていくためだった」。身寄りがなく、行く当てのなかった兄妹ら計6人全員で、ボルノ州南部のボコ・ハラムの拠点に足を運んだ。

 約3カ月間にわたり、洗脳教育を受け、ボコ・ハラムの戦闘員として信頼できると判断された段階でライフルを渡された。戸惑う少年たちもいたが、クンドゥリさんに迷いはなかった。15年から約3年間、ボコ・ハラムの戦闘員として数多くの戦場に送られた。「戦闘は仕事。参加しているときは充実していた」。無表情で、淡々と語る。

 今はボコ・ハラムの支配からは逃れたが、周囲の目は厳しい。「みんな僕を好きになってくれない。憎きボコ・ハラムの少年兵だったことを知ってるから」。記者と視線をそらしたまま、口調も投げやりだ。

 7歳上の兄は、今もボコ・ハラムの戦闘員。その兄から、電話で戻ってくるよう誘われている。「チャンスがあればボコ・ハラムに戻りたい。今はチャンスがないだけ」と何度も繰り返した。「充実していた」あの頃に戻りたい衝動に押し切られそうになっている。

 本心では、まともな人生を歩みたい。キャンプではさまざまな団体の支援を受けて生活するが、教育を受けていないため、職が見つからない。「何でもいいから仕事がほしい。仕事があれば、もちろん、少年兵に戻りたいという気持ちはなくなるのに……」。諦めたような表情に、深い悲しみがにじんでいた。

ボコ・ハラムの「少年兵」として戦闘に参加させられていたイブラヒム・クンドゥリさん。「今はとにかく仕事がほしい」と話した=ナイジェリア・ボルノ州マイドゥグリで

監視の目、24時間鋭く~軍と連携、ボランティア自警団

 イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」の襲撃は、ナイジェリア北東部のボルノ州の住民を恐怖の底に突き落とした。危機的状況下で地域を守ってきたのは、ボランティアの自警団だ。2013年の設立当初は武器が足りず、多くの犠牲者を出した。現在はナイジェリア軍の支援で充実させたが、ボコ・ハラム壊滅の日まで緊張が続く。

 遠くまで広がる平原は緑が豊かで、その合間に赤茶けた土が見える。「動くものがあれば、注意して観察しろ」。市街地の入り口に建てられた2㍍四方ほどの簡素な小屋では、ライフルを手にした若い男たちが24時間態勢で監視の目を光らせていた。

 自警団はCJTF(シビリアン・ジョイント・タスク・フォースの頭文字)と呼ばれる。基本的にボランティアで、24時間態勢で活動し、ナイジェリア軍がカバーしきれない部分を補ってきた。

 ボルノ州の州都マイドゥグリ市内の南西部で警備にあたるCJTFのサニ・アブバカルさん(40)は、13年にメンバーとなり、ナイジェリア軍のボコ・ハラム掃討の補助的役割を担ってきた。「設立当時は武器といえば木の棒と木の弓。当然、ボコ・ハラムに全く太刀打ちできなかった。多くの住民や仲間が犠牲になった」と唇をかむ。

 銃の扱い方などの訓練を受けた後、20人態勢で活動。ボコ・ハラムの襲撃にはナイジェリア軍と連携して対応し、銃撃戦になることもある。「メンバーも増え、ナイジェリア軍から武器が支給され、ここ数年でかなり強化された。今はボコ・ハラムに十分対抗できる」と胸を張る。

 現在、ボコ・ハラムは主な活動地を隣国カメルーンなどに移し、ナイジェリア国内では比較的安定した地域も出てきた。メンバーの高齢化も課題となっている。国連開発計画(UNDP)はCJTFの再編と退団するメンバーの社会復帰に向けたワークショップを開催している。約2万4000人を統括してきたCJTFの調整官、カッリ・アバアジさん(54)は「地域の安全のために全力で活動してきたのだから、職業訓練などメンバーが社会復帰できるような支援態勢を構築してもらいたい」と訴える。

 ボコ・ハラムの脅威は以前よりは収まったが、襲撃は散発している。「CJTFが役目を終えるのが理想だが、当分の間は必要だろう」とアバアジさん。住民が武器を持たずに生活できる日が訪れるのは、いつになるのか。

マイドゥグリ南西部にある市街地への入り口を見張る自警団(CJTF)のメンバーのサニ・アブバカルさん(手前)たち=ナイジェリア・ボルノ州マイドゥグリで

よみがえる地獄~ボコ・ハラム襲撃、被害の村

 ナイジェリア北東部ボルノ州中部のヌグウォム村は2014年、イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」の襲撃を受け、壊滅的な被害を受けた。それから3年後、国連の支援で住民の帰還が始まり、学校も再建された。しかし、資金不足で医薬品が足りないほか、治安が回復し切れていないため、医師たちは都市部からおびえながら通っている。住民らは「また襲われるのでは……」と不安を抱えている。

 14年8月のある夜、ボコ・ハラムの襲撃を受けた。住民によると、暗くてはっきりした数はわからなかったが、多くの戦闘員がいたという。住宅に火を放たれ、35人が撃ち殺された。約5000人の住民の大半が村を離れた。高齢者たちは村に残ったが、翌月、再び襲撃され、さらに2人の命が奪われた。ほとんどの建物が跡形もなくなっていた。村を離れた住民たちは国内避難民となり、ボルノ州の州都マイドゥグリなどのキャンプで命をつないだ。農業をしていた住民が多く、収入を失った。

 17年以降、国連開発計画(UNDP)の支援で、300世帯分の住宅や学校、医療施設を建設した。同年10月以降、住民らの帰還が始まり、元の住民の4割にあたる約2000人が戻った。アバ・アリ村長は「生まれ育った村を離れるのはつらかった。この村で生活していた住人や家族と一緒に暮らせることがありがたい」と喜ぶ。

 しかし、課題は多い。村の近くにあるナイジェリア軍の駐留所は規模が小さく、ボコ・ハラムが大挙して押し寄せてきた場合に対応できない不安がある。医療施設では薬が不足し、1日に訪れる患者30~40人のうち7割に処方できていない。医師らはマイドゥグリからの約30キロの道のりを、襲撃におびえながら通っている。

 今年2月、近くの軍の駐留所などが襲われた。5年前の地獄の光景がよみがえる。住民たちは「自分たちで身を守るのは難しい。警備を強化してほしい」と声を上げるが、政府が対応を強化する気配はない。「安全がきちんと保証され、一日でも早く、残りの住民に戻って来てほしい」。そう語るアリ村長の表情には、苦渋の色がにじむ。武器とは無縁だった農村に平和が訪れるのは、いつになるのか。

ボコ・ハラムにヌグウォム村が襲撃された時のことを語る村長のアバ・アリさん=ナイジェリア・ボルノ州で9月24日

かすむ豊漁の記憶~湖枯渇、襲撃と二重苦

 ナイジェリア、ニジェール、チャド、カメルーン計4カ国の国境地帯にあるチャド湖地方。かつては4カ国にまたがっていたチャド湖は、干ばつの影響で縮小し「消えゆく湖」として知られる。イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」は、この地方の漁村も襲撃した。湖の枯渇と襲撃という二重の不安に、村を追われた漁師たちの苦悩は深い。

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)などによると、チャド湖は1960年代前半には水面の面積が約2万5000平方キロあり、沿岸に複数の村があった。水量が減ってきたのは80年代ごろ。2010年には約1700平方キロまで小さくなった。地元のある漁師は「40年前の住居は湖のそばにあったが、今は約40キロも離れてしまった」と証言し、今も縮小が続いているとみられる。8、9月を中心にティラピアなどの魚が取れるが、年々数が減り、サイズも小さくなっている。

 湖から約60キロ離れたナイジェリアの国内避難民キャンプで、1人で暮らす元漁師のハルナ・タンコさん(65)。3年前、住んでいた村がボコ・ハラムの襲撃を受けた。「多くの住民が撃ち殺され、住宅などの建物が次々と破壊されていった」。着の身着のままで逃げたタンコさんは、10代から50年以上続けてきた漁をやめた。チャド湖の水が減り、漁獲量が減っていたところを襲われ、収入を完全に断たれた。「子どもの頃からずっとやってきた。漁をできないのはつらい」と話すと、暗い表情になった。

 同じキャンプで家族5人で生活するウスマン・ブカルさん(65)は、約30年間、漁師をしていた。幅約100㍍、高さ約1㍍の仕掛け網の使い手。近年は漁の最中に襲われる事例もあることから、朝から昼までの5~6時間に漁の時間を短縮していた。16年、ブカルさんの住む場所に近い集落が、ボコ・ハラムに襲われた。身の危険を感じ、妻や子どもたちと逃げた。

 今も漁師仲間数十人でキャンプに近い別の湖に漁に出かけるが、漁獲量は月約1カート(約4000円相当)で、チャド湖と比べて約5分の1に激減。「チャド湖に戻るのは危険だとわかっている。戻れる日は来るだろうか……」。額にしわを寄せ、しばらく遠くを見つめると、再び、黙々と漁の網をつくろい続けた。

 9月13日、湖にほど近いカメルーンの軍駐屯地がボコ・ハラムに襲われ、兵士6人が死亡した。豊漁の記憶は、さらにかすんでいく。

国内避難民キャンプで網の手入れをする漁師のウスマン・ブカルさん=ナイジェリア・ボルノ州で10月

父と子、決死の再会~子ども1000人超が拉致被害

 「もう二度と離さない」。ぎゅっと抱き寄せる父に、14歳の息子は照れ笑いした。イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」に拉致されていた少年。1年前、赤十字国際委員会(ICRC)の支援で、父子は3年ぶりに再会を果たした。「もう死んだのかもしれない、と思うこともあった」。絶望の淵を見た父の言葉は、ボコ・ハラムの罪の深さを感じさせた。

 シェティマ・アリサウラさん(45)とアクラ・シェティマさん(14)父子は現在、ナイジェリア北東部ボルノ州の州都マイドゥグリの国内避難民キャンプで生活している。2015年1月、同州東部の町で、自宅がボコ・ハラムに襲われ、当時10歳だったアクラさんが連れ去られた。その後、ボコ・ハラムの拠点で子どもたち15人と住宅の一室に入れられた。「ボコ・ハラムはたくさんの人を殺してきた。怖くてたまらなかった」とアクラさん。1~2年後、監視の目がゆるんだ早朝に1人で逃げ出し、ナイジェリア軍の関連施設に駆け込んだ。

 脱出から4カ月後、ICRCのスタッフがキャンプを訪れ、保護された子どもたちの顔写真を見せたところ、その中の1枚を見たアリサウラさんが声を上げた。「アクラだ。間違いない」。さらに数カ月後、ICRCのスタッフに連れられ、キャンプで暮らす家族の元に帰って来た。アリサウラさんは「最高の瞬間だった」と振り返る。

 ICRCは再会支援プログラムをチャド湖周辺4カ国(ナイジェリア、ニジェール、カメルーン、チャド)で展開している。ナイジェリアでは13年に始まり、これまでに約400人が再会にこぎつけた。ただ、行方不明として依頼を受けているのは2万2000人で、再会できたのはごく一部だ。ICRCの担当者は「ナイジェリア北東部は広く、すべての案件を解決するにはまだまだ時間を要する」としている。

 14年4月に200人以上の少女を拉致した事件で世界中に悪名をとどろかせたボコ・ハラム。13年以降の約5年間に1000人以上の子どもたちを連れ去ったとされる。それだけでなく、襲撃で多数の家族が離散し、大人を含む安否不明者の全容は把握できていない。あまりに多くの親子が再会を信じ、今も恐怖と向き合っている。

再会した時の話をしながら笑顔を見せる国内避難民のシェティマ・アリサウラさん(左)と息子のアクラ・シェティマさん=ナイジェリア・ボルノ州マイドゥグリで9月

新たな命、生きる力~避難民キャンプに産声

 「元気です。とても大きな赤ちゃんですよ」。ナイジェリア北東部ボルノ州の州都マイドゥグリにある国内避難民キャンプで9月20日午前7時35分、男の子が元気のいい産声を上げた。新しい命の誕生は、イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」の襲撃で故郷を追われ、恐怖と不安に押しつぶされそうな避難民の心に、生きる勇気を与えている。

 母親はアイシャ・ヤハナ・スレマンさん(35)。身長52センチ、体重4900グラムの男児を無事に出産した。腕の中で眠る我が子をいとおしそうに見つめながら「こんなに幸せなことはない」と喜びを語った。8人目の子どもで、男の子は2人目。「男の子が欲しかったところだった。うれしくてすぐに夫に電話した」。名前はこれから決める。

 このキャンプには約2万2000人が生活し、ほぼ毎日、赤ちゃんが生まれている。スレマンさんら家族は今年1月、ボコ・ハラムの襲撃を受け、ボルノ州北東部の町から逃れてきた。キャンプでの生活には慣れたといい、「今は何の問題もなく生活している」と話す。

 一方、国連によると、ナイジェリアの5歳未満死亡の割合は1000人あたり120人で、世界で2番目に悪い。背景には、治安と貧困の問題がある。キャンプで生まれた命を守り、育てること。これこそが、ナイジェリアに平和を築くスタートとなるはずだ。

国内避難民キャンプの医療施設で、約2時間前に生まれた男の子を抱く母親のアイシャ・ヤハナ・スレマンさん=ナイジェリア・ボルノ州マイドゥグリで9月20日

【特集】瞳が語る

 ナイジェリアはアフリカ最大の人口約1億9500万人(昨年6月現在)を誇る大国で、北部はイスラム教徒が多く、石油資源が豊富な南部にはキリスト教が浸透する。2002年、イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」が、同国北東部ボルノ州の州都マイドゥグリで結成された。14年に276人の女子生徒を拉致し、その後も襲撃を繰り返した。同国の国外に避難した「難民」は約27万人、国内避難民は約216万人(昨年末現在)に上る。

 今年9~10月、ボコ・ハラムの襲撃で甚大な被害が出たボルノ州を取材した。解放された少年や少女は国連などの支援を受けているが、今も恐怖の中で暮らす。

 「ボコ・ハラムの名前を聞いただけで、怖くて心臓がドキドキする」。同州中部のヌグウォム村に家族と一緒に帰還したブラマ・ムスタファさん(12)の心の傷は深い。14年8、9月、村はボコ・ハラムに襲撃され、すべての住宅や学校を破壊された。17年以降、国連開発計画(UNDP)の支援で300世帯分の住宅や学校、医療施設が建設された。ムスタファさんは「小学校で勉強している時が一番楽しい」と話す。

 多くの少女らが、ボコ・ハラムの戦闘員の性奴隷となった。16歳から約3年間、支配下に置かれていたハジャラ・アブバカルさん(20)は取材中、何度も顔を隠し沈黙した。兄妹は今もボコ・ハラムの支配下におり「政府は一日も早く救出してほしい」と訴える。

 アブドゥラ・ムハンマドさん(13)は故郷から避難し、今はマイドゥグリの貧困地区で家族8人で生活する。月~木曜の日中、近隣住人から牛と羊を借り、放牧して生計を立てているが、やせた牛では乳の出がよくない。「遠くに注意して、何かあればすぐに逃げなきゃ」と常に襲撃を警戒する。勉強したいがお金も時間もなく、今の生活から抜け出す見通しは全く立っていない。

ヌグウォム村のブラマ・ムスタファさん。顔の傷は、民族の伝統的な風習で付けられたものだ。UNDPの支援で村に戻って来たが、ボコ・ハラムが再度襲ってくる恐怖におびえながら生活している=ナイジェリア・ボルノ州で9月24日
ボコ・ハラムに性奴隷として扱われていたハジャラ・アブバカルさん。2015年に拉致されたが、18年に同様の境遇の少女と逃げだした。「何でもよいので仕事が欲しい。そして、家族を助けたい」と話した=ボルノ州マイドゥグリで9月20日
ボコ・ハラムの襲撃で破壊されたヌグウォム村の家屋。村は2014年8、9月に襲われて壊滅し、村人全員がボルノ州マイドゥグリなどのキャンプに避難した。UNDPの支援で家屋が再建されて村民が戻って来たが、おびえながらの生活を強いられている=同州で9月24日
ユニセフなどが行う社会復帰プログラムで、ボコ・ハラムの元少年兵や自警団の元メンバーたちが「正義」について描いた絵。ある少年は、強盗犯に対して家主が銃を撃って戦う絵を描いた。2017年から行われ、現在までに約1500人が参加した=同州マイドゥグリで10月3日
国内避難民のアブドゥラ・ムハンマドさんは、近隣住人から借りた牛と羊の放牧が仕事だ。ボコ・ハラムの襲撃を警戒し、誰か知らない人が来たら逃げるようにしているという=ボルノ州マイドゥグリで9月28日

【特集】ここで生きる

 アフリカ最大の人口1・9億人を誇るナイジェリア。石油による経済発展とは対照的に、多くの国民が貧困にあえぐ。ユニセフ(国連児童基金)によると、昨年の5歳未満児の死亡率は1000人中120人で、世界で2番目に悪い。児童労働に従事する子ども(5~17歳)の割合は31%で、他のアフリカ諸国と同水準だ。2014年ごろからイスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」が台頭、静かな暮らしを破壊し、追い打ちをかけている。貧困から抜け出す日は見えてこない。

 今年9月、ナイジェリア北東部ボルノ州の州都マイドゥグリを訪れた。市街地から離れた幹線道路脇の空き地に積み上げられたゴミの山では、鼻をつく異臭が漂っていた。ここは州の所有地で事実上、放置されており、直近数カ月で急速にゴミが増えたという。その中で、子どもたちが換金目的で金属やプラスチックなどを拾っていた。中にはサンダル履きの子もいた。国連スタッフは「このような極貧状態の子どもたちは、ナイジェリア国内に多く存在する」と話した。

 キャンプでの生活も厳しい。ボコ・ハラムから逃れた避難民があまりに多いため、政府や国連が運営するキャンプでは収容しきれず、NGO(非政府組織)などが支援する非公認キャンプも増えている。マイドゥグリにある非公認キャンプでは、地主が土地を提供し、各団体の支援を受け、約3000人が廃材で作った家に住む。マリアム・アドさん(35)は「育ち盛りの子どもたちに、栄養のあるものを食べさせたい。今以上の収入が見込める職を見つけないといけない」と話した。

 一方、国連開発計画(UNDP)は廃棄物処理プロジェクトの一環で、道路の側溝にたまったゴミや泥を取り除いている。職を得にくい女性を中心に国内避難民の雇用を生み出す狙いもある。日当は約700円で、参加者はやりがいを感じているという。UNDPの担当者は「ここで雇用するのは半数以上が女性。避難民を支援するため、今後も続けたい」と話した。

沸騰したお湯にトウモロコシの粉を入れて作った昼食を食べる国内避難民の子どもたち。つぶした大豆を入れるなど工夫しているが、栄養不足は補えていない
顔に群がるハエを払う少年。衛生環境の悪い政府非公認の避難民キャンプに住み、毎日の食事を十分にとることができないほど、生活に困窮している
UNDP主導の廃棄物処理プロジェクトで清掃活動をする国内避難民たち。職が見つかりにくい女性たちの雇用対策という側面もある
道路脇に積み上げられたゴミ山の中から、金属やプラスチックなどを集める少年。次々とゴミが集まり、異臭を放っていた
政府非公認の国内避難民キャンプ。壁や塀はボロボロのトタンで作られていた

【特集】貧困と病、小さな命襲う

 ナイジェリア北東部ボルノ州では、イスラム過激派の武装勢力「ボコ・ハラム」の襲撃で多くの人が命を失い、家を追われた。治安の悪化でインフラが機能不全となる中、子どもたちが栄養失調やマラリアに苦しんでいる。NGO「国境なき医師団(MSF)」によると、現地では例年、8~10月に患者数が多く、死亡するケースもある。今年9月に取材に訪れた同州の州都マイドゥグリの小児医療機関では、ベッドに横たわる子どものそばで、母親が心配そうに付き添っていた。

 所狭しと並ぶベッドの上で、点滴を受ける子どもたちが、ぐったりと横たわっている。その脇を、看護師らが忙しそうに動き回っていた。ここはMSFが運営する小児専用の医療施設で、約100床のベッドがある。マラリアの流行期には1日約100~150人の患者が訪れる。基本的にベッドが足りず、一つのベッドに2、3人の子どもが横になることもあるという。マラリアにかかり、2日前から入院しているムスタファちゃん(3)に付き添う母親のアイシャ・モハメッドさん(25)。7人の子を産んだが、うち2人を病気で亡くしたつらい経験がある。「とても心配。一日でも早く回復してほしい」と我が子の小さな手を握りしめた。

 また、MSFが運営する別の医療施設では、栄養失調の治療にあたっていた。子どもの腕の太さや体重を計測し、状態をタブレットで管理。農作物の収穫期前の8~9月ごろが一年で最も食料が不足するため患者数がピークを迎え、1日約200人の子どもを受け入れているという。MSFのスタッフは「非常に深刻な状態の子どももいる。少しでも早く元気にしてあげないと」と言葉を絞り出した。

