海外難民救援
海外難民救援金 2025年度 800万円を13団体に贈呈
毎日新聞の2025年度「海外難民救援キャンペーン」は、皆様から寄せられた1090万円を21団体に贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京社会事業団、毎日新聞大阪社会事業団、毎日新聞西部社会事業団が海外飢餓・難民救援キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに助成した救援金の合計金額は17億4288万8344円になりました。このうち、毎日新聞東京社会事業団は2025年度に寄せられた海外難民救援金800万円を世界各地で支援活動をしている国連救援機関や非政府組織(NGO)など13団体(※印)に贈呈しました。
贈呈先は以下の通りです。(順不同)
NPO法人 国連UNHCR協会(東京都)※
NPO法人 国連世界食糧計画WFP協会(東京都)※
公益財団法人 日本ユニセフ協会(東京都)※
NPO法人 国境なき医師団日本(東京都)※
NPO法人 日本国際ボランティアセンター(東京都)※
NPO法人 難民を助ける会AAR Japan(東京都)※
NPO法人 シェア=国際保健協力市民の会(東京都)※
NPO法人 AMDA(岡山県)※
公益社団法人 シャンティ国際ボランティア会(東京都)※
NPO法人 ワールド・ビジョン・ジャパン(東京都)※
NPO法人 難民支援協会(東京都)※
NPO法人 緑のサヘル(東京都)※
NPO法人 バーンロムサイジャパン(神奈川県)※
NPO法人 テラ・ルネッサンス(京都市)
アフガニスタン女性支援プロジェクトEJAAD JAPAN(大阪府)
一般社団法人 こころのケアまごころ(福島県)
NPO法人 湘南とアジアの架け橋(神奈川県)
ネパール震災プリタム実行委員会
一般社団法人 モザンビークのいのちをつなぐ会(北九州市)
ペシャワール会(福岡市)
NPO法人 ロシナンテス(北九州市)
(2026年4月)
海外難民救援キャンペーン2024年度
流民に光を・ウガンダから 172万人、裂かれた夢
赤茶けた大地が見渡す限り広がり、居住用の小さなテントが点在する。アフリカ東部の内陸国・ウガンダには、紛争などで周辺の国々を追われた人たちが大量に流入している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、10月末時点で172万人。アフリカ最大、世界有数の難民受け入れ国として知られる。
10月下旬、ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区で、スーダンから逃れてきたネイマットさん(31)が沈痛な表情を浮かべた。「あの出来事を思い出すだけでひどく胸が痛む」
ウガンダの北にあるスーダンでは2023年4月、政府軍と、政府系の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」による内戦が勃発。一般国民を巻き込み、UNHCRによると、人口約4600万人中、約1100万人が家を追われた。紛争地のデータ収集を行う米NPO「ACLED」は2万7000人以上が犠牲になったとしている。しかし、ウクライナや中東での戦争に埋もれ、「忘れられた紛争」と呼ばれる。
ネイマットさんは内戦の混乱下で夫(41)を殺害された。幼い子どもたちを連れウガンダに逃れたが、一息ついたのもつかの間、住まいのテントが何者かに切り裂かれた。「スーダンで起きている真実を知ってほしい」。彼女は凄惨(せいさん)な体験を語り始めた。
◇絶望の淵で「食料品店営みたい」
平穏な日常は突然の襲撃で断ち切られた。アフリカ北東部スーダンでは2023年4月に始まった軍事衝突が国民に悲劇をもたらしている。
「親戚と連絡さえ取れず、誰も頼ることができない」。祖国スーダンを逃れ、ウガンダに身を寄せるネイマットさん(31)は嘆く。
10年ごろ、幼なじみでいとこのアダムさんと結婚。優しく、信心深い性格を愛し、けんかをしたこともなかった。2男2女に恵まれ、夫が営む食料品の小売店は経営が上向き、首都ハルツーム近郊で充実した日々を送っていた。
