毎日新聞東京社会事業団

熱砂のかなたに ~ヨルダンのシリア難民~

 16年度の毎日新聞紙上での海外キャンペーンは、中東ヨルダンに取材陣を派遣し、隣国に逃れて暮らすシリア難民の生活を報告し大きな反響を得ました。全文を掲載します。

空爆が続くアレッポから逃れてきたサーミア・アルアリさんと長男アマールちゃん=ヨルダン・ザルカ県のアズラック難民キャンプで

とらわれの難民
ヨルダン、IS恐れ隔離

 乾いた大地から砂煙が立ち上っては消え、雲一つない青空は黄みがかっている。ヨルダンの首都アンマンを車で出発し、東に約1時間。戦車や警察車両が目に入った。シリアから逃れてきた約3万6000人が暮らすアズラック難民キャンプの入場ゲートだ。

 政府発行の取材許可証を示して通過すると、ジーンズ姿の警察官が車に乗ってきた。先に進むと、高さ3メートルほどの有刺鉄線付きフェンスが現れた。向こう側にはキャラバンと呼ばれる居住用のコンテナ。「撮影するな」。カメラを手にすると制止された。

 フェンス内には今年4月以降に入国した数千人のシリア難民が暮らす。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、このキャンプの難民は過激派組織「イスラム国」(IS)の脅威が迫るシリア北部のアレッポ出身者が4分の1を占める。「ISとのつながりがない」と警察当局が確認するまで、移動を禁じられている。

 9月末、警察当局の「身辺調査」が終わり、フェンスの外に移ったばかりのサーミア・アルアリさん(37)宅を訪ねた。空爆が続くアレッポから長男アマールちゃん(4)と2人で逃れ、3年前に出稼ぎでアンマンに出た夫を追ってきた。

 10畳ほどの薄暗いキャラバンの室内。「学校も爆撃された。夫が戻っても古里には何も残っていない」。口をつく言葉は絶望に満ちていた。キャンプの不満を尋ねると、「ここはとても良いところよ」と何度も強調した。隅に座る警官が黙々とメモを取っていた。

 数日後にサーミアさんを再訪すると、外出の許可申請のための窓口にいた。警官が離れた際に本音がこぼれた。「電気はなく夜は真っ暗。アンマンで早く夫と暮らしたいのに、いつになったら許可が下りるの」。顔を覆うヘジャブからのぞく瞳は潤んでいた。

 2011年春に始まったシリア内戦で、約480万人が国外に逃れた。隣国ヨルダンでは65万人が帰郷を願いながら厳しい生活を送る。終わりの見えない紛争に翻弄(ほんろう)されるシリア難民の子どもたちの姿を報告する。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(1) 外遊びの夢、いつ 首都で治療、待つしか

 10月に入っても日中は30度を超えるヨルダンのアズラック難民キャンプ。居住区域から数百メートル離れた共用の水道に子どもたちが集まり、持ち寄ったプラスチック製タンクを次々と満たしていく。のどを潤し、頭から水をかぶり一息つくと、タンクをかついで自宅を目指す。各家庭に水道が引かれていないキャンプの日常的な光景だ。

 父親のハサン・アリさん(36)の腕に抱かれた次女ゼイナブちゃん(4)は、親やきょうだいを手伝う同じ年ごろの子どもたちを大きな瞳で見つめていた。頭を振るたび、カールした柔らかな黒髪が揺れる。「5人きょうだいの誰よりも頑固で、他の子のように外で遊ばせるようせがむんだ。一人で歩くことはできないのに……」。ゼイナブちゃんの左足をさするハサンさんの表情は険しい。

生まれつき背骨と左足の骨がゆがんでいるゼイナブちゃん=ヨルダン・ザルカ県のアズラック難民キャンプで

 背骨がS字にゆがみ、左足のくるぶし付近の骨が内側に曲がる障害を持って生まれた。直立するとくるぶしで体重を支えなければならず、骨を痛めてしまう。背筋を伸ばせず、身長は2歳の妹と変わらない。

 シリアの病院では「手術に25万シリアポンド(約12万円)かかる」と通告された。アレッポ近郊の村にあった自宅は空爆で破壊された。建築現場での職も失い、幼い子どもたちの食事にも困る日々。シリアを出るための費用すら工面できず、手術に回す金はなかった。

 今年に入り、ゼイナブちゃんの障害を知った慈善団体からシリアを出るための寄付の申し出があった。昼も夜も爆撃機が上空を飛ぶ生活に疲れ、5月に古里を出る決心をした。トラックの荷台に、7家族が体を寄せ合ってヨルダンへ。越境を手引きする仲介者に渡す金が用意できず、国境でシリアに戻される家族を見て胸が痛んだ。

 ヨルダンに到着すれば、国連の支援ですぐに治療を受けられると信じていた。しかしキャンプの病院で「ここで治療はできない。早くアンマンの整形外科で治療を受けさせた方がよい」と助言された。キャンプを出るための許可申請を3カ月前にしたが、なぜか手続きは進んでいない。