栄養失調への対応に特化した「国境なき医師団」の小児専用医療施設で、点滴治療を受ける国内避難民のモハメッド・ブカルちゃん(3)。母ビントゥさん(30)は前日入院したモハメッドちゃんの傍らを片時も離れず世話をしていた=いずれもナイジェリア・ボルノ州マイドゥグリで9月に撮影
体重を計測する子ども。治療の他、親に対する栄養指導や衛生環境維持の指導なども行う
マラリアの治療のため、ぐったりする子どもの頭に点滴用の針を刺す医師たち
「国境なき医師団」が開設した小児専用のマラリアの医療施設。重篤な患者から回復期の患者までがそれぞれの病状に分けられてテント内に入院している
マラリアに感染し、治療を受けるアイシャ・モハメッドさん(25)の息子・ムスタファちゃん(3)
鼻から栄養を摂取する栄養失調の子どもと母親。子どもたちは平均7日間で回復して退院する一方で、死亡する子もいる
ナイジェリア政府非公認の避難民キャンプで、生活する国内避難民の子どもたち。家は廃材でできており、学校には通えていない。政府からのさまざまな支援を受けることができず、生活に困窮している

海外難民キャンペーン 2018年度1005万円を25団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2018年度の海外難民救援金1005万円を国連救援機関や難民支援活動をしているNGO(非政府組織)など25団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億3278万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団日本▽AMDA▽セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン▽シェア(国際保健協力市民の会)▽シャンティ国際ボランティア会▽AAR Japan(難民を助ける会)▽日本国際ボランティアセンター(JVC)▽ピースウィンズ・ジャパン▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽マハムニ母子寮関西連絡所▽緑のサヘル▽ペシャワール会▽ロシナンテス▽JIM—NET(日本イラク医療支援ネットワーク)▽Our Bridge(ハルマン孤児院支援)▽高遠菜穂子(ピース・セル・プロジェクト)▽EDAYA▽シエラレオネフレンズ▽ネパール・ヨードを支える会▽ネパール震災プリタム実行委員会▽ラリグラス

暴虐の傷痕 〜イラクIS後〜

 2018年度は毎日新聞「海外難民キャンペーン」の第2弾として、復興に向けて歩み始めたイラクから、混迷期に暴虐の限りを尽くしたISから現地の人々が受けた深い傷痕を報告しました。連載の全文を紹介します。【文・千脇康平、写真・木葉健二】

焦土、13歳が養う
「僕しかいない」鉄くず、家族の食事代に

 民家や商店だった建物はことごとく崩れ、壁には無数の弾痕。飛び出た鉄筋にすすけたソファが突き刺さる。手元の温度計は47度。車が通るたびに粉じんが舞う道の脇で、ひっくり返ったまま放置された救急車が痛いほど強烈な8月の日差しを浴びていた。

 チグリス川が中央を流れるイラク北部の主要都市モスルは、かつて過激派組織「イスラム国」(IS)の最大拠点だった。昨年7月、イラク軍などはISが最後まで抵抗を続けた西岸の旧市街を奪還。数カ月にわたる戦闘で街は荒れ果てた。

 IS支配の象徴とされたイスラム教礼拝所「ヌーリ・モスク」もIS自身の手によって破壊されたまま時を止めていた。敷地を囲う金網には、おもちゃの人形を模した仕掛け爆弾への注意を呼びかける看板がかかっていた。迷路のような路地に入ると、すえた臭いが鼻をつく。双子の息子たち(2)と地下室で戦闘を生き延びた父親(23)が、自宅前に約3メートル積み上がったがれきに目をやる。「ロシア人戦闘員が13人埋まっている」

激戦地となり、多くの建物が破壊された西モスル旧市街。父を戦闘で亡くしたオマル君はがれきの中からお金になりそうな鉄くずを探す=イラク・西モスル旧市街で8月10日

 砲弾が直撃した薄暗い店舗跡の1階に、鉄くずを拾うオマル・ファトヒ・ハサン君(13)の姿があった。ロバが引く小さな荷車にアルミのかごや壊れた基板を載せていく。売って手にするのは多い日で約6000イラク・ディナール(約600円)。きょうだい5人と祖母の食事代を、一番年上のオマル君が稼ぐ。

 「父さんは戦闘の中で撃たれて死んだ。母さんは出て行った。僕しかいないんだ」。焼け焦げた屋内へ戻る少年の背中を、一瞬光が照らした。天井に直径約2・5メートルの穴が開いていた。

    ◇

 2003年のイラク戦争開戦後、混迷する社会でISの前身組織が生まれた。改称した14年以降、ISは一時イラクやシリアにまたがる広域を支配。殺人や拉致、レイプなど暴虐の限りを尽くし、イスラム教徒からも非難の声が上がった。イラク政府は昨年12月、ISとの戦いに勝利したと宣言した。毎日新聞と毎日新聞社会事業団による「海外難民救援キャンペーン」は今年で40年目。今回は、復興に向けて歩み始めたイラクで、子どもたちに深く刻まれた傷痕を追った。


父と母の分まで 爆撃孤児、2歳妹に愛情注ぐ

 あぐらをかくと、兄は妹を脚の上にちょこんと座らせた。その頬に優しくキスをして、はにかんだ。「妹のどこが好きかって? 全部だよ」。人なつこい笑みがそっくりな兄妹は、2017年6月、西モスル旧市街の爆撃で両親を亡くした。

 国内避難民約9300人が身を寄せるイラク北部のクルド自治区・アルビル県にあるデバガ1キャンプ。広大な敷地にコンクリート造りの平屋が建ち並ぶ。ジャサム・アリ・ムハンマド君(11)と妹のハジャルちゃん(2)は、おばのサアディアさん(43)に引き取られ、親族11人とこのキャンプで暮らす。

 以前、ジャサム君は過激派組織「イスラム国」(IS)が支配するモスル南方約90キロの街シルカトで両親や兄妹4人と暮らしていた。16年8月ごろ戦火を逃れ、車で旧市街に移った。戦闘員は怖くて話しかけられなかった。「ひげが胸まであって、髪の毛もすごく長かったよ」。ムチで住民をたたく姿も見た。

 17年6月、近所の路上で友人と遊んでいると、大きな爆発音が何回も聞こえた。走って戻ると粉じんの中、自宅の屋根が落ちていた。「どうしたらいいの」。がれきの前で泣きじゃくるジャサム君に近所の人が気付き、血だらけの母を引っ張り出した。地下室にいたハジャルちゃんら兄妹は無事だったが、母は病院で息を引き取った。父の亡きがらも、がれきの中から見つかった。

 背が高かった父はいつも陽気で、友達のように仲良しだった。ISが来る前、遊園地で観覧車に乗り、一緒に街を見下ろした日を思い出す。母はただ優しく、一度もたたかれなかった。小遣いをもらうと、喜んで菓子を買いに走った。「父さんと母さんをとっても愛していたんだ」。買ってもらったおもちゃのトラックもお気に入りの赤いシャツとズボンも、潰れた家の下に埋もれた。

 他の兄妹3人は別の親族に引き取られ、隣のキャンプで暮らす。ジャサム君はすすんでハジャルちゃんの面倒を見る。菓子を食べさせ、水を飲ませ、添い寝もする。「僕が友達と遊びに行こうとすると泣くんだ」。笑顔で話すジャサム君に、サアディアさんは「私にのしかかる重圧を和らげてくれるんです」と目を潤ませた。自身もまた、爆撃やISの狙撃で夫と息子3人を殺された。

 「父さんや母さんが生きていたら、きっと同じことをしてくれただろうな」。ジャサム君はハジャルちゃんをぎゅっと抱きしめた。自らのやり場のない寂しさを紛らわせるかのように。

◇300万人超が避難民に

 国際移住機関(IOM)によると、14年以降、ISの勢力拡大や戦闘の影響で300万人超が国内避難民となった。モスルがあるニナワ県からの避難民が最多。ISの退潮に伴い減少傾向だが、8月末現在で約190万人がキャンプや親族宅などでの避難生活を余儀なくされている。

モスルの爆撃で両親を亡くしたジャサム君(上)とハジャルちゃん。ジャサム君は両親に代わり妹の面倒を見ている=イラク・アルビル県のデバガ1キャンプで

「子守る」性奴隷耐え

 空き地にブロックやビニールシートで作った小屋が点在し、ごみが散らばる。クルド自治区・ドホーク県の街に避難する少数派ヤジディー教徒、レイラ・タロ・ハデルさん(31)は「ここでの生活に未来はありません」とかぶりを振った。長男サラル君(6)と長女サラちゃん(5)を育てる母は、過激派組織「イスラム国」(IS)に拉致され、繰り返し性暴力を受けた。

 レイラさんの故郷は大勢のヤジディー教徒が暮らしていたシリア国境のシンジャル地方。2014年8月3日、ISが村々を急襲。レイラさんは幼子2人を抱えて車で逃げたが、銃を構えたひげ面の男たちに捕まった。約9カ月、IS支配地域の学校や刑務所を連れ回された。はぐれた夫マルワンさん(当時30歳)とはイスラムへの改宗という条件をのんで再会したが、ある日、ISは夫ら男性を集めて連れ去った。

 レイラさんらはISが「首都」と称したシリアのラッカへ運ばれ、奴隷市場に出された。処女は高値がついた。レイラさんは体を洗わず、子どもたちに泥をなすりつけた。「悪臭を放つ汚い親子に見せ、病んだ女を演じた」。2人を手放すわけにはいかなかった。

 ほどなくイラク人の男が3人を手に入れ、3日間、レイラさんを乱暴して他の男へ渡した。3人目のアブドラと名乗る美容整形医は輪をかけて冷酷だった。8カ月ほど共に暮らす間、子ども2人を隔離し、気にくわないとムチで殴った。

 「2人は常におびえていた。この身をささげ、子どもを守り抜くと決めた」。卑劣な欲望を全て受け入れ、男の目を2人からそらさせた。レバノンなど外国から来た戦闘員にも買われ、合計7人の「所有物」に。アブドラら2人の子を身ごもり、堕胎を強いられた。

 17年4月、レイラさんは密航業者と接触。7人目の男や業者に計約3万ドルもの大金を親族が支払い、解放された。

 奴隷生活の間、イスラム学校に通わされたサラル君はコーランを唱え、「ヤジディーは異教徒だから殺す」と口走ったことも。今も落ち着きがなく、怒りを制御できない。「父さんが帰るまで切らない」。サラちゃんは腰まで伸ばす髪に願いを込める。収入はない。豪州へ渡り、難民として新たな生活を始める。それが母の希望だ。

 レイラさんは実名での報道を承諾した。「子どもたちを再び苦難が襲わないように、私が証言します」。記者に真っすぐ向けたまなざしは、最後に弱々しく床に落ちた。「夫の消息を知りたい。私は体だけ生きている。心はもう死にました」

◇改宗拒んだ5000人殺害

 ISは、一部のクルド人が信仰する土着のヤジディー教を「邪教」とみなし、14年8月にシンジャル周辺を襲撃。国連の推計などによると、改宗を拒むなどして約5000人が殺害され、数千人に上る女性や子どもが拉致され、奴隷として売買された。ヤジディー教徒を支援する活動家は「性奴隷になることを拒んで自殺する女性もいた」と話す。

ISに拉致され、性被害を受けながらも長男サラル君(左)と長女サラちゃん(右手前)を守り抜いたヤジディー教徒のレイラさん=イラク・ドホーク県で8月23日

表情奪う心身の痛み

 「このひどい傷を見てやってくれ」。イラク・東モスルの住宅街。親族に促され、アリ・ヤヒア・アブドラ君(15)はTシャツを脱いだ。右の上腕部をほぼ一周する赤く太い縫い痕が、いびつな模様を描く。「触ると鈍い痛みが骨に響くんだ」。そう話すアリ君には表情がなかった。

 過激派組織「イスラム国」(IS)の支配下にあった西モスル旧市街で家族で暮らしていた。「ダーイシュ(ISの別称)が近所にたくさんいた」。2017年5月の夕方、近所の家に水や食料を分けてもらおうと、兄クサマさん(当時25歳)と歩いていたアリ君の近くに砲弾が落ちた。意識が飛んだ。

 病院に運ばれ、腕の切断も検討されたが、指がかすかに動くのに医師が気付き、免れた。手術後、麻酔が切れてベッドで目を覚ました。「腕が動かない。なぜ」。恐怖と悲しみが一気に押し寄せた。クサマさんは心臓を砲弾の破片が貫き、即死だった。

 病院では次々と運び込まれる戦闘員の治療が優先され、11日で追い出された。痛みで眠れず、処方された強い薬でごまかした。そして3週間後、悲劇は再び起きた。

 砲弾の直撃を受けた隣家が倒壊し、自宅も半分押し潰された。戦闘が続く中、救助は来ない。がれきの下から助けを呼ぶ姉の声は数時間で消えた。父や姉ら8人が死亡。アリ君と母ロイダさん(55)が生き残った。

 腕は前後に少し動く程度でほとんど上がらず、介助がないとシャワーも浴びられない。大好きなサッカーもできなくなり、学校から足が遠のいた。友人と連絡を絶ち、身を寄せる東モスルの親族宅にこもりがちに。「性格が変わってしまった」。ロイダさんは言う。

 ロイダさんは貴金属類を売り払い、親族らの援助も受けて約2500ドルの医療費を工面してきた。国外の病院で手術を受ければ改善する見込みがある。「唯一の希望ですが、お金はない。息子は就職もままならず、1人では生きていけません」

 アリ君は医師の指導を受け、腕を前後に動かす運動を毎日欠かさず続けている。「本当は学校に行きたいんだ。父さんと同じ技術者になって家を建てたい」。夢を語るアリ君は、やはり無表情だった。「苦痛のない、普通の生活がしたい。ダーイシュさえ来なければ」

◇奪還作戦 民間人は数万人死亡か

 イラク軍などは16年10月、ISが支配していたモスルを取り戻す大規模軍事作戦に着手。米国主導の有志国連合が空爆で支援した。17年1月までに東モスルを制圧し、2月から西モスルでの作戦を開始。ISは民間人を盾に旧市街に立てこもり、徹底抗戦した。17年7月、アバディ首相はモスル解放を宣言。約9カ月にわたる作戦の民間人死者は数千人とも数万人ともいわれ、正確な数字は明らかになっていない。

爆撃によって家族の大半を亡くし、腕を負傷したアリ君。身を寄せる親族宅にこもりがちだ=イラク・東モスルで8月

14歳で拉致、戦士に

 「戦うことに喜びを感じていた」。そう振り返る少数派ヤジディー教徒、アシュラウィ・カシム・アブドラさん(18)のまなざしは愁いをまとっていた。過激派組織「イスラム国」(IS)に捕まり、兵士として戦場に駆り出された。同時に拉致された両親や兄は行方不明のままだ。8月下旬、イラク北部・クルド自治区ドホーク県。おじに引き取られた内気できゃしゃな少年は、1週間前に帰還したばかりだった。

 シリアに近いシンジャル地方で両親や兄姉と暮らしていた2014年8月、街が急襲された。ISは成人男性と少年を胸毛や脇毛の有無で選別。14歳のアシュラウィさんは父や21歳の兄と引き離され、刑務所などを転々とした。母と姉は奴隷として売られた。ISは1日5回の礼拝を強要。「不快だった」。モスルで数カ月、体力をつける簡単な訓練を受けた後、シリアのラッカへ移り、本格的な軍事訓練が始まった。

 ベージュの迷彩服を配られ、少年約30人と養成キャンプに入った。指導官が3人付き、朝の2時間は筋トレや2・5キロ走。午後は2時間コーランを学び、夜は3時間銃を握った。初めて銃に触った日、大人の男になれた気がしてうれしかった。コーランの授業では態度が悪いと、足の裏をムチで何度も殴られた。他の少年と競い合うように1カ月、訓練漬けの日々を懸命に生きた。「僕はイスラム教徒の戦士だ」。不快感は消えていた。

 初の戦場はシリア軍が守る空港だった。着いた日に砲撃を受け、仲良しのシリア人戦闘員が両耳から流血して倒れた。数カ月間、包囲は続いた。夜中に奇襲をしかけ、反撃された。無数の弾が頭上を飛び交った。「我々の敵、シリア軍兵士を殺すために僕は存在する」。乱射して退き、仮眠してまた前線へ。恐怖心はなかった。

 一方、親族はアシュラウィさんを取り戻す計画を進めた。先に救出され、ドイツに逃れた姉や元奴隷の活動家が直接連絡を取ることに成功。約1年にわたり「そこはあなたの場所ではない。待っている」と説得した。「ISは間違っているのかも」。同様に拉致され改宗した元ヤジディー教徒の女性と結婚していたアシュラウィさんは、妻を説得する側に回った。今年7月下旬の未明に2人で家を出て、おじが2万ドルで手配した密航業者に接触し、解放された。

 目の前で人を撃ち殺したことはないが、撃った弾で誰かが死んだ可能性は否定できない。爆風や銃弾がかすめた影響で右耳は今も聞こえづらい。「後悔している。でも、従っていなければ僕はここにいない」。失われた4年間は戻らない。「どこか外国で言葉を学びたい。それが今の夢」。何もかも忘れたい。そう聞こえた。

◇少年兵、戦闘や自爆攻撃の要員に

 ISは拉致したヤジディー教徒以外にも、イラクやシリアのイスラム教徒の子どもを勧誘し、戦闘や自爆攻撃の要員として使った。支援者は「適切な更生プログラムを施した上で、社会復帰をサポートしていくことが重要だ。刑務所にいる元少年兵は、処遇次第では、洗脳が更に強まる恐れがある」と指摘する。

ISに捕まり、少年兵として軍事訓練を受けさせられたアシュラウィさん。それまで銃に触ったこともなかったが訓練後に戦闘にも参加させられた=イラク・ドホーク県で8月

「姿消した父、帰して」

 乾いた大地にオリーブ畑が広がる、イラク北部・ニナワ県のモスル北東約20キロのファズリヤ村。でこぼこの路地を子どもたちが自転車で走り回り、商店の軒下で涼むお年寄りが見守る。のどかな時が流れる山裾の村にも、過激派組織「イスラム国」(IS)は深い傷痕を残した。

 「バシカに行ってくる」。2014年8月16日の午後。アイディン・イスマエル・ムハンマドさん(当時29歳)は妻に近くの街の名を伝え、愛車の青い2トントラックで自宅を出た。村や街はISの支配下にあった。一番上の長女イナスさん(12)ら5人きょうだいは父を待ったが、夜になっても戻らなかった。

 日付が変わった頃、本人の携帯から親族に不審な電話があった。「アイディンを逮捕した」。クルド自治政府の治安部隊「ペシュメルガ」をかたる男はクルド語ではなくアラビア語で告げ、二度と電話に出なかった。

 「ISがたまたまペシュメルガの友人といたアイディンさんをスパイと誤解し、連れ去った」。親族が聞き回り、目撃証言を得た。

 オリーブ農家だったアイディンさんは前年に交通事故で左膝を骨折。後遺症のため松葉づえがないと歩けず、仕事ができない状態だった。「コップを割ってもテレビのリモコンを壊しても怒ったことは一度もなかった」。イナスさんは優しかった父の姿を振り返る。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に我が子の動画をいくつも載せる、子煩悩な父だった。

 「ISが占拠するモスルの監獄にいる」「バグダッドで米軍と一緒にいるらしい」。うわさを聞くたび、アイディンさんの母ナジアさん(73)らはすがる思いで現地に向かった。唯一の手がかりは失踪から2週間後にモスルでナジアさんが見つけたアイディンさんのものとみられる青いトラック。だが、昨年7月にモスルが解放されても、アイディンさんは戻らなかった。

 末っ子のムスタファ君(5)はイスラムの犠牲祭など行事が近づくと、「とうさんがかえってくるよ」と家族に知らせるようになった。金曜の集団礼拝が行われる時間には、毎回祈りの言葉を口にする。「とうさんをおうちにかえしてあげてください」

 長男のフィラス君(10)は約5年前、父から鮮やかなピンクの自転車を買ってもらった。「大事にしてたけど、僕にはもう小さくなっちゃったんだ」。塗装がはげた自転車は、末っ子ムスタファ君が譲り受けた。

 ◇残虐行為、恐怖政治におびえ

 ISはイスラム法に基づく新国家樹立を目指し、支配地域を拡大。現状に不満を抱く層には支持される一方、イスラムの名を借りた残虐行為や恐怖政治に多くの住民が苦しんだ。警察官だった避難民の男性は「素性がばれたら殺される。2年間、家から一歩も出られなかった」と証言。母親は「IS戦闘員が、イラク軍に情報を流すスパイと疑った青年を縛り、街の真ん中でセメントを浴びせて窒息死させる場面を見た」と話した。