スーダンでは23年4月15日、政府系の準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」が反乱を起こした。要員や装備を強化して政府軍に準じる役割を任されていたが、近年、政府軍への編入を巡って権力争いが激化していた。
戦闘開始から間もなく、夕食後に突然外から男性の怒声と大勢の足音が聞こえてきた。銃を携えた覆面姿の男たち約20人が敷地の塀を乗り越え押し入ってきた。
アダムさんは両脚を銃で撃ち抜かれ、ネイマットさんは銃で腹部などを殴られた。「なぜそんなことをするんだ」。アダムさんはそう叫んだ瞬間、家族の面前でナイフで首を切られ、大量に出血して絶命した。「彼らには慈悲がなく、神さえ恐れない。人間ではない」と怒りを込める。
「家にある全財産を渡せ」。脅されたネイマットさんは家にある金銭や販売用の商品などをかき集めて渡した。「これで解放される」。しかし、蛮行は終わらず、鎖で手脚を縛られて全裸で寝室に監禁された。飲食物は与えられず、10人を超える男たちに連日暴行を受けた。数日後、意識を失い、気付いた時には病院のベッドの上だった。「ショックで全身の感覚が失われ、声すら出なかった」と嘆く。
ネイマットさんが後に長男ファリスさん(12)から聞いた話によると、自宅は約20日間占拠された後、男たちが気絶したネイマットさんと、監禁されていた子どもたち、そしてアダムさんの遺体を車で遠く離れた路上に運び、放置したという。ネイマットさんは残虐な手口から男たちがRSF以外にないと考えている。
次男フォウジさん(10)は父親が面前で殺されたショックで家の裏口から飛び出し、今も行方が分からない。ネイマットさんは「あの子のことを考えない日はない。でも今の私にはどうすることもできない」と涙を浮かべる。
安全のため2~12歳の子ども3人を連れて隣国・南スーダンに逃れた。避難生活を送る中で、「ウガンダなら難民でも安心して暮らせる」といううわさが耳に入った。貨物バスの隙間(すきま)に乗せてもらうなどして、24年7月、ウガンダ中西部のキリヤンドンゴ難民居住区にたどり着いた。
居住区は難民がウガンダの人たち(ホストコミュニティー)と同じ地域で共生できるよう政府が国内各地に設置しており、居住・耕作用の土地が提供される。キリヤンドンゴは地元民約73万人と難民約13万人が暮らす。
「人生をやり直せる」。しかし、翌8月、就寝中、何者かにテントを切り裂かれた。危険を感じて今は隣人のテントの一角で寝泊まりをさせてもらっている。
スーダンの自宅での襲撃の際、銃で殴打された後遺症か、腹部は膨れ上がっている。少し重い物を持つと激痛が走る。居住区の医療施設には検査機器がなく、設備の整った私設病院に行こうにも交通費や治療費が払えない。
そんな絶望の淵にあっても一つの夢がある。少しずつお金をためて食料品の売店を開くことだ。生計を立てる以外に大切な理由があるという。「食料品店は夫がスーダンで営んでいた。夫の思いを継ぐことで、残された子どもたちと、夫を思い出しながら強く生きていける気がするから」【キリヤンドンゴ郡悠介、写真・滝川大貴】
◇海外難民救援金募集
毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団は、紛争や災害、貧困などで苦しむ世界の人たちを支援する救援金を募集します。郵便振替か現金書留でお寄せください。物品はお受けできません。紙面掲載で「匿名希望」「掲載不要」の方はその旨を明記してください。
【北海道、東日本の方】
〒100―8051(住所不要)毎日新聞東京社会事業団
「海外難民救援金」係(郵便振替00120・0・76498)
【西日本、中部の方】
〒530-8251(住所不要)毎日新聞大阪社会事業団
「海外難民救援金」係(郵便振替00970・9・12891)
【九州、山口県の方】
〒802―8651(住所不要)毎日新聞西部社会事業団
「海外難民救援金」係(郵便振替01770・2・40213)
(2024年11月)
ウクライナ報道の本紙写真がグランプリ
東京写真記者協会(新聞、通信など36社加盟)による今年の報道写真グランプリの協会賞に、毎日新聞社の小出洋平記者がロシアによる侵攻でポーランドへ避難したウクライナ難民の姿を捉えた「ウクライナの空を思う」(写真)が選ばれました。同協会が11月25日、協会賞をはじめ各部門賞などを発表しました。
当事業団が展開している世界の飢餓、貧困、難民などを救援する「海外難民キャンペーン」の一環として、毎日新聞社が緊急取材をしました。 今年の報道写真受賞作など約300点を集めた「2022年報道写真展」は、12月14~24日、日本橋三越本店で開かれます。入場無料。
「ウクライナ侵攻」難民救援キャンペーン
毎日新聞と毎日新聞社会事業団による「海外難民救援キャンペーン」としてポーランドに取材チームが入り、戦火を逃れたウクライナ難民の現状を随時掲載しました。新聞に掲載された全文と全写真を紹介します。以下すべて【文・平野光芳、写真・小出洋平】(見出し後のカッコ内は掲載日)
「元の生活、戻りたい」 手荷物わずか、母子脱出 (3月15日)
ウクライナ西部に隣接するポーランドの国境の町、メディカ。13日朝、国境検問所を歩いて越えてきたオレナ・ジンチェンコさん(30)の長女ヤロスラバちゃん(4)は、ボランティアからぬいぐるみを受け取ると久しぶりに明るい表情を見せた。
「おもちゃも教科書も学用品も何も持ってこられなかったんです」とオレナさん。ウクライナ南部クリビリフで、エンジニアの夫と小学2年生の長男イエゴールさん(8)の4人で暮らしていた。仕事はスーパーのレジ係。「住まいや子供たちの学校、幼稚園にも満足していました」
しかし2月下旬に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻で生活は一変した。クリビリフの空港もロシア軍の爆撃を受け、約20キロ離れた自宅までごう音が響いた。「ここでは安全を確保できない」。そう考えたオレナさんは脱出を決意。ウクライナでは現在、18~60歳の男性の出国が認められていないため、避難者の多くは女性や子供だ。家族が離れ離れになるのは苦しかったが、オレナさんらは母子だけで11日に避難を始めた。
クリビリフから西部リビウに向かう電車は避難客で大混雑し、大型の手荷物は持ち込めなかった。リュックに詰め込んだのは母子3人の1~2日分の着替えだけで精いっぱい。リビウ到着後は、知人に車で国境まで送ってもらった。今後はポーランドで暮らす親族の手助けで仮住まいに移る。
子供が教育を受ける機会を失ったのが残念でならないという。「夫の安全が心配です。子供たちも『早く家に帰りたい』と話しています。ただ元の生活に戻りたいだけなのです」。オレナさんは手で涙を拭った。
検問所前には約150メートルにわたり、援助団体などが設置した無料の屋台が並ぶ。ピザやスープといった食事が振る舞われ、医療品やおむつ、粉ミルク、離乳食、おもちゃも配布される。わずかな手荷物で避難してきた母子が次々と手に取っていた。
検問所近くの路上では、生後3カ月という男児がベビーカーの中で寝ていた。ウクライナ中部から避難してきたボロニナ・バレンティナさん(32)の五男ムイコラちゃんだ。ボロニナさんは9歳までの6人の子供をバスに乗せて移動し、13日未明に国境を越えたばかり。「出入国手続きの際、子供たちが散らばらないようにするのが一番大変でした」。疲れ切った表情だが、子供たちは配布された人形や車のおもちゃを手にしてはしゃいでいる。「通信状態が悪く、家に残る夫とはなかなか連絡が取れません。心配です。戦争は大嫌いです」
「露軍の恐怖よみがえる」 71歳、暗闇と寒さに耐え脱出 (3月17日)
真っ暗な部屋でただ一人、ロシア侵攻の恐怖と氷点下の寒さに耐えた。「電気も水道もガスも壊されて来なくなりました。暖房が使えず、ろうそくすらありませんでした。3日間続きました」。戦禍のウクライナ南部ニコラエフ郊外から国境を越え、友人らとポーランド南東部メディカに逃れたタチアナ・ドフチェンコさん(71)は振り返った。
ロシア軍の侵攻が始まった2月24日以降、自宅の近くにも爆弾が落ち、窓ガラスが爆風で壊れた。「自宅周辺の地区がロシア軍に包囲され、外に出られなくなりました」。インフラが破壊され、1人暮らしの高齢者がとても生活できる状況ではない。見かねた親族が車を出し、危険を冒して包囲網を突破した。1000キロ近い距離を電車や車を乗り継ぎ、3月12日にメディカに到着。国境検問所近くの体育館に設けられた避難所でようやく一息ついた。