スパイ容疑でISに連行され、現在も行方不明の父アイディンさんの帰りを待つきょうだいたち。一番下のムスタファ君(左から2人目)は長男のフィラス君(中央)が父に買ってもらった自転車を受け継いだ=イラク・ニナワ県のファズリヤ村で8月

息子の笑顔、いつ戻る

 「されたこと全部が嫌だった」。クルド自治区・ドホーク県のキャンプに暮らす少数派ヤジディー教徒、ダルシャッド・イリアス・ハジ君(12)は、3年以上にわたって過激派組織「イスラム国」(IS)に捕らわれていた。心に傷を抱えながら生きる息子に、父は戸惑いながらも懸命に向き合っている。

 シリアに近いシンジャル南方の街カフタニヤに2014年8月3日早朝、爆音が響いた。ISの襲撃だった。父イリアスさん(31)は親族宅にいた妻ナディヤさんに電話したが通じない。ナディヤさんとダルシャッド君ら兄妹4人は、シンジャル山に逃れようとしたが、捕まっていた。

 ダルシャッド君はISの要衝タルアファルにバスで移され、大きなホールに10月まで監禁された。食事は出たが毛布がなく、家族と床に寝た。その後モスルを経てシリアへ。兄2人はモスルに残され消息を絶った。「アブドルラフマンって男が僕らを買って家に閉じ込めた」。銃を2丁持ち歩く男は母を妻にし、同時に奴隷にした。

 クルマンジー(クルド語の方言)を禁じられ、母や妹アリヤさん(8)と慣れないアラビア語で会話。礼拝を拒むと殴られた。毎食出るスパイスを塗ったパンはまずかった。男は「カーフィル(不信心者)」という単語をよく口にした。夜は薄い布1枚をかぶり3人で泣いた。ある日、母だけが転売された。涙を浮かべ「元気でね」とクルマンジーで別れを告げられた。

 妹も売られ、ダルシャッド君は別の夫婦に買い取られた。夫婦は奴隷を元の家族に転売しており、イリアスさんに連絡が入った。NGOや親族が計1万2000ドルを支援。昨年12月、父子は再会した。やせこけた体を抱き締めた父。「僕だよ、父さん」。ダルシャッド君の口から出たのは、アラビア語の方言だった。

 クルド語が分からずキャンプ内の学校を2カ月でやめたダルシャッド君。今は問題なく話せるが、笑顔が少なく、怒りっぽくなったと父は感じる。夜中に一人座ってぼんやりする姿も見る。医師のカウンセリングで「前より良くなった」というが、記者が夢を尋ねると「イラク軍の将校になって、ISが来たら殺したい」と答えた。

 妹アリヤさんは一足先に保護された。「ナディヤを愛している。でも彼らには母親が必要です」。イリアスさんは再婚し、アリヤさんらと共にダルシャッド君を迎えた。

 「僕は成長して強くなった。母さんには会いたいけどね」

 愛する我が子よ、少しずつでいいから元気になってほしい——。常に顔をのぞき込むようにして息子に話しかける父の姿は少しぎこちなく、温かだった。=おわり

 ◇メンバー今も2万人以上

 イラク、シリア両政府はIS掃討作戦を進め、昨年末までに「勝利」を宣言。一方、国連が今年8月に出した報告書によると、両国内には今も推計2万人以上のISメンバーが散らばり、数千人の外国人戦闘員もいるという。また、連携する戦闘員もアフガニスタンや東南アジア、西アフリカなどに存在するとしている。

長期にわたってISに拉致されていたヤジディー教徒のダルシャッド君(右)。父イリアスさんは息子との絆を取り戻そうとしている=イラク・ドホーク県で8月

特集「安らぎ砕かれ」

激戦地となり、多くの建物が破壊されたモスル旧市街。かろうじて原形をとどめた建物の1階で小さな飲食店が営まれ、子どもを抱いた男性らが談笑していた。街は至る所にがれきが散乱し、車やバイクが通るたびに粉じんが舞った=イラク・モスル旧市街で

 爆撃や砲撃で傾いた建物がもたれ合い、一部は道路までせり出していた。がれきの街を歩いていると、平衡感覚を失いそうになる。建物の2階に取り付けられたエアコンの室外機は焼け焦げて、ゆがみ、電源コードの切れ端がつららのように垂れ下がっていた。

クルド自治政府の治安部隊「ペシュメルガ」所属だった父サバハさんの墓石に口づけする、ヤジディー教徒のサムハちゃん(4)=手前。父は2015年11月、ISとの戦闘で死んだ。毎週サムハちゃんと墓を訪れる母ハウラさん(25)は墓前で目を潤ませた。「サムハも私もまだ幼いの。あなたのいない人生はとてもつらいです」=イラク・ドホーク県ハンケで

 イラク北部の主要都市モスルの旧市街。過激派組織「イスラム国」(IS)とイラク軍などの激戦地となった。今年で40年目を迎えた毎日新聞と毎日新聞社会事業団による「世界子ども救援キャンペーン」の取材で今年8月、足を踏み入れた。ISから奪還され1年が過ぎ、人々が少しずつ戻り始めていたものの、復興にはほど遠い惨状が広がっていた。

モスル南方の街から避難したキャンプで肺の感染症を患った生後7カ月の女児アイシャちゃん。国際NGO「国境なき医師団」が運営する病院でカメラに小さな手を伸ばした。世界各国から集う医師や看護師らのサポートで快方に向かっているが、暑くてほこりっぽいキャンプの生活は幼い命には過酷だ=イラク・ニナワ県カイヤラで

 2003年のイラク戦争以降、前身組織の頃から社会の混乱に乗じて勢力を広げていったIS。14年6月には主要都市モスルを占領した。一時、イラクや隣国シリアにまたがる広域を支配し、殺人や拉致、レイプなど暴虐の限りを尽くした。昨年12月、イラク政府はISとの戦いに「勝利」を宣言。だが、人や街に刻まれた傷はあまりに深く、今も癒えていない。

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 ■ことば

 ◇「IS後」のイラク

 IS掃討作戦を進めてきたイラク、シリア両政府は2017年末までに「勝利」を宣言したが、情勢は安定していない。イラク北部のクルド自治区では同年9月の住民投票で独立賛成が多数を占めた。一方、イラク軍は、イラク中央政府とクルド自治政府が帰属を争うキルクーク県に侵攻し制圧。今年7月にはイラク南部で公共サービスの不備に対する抗議デモが激化し、死傷者も出ている。

 国際移住機関(IOM)のホームページによると、一時300万人を超えた国内避難民は減少傾向にあるが、今年9月末現在約189万人が家を追われ、キャンプなどで避難生活を送っている。国連が今年8月に出した報告書によると、イラク・シリア両国内には今も外国人戦闘員数千人を含む推計2万人以上のISメンバーが散らばっており、人々は戦闘や暴力の再発におびえている。


写真特集「イラク・ヤジディーの孤児院」ここから未来を

非公式キャンプからハルマン孤児院に通うサフワンさん(12)。2014年8月に起きたISの襲撃により、父親(当時41歳)と長兄(同20歳)を含む親族の男女30人が殺害されるか、拉致されて行方不明になっている。近所で野犬にかまれた腕などが今も痛むため病院に通うが、1回でかかるタクシー代や治療費は計約5000円。兄(17)が孤児院で庭の手入れなどをして得る月給の半分にあたる

 イラク北部・クルド自治区ドホーク県に、宗教的少数派ヤジディー教徒の孤児院がある。過激派組織「イスラム国」(IS)に親を殺害・拉致された子どもや貧困世帯の母子らが、周辺の避難民キャンプなどから通ってくる。

孤児院ではおもちゃのブロックを使い、色とりどりの「住んでみたいおうち」を黙々と作っていたアビンちゃん(4)。避難先の非公式キャンプに戻ると、地面に転がる石やごみをよけながら自転車で遊び始めた。キャンプ内の自宅は、ビニールシートなどで造られた小屋だった

 孤児院の名は「Harman(ハルマン)」。ドイツに移住したヤジディー教徒が設立したNGO「Our Bridge」が昨年8月に始めた。今年8月時点で子ども約280人と成人女性約40人が登録し、「孤児とそうでない子がほぼ半々」(スタッフ)。子どもは授業で英語や運動、瞑想(めいそう)などを習い、女性はカウンセリングを受けたり、縫製技術を学んだりする。

非公式キャンプが周りを囲むハルマン孤児院(奥の白色と黄色の建物)

 ISに捕らわれクルド語を忘れた▽話題が父母に触れると泣き出す▽ISから性暴力を受けた影響で失神するようになった――。さまざまな傷を抱える子らと向き合うのは、心理学や薬学など多様な専門知識を持つスタッフ約20人。オフィスマネジャーのアミル・バシル・ハラフさん(28)は言う。「我々がここを続ける限り、子どもたちの未来を明るくできるはず」。運営は寄付金が頼りだ。

美術の授業で楽しそうに絵を描く女の子

 この秋、ISから受けた性暴力被害を証言し続けたヤジディー教徒のナディア・ムラド氏が今年のノーベル平和賞に選ばれた。世界中の視線が集まるが、イラクの子どもや女性たちが平穏な暮らしを取り戻すには、まだ時間がかかりそうだ。

孤児院のスタッフによると、貧困家庭では歯を磨く習慣がない子もいるという。ここでは決められた時間に全員で歯を磨く。歯ブラシなど、子どもたちに配られる備品は寄付で賄われている

海外難民救援キャンペーン報道写真展開催中

 2018年度の毎日新聞「海外難民救援キャンペーン」として、内戦による混乱が続くアフリカ東部・南スーダンの人々を取材した報道写真展「独立の果てに〜南スーダン難民報告」を東京都千代田区一ツ橋1のパレスサイドビル(毎日新聞東京本社)1階東側のオープンスペースで開催しています。栄養失調に苦しむ子供たちや避難民キャンプの様子などの写真約40点を展示。10月1日まで。入場無料。日曜休み。

 会期後には展示したパネルの貸し出しも行います。(送料はご負担いただきます)問い合わせは当事業団まで。

独立の果てに 〜南スーダン難民報告〜

 2018年度の毎日新聞「海外難民キャンペーン」は内戦が続く南スーダンでの取材を敢行し、人道的支援を必要としている避難民の現状を報告しました。特集と連載企画の全文を紹介します。文=稲垣衆史、写真=小川昌宏

避難民、豆を握りしめ

食料配給用の袋からこぼれ落ちた豆を拾うニャビュテュ・ボスさん。不安そうな表情でうつむいて歩き、一粒一粒拾っては、大事そうにシャツの端で包んだ=南スーダン・ジュバで

 内戦による混乱が続く南スーダン。首都ジュバの国連敷地内の避難民キャンプに4月中旬、記者が入った。食料配給が行われていたキャンプ脇の路上で配給用の袋からこぼれた豆を拾い集める少女の姿があった。

 ニャビュテュ・ボスさん(8)。「お母さんと来たの」との記者の問いかけに「1人で来た」と答え、集めた豆をシャツに包んで握りしめた。空腹に耐えているのだろうか。不安げな表情で記者を見つめると、雑踏の中に姿を消した。

 南スーダンは20年以上の内戦を経て2011年にスーダンから分離独立したが、政府軍と反政府勢力が内戦状態になり、各地で民族間の対立に発展。昨年12月の停戦合意後も各地で戦闘が続く。故郷から逃れた南スーダンの避難民は全人口の3分の1にあたる約430万人(国内185万人、国外245万人)に上る。国連平和維持活動(PKO)に参加した陸上自衛隊がジュバに派遣した施設部隊を完全撤収してから5月末で1年になるが、和平への道筋は見えていない。

4万人「早く帰りたい」

避難民キャンプで10人の子供を世話するニャジャル・パウリノさん(右奥)。子供たちを見つめる視線は穏やかだった。スプーンを共有しながら1日2回の食事を取る=南スーダン・ジュバで

 「一日も早く故郷に帰りたい。でもここで生きていくのが精いっぱい」。内戦のため多くの人々が故郷から逃れて暮らす南スーダン。首都ジュバにある国連管理のキャンプでは、約4万人の避難民が食料不足にあえぎながら暴力におびえて暮らしていた。

 ジュバ中心地から南西へ約7キロ。避難民キャンプは国連南スーダン派遣団(UNMISS)の拠点施設に隣接する場所にある。高い塀と鉄条網で囲まれ、ゲートでは武装した国連平和維持活動(PKO)部隊が監視に当たる。

 記者は今月中旬、許可を得て入った。竹枠にシートをかぶせたシェルターがひしめき、雨でぬかるんだ路地で人々が泥水で洗濯をしていた。キャンプ内に電気や水道設備はない。

 気温35度。窓のないシェルターの中はじっとしていても汗がにじむ。ニャジャル・パウリノさん(29)は世話をする10人の子供がソルガム(モロコシ)を分けて食べる様子を見守っていた。「食べ物が足りない。お乳が出ないせいでこの子は泣いてばかりなの」。生後6カ月のニャボルちゃんをあやしながら表情を曇らせた。

 2年前、政府軍の兵士に家を襲撃され、母親と妹、兄が銃殺された。隣国ウガンダへ逃れたが難民が押し寄せるなか食料を得ることができず、このキャンプにたどりついた。その後、夫は行方不明になった。近所から分けてもらったソルガムでパンを作り、キャンプ内で売ってせっけんなど日用品を得る。「キャンプの外で仕事をしたいが、外に出ればレイプされるか殺される。どうにもできない」

 2013年末に始まる内戦は、最大勢力ディンカ族出身のキール現大統領が率いる政府軍と、2番目に多いヌエル族出身のマシャール前第1副大統領派の反政府勢力との抗争に端を発する。ディンカ族中心の政府軍の攻撃を恐れるヌエル族の人々は保護を求めて国連施設になだれ込み、キャンプの規模は膨らんだ。「政府軍に対抗しようと武器を隠し持つ避難民もいる。警戒は解けない」。治安を担うUNMISS関係者は話す。

 国連によると、内戦で農業やインフラは崩壊。十分な支援がなければ数カ月以内に700万人以上が深刻な食料不足に陥る可能性がある。戦闘が激化し、ジュバの南西約150キロの街では車で移動中だった国連職員ら10人が25日に消息を絶った。武装勢力に拉致されたとみられ、援助活動の安全さえ危ぶまれている。

 キャンプで暮らすニュルバン・トゥトゥさん(21)は語った。「昨日も知り合いの男性がキャンプの外で殺された。政府軍の仕業だろう。いつになれば安心して暮らせる日が来るのか」

 ◇5年間、陸自を派遣

 南スーダンPKOで、日本は12年1月からインフラ整備に当たる陸上自衛隊施設部隊をジュバに派遣。17年4月から撤収を開始し、5月末に完了した。

 現地で自衛隊から譲与された発電機の指導を受けたという国連の現地スタッフ、アリ・アブバカル・イズマイルさん(43)は「ここはインフラの不足が課題で、日本の技術はとても役に立ち、多くを学んだ」と話す。

 派遣中の16年7月、ジュバで武力衝突が発生し、派遣部隊が「戦闘が生起した」と日報に記載していたことが判明。紛争当事者の停戦合意などを条件とするPKO参加5原則との整合性が問われた。

幼い命脅かす飢え

ベッドで母に抱き上げられ、つらそうに顔をしかめるメアリーちゃん。その2日後に短い生涯を閉じた。黒ずんだ皮膚は栄養失調の症状の一つだという=南スーダン・ジュバで

 内戦が続く南スーダン。首都ジュバにある国内唯一の子供病院で4月下旬、1歳11カ月のメアリー・スティマちゃんがベッドに横たわっていた。急性栄養失調にかかり、体重は5600グラム。健康児の半分しかない。結核や肺炎も併発している。10日前に、母ローズ・ヤワさんに連れられて病院に来た。

 反政府勢力の兵士だった父親は、生後間もなく戦闘で亡くなった。ローズさんはメアリーちゃんと村はずれの茂みに身を潜め、栽培した豆の葉だけで細々と命をつないだ。病院までは約60キロ。ローズさんは4日かけてその道のりを歩いた。「来月の誕生日までに笑えるかしら」。そう語りかけるローズさんにうなずくように、メアリーちゃんはまぶたをうっすらと開けた。しかしその2日後、息を引き取った。

 医師は嘆く。「病院にたどり着いた子の多くは手の施しようがないほど症状が悪化している。この国の混乱の最大の被害者は、子供たちだ」

 南スーダンの内戦は4年半に及び、食糧不足で100万人の子供が重い栄養失調に陥る。国連の平和維持活動(PKO)でインフラ整備にあたった陸上自衛隊がジュバから撤収して1年余り。民族間の対立に終わりは見えず、幼い命を脅かし続けている。

独立の果てに〜南スーダン難民報告〜①

栄養失調でやせ細るザンデ・エリアちゃん(中央)。テント内のベッドは暑くて寝ていられないため、日中は母(左)と病院の敷地内に敷いたゴザの上で過ごす=南スーダン・ジュバで

草食べその日しのぐ

 内戦による混乱で深刻な食料難にあえぐ南スーダン。首都ジュバの「アル・サバ子供病院」では、重い栄養失調に陥り、命の危険に直面する子供たちが手当てを受けていた。4月には135人が入院し、17人が亡くなったという。

 ザンデ・エリアちゃん(5)は病棟の入り口にしゃがみ込み、診察を待っていた。母マリ・ケジさん(30)は怒りを抑えるように語った。「内戦で何も手に入らなくなった。なぜ罪のない子供が争いに巻き込まれなくてはならないの」

 夫は約4年前、村を襲撃した武装グループに殺された。近所の人々の洗濯を請け負い、生計を立てているが、1週間の収入は200スーダンポンド(約0・7米ドル)。食費を賄うことはできない。内戦で物価の上昇が止まらず、鶏1羽が2000スーダンポンド(約7米ドル)、主食のキャッサバ芋の葉1食分は50スーダンポンド(約0・2米ドル)が相場。マリさんは6人の子を産んだが、食事や薬を与えることができず、3人を栄養失調やコレラで亡くした。

 ジュバから北へ約60キロの村では、武装集団の襲撃から逃れてきた別の集落の人々が野宿生活をしていた。食べ物が手に入らず「何週間も前から、このあたりに生えている野草を食べている」という。女性や子どもたちが、たき火にかけた鍋で草を煮ていた。

 集落を襲ったのは家畜を狙ったグループ。家々は焼かれ、約400世帯が一斉に避難民になった。「このままでは、飢えを待つだけだ」。集落で牧師だったアウグスティオ・マンヤンさん(50)は天を仰いだ。

 南スーダンは、40年以上続いたスーダンでの内戦を経て2011年7月に分離独立した。そのわずか2年後、キール現大統領と、マシャール前第1副大統領の利権争いをきっかけに政府軍と反政府勢力が衝突。内戦が泥沼化する中、異なる民族間の対立も深まった。

 全国民の3分の1にあたる420万人が故郷を追われ、うち247万人が難民になった。国連は平和維持活動(PKO)で市民の保護を進めるが、子供や女性までもが殺りくや略奪に巻き込まれている。国連児童基金(ユニセフ)の推計によると約2000人の子供が殺害された。だが実際の犠牲がどの程度に及ぶかはわからない。農地が廃れて食料が足りず、生き延びた子供の多くも飢餓に瀕(ひん)している。

 国連の17年のデータによると、食料確保や医療の整備のため必要とされた資金総額は約16億4000万米ドル。実際に集まったのは72%の11億8200万米ドルだった。国連世界食糧計画(WFP)の現地幹部は、世界の関心が薄まりつつあることに危機感を募らせ、こう指摘する。「南スーダンでは国民の半数が明日の食事さえもわからない状態だ。世界からの支援が届かなければ、多数の子供の命が失われる」

独立の果てに〜南スーダン難民報告〜②

取材前日に運ばれて手術を受けたグエイ・ヤウ君。銃弾は足から腹を貫通し、起き上がることができなかった=南スーダン・ガニエルで

空路搬送や施設、限界

 「集中治療室(ICU)」と記者が案内されたのは、テント張りのスペースだった。グエイ・ヤウ君(9)は、銃で撃たれたけがの手術を終えたばかり。おなかにつながれたドレーン(排液管)にハエがたかる。「もうだめだと思った」。消え入るような声で話した。

 市民への殺りくと略奪が続く内戦下の南スーダン。昨年9月、赤十字国際委員会(ICRC)が、中部ガニエルに野戦病院を開設した。グエイ君は約100キロ離れた町から飛行機でこの病院に搬送された。

 惨事は家畜の世話をしている時に起きた。武装集団が自宅に火を放ち、祖父とおじを銃で殺害した。グエイ君は逃げようとしたところを背後から撃たれた。父ヤウ・チョルさん(35)は意識が遠のくグエイ君とともに茂みの中に逃れた。ICRCに救助されたのは5日後。「ぎりぎり間に合った。だが油断はできない」。手術後の医師の表情は険しい。

 遊びに行ったディスコで武装グループの襲撃に遭い、首を撃たれたニャルアイ・ゴニーさん(17)もICUで治療を受けていた。「突然、男たちが店に押し入り、銃撃が始まった。床に伏せていると体に激痛が走り意識を失った」。おびえた表情でそう振り返る。奇跡的に命を取り留めたが、下半身がまひし、足を動かすことができなくなった。

 野戦病院にはベッドが60床あり、ICRCから派遣された医師や看護師が医療に携わる。負傷兵だけでなく、戦闘に巻き込まれて重傷を負った子供の搬送も後を絶たない。今年1〜4月に運ばれた負傷者は182人。このうち30人が子供だった。

 記者が訪れた病室では、左腕を切断した少女(10)や、右足にギプスを巻かれた少年(8)も手当てを受けていた。死と隣り合わせの危険からかろうじて命をつないだものの、重い障害や後遺症を抱えて生きていかなければならない子たちだ。

 ICRCが医療チームを派遣する病院は、ガニエルの野戦病院を含めて南スーダンに4カ所ある。1月から4月までに、計412人の武器によるけが人を受け入れた。だが、救助を必要とする負傷者はその数を大幅に超える。

 援助関係者への襲撃も相次いでおり、搬送は空路に頼らざるを得ない。飛行機や施設の数は限られ、全ての負傷者には対応しきれないのが実情だという。「各地から救助の要請が来るが、現状では7割ほどに応じるのが精いっぱいだ」とICRCの担当者は言う。

独立の果てに〜南スーダン難民報告〜③

殺された母親のことに話が及ぶと、少年の目から涙があふれた=ウガンダ・アルアで

「学びたい」ほど遠く

 「家に明かりがほしい。夜も勉強ができるから」。アフリカ東部、ウガンダの「ライノ難民居住区」に保護されている少年は、そんな望みを口にした。14歳。内戦が続く南スーダンから逃れてきた。途中で母が銃で撃たれ、孤児になった。

 2年前まで、南スーダン南部ランヤの村で家族と静かに暮らしていた。やがて内戦が激化すると、村ぐるみで「反政府勢力」とみなされ、政府軍の攻撃が迫った。隣国ウガンダに避難する他に助かる道はなく、少年は約70キロ離れた国境に向かった。

 母は国境を越える前に政府軍の銃撃に遭った。即死は免れ、難民居住区にたどり着いたが、肩に受けた傷が悪化して命を落とした。銃弾に仕込まれた毒が原因だったという。

 少年は今、おじとともに草ぶきの住まいに暮らす。母を殺されたことをきっかけに、人命を救う医師になる志を抱くようになった。だが居住区には電気設備がなく夜は暗い。読書も勉強もできない。「お母さんはペンやノートを買ってくれた」。少年は思い出を振り返り、涙を流した。

 南スーダンでは、2013年に内戦が始まって以来、周辺国に逃れる人が急増。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、5月現在、247万人が難民になっている。ウガンダには最も多い105万人が押し寄せ、その6割は子供だ。親を殺されたり、混乱の渦中で家族と生き別れになってしまったりする子も多い。保護者の付き添いがなく「孤児」と登録された難民の子供は約3万人に上る。

 支援機関は里親を募るが、青年期に達した孤児の受け入れ先は少ない。里親自身が貧しく、学校に行かせてもらえないことも多いという。

 ウガンダ北部の「ビディビディ難民居住区」に住む南スーダン南部イエイ出身の少女(15)も孤児だ。4歳と9歳の妹、13歳の弟との4人で、食料の配給を受けながら暮らす。居住区の学校に通うが、妹、弟の世話に追われて授業は休みがちだ。「妹たちが頼れるのは私だけ。でも私一人でずっとやっていけるのか、とても不安」と声をひそめる。

 孤児の多くは、家族を目前で虐殺されたトラウマや、長期の避難生活による過酷なストレスを抱えている。それぞれに専門的なケアが必要だが、孤児が多すぎるため、専門家の対応が追いつかない。

 非政府組織(NGO)は学校教育も支援するが、教師や教科書、校舎が不足している。「南スーダンに平和を築くには、次の時代を担う子供たちへの教育が欠かせない。しかし十分な教育を安心して受けられる環境とはほど遠いのが現状だ」。あるNGO現地担当者はそう語る。

独立の果てに〜南スーダン難民報告〜④

鋭いまなざしで自動車整備の訓練に取り組むエマニュエル・セビットさん=南スーダン・ジュバで

「人殺しても変わらず」

 工具を手にした若者は、解体中のエンジンに真剣なまなざしを向けた。

 南スーダンの首都ジュバにある職業訓練センター。ブライアン・バラさん(19)は、油の臭いがただよう作業場で自動車整備の技術を学んでいた。昨年まで戦場にいた「元子供兵」だ。

 9人きょうだいの末っ子として貧しい農家に育った。国中が内戦に巻き込まれると、村は反政府勢力の支配下に置かれ、政府軍と敵対。母は政府軍の兵士に殺された。

 政府軍への恨みから、反政府グループの兵士に志願した。「家にいても食べられない。兵士になって給料がもらえるようになれば家族を助けることができる」。そんな期待もあったという。入隊した時は14歳だった。

 だが兵士の生活は期待とかけ離れていた。扱い方も教えられないまま自動小銃を持たされ、銃弾が飛び交う戦場に送られた。給料も食料配給もない。仲間が傷つき、命を落とす場面に幾度も遭遇した。そして逃げるように故郷に戻った。「兵士になっても何も得られなかった。今は仕事に就くことが夢」という。

 南スーダンでは、2013年に内戦が始まって以来、子供が兵士や性的奴隷として戦場に駆り出されている。国連児童基金(ユニセフ)によると、武装勢力に捕らわれている子供は推定1万9000人に上るという。

 強制的な徴兵だけではない。食べていくことも、将来に夢を持つこともできずに自ら兵士になる子供もいる。命を守るためには自ら武装するしかないと信じる子も多い。「南スーダンの子供たちは、貧困から脱出するために兵士となり、戦場に送られている。貧困が解消され、教育が整わない限り、家に帰った子がまた戦場に戻ることが繰り返されていく」。元子供兵に聞き取り調査したオスロ・メトロポリタン大学(ノルウェー)のメレタ・スカラス講師は指摘する。

 職業訓練センターで訓練を受けていたエマニュエル・セビットさん(17)も農村出身の元子供兵だ。12歳の時、おじと兄を殺されたのをきっかけに兵士になった。

 それまでは、7人の兄弟とともに農業を営む親を手伝いながら暮らしていた。学校では、アラビア語や公用語の英語を教わることさえできなかった。地域全体が経済的に困窮し、教育を受けた教師を学校に雇うことができなかったためだ。教科書もなく、授業は地元の方言で行われた。

 「兵士になってどんな経験をしたの」。記者が尋ねると、エマニュエルさんはしばらく黙って背中を向け、体を震わせた。「人を殺しても何も変わらない。戦争のない国で人の役に立つ人生を送りたい」

独立の果てに〜南スーダン難民報告〜⑤

奇跡的に生まれた生後1週間のオベディちゃん(右)に寄り添うアニエルさん。産科フィスチュラを患い、腰から下にはビニールシートが敷かれていた=ジュバで

授かった子、産声に希望

 「なんて幸運なんだ」。南スーダン・首都ジュバの国営病院。分娩(ぶんべん)室に赤ちゃんの産声が響き、医師たちは歓喜に沸いた。アニエル・グレースさん(19)は帝王切開で体重2600グラムの元気な男の子を産んだ。難産のうえ、「産科フィスチュラ」という症状を患い、無事な出産が危ぶまれていた。

 フィスチュラは、産道とぼうこうや直腸の間に穴が開く疾患で、難産の際に産道周辺が長時間圧迫されることで起きる。死産になることが多く、穴から尿や便が漏れる症状が産後も続き、女性を苦しめる。帝王切開などの処置で防ぐことができるので、先進国ではみられないが、医療の遅れた国では発症率が高い。

 国連人口基金(UNFPA)は2003年から治療や予防のキャンペーンを展開している。しかし根絶にはほど遠く、アフリカ、南アジアの一部の地域を中心に200万人以上の女性がフィスチュラに苦しんでいるとされる。南スーダンでは6万人との推計もあるが、実態は不明だ。

 お産が近づいたアニエルさんは、近所の診療所で分娩を待った。だが陣痛が続くばかりで赤ちゃんはなかなか顔を出さなかった。地域の産科病院に行く道は周辺に武装勢力が潜んでいるおそれがあるため転院することができない。内戦が続く南スーダンでは、武器を持たない女性も殺りくに巻き込まれる危険がある。

 2日が経過し、バスでジュバの病院に移ることを決断した。8時間かけて病院に到着した時、フィスチュラを発症していたが、母子の命は手術で救われた。「もう少し処置が遅れたら悪夢のような事態だった。フィスチュラも治療できるでしょう」。アンソニー・ルパイ・サイモン医師は安堵(あんど)の表情を浮かべる。

 フィスチュラが多発する背景には、早婚傾向があるといわれる。体が十分に成長する前の妊娠に、リスクがあるからだ。南スーダンでは養育にかかる出費を減らすために親から結婚を促される子供が多い。既婚女性のうち18歳未満で結婚した人は5割、15歳未満で結婚した人は1割という統計もある。

 「内戦による貧困が早婚を促し、少女を苦しめている」。対策に取り組む国連南スーダン派遣団(UNMISS)の西谷佳純・ジェンダー部門チーフはそう指摘する。

 アニエルさんは、赤ちゃんに「オベディ」と名付けた。地元の言葉で「困難を乗り越えて生きる」という意味だ。その命名は、飢えや暴力、貧困に直面する南スーダンのすべての子供たちに向けた願いにも聞こえる。

 「元気に成長して、周りの人たちを助ける人になってね」。穏やかな寝息を立てる赤ちゃんに、母は優しいまなざしを向け、そう語りかけた。

《特集》独立の果てに〜南スーダン難民報告〜

暴力と飢えと炎熱 子供たちの命奪う

 ◇内戦泥沼化 支援乏しく

 アフリカ東部・南スーダン。約40年にわたる内戦を経て2011年にスーダンから分離独立したこの国は、わずか2年で内戦状態に陥った。市民を巻き込んだ殺りくや略奪が繰り返され、人口の3分の1に当たる420万人が故郷を逃れている。今年4月、現地を訪ねると、貧困による飢えや暴力が子供たちの命を脅かしていた。

 記者が各地を移動中、眼前に広がるのは殺伐とした荒野ばかりで、耕作地はほどんどなかった。女性や子供たちは武装勢力の襲撃におびえながら、荒野の中で潜むように暮らし、わずかな作物で命をつないでいた。

 国連や非政府組織(NGO)などの援助関係者100人以上が殺され、物資輸送も困難な事態になっていた。南スーダンは日本の約1・7倍の国土面積を持つ。南北にナイル川が貫き、石油資源にも恵まれたこの国は、豊かになる可能性を秘めていた。「トンネルの出口に光が見えた。正しい道を進もう」。11年7月の独立演説で、キール大統領は高らかにそう語った。

 だが、13年末には最大勢力ディンカ族出身のキール大統領と、次に多いヌエル族出身のマシャール前副大統領の利権争いを背景に、政府軍と反政府勢力との武力衝突が発生し、民族を巻き込んだ対立に発展した。

 大阪大の栗本英世教授(社会人類学)は「権力の維持を狙うキール大統領が、反大統領派を追いやるために『民族対立』を意図的に作り、国民同士の殺し合いは泥沼化した」と指摘する。

 雨期の半年間は、道路網の約7割が水没し、食料や医薬品の輸送ができなくなる。電気や水道設備はほぼない。インフラの乏しさが、貧困と混乱の背景にある。国連機関の担当者は「人々を救うための支援が不足している。このままでは餓死が広がる恐れがある」と訴える。

 国連児童基金(ユニセフ)によると、南スーダンの10人に1人の子供は5歳の誕生日を迎えられず、小学校に行ける子どもは3割。ある支援関係者は話した。「この国は何もかもが足りない。ただひとつ。武器を除けば……」

 少年の視線は痛みで宙をさまよっていた。南スーダン中部ガニエルに開設された野戦病院。トゥト・コングさん(16)は集中治療室(ICU)で緊急手術を受けた。

 銃弾がまだ残っているという背中に当てられたガーゼは真っ赤ににじんでいる。母親のニャルヒン・ラムさん(35)に抱えられるようにして、ようやく体を起こした=写真。

4日前に右胸を打たれ、取材の前日に搬送されてきたトゥト・コングさん(手前)。ベッドの上で母ニャレイ・ルエイさんに寄りかかり、視線は宙をさまよった=南スーダン・ガニエルで

 3日前、おじ(45)と一緒に牛を放牧していると、家畜を狙った武装グループの襲撃を受けた。

 おじは射殺され、逃げようとしたトゥトさんも狙われた。「命が助かっただけでも良かった」とニャルヒンさんは言う。

 トゥトさんは「撃たれたのは銃を持っていたからかもしれない」と話す。

 記者が南スーダンに滞在中、銃を手に家畜を放牧する人に幾度も会った=写真。

銃を担いで牛を守る少年。牛の奪い合いが殺し合いに発展することは珍しくない=南スーダン・ジュバ近郊で

 この国では民族間の対立を背景に家畜の奪い合いが絶えない。

 内戦で拡散した武器は、市民同士の争いを激化させ、女性や子供が犠牲になっている。

 病院でリハビリを続けるニャトニ・マザドハドさん(10)は左腕を失った。放牧中、武装した男たちに襲われ、一緒にいた父親は射殺された。

 「学校へ行って勉強したい」と話したときはほほ笑んだが、事件のことを聞かれると、少女は表情をこわばらせた。

 ◇野宿 草しか食べ物ない

 バラック住居が点在する集落の片隅に、焼き打ちに遭った村から逃れてきた子供たちが木陰で野宿生活をしていた=写真。

木陰に集まる子供たち。この集落には牛の奪い合いによる争いを逃れた人たちが住み、食べ物がないため野草を摘んで食べているという=南スーダン・テレケカで

 南スーダンの地方都市テレケカ。避難した村民は400世帯に上る。「野草しか食べる物がない」と村民は言う。

 6歳くらいの裸足の少年が記者に駆け寄り、記者のポケットに差してあった水のペットボトルを無言で指さした。渡すと、数人の子供たちが集まり、力ずくの取り合いになった。

 支援関係者は「民族同士が報復し合い、何の罪もない子供が巻き込まれ、家を追われている。対立は解消されず、終わりが見えない」。

 ◇気温40度 11万人密集

南スーダン国内最大の国連の避難民保護施設(POC)。白いテントが広がる=南スーダン・ベンチウで

 乾いた大地が地平線まで広がる南スーダン北部の都市ベンチウ。中心部から車で約10分の郊外に国連が管理する国内避難民のキャンプがあった=写真。整然と区画された敷地に白いテントがひしめく。11万人という避難民の数は、国内のキャンプの中で最も多い。

 周囲に築かれた小高い土手には、鉄条網が張られ、出入り口では国連平和維持活動(PKO)で市民の保護に当たる国連南スーダン派遣団(UNMISS)のガーナ部隊が警戒に当たっていた。隊長は周囲に目をやりながら言った。「いつどんな事態が起きてもおかしくない。気は抜けない」

 40度の暑さが残る午後4時過ぎ。長さ2メートルほどもある薪の束を頭に乗せた女性がキャンプに戻ってきた。1000南スーダンポンド(約3.5米ドル)で売るため、約6時間をかけてキャンプの外で薪拾いをしたという。武装グループに襲われる危険のある「命がけの薪拾い」だ。

 夫を失い、4歳と1歳の子供を育てているビチャール・ケルビノさん(20)は「食料配給は十分でない。誰も頼る人はおらず、自分で子供を養っていかなければならない」と語った。

重度の栄養失調となり、やせ細ったアチョコ・マトゥワちゃん(下)。危険な状態だが、母アゴック・クウェックさんは「元気になって成長したら、学校に通わせたい」とアチョコちゃんを抱き寄せ、いとおしそうに頬を寄せた=南スーダン・ジュバで

 「朝は水でおなかを満たし、1日1回の食事は穀物の葉だけ。元気を取り戻すために少しでも食べ物を与えたい」。南スーダン・首都ジュバの「アル・サバ子供病院」。極度の栄養失調で入院する2歳の女児、アチョコちゃんを母アゴック・クウェックさん(20)は抱き寄せた=写真。2週間の治療で容体は改善してきたが、体重は標準の約3分の1の5600グラム。アゴックさんは、愛娘がいつか学校に通う姿を夢見ていた。

 南スーダンでは内戦で物資や食料が不足。国連によると人口の3分の2近い700万人が深刻な食料難に陥っている。

 記者が訪れた4月下旬、病院内の気温は30度を超えていた。入院中の数十人の子供たちは室内の暑さを避け、中庭のコンクリートの上で横たわっていた。

 2歳の女児、ジャリア・アブラハムちゃんは下痢による脱水症状で衰え、薄目を開けるのがやっとだった。「昨年のクリスマスも栄養失調で入院していた。また悪くなって……」。母親のサディア・イスマイルさん(22)は泣きながら医師に訴えた。1日1食のキャッサバ芋の葉しか食べる物がないという。「体調の悪い子供におかゆすら食べさせられない。ただ平穏に暮らしたい。他には何も望んでいない」

 ◇コップ1杯の穀物分け合い

 南スーダンと接するウガンダには南スーダンから逃れた難民105万人が暮らす。北部には難民居住区が各地に造られ、草ぶき・土壁の住居が広がっていた。地面に敷かれたゴザで、コップに入った配給の穀物ソルガム(モロコシ)を兄弟が分け合っていた=写真。

コップ1杯のソルガムを分け合って食べる難民の兄弟。父を紛争で亡くし、母は日中キャンプ内のマーケットで働くため、昼食は年長の兄が弟の面倒を見ていた=ウガンダ・アルアで

 父を紛争で亡くし、母はキャンプ内の市場に働きに出ている。「配給の穀物を煮るのは僕の仕事だよ」と兄のアレックスさん(7)は言った。穀物の配給は1人当たり毎月12キロ。生活用品と交換すると、すぐに底をつく。

 「世界最大規模の難民キャンプ」と言われる28万人が暮らす「ビディビディ難民居住区」では、新しい家族を迎える人もいた。

 ロナ・サルワさん(40)は5人の子を育てている。うち14歳と10歳の男の子2人は両親を失った孤児で、「里親」として引き取った。

 「家族を失ったつらさがわかる。彼らの将来を思うとかわいそうだった」。自身も国境に向かう途中で夫(40)と長女(16)を武装勢力に殺害された。故郷に帰還できる見通しはない。「私は子供の頃も母親になってからもずっと戦争。この子たちに同じ経験はさせたくない」。ロナさんはそう願っていた。

 避難民帰還、治安次第

デビッド・シアラー ニュージーランド 国連南スーダン派遣団事務総長特別代表=南スーダン・ジュバで

 国連南スーダン派遣団事務総長特別代表 デビッド・シアラー氏 ☆(P特7)☆

 南スーダンで国連平和維持活動(PKO)を展開する国連南スーダン派遣団(UNMISS)のトップ、デビッド・シアラー事務総長特別代表に現状や日本への要望を聞いた。

 ――国内の状況は。

 各地で兵士が市民を攻撃している。子供や女性、お年寄りを含めた市民が巻き込まれ、殺害行為や性的虐待、焼き打ち、学校や病院への略奪行為が確認されている。

 ――食料難が深刻化しています。

 農業や畜産など自給自足の生活が中心だった人々が避難によって経済基盤を失った。穀物の主要な生産地である南部も戦火で人がいなくなり、国内の食糧生産は落ち込んでいる。国連の食料や医療品配布は治安悪化で難しく、人々は飢えに直面している。すべての原因は紛争だ。

 ――和平への道筋は。

 現政府側は政権を手放すまいとし、反政府勢力側は反発。独立闘争を経て独立を得た世界で最も若い国だ。和平に向け、指導者は民族ではなく、国民や国全体のために考える必要がある。6月末に和平合意がされたが何度も破られた経緯があり、停戦できるかが試されている。

 ――避難民の帰還の見通しは。

 治安次第だ。人々が安全だと感じるようになれば、帰還は進むだろう。国連管理のキャンプで提供されている物資やサービスを、外で得られる環境も必要だ。

 ――日本への要望は。

 インフラ整備への協力に期待している。インフラが整えば食料を届けやすくなり、商品の流通、売買などの経済活動も起こる。陸上自衛隊の施設部隊は質の高い仕事をしてくれた。UNMISSに引き続き派遣されている4人の司令部要員もプロ意識が高く、今後も派遣を続けてほしい。