避難所には簡易ベッドで数百人が寝泊まりし、ここから親族や知人、援助団体を頼って別の場所に移動する人が多い。無料で食事や衣類が手に入り、常駐するカウンセラーが避難者の心身にも気を配る。ただ子供たちが大声を上げたり、どたばたと走ったりすることもある。「そんな音ですら怖いと思ってしまいます。自宅で経験した爆発の恐怖がよみがえってくるのです」。長女が暮らすイタリアに向かうという。
ドフチェンコさんの近所に住み、一緒に逃れてきたエリザベス・ドラグシニエッツさん(61)は、故郷に残る息子家族のことが片時も頭から離れない。連日の爆撃が恐ろしく「危ないから一緒に逃げよう」と説得したものの、家族は「ウクライナ軍がすぐに勝つから大丈夫だ」と信じて動かなかったという。「今は自分だけ避難してしまったことに罪悪感を覚えます」。こらえきれずにすすり泣いた。
ドラグシニエッツさんの母方はロシア出身で、自身もロシア語が堪能だ。しかし「ロシア軍を憎みます。もうロシア語は話したくない」。穏やかだった日常は一変した。「こんなことが起こるとは思いもしませんでした。恐ろしい悲劇です。だれにもこんな思いをしてもらいたくありません」
「毎日爆撃」車椅子で脱出 ポーランド無料列車で西へ (3月20日)
ポーランドの東端に位置するプシェミシル駅は、ロシアによる攻撃を逃れてウクライナから国境を越えてきた難民が集まる駅だ。人々はここからポーランドや欧州各地に向かう。18日午前、急行電車がホームに入ると、大きな荷物を抱えた難民が次々と乗り込んできた。座席の半分以上が埋まった。ポーランド政府は難民の電車代を無料にして移動を支援している。定刻の午前10時1分、電車は西に向かって進み始めた。
2等車の端にある障害者用スペースで車椅子に座っていたセルゲイ・イレンコさん(52)は、妻ユレアさん(42)と17日に600キロ以上離れた首都キエフ南郊の町を出発して逃げてきたばかり。「階段を一人で下りられません。警報が鳴っても防空壕(ごう)に避難できないんです」
けがで障害を負い、20年ほど前から車椅子で生活する。自宅はアパートの3階。非常事態のためエレベーターが使用停止となり、外出が困難になった。「自分が生まれ育った町を離れたくはありませんでした。でも町は毎日のように爆撃され、戦争がいつ終わるか分かりません」。食料や日用品も手に入りにくくなっていた。
ウクライナ国内に援助物資を届けに来たポーランドのボランティア団体が、帰りの車で避難させてくれることになった。ミニバンなど車2台に女性や子供ら20人ほどが分乗し、13時間かけて国境を越えた。ウクライナは18~60歳の男性の出国を禁止しているが、障害がある人などは除外される。「とても疲れました」。ポーランド国内の親戚を頼って仮住まいを探す。
同じ電車に乗っていたマリア・フィデブさん(38)は、次女ロマナちゃん(4)を抱っこして座っていた。「今朝の空爆を知り、急いで避難してきました」。比較的安全とされてきたウクライナ西部の都市リビウのアパートで暮らしていた。国内の別の町に住む友人からは「ロシア軍に包囲され、水や食料が手に入りにくくなった」と聞いていたが、自分の周りでは侵攻の実感があまりなかった。
ところが18日朝になってリビウの空港近くにもロシア軍のミサイルが着弾した。子供たちの安全を確保しようと、長女ヤレナさん(15)と3人で脱出を決意。夫に国境まで車で送ってもらい、徒歩でポーランドに入った。「夫のことが心配です。戦争は恐ろしいです」
マリアさんらはプシェミシルから1時間ほど電車に乗り、途中駅で下車していった。近くの友人を頼って滞在先を探すという。戦火を逃れた後も、人々の苦難の旅は続く。
見通せぬ未来、戦火逃れ (3月21日)
ロシア軍による攻撃から逃れるため、ウクライナから周辺国に避難する人々が増加の一途をたどっている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、18日時点でその数は約327万人。半数以上をポーランドが占め、他にルーマニアやモルドバ、ハンガリーなどに多くの人々が逃れている。そこから親族や知人、支援団体を通じてドイツ、フランスなど別の国に渡るケースも多い。
周辺国は必死に難民を受け入れている。ポーランドでは入国直後からボランティア団体などが食事や衣服、日用品、子供用品を無償で提供。携帯電話のSIMカードも配布し、母国とスムーズに連絡が取れるように配慮している。ポーランド南東部メディカの国境検問所前で衣料品を配布していたボランティア、トマシ・ビエルズビッチさん(22)は、「ポーランドだっていつ戦争に巻き込まれるか分かりません。明日は自分が助けられる側になるかもという思いで支援しています」と話した。
メディカでは13日朝、国境検問所を歩いて越えてきたオレナ・ジンチェンコさん(30)の長女ヤロスラバちゃん(4)がこうしたボランティアの人々からぬいぐるみを受け取り、笑顔を見せた。「おもちゃも教科書も学用品も何も持ってこられなかった」と母のオレナさんは振り返る。長男イエゴールさん(8)と母子3人で戦火を逃れてきたが、オレナさんの夫は今もウクライナに残っているという。
今回は「欧州における今世紀最大の難民危機」とも言われる。長期化すれば住宅や雇用、教育など受け入れる側にとっても影響は大きい。欧州各国も難しいかじ取りを迫られる中、難民の未来は見通せない。
滞在先、見つからない 相談所に長い列 (3月22日)
ポーランド南部の古都クラクフは、ウクライナとの国境から電車で3時間半の交通の要衝だ。クラクフの中央駅は今、難民でごった返し、炊き出しや衣料・日用品の配布といった支援の拠点にもなっている。16日昼、駅構内にある難民向けの住宅相談所を訪れると、数十人が列を作っていた。
ウクライナ東部から娘2人とポーランド入りしたイリナ・ソロマシェンコさん(39)は「利便性が高いクラクフ中心部で滞在先を探しています」と話す。今は民家の一室を無料で間借りしているが、中心部から50キロ離れた郊外にあり、移動が大変だ。新しい物件を探す相談に来たが、この日は条件に合う住まいが見つからず、引き返すしかなかった。紹介所の担当者は「物件は限られており、希望に応えるのがだんだん難しくなっています」と話す。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ロシア軍による2月24日のウクライナ侵攻開始以降、ポーランドには3月18日時点で約200万人の難民が押し寄せている。ポーランドの人口の5%にも相当する膨大な人数だ。国民はおおむね受け入れや支援に前向きで、自宅の一室を無料で貸し出す市民もいるが、安定した滞在先の確保は常に課題だ。
クラクフ中心部のワンルームのアパートではカリナ・チェルカシナさん(31)が10歳と3歳の息子に本の読み聞かせをしていた。それを見ていたカリナさんの母ラリサ・イエレメンコさん(51)は話した。「避難先がすぐに見つかったのは幸運でした」
ウクライナ東部ドニプロから、12日に3世代4人で逃れてきた。「頻繁に空襲警報が鳴るのに避難できる防空壕(ごう)もありませんでした」。すし詰めの列車やバスで国境を越え、クラクフで暮らす親族が借りてくれたこのアパートにやって来た。部屋は8畳ほどで手狭だが、政府やボランティアの支援で衣料品や薬も手に入った。
ただ、少しずつ整っていく自分たちの生活と爆撃にさらされる故郷との隔たりは大きくなっていく。「ここでは皆に良くしてもらっています。でも自宅に残る夫らのことがとても心配です」。戦争についてどう思うかと尋ねると、しばらく沈黙した。ほおには涙が伝っていた。「言葉になりません」
戦争が家族を裂いた クリミア出身、両親は露支持 (3月23日)
ウクライナの戦火を逃れてポーランドに避難してきたオリガ・ルミャンツェワさん(27)は14日、2週間ぶりに故郷を見ようとポーランド側から国境線の柵のすぐそばまで来た。林や草原が広がるのどかな景色で、柵の向こうから犬の鳴き声が聞こえてくる。「こんなに近いのに、今はカナダより遠くに感じます」。そう語ると、目から涙があふれてきた。「戦争中の国の空はどんよりしていると思い込んでいました。でも空は青く美しいままです」