 ◇デビッド・シアラー氏

 ニュージーランド出身。エルサレムやレバノンの国連人道調整官や国連イラク支援団の事務総長特別副代表などを経て2016年12月に現職に任命された。カンタベリー大学大学院修了。60歳。


◇南スーダンを巡る歴史

1955年   南部スーダンの自治・独立を求め、北部との間で第1次スーダン内戦が始まる
  56年   南部を含むスーダンが英国から独立
  72年   アディスアベバ和平合意。南部スーダンに部分的な自治権が与えられる
  83年   スーダンのイスラム法導入に非アラブ系住民が反発し、第2次スーダン内戦が始まる
2005年   22年間続いた第2次内戦が終結。6年後にスーダンからの独立を問う住民投票を約束
  11年 1月住民投票で99%が分離独立を支持
      7月南スーダンとして分離独立。国連が平和維持活動(PKO)を展開する南スーダン派遣団(UNMISS)を設立
  12年 1月陸上自衛隊の施設部隊が首都ジュバでPKOに参加
  13年 7月キール大統領は、石油利権を巡り対立したマシャール副大統領ら閣僚を解任したと発表
  12月キール、マシャール両氏の協議決裂。政府軍とマシャール氏支持の反政府勢力が衝突し、内戦状態に
  15年 8月キール大統領派とマシャール前副大統領派の反政府勢力が「和平協定」に署名 
  16年 4月マシャール氏が再び副大統領に就任
      7月首都ジュバで政府軍と反政府勢力が大規模に衝突し、内戦が再燃。在留邦人が国外へ退避
  17年 3月安倍晋三首相が陸自部隊の活動を5月末で終了・撤収させる方針を表明
      4月陸自が撤収を開始。5月に完了
  18年 6月キール大統領と亡命中のマシャール前副大統領の「和平」合意直後に「戦闘再燃」と報道される

 外務省ホームページなどから


海外難民キャンペーン 2017年度810万円を25団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2017年度の海外難民救援金810万円を国連救援機関や難民支援活動をしているNGO(非政府組織)など25団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億2273万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団日本▽AMDA▽シェア(国際保健協力市民の会)▽JEN▽シャンティ国際ボランティア会▽AAR Japan(難民を助ける会)▽日本国際ボランティアセンター(JVC)▽ピースウィンズ・ジャパン▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽マハムニ母子寮関西連絡所▽シエラレオネフレンズ▽ネパール・ヨードを支える会▽ネパール震災プリタム実行委員会▽アジア協会アジア友の会▽ラリグラス▽日本ILO協議会▽Ban Toxics▽EDAYA▽チャイルド・ファンド・ジャパン▽ペシャワール会▽ロシナンテス

輝き探す闇 〜東南アジアの零細金採掘〜

17年度の毎日新聞紙上での海外キャンペーンは、フィリピン、カンボジアに取材陣を派遣し、貧しさの中で家計を支えるため、少人数で金を採掘・精製するASGM現場で過酷な労働に従事せざるを得ず、健康被害に苦しむ子どもたちを取材しました。全文を掲載します。

輝き探す闇:2017世界子ども救援キャンペーン〜東南アジアの零細金採掘(1)

体調が悪化し、不安を抱えるブライアン・チカノさん=フィリピン・カマリネスノルテ州ラボで

◆8歳から金採掘、16歳で体に異変〜肺侵す、精製の水銀

 水銀を使った零細小規模金採掘(ASGM)の流れ
山のトンネルなどから金鉱石を採取
金精製の課程で使われる水銀
金鉱石を砕き水銀と混ぜ、合金を作る
合金を火であぶり水銀を気化させる
高純度の金になる

 突然のどの奥が苦しくなり、家の外へ駆け出ると、コップ半分ほどの量の血が口から飛び出し、道路に散った。「血が出た。アー!」。2カ月前の夜、恐ろしさのあまり出た叫び声が、闇に響いた。

 フィリピンのカマリネスノルテ州ラボに住む高校2年のブライアン・チカノさん(16)は血を吐いた2日後に取材に応じた。「動くと息苦しい。めまいもする。仕事で吸い続けた水銀の蒸気が原因なのかな」。胸をさすり、目には涙が浮かぶ。

 零細小規模金採掘(ASGM)と呼ばれる作業現場で、水銀を使い金を精製する作業を8歳から続けてきた。砕いた金鉱石と水銀を混ぜると、合金ができる。これを火であぶり、水銀だけを気化させると、高純度の金を効率よく作り出せる。

 「金がとれた時はうれしかった。おカネになるから」。稼ぎは日本円にして1日平均200円ほど。たくさん金がとれた時には5000円も受け取ったことがある。学校が休みの日に自宅近くの作業場を訪れ、合金をあぶる。稼ぎの半分は学費に、残りは母親に全て渡して家計を支えてきた。

 長期休暇の今年4月に異変が起きた。連日作業をしていたら、せきと胸の痛みが止まらなくなった。

 水銀の蒸気は、吸い込むと胸痛や呼吸器の炎症、呼吸困難をもたらし、脳に滞留すると幻覚や妄想などの精神症状や、視野障害などの神経症状を引き起こす。死に至ることもある。

 「体に悪いなんて知らなかったんだ」。マスクをしたことはなかった。血を吐いた後に訪れた病院のエックス線検査で、右肺に異常があることが分かった。その後の検査で、結核菌の疑いがある菌が見つかった。

 産業医で水銀中毒を研究する近畿大の吉田繁・元教授は「フィリピンは結核患者が多い。水銀蒸気で肺が侵され、体力と免疫力の低下もあいまって肺結核を発症した可能性がある」と指摘する。

 一人息子の体を案じる母リリベットさん(38)は「体調が悪くて大好きな学校にも行けず、かわいそうに」と話す。ブライアンさんは「もう水銀は絶対に使わない」と心に決めている。

 ASGMの現場では、水銀使用による健康被害や過酷な児童労働が懸念されている。フィリピンとカンボジアの現場で働く子どもたちの姿をリポートする。【文・畠山哲郎、写真・川平愛】

◇家計支える子ども従事 健康被害、高いリスク

 国連環境計画(UNEP)によると、少人数で金を採掘・精製するASGM(Artisanal and Small-scale Gold Mining)には、途上国を中心に1000万〜1500万人が従事する。2010年の大気への水銀の推計排出量1960トンのうち37%の727トンをASGMが占める。

 東南アジアでは貧困家庭や出稼ぎ労働者が政府の許可を得ず違法で行うケースが多い。山のトンネルなどから金鉱石を採取し、精製する際に水銀を使うことが多い。貧しい家庭の子どもが家計を支えるために働き、水銀の健康被害もより体の小さな子どもに出やすいとされる。

 水銀使用を国際的に規制する水俣条約(8月16日発効)は、ASGMで生計を立てる貧困家庭が多い現状に配慮し、条文を「締約国はASGMによる水銀の使用や排出を削減し、可能なら廃絶するための措置をとる」との表現にとどめた。

輝き探す闇:2017世界子ども救援キャンペーン〜東南アジアの零細金採掘(2)

水銀中毒で亡くなった息子の墓の前で、涙をぬぐうチャリト・アベリャーノ・エルカノさん=フィリピン・カマリネスノルテ州ホセパガニバンで

◆息子の死、私の責任

 曲がった指。やせ細った体。息子は数日前から牛乳とフルーツしか喉を通らなくなっていた。「母さん、ものすごく疲れたよ」。ベッドの上で何度も壁をたたき、痛みを訴える我が子。「神様、息子を奪いたいなら奪ってください。痛みがなくなるように、早く連れて行って」。祈るしかなかった。

 フィリピン・カマリネスノルテ州ホセパガニバンに住むチャリト・アベリャーノ・エルカノさん(59)は、7年前、三男のヘルマンさん(当時27歳)を水銀中毒で失った。7歳時に大量の水銀蒸気を吸い込んだことが原因だ。「幼い息子を水銀にさらしてしまったのは自分の責任」とすすり泣いた。

 チャリトさんは1989年、ヘルマンさんらを連れ、レイテ島から生まれ故郷のホセパガニバンに戻った。一帯はゴールドラッシュに沸き、かつての同級生は零細小規模金採掘(ASGM)で多額の資産を得ていた。「自分も稼ぎたい」。60人を雇い、翌年の暮れに所有する山で8キロの金塊を発見。10キロの水銀を買って自宅で精製作業を始めた。

 「この金を誰にも見られたくない」。家の窓を全て閉めきった。合金をあぶり、金を精製する作業を毎日未明まで続けた。密閉した室内に立ち上る水銀の蒸気。ある日、2階で寝ていた当時7歳のヘルマンさんが息苦しさを訴えた。一緒にいた40代の伯父は容体が悪化。病院で水銀中毒と診断され、その日のうちに息を引き取った。

水銀中毒で亡くなったヘルマンさんの写真

 ヘルマンは……。不安は現実になる。ヘルマンさんは15歳になると、胸の痛みを訴えるようになった。急に笑い出したり、意味の分からないことを話したりすることもあった。「ひどい水銀中毒です」。22歳の頃、そう診断された。治療のかいなく体は徐々にむしばまれた。2010年に亡くなった時は全身がやせ細っていた。

 思いやりのある子だった。「私のせいで体を悪くしたのに、最後まで文句一つ言わなかった。あんないい子を金のいけにえにしてしまった」。息子は近くの墓地で眠るが、訪れることはあまりない。「まだ自分の中で生きている、あの子の苦しみを思い出してしまうから」

 愛息の死は、チャリトさんを変えた。今は、ASGMでの水銀使用をやめ、同じ悲劇を起こさないように、周囲の人らに危険性を訴えている。水銀を規制する水俣条約の発効について「これからの世代には水銀の恐ろしさがより広まる」と歓迎する。

 「自分の話を多くの人に伝えてほしい。一刻も早く、水銀が使われなくなるように」【文・畠山哲郎、写真・川平愛】

輝き探す闇:2017世界子ども救援キャンペーン〜東南アジアの零細金採掘(3)

ASGMの現場で、砕いた金鉱石を機械に流す作業を手伝うロン・ナロッさん=カンボジア・プレアビヒア州ロムトムで

◆不安抱え生活優先

 布を搾ると、水銀があふれ出し、小さな手の指先を伝った。「体に悪いなんて聞いたことがないよ」。カンボジア・プレアビヒア州ロムトムに住むロン・ナロッさん(12)は、放課後に父キエン・サロンさん(41)の仕事を手伝うのが日課だ。

 水銀を塗った台の上に機械で砕いた金鉱石を流し、付着した金を水銀ごと集め、布に入れて水銀だけを搾り取る。さらに布の中の金に薬品をかけて火であぶり、純度を高め近くの雑貨店に売る。作業は素手だが「具合が悪くなったことなんてない」と意に介さない。

 一家は6年前、約150キロ南のコンポンチャム州から引っ越した。当時ゴム農園で働いていたサロンさんの月収は日本円にして約1万円。とても家族を養えなかった。零細小規模金採掘(ASGM)での一獲千金を目指し、金の採れる地として有名だったロムトムを目指した。

 当初は自ら鉱石を採掘したが思うように採れず、現在は金鉱石を砕く機械を別の採掘者に貸し出し、そこで余った鉱石の粒を再度精製して金を抽出している。

 一帯は反政府ゲリラ勢力ポル・ポト派が支配していたが、弱体化した2000年ごろから移住者が増えた。現在の人口は約5500人で、1割がASGMに従事。本来政府の許可が必要だが、申請費用がかかるため無許可のケースが目立つ。ナロッさん一家も許可は得ていない。

 水銀を使う金の精製法は、2年前から急増したベトナム人が伝えた。「水銀はベトナム人から買っているよ。使うとたくさん金がとれるんだ」とナロッさん。父サロンさんは「つい最近、水銀が体に悪いことを知った。ただ、使わないと金がうまくとれず、生活が成り立たない。不安はあるけど、仕方がない」と話す。

 無防備なナロッさんらの作業を見たプレアビヒア州環境局の水銀問題担当、チャップ・タラさん(31)は「ASGMの現場で直接水銀を取り込んだり、川や田んぼに流れ出た水銀を魚を介して摂取したりすると、健康被害が出る恐れがある。日本の水俣病のようにならないよう危険性を教えなければ」と危機感を強める。

 一方、タイとの国境沿いにあるバタンバン州のASGM現場では3年前に政府が水銀対策を指導。現在では使用時には手袋やマスクを着用し、水銀の混じった排水は周囲に広がらないようプールで保管する。現場の副リーダー、ライン・スレインパブさん(36)は「数年前、水銀が流れ出し、その水を飲んだ近くの牛が死んでしまった。人に健康被害が出てからでは遅い」と力を込める。【文・畠山哲郎、写真・川平愛】

輝き探す闇:2017世界子ども救援キャンペーン〜東南アジアの零細金採掘(4)

金の混じった砂に水銀を加えて素手で混ぜるレイナン・ブロソさん(右)=フィリピン・カマリネスノルテ州パラカリエで

◆家族の糧、行政黙認

 浅く大きな木製の皿に、金の混じった砂と水銀を入れ、手でこねる。水を加えて揺らし、砂やごみを捨てる作業を繰り返すと、真ん中にキラキラ光る水銀と金の合金が見えてきた。「これをあぶると、純度の高い金ができるんだ」。レイナン・ブロソさん(15)が指さす。

 浜辺に金混じりの黒色の砂が広がる。フィリピン・カマリネスノルテ州パラカリエ。スペインに植民地化された16世紀より前から金の産地として知られるこの地で今、水銀を使った零細小規模金採掘(ASGM)が貧しい子どもたちに広まっている。

 「学校に行っていないから何もしないと退屈なんだ」。レイナンさんがこぼす。小学校を卒業したが、お金がなくて進学できず、10歳から続けるこの仕事が日課だ。有毒な水銀を素手で触り、合金をあぶる際には蒸気も吸い込むが、「体に悪いなんて初めて聞いた」と驚く。

 近くの水際には升のような形をした約100個のコンクリートの構造物が見える。約1メートル四方の升形の下には地下50メートルまで続く穴がある。労働者が地中の砂金や金鉱石を採るために掘った穴だ。1年前、政府の命令を受けた地元自治体により使用が禁止され、現在は使われていない。無許可だったためだ。

 「たくさんの家族がこの穴で生活を支えていたが、皆引っ越してしまった」と地元ASGM組織の幹部の男性は肩を落とす。レイナンさんの父もかつてここで働いていた。今は細々と魚を取り、母や兄がそれを売って生活を支える。

 レイナンさんの稼ぎも貴重な支えだ。日本円で1日500円の収入は、6人家族の食費に消える。幼い妹は心臓に穴が開く先天性の病気を抱え、薬が欠かせない。「これから家族はどうなるんだろう。すごく心配だよ」

 フィリピンのASGMは、大半が無許可で運営されている。政府への申請資料を作る際に高額な費用がかかるなどの理由からだ。ただ、取り締まりを強化すればレイナンさんのような貧しい家庭が困窮することもあり、黙認されているのが現状だ。

 別の問題も生じている。同州内の別の場所で約20人を雇って金採掘をする男性が明かす。「新たに金鉱石の採れる穴を掘ると、次々に警察官がやってきて賄賂を要求するんだ」。摘発を避けるため、その都度お金を払い、稼ぎの半分は消えるという。

 そんな現実を知らないレイナンさんに「将来の夢は何?」と尋ねてみた。

 「警察官になりたいんだ。困っている人たちを助けるために」【文・畠山哲郎、写真・川平愛】

輝き探す闇:2017世界子ども救援キャンペーン〜東南アジアの零細金採掘(5)

深さ6メートルの穴に入って掘った金鉱石を上からつり上げてもらうクリストファー・ジュド・エドリアさん=フィリピン・カマリネスノルテ州パラカリエで

◆死と隣り合う採掘

 マンホールほどの狭い穴の深さは約6メートル。穴の中を、壁の足場を頼りに命綱なしでひょいひょいと下り、金属の棒をハンマーでたたいて突き刺し、金鉱石を採る。この繰り返しが、フィリピンのカマリネスノルテ州パラカリエに住むクリストファー・ジュド・エドリアさん(17)の日常だ。

 底はひどく蒸し暑く、ライトをつけた額やハンマーを持った手はすぐに汗まみれになる。「簡単な仕事じゃない。やめたいと思うけれど、他に仕事がないから続けているんだ」

 死の危険を感じたこともある。5年前、父親の指示で穴に残したシャベルを取りにいった時のこと。穴底からさらに横へ延びた真っ暗な穴の奥へと分け入ると、突然土が崩れてきた。「背中に土がたくさんかぶさり、本当に怖かった」。一時は生き埋めになったが、父がすぐに助けてくれた。ただ、今でも穴に潜る時は怖いと感じる。

 クリストファーさんらが従事する零細小規模金採掘(ASGM)では、水銀使用による健康被害の他にも、金鉱石などを採る作業に危険がつきまとう。多くは地中にあり、深い穴や川の底に潜ることを余儀なくされるからだ。こうした作業は、体が小さく身軽な子どもに任されることも少なくない。

 「フィリピンのASGMのほとんどは政府の許可を得ず違法なので、労働者は社会保険にも入れない。常に危険性の問題がつきまとう」。この問題に詳しい環境NGO「バントクシックス」のノエル・パーシルさん(46)は指摘する。雇用主が治療費を負担することもあるが、あくまで仕事が終わるまでの間。後遺症が残った場合の生活の保障はない。それでも健康であれば誰でもできるため、貧困層の子どもが収入を求めてこの仕事を選びがちだ。

 クリストファーさんは午前7時から午後4時まで、ほぼ毎日仕事をする。金の精製で水銀を使うこともある。雇用主からもらう1日の収入は日本円にして約500円。同じような給料の父(49)とともに、妹(12)や弟(9)との4人家族の生活を支える。収入がなく、ツケでコメを買い、支払いが2週間先になることもざら。ヤシの葉で屋根を編んだ平屋の自宅はすきまだらけだ。

 学校に通えず進級が遅れ、現在中学3年生だが、最近もほとんど行っていない。「先生が教えることが分かって、質問に答えられた時が楽しい。できるだけ行きたいけれど、仕事をしないといけない」と肩を落とす。「今は将来について考える暇がない。精いっぱい、どんな仕事でも頑張って、家族を支えたい」【文・畠山哲郎、写真・川平愛】=おわり

海外難民キャンペーン 2016年度960万円を23団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2016年度の海外難民救援金960万円を国連救援機関や難民支援活動をしているNGO(非政府組織)など23団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億1463万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団▽AMDA▽シェア(国際保健協力市民の会)▽JEN▽シャンティ国際ボランティア会▽AAR(難民を助ける会)▽JVC(日本国際ボランティアセンター)▽ピースウィンズ・ジャパン▽緑のサヘル▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽マハムニ母子寮関西連絡所▽シエラレオネフレンズ▽ネパール・ヨードを支える会▽ネパール震災プリタム実行委員会▽日本国際民間協力会▽アジア協会アジア友の会▽ラリグラス・ジャパン▽ペシャワール会▽ロシナンテス

熱砂のかなたに 〜ヨルダンのシリア難民〜

 16年度の毎日新聞紙上での海外キャンペーンは、中東ヨルダンに取材陣を派遣し、隣国に逃れて暮らすシリア難民の生活を報告し大きな反響を得ました。全文を掲載します。

空爆が続くアレッポから逃れてきたサーミア・アルアリさんと長男アマールちゃん=ヨルダン・ザルカ県のアズラック難民キャンプで

とらわれの難民
ヨルダン、IS恐れ隔離

 乾いた大地から砂煙が立ち上っては消え、雲一つない青空は黄みがかっている。ヨルダンの首都アンマンを車で出発し、東に約1時間。戦車や警察車両が目に入った。シリアから逃れてきた約3万6000人が暮らすアズラック難民キャンプの入場ゲートだ。

 政府発行の取材許可証を示して通過すると、ジーンズ姿の警察官が車に乗ってきた。先に進むと、高さ3メートルほどの有刺鉄線付きフェンスが現れた。向こう側にはキャラバンと呼ばれる居住用のコンテナ。「撮影するな」。カメラを手にすると制止された。

 フェンス内には今年4月以降に入国した数千人のシリア難民が暮らす。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、このキャンプの難民は過激派組織「イスラム国」(IS)の脅威が迫るシリア北部のアレッポ出身者が4分の1を占める。「ISとのつながりがない」と警察当局が確認するまで、移動を禁じられている。

 9月末、警察当局の「身辺調査」が終わり、フェンスの外に移ったばかりのサーミア・アルアリさん(37)宅を訪ねた。空爆が続くアレッポから長男アマールちゃん(4)と2人で逃れ、3年前に出稼ぎでアンマンに出た夫を追ってきた。

 10畳ほどの薄暗いキャラバンの室内。「学校も爆撃された。夫が戻っても古里には何も残っていない」。口をつく言葉は絶望に満ちていた。キャンプの不満を尋ねると、「ここはとても良いところよ」と何度も強調した。隅に座る警官が黙々とメモを取っていた。