ソ連崩壊3年後の1994年、ウクライナ南部クリミア半島で生まれた。父はロシア・シベリア、母はウクライナ南部オデッサの出身で高校卒業までは家でも学校でもロシア語を使っていた。2012年に首都キエフの大学に進学した時は「ウクライナ語がうまく話せませんでした」。友達との交流を通じて次第に上達した。
14年、在学中に起きたロシアによるクリミア併合が家族の分岐点になった。クリミアではロシアへの同化政策が進み、キエフからの直通列車は廃止。検問所が設けられ、年3、4回していた帰省も気軽にはできなくなった。父は少しは理解できていたウクライナ語を忘れた。そのままキエフで就職、結婚しウクライナ人としての意識が高まる自分とは正反対だった。
キエフにロシアが侵攻してくるとは想像もしなかった。2月24日朝、突然、空襲警報のサイレンが鳴った。その後、警報の度に自宅アパートから近所の地下にある小劇場に避難した。
翌25日、友人が「今から車で避難する。席が空いているので、乗りたければ30分以内に来てほしい」と電話をかけてきた。夫と別れたくなかったが、夫は「君は安全な場所にいてほしい」と後を押した。急いで荷物をまとめた。ポーランドとの国境検問所は大渋滞で、通過に三日三晩かかった。ただ、ようやく国境を越えてこみ上げてきたのは安堵(あんど)ではなく、「罪悪感」だった。「多くの人が国を守るために残っている」と自分を責めた。
実家の両親はロシアのメディアを通じて戦況を知り、「ロシアがウクライナを救うために介入している」と信じている。娘に「おまえは間違っている。ウクライナ政府が言っていることはすべてウソだ」と、携帯電話に頻繁にロシア発のニュースを転送してくる。「あまりに不快で最後まで読めません」。反論はせずに放置している。「家族の関係にはさまざまな要素があります。政治的な見解の違いだけで関係を破綻させたくはありません」
今はポーランド南部クラクフの知人宅に身を寄せる。少しでも母国の役に立ちたいと、避難してきた友人らとウクライナに子供用品や医療品など支援物資を送る活動をしている。
いつか必ずウクライナに帰る。「廃虚のままにはさせません。戦争前よりももっと美しく、輝く国をつくるために全力を尽くします」
「戦争終わって」日本で祈る 母娘、大好きな母国脱出 (3月27日)
日の丸の旗がはためくポーランド・ワルシャワの日本大使館。3月21日午前9時、ウクライナ・キエフから逃れてきた主婦のオレシア・サブリバさん(49)は20歳と13歳の娘2人と共に、日本滞在のためのビザ申請に訪れた。「爆発が毎日朝から晩まで。本当に怖い」。日本語で思いを語った。
ロシアの侵攻は2月24日に始まったものの、当初は自分たちが暮らすキエフ中心部はあまり被害を受けなかったという。ところが3月5日ごろから状況が一変した。友人宅の隣のマンションが攻撃を受けたり、近所の駐車場でも爆撃で車が全て破壊されたりした。
危機は身近に迫るが、大好きな母国を離れる決断はなかなかできなかった。「すぐ終わる、明日終わる、あさって終わる」と祈るような気持ちだった。「本当に怖いのは最初の1日だけです。あとは映画の中に自分が入っているみたい。信じられないことになっています」。夫を家に残し、娘らとボランティアが運行する避難バスに乗って、19日にポーランドに逃れた。
2000年まで4年間、日本で暮らし、旅行会社で働くなどした。その後も毎年のように日本を訪れ、家族ぐるみで付き合う友人も多い。今回は大阪の友人が受け入れ先となってくれて、深く感謝しているという。
ただ21日は日本の祝日・春分の日で、ポーランドの日本大使館も休館だった。サブリバさんは22日に出直してビザを申請し、23日に受領。28日に渡航する予定だ。ポーランドには頼れる人がおらず、滞在費もかかるため、早く支援者がいる日本に行きたいという。「あと2週間で(戦争が)終わるかな……。終わってほしい。戦争が終わればすぐにウクライナに戻りたい」。自分に言い聞かせるように話した。
22日は開館と同時に数組のウクライナ人家族が大使館に入り、日本ビザの申請や受け取りを行った。東京在住の30代のウクライナ人男性は、ウクライナ北東部ハリコフからバスでワルシャワに避難してきた母親のビザ申請を手伝うため急きょポーランド入りした。戦争に心を痛め、都内の反戦デモにも参加。今回は母親を日本に連れて帰り、しばらく面倒を見る。ただ自宅は決して広くなく、長期化への不安もある。「悲惨な戦争です」。男性はそうつぶやいた。