 数日後にサーミアさんを再訪すると、外出の許可申請のための窓口にいた。警官が離れた際に本音がこぼれた。「電気はなく夜は真っ暗。アンマンで早く夫と暮らしたいのに、いつになったら許可が下りるの」。顔を覆うヘジャブからのぞく瞳は潤んでいた。

 2011年春に始まったシリア内戦で、約480万人が国外に逃れた。隣国ヨルダンでは65万人が帰郷を願いながら厳しい生活を送る。終わりの見えない紛争に翻弄(ほんろう)されるシリア難民の子どもたちの姿を報告する。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(1) 外遊びの夢、いつ 首都で治療、待つしか

 10月に入っても日中は30度を超えるヨルダンのアズラック難民キャンプ。居住区域から数百メートル離れた共用の水道に子どもたちが集まり、持ち寄ったプラスチック製タンクを次々と満たしていく。のどを潤し、頭から水をかぶり一息つくと、タンクをかついで自宅を目指す。各家庭に水道が引かれていないキャンプの日常的な光景だ。

 父親のハサン・アリさん(36)の腕に抱かれた次女ゼイナブちゃん(4)は、親やきょうだいを手伝う同じ年ごろの子どもたちを大きな瞳で見つめていた。頭を振るたび、カールした柔らかな黒髪が揺れる。「5人きょうだいの誰よりも頑固で、他の子のように外で遊ばせるようせがむんだ。一人で歩くことはできないのに……」。ゼイナブちゃんの左足をさするハサンさんの表情は険しい。

生まれつき背骨と左足の骨がゆがんでいるゼイナブちゃん=ヨルダン・ザルカ県のアズラック難民キャンプで

 背骨がS字にゆがみ、左足のくるぶし付近の骨が内側に曲がる障害を持って生まれた。直立するとくるぶしで体重を支えなければならず、骨を痛めてしまう。背筋を伸ばせず、身長は2歳の妹と変わらない。

 シリアの病院では「手術に25万シリアポンド(約12万円)かかる」と通告された。アレッポ近郊の村にあった自宅は空爆で破壊された。建築現場での職も失い、幼い子どもたちの食事にも困る日々。シリアを出るための費用すら工面できず、手術に回す金はなかった。

 今年に入り、ゼイナブちゃんの障害を知った慈善団体からシリアを出るための寄付の申し出があった。昼も夜も爆撃機が上空を飛ぶ生活に疲れ、5月に古里を出る決心をした。トラックの荷台に、7家族が体を寄せ合ってヨルダンへ。越境を手引きする仲介者に渡す金が用意できず、国境でシリアに戻される家族を見て胸が痛んだ。

 ヨルダンに到着すれば、国連の支援ですぐに治療を受けられると信じていた。しかしキャンプの病院で「ここで治療はできない。早くアンマンの整形外科で治療を受けさせた方がよい」と助言された。キャンプを出るための許可申請を3カ月前にしたが、なぜか手続きは進んでいない。

 「コネがあればすぐに外出許可が出る」「金を渡さなければいつまでも待たされる」。キャンプ内では、さまざまなうわさが飛び交う。しかし、ヨルダンに知人はなく、貯金もないハサンさんにできるのは待つことだけだ。

 毎日欠かさないイスラム教の礼拝の準備を始めると、ゼイナブちゃんは両腕を使って左足を引きずりながらハサンさんに近付く。そしていつも同じおねだりをする。「お父さん、私の足が治るようにお祈りしてくれますか」【文・津久井達、写真・久保玲】

 ■ことば
 ◇アズラック難民キャンプ
 首都アンマンの北東部に位置するザルカ県に2014年4月、ヨルダン政府が設置した。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などが運営をサポート。14・7平方キロの敷地に約3万6000人のシリア人が暮らす。58%が18歳未満。収容者には1日1人当たり4枚のパンが配られるほか、月20ヨルダン・ディナール(約3000円)が支給され、キャンプ内のスーパーマーケットで買い物ができる。

熱砂のかなたに(2) お父さんの脚、動いた

 「イード」(犠牲祭)と呼ばれるイスラム教の祝日を控えた9月上旬、ムハンマド・ディアブさん(41)はアンマン市街の5階建てアパートの一室でベッドに横たわっていた。ズボンから伸びるチューブは床上のポリ袋に届き、尿がたまっていた。シリアの内戦で負傷し、下半身の感覚を失った。

下半身が不自由なムハンマド・ディアブさんにマッサージをする娘のバトゥールちゃん=ヨルダン・アンマンで

 下ろし立ての服で着飾り、親族や友人に新鮮な羊肉をふるまって数日間を過ごすイード。会社や学校も休みになる日本の正月に当たる祭事だが、9人家族のムハンマドさん宅はひっそりとしていた。

 「羊を買う金もないし、訪ねてくる親戚も近くにいない。シリアでは毎日人が死んでいるのに、イードを祝う気にはなれない」。視線の先のテレビでは、母国で空爆が続くニュースが流れていた。

 シリアの首都ダマスカス郊外で溶接工をしていたムハンマドさんは2013年5月、果樹園で木にもたれて仲間と語り合っていた。遠くに戦車が見えた数秒後、ごう音が鳴り響き、尻から全身に衝撃が伝わった。慌てて身を隠した民家に2発目が命中し、破片が背中を直撃。脊髄(せきずい)を傷付けた。

 政府軍と反政府軍が激戦を続ける混乱の現場で病院は見付からず、ヨルダンに向かった。弟の運転する車が政府軍の検問で止められ、反政府活動への関与を疑われたが、大けがの患部を見せて疑いを晴らした。

 家族を呼んで、14年1月からアンマンで暮らし始めた。ヨルダンのシリア難民65万人のうちキャンプで生活しているのは2割ほどで、大半はムハンマドさんのように都市部で部屋を借りて暮らす。1人当たり月20ヨルダン・ディナール(約3000円)の食費が支援されるが生活は苦しい。

 9月から公立学校に通い始めた末娘のバトゥールちゃん(7)のバス代(月約2000円)が払えず、2キロを歩いて通わせる。通学カバンは誰かが玄関前に黙って置いていってくれた。

 「施しを受けるのは恥ずかしい。親らしいことがしてやれず情けない」。ムハンマドさんがため息をつくと、同じベッドの隅で座っていたバトゥールちゃんが父の膝を曲げ伸ばし、太ももをもみほぐすマッサージを始めた。看護師をまねて自ら始めた日課で、毎日30分ほど続ける。

 バトゥールちゃんは、医師になって父のようなけが人を治すことが夢だ。「自分の名前を書けるようになったし、英語も少しは分かるの」。学校の勉強が楽しくて仕方ない。

 マッサージ中に脚がぴくっと反応した時、大きな声を上げて笑った。「お父さんの脚が動いた!」。表情を緩めたムハンマドさんが娘の頭を優しくなでた。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(3) 14歳大黒柱、学ぶ喜び

 高温の石窯をのぞくと、円形の薄い生地に塗られたトマトソースの上でチーズが溶けていく。焦げ始めのタイミングで取り出すと、焼きたての香ばしいにおいが広がった。

 ヨルダン・ザルカの下町で1枚30円ほどで売られているパン。長い柄のついたへらを操り、生地を投入するのは14歳の少年だ。この店で週7日働く。身長165センチできびきびと働く姿は大人と見間違うが、笑顔には幼さが残る。

 毎朝午前5時に出勤し、掃除や具材の準備に取りかかる。夕方まで300枚以上を焼き上げると、帽子とエプロンは小麦粉で真っ白に。12時間近く働き、1日4ヨルダン・ディナール(約600円)を稼ぐ。

連日パン屋で働きながら、サポートスクールで勉強を続ける少年=ヨルダン・ザルカで

 ヨルダンでは16歳未満の労働を禁じ、雇用主は罰金を科されることもある。ILO(国際労働機関)の調査によると、ヨルダンでは約7万5000人の子どもが農場や小売店などで働き、その中には1万人以上のシリア難民の子どもも含まれる。少年は匿名を条件に取材に応じてくれた。

 両親と姉の4人で2013年、シリア西部のホムスからアンマンに逃れた。脳梗塞(こうそく)の後遺症で左足が不自由で働くことができない父(58)に代わり、7月から働き始めた。給料は全て母に渡し、家賃の足しにしている。

 内戦の影響で学校が閉鎖され、シリアでは8歳までしか学べなかった。ヨルダンで3年ぶりに学校に通い始めたが、授業についていけず通うのをやめた。「先生が言っていることがほとんど理解できなかった。楽しくなかった」

 パン屋で働き始めた頃、自宅の近くに学力の遅れを取り戻すためのサポートスクールがあることを知った。ユニセフ(国連児童基金)がシリア難民向けに設立した。

 本来の昼休みは30分だが、週に2日だけ2時間の休憩をもらい、通うことにした。「勉強は今しかできない。お前は頭がいいのだから」。学校に行かずに10歳から働いているという経営者の男性(33)が理解を示し、背中を押してくれた。

 アラビア語、英語、数学、理科の4科目を学ぶ。小学校低学年レベルからの復習だが、学ぶ喜びを初めて感じている。「宿題をもっと出してください」とスタッフを驚かせた。

 仕事から帰ると眠くて宿題にかかれない日もある。「まだ14歳なのに、なぜこんなに苦労しないといけないの? あなたたちのせいです」。両親を責めたこともあった。

 「やめたいと思ったことは」。記者が尋ねると、ためらいなく答えた。「何度もあるけど、家族のために私がやらなければなりません。他に誰が家賃を払うのですか?」【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(4) 心に傷、曇る笑顔

 腰を落として両手を広げる父親のムハンマド・ホラニさん(44)に娘のリマールちゃん(8)が笑顔を返し、足元のサッカーボールを見つめる。松葉づえに体重を預けて右脚を引き、爪先から蹴り出した。ゆっくりと転がるボールをムハンマドさんが受け止め、優しく足元に返した。

 シリア内戦など中東の紛争で大けがをした患者の治療のため、「国境なき医師団」が運営するアンマンの病院。10月上旬、下半身を固定するギプスが2カ月ぶりに取れたばかりのリマールちゃんがリハビリに励んでいた。シャツと靴は大好きなピンクでそろえ、髪にはカチューシャ。ジーンズをはく両脚はやせ細っていた。

 シリア南西部のダルアーで暮らしていたムハンマドさん一家。昨年7月2日深夜、自宅上空に政府軍のヘリが近づいてきたが、発電機の音で気付かなかった。風呂場付近に2発のたる爆弾(バレルボム)を落とされ、長男ワリードさん(当時14歳)がムハンマドさんの視界から消えたのを最後に、辺りが真っ暗になった。

空爆で左脚を骨折し、リハビリ中にサッカーボールで遊ぶリマールちゃん=ヨルダン・アンマンで

 石壁が崩れて砂ぼこりが立ちこめる中、ムハンマドさんは家族の名を一人ずつ呼んだ。「私はここ」。消え入りそうな声を頼りに、リマールちゃんを見つけた。「息が苦しい」と繰り返す娘を抱き上げ、介抱した。

 がれきの下で見つけたワリードさんの胸は、大量の出血でキラキラと光っていた。下半身は吹き飛ばされ、既に息絶えていた。「『私の家にバレルボムが落ちた』と何度も叫んだ。私の顔は息子の血で真っ赤だった」。ムハンマドさんは目を閉じて回顧した。

 ドラム缶を利用したたる爆弾は、火薬と共に無数の金属片が詰め込まれている。リマールちゃんの左脚の付け根にはくぎなどが突き刺さり、骨を粉々に砕いた。いびつに固まった骨は放っておくと、成長と共に右脚の長さとのずれが生じるため、定期的な手術が必要だ。難民として一家でヨルダンに移住後、手術を5回受けたが完治する保証はない。

 リハビリ中、上の前歯が生えそろわぬ屈託ない表情で笑っていたリマールちゃん。初対面の人にも物おじせず、顔をゆがませて笑わせようとするひょうきんな性格だ。しかし、空爆を経験して以来、頭上を飛ぶ飛行機や街頭で警備に当たる制服姿の軍人を見ると怖がり、笑顔が消えるのだという。

 シリアでは、毎日ボールを蹴りながら通学した。亡くなった兄ワリードさんとサッカーで遊ぶのが好きだった。「昔のようにサッカーができるようになるの?」。あいまいな返事で娘をごまかす時、ムハンマドさんは終わらない内戦への怒りがこみ上げる。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(5) 「農業で自活」迷い

 アンマン南部の幹線道路を西にそれ、未舗装の悪路を進むとトマトを栽培するビニールハウスが並ぶ農場にたどり着いた。近くに立つサーカス場のようなカラフルなテントから、子どもたちの元気な声が聞こえてくる。ユニセフ(国連児童基金)が設置したサポートスクールだ。

 6〜10歳のシリア難民の子どもたち140人が通う。彼らの父母らはシリアにいた時のように農業で生計を立てるため、テントで暮らしながら農場で働いている。65家族500人が一つの集落をつくる。子どもたちも農作業に駆り出されるため、授業は午後1時から始まる。

 ユニセフによると、ヨルダンには同様のテント村が約400カ所あり、1万6000人が暮らす。シリア難民65万人の8割が都市部、2割が難民キャンプにいるが、彼らは農業で自活を目指す「第三の道」を選んだ。ただ、ヨルダン政府は「ヨルダン人の職が奪われる恐れがある」との理由から、難民が働くことを原則禁じている。正式な労働許可を得ている人はわずかだ。

農場で働きながらテントで暮らすスレイマン・アルハサンさん(奥右から2人目)一家=ヨルダン・アンマンで

 シリア西部の農村で綿や小麦を栽培していたスレイマン・アルハサンさん(64)は2014年、家族20人でヨルダンに避難。北部にあるザータリ難民キャンプで暮らし始めた。

 ところが、すぐに一家でキャンプを無断で抜け出した。「シリア人を雇ってくれる農場があるらしい」といううわさを頼りに、アンマンにたどり着いた。捕まればシリアに送還される恐れもある危険な賭けだった。

 スレイマンさんは振り返る。「何もせずにパンや食費が支給される生活が苦痛だった。ここなら貧乏でも好きな農業で食べていける。シリアと同じような生活ができることが何より素晴らしい」

 冬が迫る11月になると、住民たちはテントをたたみ、イスラエル国境に近い西部のヨルダン渓谷を目指す。温暖で水も豊富な農業の盛んな地域。3月までそこの農場で働き、再びアンマンに戻るのだという。

 サポートスクールに通う子どもたちの半分近くは公的な教育を受ける機会がなかったため、アラビア語での読み書きが満足にできない。スレイマンさんの末の息子オマルさん(16)も幼い頃から農業を手伝い、学校に通ったことがない。

 スレイマンさんと4人の息子は、月に300ヨルダン・ディナール(約4万5000円)稼ぐが、大家族が食べていくにはぎりぎりだ。「祖父も父も私も当たり前のように農業を続けてきた。でも、ヨルダンで生きていくためには、勉強して他の仕事に就くことも必要なのかもしれない」。5人の幼い孫たちの将来を思うと、自らの信念が時折揺らぐ。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(6) 渡米、戻れぬかも

 ヨルダンの玄関口、アンマンのクイーンアリア国際空港は日付が変わる頃になっても発着便が途切れない。10月初旬の深夜、フセイン・カリームさん(31)一家が現れ、トランクから大量の荷物を降ろした。8カ月から13歳まで8人の子どもたちは経由地ローマの寒さに備え、ジャンパーやコートで厚着していた。

 見送りに来た兄ジュマさん(48)は一人一人に言葉をかけた後、フセインさんと抱き合った。兄が去った後、フセインさんは、声を上げて泣き崩れた。子どもたちは父の涙を無言で見つめていた。一家は「第三国定住」という制度を利用して渡米するため、この夜ヨルダンを離れるのだ。

 シリア北部のアレッポから2013年4月にヨルダンに逃れてきた。シリア時代と同じタイル張りの職を見つけたが、月に一度も仕事が入らないこともある。四女(2)と四男(8カ月)が新たに家族に加わり、生活はますます苦しくなった。

 第三国定住は、母国に戻れない難民を避難先以外の国が受け入れて生活を支援する制度。昨年末、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から渡米を打診された。「アメリカで知っていることといえば、ニューヨークとオバマ大統領くらい。世界一の良い国なのでしょう」。なじみのない遠い国。

兄ジュマさん(右端)に見送られ、米国に旅立つフセイン・カリームさん(右から3人目)一家=アンマンの空港で

 「サウジアラビアやトルコには行けないのか」とUNHCRの職員に尋ねた。文化や宗教の違う米国で暮らすことに不安があった。フセインさんはアラブ諸国の伝統的な衣装「カフィーヤ」を頭に巻く。相手への敬意を表すためだが、奇異な目で見られないか心配だ。

 長男カリームさん(12)は「アメリカには行ってみたい。でも二度とシリアに戻れなくなるかもしれない」と父に訴えた。ヨルダンに残る兄一家や、トルコに避難した両親と再会できる保証はない。フセインさんもそれを承知で決断した。

 フセインさんと妻ガザリさん(33)は、公的な教育を受ける機会に恵まれず、アラビア語で自らの名前を書くのがやっと。子どもたちもヨルダンでは学校に通っていない。「自分たちのように何も知らない人間になってほしくない」。子どもたちの将来を第一に考えた。

 フセインさんはこの日もカフィーヤを身につけていた。自分たちのルーツを忘れないよう、普段の姿で米国の土を踏みたかった。「あとは神に頼りましょう」。期待と不安の入り交じった表情で搭乗ゲートへ向かった。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(番外編):未来、つかみ取れ

 内戦の影響でヨルダンに逃れたシリア難民の半数は子どもたち。仕事に追われたり、授業についていけず学校から遠ざかったりするケースが多い。将来シリアに平和が訪れた時、こうした子どもたちが「ロストジェネレーション」(失われた世代)となり、国を立て直す人材が不足する恐れも指摘されている。一方で逆境にも負けず、奮闘する若者たちもいる。<文・津久井達/写真・久保玲>

13歳の大黒柱 病を抱える父(36)に代わり、8人きょうだいの長兄で11歳から一家の大黒柱として働くシャヘル・ジアードさん(13)の両手。勤務先の建築事務所ではペンキ塗りも手伝うため、こびり付いた汚れは洗っても落ちない。1カ月働いても30ヨルダン・ディナール(約4500円)ほどしか稼げず、一家は家賃未払いでアパートを追い出されたばかりだ。シャヘルさんは「数学が得意だったけど、ヨルダンでは一度も学校に行っていません。もう学ぶことは諦めました。病気の父の力になれてうれしい。妹や弟のために、もっとたくましい人間になりたい」と話し、疲れた表情を緩ませた。=ヨルダン・アンマンで

◇学ぶ、古里のため

 ヨルダン・ザルカにあるビルの地下で、子どもたちの熱のこもったせりふが飛び交っていた。数グループに分かれ、自分たちのアイデアを脚本にした演劇の練習に取り組む。日本のNGOが子どもたちのトラウマを取り除くために企画したワークショップだ。

ジャーナリストに ジャーナリストになる夢を持ち、サポートスクールで勉強するドハ・ムハンマドさん=ザルカで

 身長が160センチあり、民族衣装のヘジャブからのぞく切れ長の瞳がひときわ大人びて見えるドハ・ムハンマドさん(15)は、浮かない表情をしていた。「彼女は他人に溶け込むことが苦手。自分の思いを吐き出すのをためらってしまうの」。女性スタッフが心配そうに見つめた。

 2012年12月にヨルダンに逃れてきたドハさんは、2年以上前から学校に通っていない。苦手な英語の授業でうまく発音できず、ヨルダン人の女性教師に丸めた教科書でたたかれたことがきっかけだった。

 「あなたはどうしてそんなに背が大きいのに英語ができないの」。小柄な教師がドハさんを見上げ、理不尽な理由で再びたたいた。たたかれるのは常にドハさんだけ。見せしめのようだった。シリア人として差別された気分になり、学校に行くのをやめた。

 学校で友達はできなかった。「理由はわからないけど、ヨルダンに来てから消極的になってしまったの。話しかけたいのに、私の中の何かが止めてしまう」。家に引きこもるようになり、ベランダで時間をつぶす日々が続いた。

 今年、ユニセフ(国連児童基金)が運営するサポートスクールに通い始めた。「BIKE」「BUS」「SHIP」。10月上旬、他の子どもたちと笑顔で英単語を発音する姿があった。流ちょうに話すことはできないが、好きな英語を学び直すのが楽しい。

 ヨルダンに来てから古里の内戦の行方を気にかけ、インターネットの記事を読む機会が増えた。自らジャーナリストになって、記事を書いてみたいと思うようになった。

 「私は絶対にシリアのことを忘れない。シリアに残っている人たちのことも忘れない。世界中の人にシリアのことを知ってほしい」。奥手な性格と自覚する少女が今、夢を思い描き、殻を破ろうとしている。