避難の児童、1割占め 授業理解に言葉の壁 (3月28日)
20人ほどの児童のうち、7人が手を挙げた。17日、取材に訪れたポーランド南東部ジェシュフの公立ジェシュフ第16小学校で、記者が「最近ウクライナから来た子は手を挙げてください」と頼んだ時のことだ。見学したのは5年生の2時間目のポーランド語(国語)。教室では女性教諭が黒板を使って授業をしていた。
前から3列目に座っていたマリアナ・スリブニツカさん(11)も首都キエフから逃れ、3年生の妹クリスティナさん(8)と9日から通い始めたばかり。近所の高層アパートで母親らと仮住まいし、毎朝姉妹で20分ほどかけて徒歩で登校する。「好きな授業は体育。言葉が分からなくても楽しめるから」。小学校の玄関にはカラフルなリュックサックが30個ほど山積みになっていた。ウクライナから満足な荷物も持てずに避難してきた子供に使ってもらおうと、保護者らが用意した無料の通学用かばんだ。
国連児童基金(ユニセフ)によると、約750万人のウクライナの子供のうち約430万人が今回のロシアによるウクライナ侵攻で自宅を追われ、うち180万人以上は国外に避難した。戦闘の長期化が懸念される中、子供たちの「学ぶ権利」をどう保障するかも大きな課題だ。第16小でも2月下旬以降、難民の子が続々と入学しており、全校児童約570人の1割を占めるまでになった。
「一番の問題はコミュニケーションです」と話すのはドロタ・ジョンサ校長だ。ウクライナ語とポーランド語は同じスラブ系の言葉で、通訳なしでも意思疎通できることはある。ただウクライナから来たばかりの子供がポーランド語の授業を即座に理解するのは困難。学校側はウクライナ人教員を採用して、一部学年では難民専用クラスを設ける方針だ。
ポーランドでは近年、ウクライナから仕事を求めて移り住む人が増えており、第16小にも以前から10人ほどのウクライナ人児童がいた。ある教諭は「ウクライナ人の友達や知り合いがいない人はいなかった。それが今回、ロシアに侵攻されたウクライナへの共感、支援につながっている」と話す。ウクライナ人の子供たちは支援すればポーランド語もうまく話せるようになってきた。ただ、これほど多数の難民の子を急激に受け入れるのは経験がなく、対応は手探り状態でもある。それでもジョンサ校長は話す。「困難な状況の子供たちを助けたいです。協力したり、お互いの文化を尊重したりする。在校生もその大切さを学べます」
国境越え、続く苦難 ポーランドに逃れた人々 (4月4日)
ウクライナから周辺国に逃れてきた難民は400万人を超えた。戦火を避けて国境にたどり着くまでには、ロシア軍の包囲網を命がけで突破したり、満員の列車やバスで十数時間移動したりしてきた人も少なくない。
ただ国境を越えた後の道のりも厳しい。ポーランドをはじめとする受け入れ国では、難民の増加に伴って住宅事情が悪化している。利便性が高い大都市部では賃料が上がり、希望通りの家を見つけるのが難しい。一部の難民はテレワークで元の仕事を続けるが、多くの人は避難と同時に失業し、収入を失った。言語が違う国で子供の教育の機会をどう確保するのかも課題だ。
約230万人が避難するポーランドでは、政府が難民に住民サービスを提供するためのID番号発行が始まった。教育や医療、福祉などで地元住民並みの支援が受けられるようになるため、登録会場には多くの難民が殺到。政府側の作業が追いつかずに混乱する場面も見られた。
精神的な苦痛に悩まされる人々も多い。親族や友人を母国に残し、「自分だけ安全な場所に避難してしまった」と罪の意識を抱く難民もいる。避難前に自宅で聞いた爆音が心の傷となり、避難所でささいな物音におびえる人がいた。スマートフォンで侵攻関連の速報がすぐに入手できる半面、「心が痛んで他のことができなくなるから」と、ニュースをチェックする時間や回数を自分で制限する人もいた。
住む場所、収入、仕事、教育、家族との暮らし、心の平穏……。市民からそれを根こそぎ奪うのが、戦争の一面だ。
「早く元の暮らしに戻りたい」。難民たちの思いがかなうのは、一体いつになるのだろうか。