◇働く、家族のため

 右足のスイッチでミシンの速度を調節し、生地を左右に回しながら縫い進める手つきはおぼつかない。マフラク県のザータリ難民キャンプで、国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」が運営する職業訓練学校。首もとに採寸用のメジャーを垂らすアブダラ・カシャールフェさん(15)は今年の夏から、仕立てや縫製を学ぶ。テーラーになるのが夢だ。

テーラーに 職業訓練学校でミシンを扱うアブダラ・カシャールフェさん=マフラク県のザータリ難民キャンプで

 ごつごつした大きな手の爪の隙間(すきま)に残る細かな土は農作業によるものだ。5年前にシリアで病死した父に代わり家族5人を支えている。毎朝トラックの荷台に同僚30人と乗り込み農場に向かい、トマトやキャベツを収穫。1日7ヨルダン・ディナール(約1000円)を得る。作業のない日は買い物帰りの人たちの荷物を一輪車で運んで小銭を稼ぐ。

 「文字の読み書きができないんだ」。恥ずかしそうに明かしたアブダラさんは学校に行っていない。「長男だから家族を助けないといけない。他に誰も稼げない」と自らに言い聞かせている。

 幼い頃、マナーフさんという洋服店を経営する父の友人に憧れていた。スカートを作るのが得意で、ミシン台に座る姿がかっこよかった。だが政府軍と反政府軍の戦闘に巻き込まれ、頭を撃たれて亡くなった。「悲しくて悲しくて仕方がなかった」。葬式では号泣しながら見送った。

 訓練学校では、スマートフォンなど精密機械の修理を学ぶコースもあったが迷わずテーラーを選んだ。学校に行かず、毎日農場に通う自分の未来が開けた気がした。

 「すぐにシリアに帰るのは無理だろうね。だからキャンプで店を開きたい。大人用も子ども用も女性用も、何でも作れるテーラーになりたい」

◇進む、自分変えるため

 皮膚に傷がつかぬよう、切断した右脚の先端に包帯を巻き、義足を取り付ける。ズボンをはき、靴下をつける動作にも慣れた。ゆっくりとだが、自分の力で進むことができる。車椅子では得られない喜びだ。

 「乾ききったパンが破裂するように一瞬にして砕けたんだ」。アブドゥルサラーム・アルハリーリさん(19)は右脚を失った時のことを目を閉じて思い返した。

 
アスリートに 病院で義足を取り付けるアブドゥルサラーム・アルハリーリさん。砲弾の破片で右脚を切断した=アンマンで

 2015年3月、シリア南西部のダルアーの路地で友人たちと座って談笑していた時、戦車の砲弾が数メートル先に落ちた。閃光(せんこう)で視界が真っ白になり、甲高い爆音が耳をつんざいた。

 右脚に破片が直撃し、皮膚の一部でかろうじてつながっていた。強烈な痛みが走った。「もう終わりだ。自分はもう死ぬんだ」と悟り、直後に気絶した。運ばれた病院で太ももから下を切断した。

 4カ月後、転院した「国境なき医師団」が運営するアンマンの病院で義足を作った。シリアにはそうした施設がなかった。介助なしでは行き先が限られる車椅子。初めて義足を付けて立ち上がった時、忘れていた感覚を思い出した。今では休憩を挟めば1キロ近く歩くこともでき、階段も上れる。「自分じゃないみたいだ」。ふさぎ込んだ気分はどこかに消えていた。

 180センチを超す長身に広い肩幅。サッカー人気の高いシリアでは地元のクラブチームでミッドフィールダーとしてプレー。運動神経には自信があった。

 パラリンピックを見たことがないというアブドゥルサラームさんに、義足を付けて陸上競技で活躍するアスリートの動画を見せた。「義足でこんなことができるのですか。僕もスポーツ用の義足が欲しい。いつか挑戦してみたい」。目を輝かせ、リハビリ室に戻っていった。

◇18歳未満、半数の34万人 8万人以上、学校通えず

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ヨルダンで暮らすシリア難民約65万人のうち、52%にあたる約34万人が18歳未満。ヨルダン政府は難民キャンプ内に学校を設けるなどして、教育の機会を与えている。

サポートスクールで勉強する子どもたち=アンマンで

 しかし、国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」によると、学齢期の22万6000人のうち8万人以上が公的な教育を受けていない。理由は、貧困のため働かなければならない▽内戦の長期化で、学校から離れ学力が追い付かない▽通学費が支払えない――など。貯金のない家庭がほとんどで、労働に就く子どもたちは今後も増える見込みだ。

 ユニセフ(国連児童基金)はNGOなどと協力し、アラビア語で「私の居場所」という意味の「マカニ」と呼ばれるサポートスクールを全国で約220カ所運営する。アラビア語、英語、数学などを基礎から学べ、公立学校に編入する学力を身に着けることが目標だ。コミュニケーション能力を高めるためのプログラムもあり、「生きる力」をつけてもらうのが狙いだ。

 ユニセフのヨルダン事務所の広報責任者、ミラージュ・プラダンさんは「15歳くらいになると、教育を受けていない自分たちは難民生活を続けても未来がないと考え始める。希望をなくし、テロリストの思想に共鳴するケースもあるだろう。だからこそ若者に目を向けて、教育に力を入れることが大切。子どもたちを『ロストジェネレーション』にしてはならない」と話す。

■ことば
 ◇シリア内戦と難民

 「アラブの春」に触発されて始まった反体制デモをアサド政権が2011年3月に武力弾圧し、内戦に発展した。政権、反体制派、過激派組織「イスラム国」(IS)、クルド人勢力が互いに抗争。アサド政権はロシアやイラン、反体制派は欧米、サウジアラビア、トルコなどからそれぞれ支援を受ける。

 国連などによると、死者が25万人以上、周辺国に逃れた難民は約480万人。トルコが276万人、レバノンが101万人、ヨルダンが65万人を受け入れた。トルコからギリシャ経由で欧州を目指すシリア人も多い。欧州連合(EU)とトルコ政府は3月、欧州への密入国者をトルコに強制送還することで合意している。

海外難民キャンペーン 1080万円を24団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2015年度の海外難民救援金1080万円を国連救援機関や難民支援活動をしているNGO(非政府組織)など24団体に贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億503万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団▽AMDA▽シェア(国際保健協力市民の会)▽JEN▽シャンティ国際ボランティア会▽AAR(難民を助ける会)▽JVC(日本国際ボランティアセンター)▽ピースウィンズ・ジャパン▽緑のサヘル▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽ネパール・ヨードを支える会▽マハムニ母子寮関西連絡所▽ハイチ友の会▽日本ネパール女性教育協会▽シエラレオネフレンズ▽ラリグラス・ジャパン▽アジア協会アジア友の会▽アイキャン▽ペシャワール会▽ロシナンテス

少女たちの祈り 〜ネパールから〜

 2015年度は「最貧国で生きる女の子」をテーマに、宗教的、伝統的に女性に対する性差別が根強く残るネパールで、「女の子だから」という理由で教育の機会を奪われ、将来を制限され、厳しい環境に追いやられながらも必死に生きる少女たちを取材しました。国連が女子差別の撤廃を目指して制定した「国際ガールズ・デイ」(10月11日)の前後に「少女たちの祈り」と題した連続キャンペーンとして本紙に掲載され、読者の大きな反響を呼びました。全文を掲載します。

『国際ガールズ・デイに』

◇手の届かぬ学校 ネパールの少女

 「友達はみんな学校に行ってるけど、私は妹の面倒を見るからいいの」。今年4月25日、マグニチュード(M)7・8の大地震に襲われたネパール。今も復興は遅々として進まない。首都カトマンズに近いバクタプルで、自宅が崩壊してテント村に暮らす小学4年のアイスカ・ゴルカリちゃん(10)が寂しげにつぶやいた。本音は、違う。10月11日は国連が女子差別の撤廃を目指して制定した「国際ガールズ・デー」。だが、ネパールの少女たちは過酷な現実に直面している。【カトマンズ武内彩】

避難先のテント村で妹スミラちゃんの世話をするアイスカ・ゴルカリちゃん=ネパール・バクタプルで、幾島健太郎撮影

◇新しい制服 心待ちに

 旧王宮や寺院が並ぶ世界遺産の街として知られるバクタプル。古いれんが造りの家屋は揺れにもろく、今年4月の地震で約1万9000戸が全壊。333人が犠牲になり、美しい町並みは一変した。アイスカ・ゴルカリちゃん(10)の家も全壊し、海外からの支援でできた約250世帯が身を寄せ合うテント村で両親や妹、祖父と暮らす。

 雨期のさなかの8月末の夜明け前、テント村のそばを流れる川が降り続いた雨で氾濫した。アイスカちゃんは無事だったが、がれきの中から捜し出して大切に持っていた制服は流された。以来、好きだった学校には一度も行っていない。貧しさにあえぐ母親の姿を見て育った少女は、1500ルピー(約1700円)もする新しい制服をねだることはできない。

 ネパールを含む南アジアでは宗教的、伝統的に性差別が根強く残る。「女の子だから」という理由で兄弟が学校に通う間も農作業や家事に追われる。

 「勉強は全部得意なの。でも算数はちょっと苦手」。はにかむ少女にとって、学校に通うことは貧しさから抜け出す唯一の希望だった。

 しかし、度重なる災害が貧しさに追い打ちをかけ、教育を受ける機会を奪った。洪水後は生後9カ月の妹スミラちゃんをあやして所在なげに過ごす。「本当は先生になりたいの」。小さな声でつぶやき、力なく笑った。

 地面に座り子守をするアイスカちゃんの隣で、母のアンジェさん(30)が観光客向けの毛糸の帽子を慣れた手つきで編んでいた。一つ編めば25ルピー(約30円)の手間賃が手に入る。

 夫は病気を理由に働こうとせず、わずかに残った食器さえ売り払ってしまった。アンジェさんは「それでも夫という存在はいた方がいい」。貧しい女性が男女格差の残る社会でシングルマザーとして生きるのは困難だ。

 5年生までしか学校に通えなかったアンジェさんは「娘には教育を」と願う。「何年生まで行かせられるか分からないけれど、できるだけ勉強させたい」。少し前、外国の支援団体がアイスカちゃんに新しい制服をくれると約束してくれた。母娘は期待して待っている。【カトマンズ武内彩】

 ■ことば
 ◇国際ガールズ・デー
 「女の子だから」という理由で、十分な教育を受けられなかったり、人身売買や早婚を強いられたりする少女の状況を改善しようと、国連が2011年に制定した。国連児童基金(ユニセフ)によると、世界では初等教育を受ける年齢の少女のうち10人に1人が学校に通えず、15〜19歳の思春期の出産は年間1310万件にのぼる。国連開発計画(UNDP)の統計では、ネパールで「一度でも中等教育を受けたことがある」という25歳以上の女性は2割以下にとどまる。

約250世帯が避難生活を送るテント村で、母アンジェさん、妹スミラちゃんらと暮らすアイスカ・ゴルカリちゃん=ネパール・バクタプルで、幾島健太郎撮影

『少女たちの祈り』はじめに

◇13歳 恐れていた闇

「生理なんて、一生こなければよかったのに」。初潮を迎えたばかりの13歳の少女が自分の体に絶望していた。血を不浄とするヒンズー教の考えに迷信が重なり、生理中の女性は家族と離れ、狭くて暗い「生理小屋」での寝泊まりを強いられる。アジア最貧国の一つで、宗教的、伝統的に性差別が根強く残るネパールの山村で、生理中の女性を隔離する「チャウパディ慣習」が少女たちを苦しめている。 習慣が残るのは、開発が遅れているとされる極西部や中西部の山村。村人は「小屋に入らなければ神様が怒って悪いことが起きる」と恐れる。電気も水道もないドティ地区サラダ村では、約60軒のほとんどの家に生理小屋がある。家畜小屋として使われることもある小屋の衛生状態は悪い。

 村の学校に通うスンニタ・コリさん(13)は4日前、初潮がきたことに気付いた。年上の少女らが、夜の闇におびえながら小屋で過ごすのを見てきた。母親に「小屋に入りたくない」と泣いて頼んだが、「神様に怒られるから」と聞いてもらえなかった。「初潮がうれしいなんてとんでもない。けがれたって言われるのよ。もう元には戻れないんだから」

 ネパールでは、少女が性差別にさらされ、人身売買の被害に遭ったり、十分に勉強できないまま10代で結婚や出産を迫られたりする。社会に翻弄(ほんろう)される彼女たちの姿をリポートする。【文・武内彩、写真・幾島健太郎】

初潮を迎え、初めて生理小屋で過ごすスンニタ・コリさん=ネパール・サラダ村で

『少女たちの祈り』①

◇「生理小屋」劣悪な環境

 「生理中の人はどいて、水に触れないで」――。肌を焼く暑さの中、川でくんだ水を入れたかめを頭で支え坂道を上がってきた女性が、車座になっておしゃべりに興じていた女性たちに声をかけた。生理中の女性が触れるとけがれると信じているのだ。数年前まで徒歩でしか行けなかったというネパール極西部の山あいにあるサラダ村。ほとんどの子どもが学校に通う教育熱心な村だが、生理に対する考え方は古い因習にとらわれたまま。生理中の女性を隔離する「チャウパディ慣習」が残る。

 村では生理中の女性は、初潮時は10日間小屋に入る。2回目は8日間、3回目から妊娠するまでは6日間、出産を経験した後は5日間と決められている。出産直後も新生児と一緒に土の床に寝て過ごす。狭く暗い泥壁に囲まれ、夏は猛暑に耐え、冬はたき火で寒さをしのぐ。2年ほど前から家々にトイレが整備され始めたが、生理中はけがれるからと使えず、川の近くの茂みで用を足す。

 小屋に入って2日目のバカバティ・マジさん(17)は「自分に娘ができたら絶対に小屋には入れない」と心に決めている。別の村では、小屋にいた女性が性的暴行を受けたり、毒蛇にかまれたりしたと聞いた。それでも「自分は仕方ない。もし入るのをやめて村に何か悪いことが起きたら私のせいだと責められる」と下を向いた。

 小屋に入っている間は、日常生活のさまざまなことを制限される。冬でも朝一番に冷たい川で身を清め、男性や家畜に触れることはできない。誰かと一緒に食事をすることや栄養価の高い乳製品を食べることは、「同席した人や家畜がけがれるから」と禁止される。その一方で、草刈りや収穫など屋外での労働は普段通りだ。昨年からトイレと隣り合わせに造られた小屋に入り始めたギャヌ・マジさん(15)は「結婚してこの習慣のない村に行くしかない」とあきらめたように話す。

 生理中や出産後は清潔にすべきだと学んだ若い世代は「こんな慣習はやめた方がいい」と口をそろえる。ネパールの女性問題に詳しい福岡県立大の佐野麻由子准教授(社会学)は「4月の大地震後、生理中の女性は不浄という理由で避難所にいられなくなったという話を現地の支援団体から聞いた。宗教的な価値観は尊重されるべきだが、他人に強制されたり恐怖心をあおって守らせたりするような習慣は、時間がかかってもなくしていくべきだろう」と指摘する。

 政府の廃止に向けた取り組みも始まったが、教育を十分受けられなかった年配の世代が根拠のない迷信で少女たちを縛り続ける。3歳の孫娘を抱いたラチュ・マジさん(54)は、当然とばかりに言い切った。「孫も小屋に入れるに決まっている。習慣は守ってもらわないと困るんだよ」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

 ■ことば
 ◇チャウパディ慣習
 「チャウパディ」はネパール語で「けがれているため触れてはいけない状態」を意味する。ネパール最高裁は2005年、チャウパディ慣習は女性に対する権利侵害だと認め、政府に対して廃止に向けた具体的な取り組みを求めた。これを受けて、政府は07年にチャウパディ慣習根絶令を施行し、地方行政機関などが住民の意識改革を行うように命じた。これにより生理小屋を取り壊す村も出てきている。

泥壁の生理小屋の前に立つギャヌ・マジさん=ネパール・サラダ村で

『少女たちの祈り』②

◇故郷の歌は「心の薬」

 お釈迦(しゃか)さまはネパールで生まれたというけれど、私たちを助けるには仏様は一人じゃ足りません――。

 澄んだ声で自分で作詞したという曲を歌うパリヤールさん(18)。カトマンズの学校に通う茶色の瞳をした利発そうな少女は幼いころにインドに売られ、メイドとして働かされた。10歳で逃げ出すまで自分の名前さえ書けず、売られた時が幼すぎたため、帰るべき故郷の村の名前も覚えていない。ネパールではインドや中東などへ人身売買される少女が後を絶たない。

 パリヤールさんが幼いころ、両親は自動車事故で亡くなった。言葉を話し始めたばかりだった弟と2人で、同じ村に住む男に引き取られた。ほどなくして男は「インドに行けば勉強もできるし、新しい服も金ももらえる」と言い出した。弟は男が面倒を見ると約束してくれた。「学校に行ける」という言葉に大喜びし、将来は貯金して弟のもとに帰ろうと決めた。

 連れて行かれたのはインド・ニューデリーにある男の子が2人いる家だった。自分がいくらで売られたのかは知らない。朝4時から寝るまで家事に追われ、学校には通わせてもらえなかった。外出も近所の人と話すことも禁じられ、皿を割れば殴られた。家族の食べ残しを食べ、毛布1枚を敷いて床で寝た。弟のことを思い、村で覚えた歌を泣きながら口ずさんだ。

 数年後のひどく殴られた日の夕方、勇気を振り絞って裸足で逃げた。大きな木の上で寝ずに過ごした翌朝、通りかかった女性に警察に連れて行ってもらった。その後、ネパールで人身売買の撲滅に取り組む現地のNGO(非政府組織)「マイティ・ネパール」に保護され、同じ境遇の子どもたちと寮で暮らしながら、隣接する学校に通っている。

 マイティは2014年、183人の被害者をインドなどから救出、保護した。半数近くが18歳以下で、アヌラダ・コイララ代表(66)は「最近はインドを中継して、中東やアフリカなど世界中が人身売買の目的地になっている。家事労働の約束で連れていかれた先で性的虐待を受ける場合もある。救出された子の心の痛みに触れるたび、防がなければと強く思う」と話す。

 つらい時も寂しい時も歌に支えられてきたというパリヤールさんの夢は、音楽教師になること。「歌は心の薬みたいなもの、つらい時も歌えば元気が出るから」。消息の分からない弟に会いたいという願いを胸に、これからも歌い続ける。【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

インドに売られ、働かされていたパリヤールさん=ネパール・カトマンズで

『少女たちの祈り』③

◇希望胸にHIV治療

 「食事や洗濯をして、テレビを見て1日を終える。何も起こらない普通の生活が一番いい」。10代でインドの売春宿へ売られ、HIV(エイズウイルス)に感染した女性がつぶやいた。人身売買撲滅に取り組む現地NGO「マイティ・ネパール」が運営するカトマンズ近郊のホスピス。簡素な部屋の壁には色鮮やかなヒンズー教の神々の絵。ここでしか生きられない女性たちは何を祈るのか。

 カトマンズの喧噪(けんそう)を離れ、車で約45分。田畑に囲まれた農村の一角で、感染被害者や精神疾患を抱える10代から50代の女性31人が暮らす。看護師も住み込んでおり、マイティの活動を支援する日本の認定NPO法人「ラリグラス・ジャパン」などの協力で投薬治療も行う。

 外の世界と一線を引くように、ぴたりと閉じた鉄の門に守られたれんが造りの建物。女性らは当番制で料理や掃除をし、海外のNGOから受注したアクセサリーを作ったり、農作業をしたりして過ごす。テレビ室に集まり、映画を見るのが楽しみだ。

 17歳でマイティに保護され、HIV感染が分かったマガルさん(35)は、ネパール西部のインド国境近くの出身。11歳のころ「いい仕事がある」と声をかけてきた男女と食事中に意識を失い、気が付いた時にはインド・ムンバイの売春宿だった。客を取るのを嫌がれば意識がもうろうとする薬を注射され、店が雇ったギャングに性的暴行を加えられた。

 ある日、逃げようと外に飛び出して交通事故に遭遇。病院からの通報で保護されたが、右半身にまひが残る。薬物の影響か、会話や振る舞いは幼児のようで、家族の名前さえはっきり覚えていない。

 12年前に保護されたライさんはネパール系ブータン人。貧しさから学校に通えず、正確な年齢は不明だ。父親の仕事仲間の男にだまされて売られ、ムンバイの売春宿で約3年間、軟禁状態で働かされてHIVに感染。保護された当時の病院の見立ては「せいぜい16歳」だった。

 物静かなライさんだが、家族のように面倒を見てきたシータ(14)というエイズ孤児の少女の話をする時は目を輝かせる。シータも母子感染しているが病状が安定しているため、ホスピスを出てマイティの子ども寮で暮らし、学校に通う。ホスピスでの朝晩の投薬治療なしには生きられないライさんにとって、外の世界に羽ばたいたシータは希望だ。「シータには好きなことをして自由に生きてほしい。それが私の願いです」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

インドの売春宿で働かされ、HIVに感染したマガルさん=ネパール・カトマンズで

『少女たちの祈り』④

◇難民 夢追い新天地へ

 「古里を去るのは寂しい。でも、持って出ようと思うものは何もないわ」。ネパール東部ダマクにある「ブータン難民キャンプ」を出て、米国で新しい人生を始めようとするマンマヤ・ブジェルさん(20)はそう言い切った。「幸せの国」といわれるブータンでは1980年代後半、民族主義的な政策から、政府が言語や宗教の異なるネパール系住民を弾圧し、10万人以上がネパールに逃れた。キャンプで生まれた若い世代は、ブータンやネパールではなく、米国やカナダなど第三国での定住に希望を託す。

 森を切り開いてできたキャンプは時間の経過とともに周辺集落との境界もあいまいになり、難民と村人が自由に行き来する。双方からの買い物客でにぎわうキャンプそばの通りには、先に米国などに移り住んだ親類からの送金を受け取る銀行の窓口が並び、最新型のスマートフォンも手に入る。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が2007年から進める難民の第三国定住で、これまでに約10万人が新しい生活を始めている。

 一方、現在も約2万人が暮らすキャンプ内の住居は、竹を編んだ質素な小屋だ。両親と暮らすマンマヤさんの自宅も日中は竹の隙間(すきま)から薄い光が差し込むが、住居が密集しているため風は通らない。このキャンプで生まれ育ち、ブータンの言葉は簡単なあいさつができる程度。親の世代とはブータンに対する思いも違う。「何人かと聞かれればブータン人だと答えるけど……。帰りたいと思ったことはない」

 キャンプ内の学校で10年生を修了後、両親が野菜などを売って工面してくれた学費で、ダマクの町にある学校に進学した。昨春に優秀な成績で卒業したが、難民にはネパール国内での就労権は認められておらず、まっとうな就職先はない。「努力しても難民の私にはチャンスすらない」と話す。

 マンマヤさんと両親は、祖父母や姉(23)が先に暮らす米テキサス州での定住を希望し、UNHCRによる審査結果を待つ。友達の多くは既に第三国に旅立った。定住先で高校に通いながら英語を勉強していると電話で聞くたび、取り残されたようで焦る。米国でなら、夢である看護師になれるかもと期待するが、「20歳になってしまったから学校に入るのは無理かもしれない」と不安も感じる。

 両親は娘の将来を案じて母国への未練を断ち切った。マンマヤさんも新天地に懸けている。「チャンスはあるはず。言葉の壁なんて努力で乗り越えてみせる」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

竹で編まれた自宅の部屋で過ごすマンマヤ・ブジェルさん=ネパール・ダマクで

『少女たちの祈り』⑤

◇諦めず学ぶ心伝えたい

 「どんなことがあっても勉強は続けたかった。学ぶのを諦めようと思ったことは一度もないです」。学費工面のため石運びの仕事にも就いたことのあるゴマ・ガレさん(18)は今夏、これまでの努力が認められ、ネパール第2の都市ポカラの学校で奨学生として学び始めた。卒業したら古里の村に帰って小学校の先生になるつもりだ。

 ゴマさんが生まれたのは、ポカラから徒歩とバスで3日かかるというゴルカ地区ケロンガ村。両親は幼い頃に亡くなった。6歳上の兄が結婚したのを機に6年生のときから実家を出て、少数民族や低カースト出身の貧しい少女が暮らす寮に入った。政府が無償で食事と寝る場所を提供するが、約120人が暮らす寮では2段ベッドが押し込まれた部屋で30人が寝起きし、人数が増えればベッドも共有したという。

 ゴマさんの兄は自分の家族を養うために2年前からマレーシアに出稼ぎに行き、警備員として働く。インフラ整備が遅れる山間部では、海外への出稼ぎは主要な「産業」だ。兄はわずかながらも妻子に仕送りをしているが、ゴマさんの面倒までは難しい。ゴマさんは今春、10年生を修了して寮を出ることになったが、どうしても進学を諦めきれなかった。

 そのため自分で学費をためようと、実家から徒歩で2日かかる町の建設現場で、住み込みの石運びの仕事を見つけた。竹で編んだかごに石を入れ、通したひもを頭と肩で支えて運ぶ。午前7時から午後5時まで、途中1度の食事休憩以外は働きづめだ。身長150センチほどのゴマさんの両肩の皮膚はすぐにはがれた。1日500ルピー(約600円)にしかならず、「このまま石運びをして一生を終えるのかも」という不安が頭をよぎったという。

 救ったのは、現地で女子教育の普及に取り組む認定NPO法人「日本ネパール女性教育協会」(東京)だ。学校在籍時に成績優秀だったことから、今年7月、推薦を受けて奨学生に選ばれた。ポカラにある同協会の学生寮で暮らし、無償で2年間の高等教育を受けられることになった。また勉強できると分かった時は、うれしくて涙が出た。

 石運びでためたお金で買ったという真新しいリュックサックにわずかな着替えだけを詰め、ポカラにやって来た。都会暮らしに戸惑うこともあるが、同じような境遇の仲間と教師を目指して頑張っている。「ケロンガに帰ったら優しい先生になりたい。次は私が村の女の子たちにしっかり勉強するように教えるつもり」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=おわり

笑顔で手を振り「行ってきます」。寮から登校するゴマ・ガレさん(中央)ら=ネパール・ポカラで

海外難民キャンペーン  980万円を22団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2014年度の海外難民救援金980万円を国連救援機関や難民支援活動をしているNGO(非政府組織)など22団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は15億9423万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽AMDA▽シェア(国際保健協力市民の会)▽JEN▽シャンティ国際ボランティア会▽全国社会福祉協議会▽AAR(難民を助ける会)▽JVC(日本国際ボランティアセンター)▽バーンロムサイ▽ピースウィンズ・ジャパン▽緑のサヘル▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽ネパール・ヨードを支える会▽マハムニ母子寮関西連絡所▽ハイチ友の会▽CODE海外災害援助市民センター▽シエラレオネフレンズ▽ペシャワール会▽ロシナンテス

「見えない鎖」 ハイチ・ドミニカ報告

「西半球の最貧国」と呼ばれるカリブ海の島国ハイチでは、子どもたちが、より豊かな隣国ドミニカ共和国に売られるケースが後を絶ちません。大半は親や親戚によってわずか数千円から数万円で売られていきます。売られる先はさまざまですが、大半は学校にも通わせてもらえず、路上で物乞いや靴磨きをさせられたり、家事を強制されたりします。一方、仕事を求めて自らドミニカに渡る子どもたちもいます。しかし、働く場所がなく、路上で生活する過酷な現実が待っていることも少なくありません。さまざまな思いを抱き国境を越える子どもたち。彼らの姿に迫りました。
【文・松井聡/写真・望月亮一】

僕は奴隷

明かりを取り込む窓から、外を見つめるラルフ・ジャン・バプティスト君

 暗く蒸し暑い部屋の窓からラルフ・ジャン・バプティスト君(13)は外を眺めていた。視線の先にはボールを蹴る子どもたちの姿がある。笑い声も聞こえる。「他の子はおなかいっぱい食べられて、遊べて学校にも行ける。でも僕は、そういうことはできないんだ」

 カリブ海の島国、ハイチの首都ポルトープランス。スラムの一つ、ソリノ地区でラルフ君は*レスタベック(子ども奴隷)として暮らしている。2010年の大地震で両親を失った。この暮らしの始まりだった。

 「朝7時に起きて、水くみ、家の掃除、買い出し、洗濯……。夜10時に寝るまでずっと働いている。食事は1日に1回で、少しのパンしかもらえない。働かないと、ものすごく怒られる」

 ラルフ君はポルトープランス近郊で生まれた。一人っ子で可愛がられ、学校にも通っていた。9歳の時に地震が起き、知り合いの家を訪れていた両親は倒壊した民家の下敷きになった。自宅にいたラルフ君だけが助かり、親戚に預けられた。

 学校に通わせてもらえず、朝から晩まで家事をさせられた。食事をもらえず、欲しがると、親戚から電気コードや木の棒で繰り返し、たたかれた。体には今もいくつかの小さな傷が残る。

 1年後、虐待されていることを知った叔母(43)が引き取った。しかし、暴力を振るわれることこそなくなったが、期待していた学校へは行かせてもらえず、朝から晩まで家事をする日々は変わらなかった。叔母の家族5人はベッドで寝るが、彼だけコンクリートの床で寝かされている。

 ラルフ君の家を訪ねた。15平方メートル程度の部屋には大きなベッドやバイク、日本製のテレビが置いてある。叔父(44)は警備員で月6800ハイチグールド(約1万5000円)の収入があるといい、平均月収が4000円程度のスラムでは裕福な方だ。

 そんな家で、ラルフ君が一番つらいのは朝だ。一緒に暮らす叔母の長女(7)を学校に送り出す。「悔しさと悲しさが込み上げてくる。こんな生活から逃げ出したいけど、逃げる場所もないんだ」

*レスタベック
 貧しさなどから子どもを養育できない親が、他人に預けること。フランス語の「Reste avec(一緒にいる)」から派生したハイチ・クレオール語。「子ども奴隷」や「奉公奴隷」と呼ばれる。大半は食事を満足に与えられないうえ学校にも通わせてもらえず、家事や労働を強制される。暴行や性的虐待を受けるケースも少なくない。米国務省などによると、ハイチ全土で50万人に上るともいう。

同い年の登校姿に涙

床を拭くジュデリーヌ・ドゥシールさん。毎日朝5時から働きづめだ

 今にも崩れそうなトタン屋根の家で、一人の少女がしゃがみ込み、コンクリートの床をタオルで磨いていた。ジュデリーヌ・ドゥシールさん(12)。ハイチの首都、ポルトープランスのソリノ地区にある叔母の家で暮らすレスタベック(子ども奴隷)だ。「学校に行かせてくれるという約束で3年前に叔母の家に来ました。でも、まだ行かせてもらえません。一日中働かされてばかりです」

 ハイチ西部の村で生まれた。9人きょうだいの3番目で一家は貧しく、小学校には通えなかった。路上で物売りをする両親の代わりに家で弟や妹の面倒を見ていた。

 ある日、父が言った。「叔母さんがお前を学校に通わせてくれると言っている。行ってみるか」。英語教師になることが夢だったジュデリーヌさんは「もちろん。絶対に行きたい」とすぐに答えた。数日後、「教師になり家計を助けたい」と期待に胸膨らませ、叔母の家にやってきた。しかし、現実は過酷なものだった。

 毎朝5時に起き、1時間以上歩いて泉まで水をくみに行く。バケツの重さは20キロにもなる。帰ってすぐ朝食を作り、その後は洗濯、掃除、買い出しと寝るまで働きづめだ。食事は1日1食、朝のパンとコーヒーだけ。寝るのも一人だけ床だ。

 記者が家で話を聞いていると、叔母(28)が外出先から帰宅した。一瞬戸惑ったような表情を見せた。記者が「なぜ学校に通わせるという約束を守らないのか」と尋ねた。叔母は「学校に行く意味はない。生きていくために家事の訓練をしてあげているのに、文句を言われる筋合いはない」と言い放った。

 「同い年の子が学校に行くのを見ると、涙が出る。実家に帰るお金もない。今の生活を抜け出したいけど、手足を縛られているようなもの」。床磨きを終えると、ジュデリーヌさんはそう言い、買い出しのためスラムの雑踏に消えていった。

隣国に売られ、路上へ

路上で生活するジュニオール・ディステニー君。靴磨きの客を待つ間も、ネオンや車のライトが彼を照らし続ける

「お前を売って本当にすまなかった。苦しい思いをさせてしまった」

 カリブ海最大級の都市、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴ。ジュニオール・ディステニー君(17)は、電話口で泣きながら謝る父の言葉を聞き、路上で大粒の涙を流した。ハイチの貧しい田舎から、ドミニカ共和国の大都会に売られて以来、12年ぶりに聞く父デネールさんの声だった。

 6月下旬の夜9時過ぎ。高級ホテルやカジノが並ぶ海沿いの通りにジュニオール君はいた。観光客を見つけては駆け寄り、慣れた手つきで靴を磨いていた。「なぜ、ドミニカに来たの?」「父が売ったんだ」

 ドミニカ共和国とハイチの国境近くの町に生まれた。5歳の時、病気がちだった母の治療費数千円のため、父がドミニカ共和国に住む「ビキアンヌ」という名のハイチ人女性に売った。「トラフィッカー」(密入国あっせん業者)の男と一緒に国境を越え、サントドミンゴに着いた。

 ジュニオール君がビキアンヌの家に着くと他に数人のハイチ人の子どもがいた。ビキアンヌはハイチの貧しい家庭から子どもを買い、路上で物乞いをさせ金を巻き上げていた。「やめて。次はもっとお金を持ってくるから」。稼ぎが少ないと、ビキアンヌは自転車のチェーンで顔や体を容赦なく殴った。「地獄そのもの」だった。

 そんな生活が5年も続いた。ある日、我慢が限界に達した。家を飛び出し、半日以上、裸足で走り続けた。以来7年間、この通りで靴磨きや日雇いの建設労働をして暮らす。

 3カ月前、同郷の知人を通じて父の携帯電話の番号を知った。友人から電話を借り、売られて以来初めて話した。謝罪を繰り返す父に、涙で言葉を詰まらせながら「許す。許す」と何度も答えた。

 「これまでの人生は生きる意味がなかった。でも父と話してモヤモヤしていたものが取れた気がする。いつかお金をためてハイチに戻りたい」。そう言って笑顔を見せ、再び靴磨きに向かった。

 ユニセフによると、ハイチからドミニカ共和国に売られる子どもは年に2000人以上いる。ハイチの子ども保護機関が国境で監視しているが、トラフィッカーと一緒に密入国する子どもは後を絶たない。

 100人以上子どもを密入国させたトラフィッカーの男(36)は取材に「山を越えればいくらでも密入国できる。子どもを売る親がいる限り俺たちの商売は安泰だ」と自慢げに話した。

帰れぬ家、捨てた名前

仲間と車を掃除するブルース・リー君(手前左)。つらい境遇のなか、「強くないと生きていけない」と懸命に働く

 ハイチの首都ポルトープランス中心部にあるシャンドマルス広場。緑色の芝生が広がる公園に車が近付くと、10人近くの少年たちが走って車を囲み、手にした雑巾で勝手に車を拭き始めた。広場で暮らすストリートチルドレンたちだ。車を拭くとわずかなチップをもらえることがある。それが生活の糧だ。

 一人の少年が額に汗をにじませ、必死に手を動かしていた。ブルース・リー君(14)。レスタベック(子ども奴隷)から逃げ出し、路上で生活していた。ストリートチルドレンたちは、互いにニックネームで呼び合う。「暗い過去の人生と決別するため」という。

 ブルース君も往年のカンフー映画のスターから名前を取った。ハイチでも根強い人気がある。「ここでは簡単にみんな死んでいく。ブルース・リーみたいに強くないと生きていけないんだ」

 ポルトープランス近郊で生まれたが、家は貧しかった。7歳でレスタベックとして両親の知人の女性に預けられた。一日中、掃除や洗濯などの家事をさせられ、食事を与えられなかった。食べ物を求めると、女性から毎日木の棒や電気コードで思い切り殴られた。

 「逃げるしかない」。1週間ほど過ぎたある朝、裸足で逃げ出した。足の裏に血をにじませながら約2時間走り、やっとの思いで実家にたどり着いた。しかし、待っていたのは思いがけない父の一言だった。

 「うちにお前を育てる金はない。分かっているだろ。戻ってくれ」

 父の一言に、目の前が真っ暗になった。行き場所は路上しかなかった。それ以来、本名を捨て、7年間物乞いをしたり、車を拭いたりして生活している。食べ物にありつけない日も多く、身長は140センチほどしかない。

 「ここでの生活は本当につらい。僕らのことを良く思っていない人が多いんだ。酔っ払いやドラッグでおかしくなった連中がコンクリートブロックで殴ってきたり、銃で撃ってきたりする」。広場の木の下のベンチで寝る時は、襲われても反撃できるよう護身用の石を頭の横に置いている。

 ブルース君には夢がある。「れんが積み職人」になることだ。時間があると工事現場に行き、作業を見ている。「いつか自分も職人になって、こんな路上の生活から抜け出したい」

 れんが積み職人になりたい理由をたずねると、彼は黙った。しばらくして言った。「父さんが職人だったから」。うつむき、目には涙があふれていた。

国籍なし、職に就けず

マセリーヌさんは涙を流し、言った。「私はドミニカ人でもハイチ人でもない。早く自分の居場所を見つけたい」

 「私には国籍がありません。出生証明書や身分証もない。仕事に就けないんです」

 白い砂浜が続くドミニカ共和国のリゾート地ボカチカ。町外れにハイチ出身者のための集会所がある。6月下旬の日が沈みかけた頃、友人と話し込む少女がいた。マセリーヌ・ルイさん(17)。8年前、ハイチの貧しい家庭からボカチカの叔母に売られた児童売買の被害者だ。虐待から逃げ出したが、パスポートも在留許可もないままに暮らしている。

 ハイチの首都ポルトープランス近郊で生まれた。5人きょうだいの長女だった。一家は貧しく、両親が出生届を出さなかったためハイチの国籍もない。9歳でボカチカに住む叔母に売られた。「稼ぎが少ない。何でもっとできないの」。毎日朝から晩までビーチで物売りをさせられ、売り上げが少ないと、電気コードや木の棒で体中を何時間もたたかれた。

 「もう耐えられない」。数カ月後、物売りに行くふりをして逃げ出した。行く当てがなく、路上で暮らした。物乞いは恥ずかしくてできず、飲食店の残飯をあさって食いつないだ。「こんなところで寝ていたら危ないわよ」。1週間ほどたった頃、福祉関係で働く女性に声をかけられた。「神は見捨てていなかった」。心の底からそう思った。女性の計らいで孤児院に入り、初めて学校に通えた。

 しかし14歳の誕生日を前に年齢制限から孤児院を出ることに。行き場所がなく、再び路上で生活を始めた。そんな生活から救ったのは友人から紹介された男性、ジャン・ピエールさん(21)だった。境遇を知ったハイチ人の彼との交際が始まり、ボカチカの彼の家で一緒に暮らし始めた。

 ただ、就職難は変わらない。「身分証明書かパスポートがないと雇えない」。マセリーヌさんは何度もスーパーの売り子や飲食店店員などの仕事に就こうとしているが、断られ続けている。「きちんと給料がもらえる仕事には就けない。残されているのは売春婦かドラッグの売人くらい」

 ドミニカにはこうした国籍やパスポートを持たないハイチ人が30万人以上いるとされる。ハイチ政府は今月から、ドミニカ共和国に住むハイチ出身者に出生証明書やパスポートを交付する政策を始めたが、申請者全員が対象になるか、不透明だ。

 

海外難民救援キャンペーン 「瞳輝くまで」ブルキナファソ報告

キャンプ内の病院の待合室でぐったりとする男の子=ゴーデボー難民キャンプで

 反政府武装組織の蜂起に端を発する西アフリカのマリ北部紛争は、2013年1月にフランスが軍事介入して収拾の様相を見せていますが、周辺国にはなお17万人を超す難民がいます。

掘削作業に従事する少年の目は、粉じんで真っ赤に充血している

 海外難民救援キャンペーン35年目の13年、マリの隣国の一つであるブルキナファソに取材班を派遣しました。

 日中の気温が40度を超える、ブルキナファソ北部のゴーデボー難民キャンプは、絶えず砂ぼこりが舞っていました。キャンプにはトゥアレグ族の約1万人が暮らしていますが、難民の多くは報復におびえ、帰郷のめどが立っていません。

 金鉱では、深さが20メートルにもなる縦穴の底で、収入を補うために少年たちが採掘作業に従事していました。

 難民の帰還が実現するまでには、まだまだ息の長い支援が必要です。

穴から掘り出した岩石を運ぶ少年たち

「あすを信じて」カンボジア・エイズ禍報告

簡易ベッドでぐったりする3歳男児。目はうつろで、体重は10キロしかない

 カンボジアの首都プノンペン郊外の養護施設には、エイズウイルス(HIV)に感染した0〜22歳の孤児ら約240人が暮らしています。

 母子感染したクリス君は生後間もなく、施設に引き取られました。エイズ感染を意識し始めた最近は、施設スタッフに「僕は何のために生まれてきたの?」と漏らすようになりました。カンボジアはHIV感染が深刻な国の一つ。母子感染した子供たちは偏見に苦しみ、感染しても貧困から身を売る女性が絶えません。感染の連鎖は続いています。

生後間もなく保護された女児には両親の記憶がない。ほとんど笑うことがなかった