 「コネがあればすぐに外出許可が出る」「金を渡さなければいつまでも待たされる」。キャンプ内では、さまざまなうわさが飛び交う。しかし、ヨルダンに知人はなく、貯金もないハサンさんにできるのは待つことだけだ。

 毎日欠かさないイスラム教の礼拝の準備を始めると、ゼイナブちゃんは両腕を使って左足を引きずりながらハサンさんに近付く。そしていつも同じおねだりをする。「お父さん、私の足が治るようにお祈りしてくれますか」【文・津久井達、写真・久保玲】

 ■ことば
 ◇アズラック難民キャンプ
 首都アンマンの北東部に位置するザルカ県に2014年4月、ヨルダン政府が設置した。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などが運営をサポート。14・7平方キロの敷地に約3万6000人のシリア人が暮らす。58%が18歳未満。収容者には1日1人当たり4枚のパンが配られるほか、月20ヨルダン・ディナール(約3000円)が支給され、キャンプ内のスーパーマーケットで買い物ができる。

熱砂のかなたに(2) お父さんの脚、動いた

 「イード」(犠牲祭)と呼ばれるイスラム教の祝日を控えた9月上旬、ムハンマド・ディアブさん(41)はアンマン市街の5階建てアパートの一室でベッドに横たわっていた。ズボンから伸びるチューブは床上のポリ袋に届き、尿がたまっていた。シリアの内戦で負傷し、下半身の感覚を失った。

下半身が不自由なムハンマド・ディアブさんにマッサージをする娘のバトゥールちゃん=ヨルダン・アンマンで

 下ろし立ての服で着飾り、親族や友人に新鮮な羊肉をふるまって数日間を過ごすイード。会社や学校も休みになる日本の正月に当たる祭事だが、9人家族のムハンマドさん宅はひっそりとしていた。

 「羊を買う金もないし、訪ねてくる親戚も近くにいない。シリアでは毎日人が死んでいるのに、イードを祝う気にはなれない」。視線の先のテレビでは、母国で空爆が続くニュースが流れていた。

 シリアの首都ダマスカス郊外で溶接工をしていたムハンマドさんは2013年5月、果樹園で木にもたれて仲間と語り合っていた。遠くに戦車が見えた数秒後、ごう音が鳴り響き、尻から全身に衝撃が伝わった。慌てて身を隠した民家に2発目が命中し、破片が背中を直撃。脊髄(せきずい)を傷付けた。

 政府軍と反政府軍が激戦を続ける混乱の現場で病院は見付からず、ヨルダンに向かった。弟の運転する車が政府軍の検問で止められ、反政府活動への関与を疑われたが、大けがの患部を見せて疑いを晴らした。

 家族を呼んで、14年1月からアンマンで暮らし始めた。ヨルダンのシリア難民65万人のうちキャンプで生活しているのは2割ほどで、大半はムハンマドさんのように都市部で部屋を借りて暮らす。1人当たり月20ヨルダン・ディナール(約3000円)の食費が支援されるが生活は苦しい。

 9月から公立学校に通い始めた末娘のバトゥールちゃん(7)のバス代(月約2000円)が払えず、2キロを歩いて通わせる。通学カバンは誰かが玄関前に黙って置いていってくれた。

 「施しを受けるのは恥ずかしい。親らしいことがしてやれず情けない」。ムハンマドさんがため息をつくと、同じベッドの隅で座っていたバトゥールちゃんが父の膝を曲げ伸ばし、太ももをもみほぐすマッサージを始めた。看護師をまねて自ら始めた日課で、毎日30分ほど続ける。

 バトゥールちゃんは、医師になって父のようなけが人を治すことが夢だ。「自分の名前を書けるようになったし、英語も少しは分かるの」。学校の勉強が楽しくて仕方ない。

 マッサージ中に脚がぴくっと反応した時、大きな声を上げて笑った。「お父さんの脚が動いた!」。表情を緩めたムハンマドさんが娘の頭を優しくなでた。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(3) 14歳大黒柱、学ぶ喜び

 高温の石窯をのぞくと、円形の薄い生地に塗られたトマトソースの上でチーズが溶けていく。焦げ始めのタイミングで取り出すと、焼きたての香ばしいにおいが広がった。

 ヨルダン・ザルカの下町で1枚30円ほどで売られているパン。長い柄のついたへらを操り、生地を投入するのは14歳の少年だ。この店で週7日働く。身長165センチできびきびと働く姿は大人と見間違うが、笑顔には幼さが残る。

 毎朝午前5時に出勤し、掃除や具材の準備に取りかかる。夕方まで300枚以上を焼き上げると、帽子とエプロンは小麦粉で真っ白に。12時間近く働き、1日4ヨルダン・ディナール(約600円)を稼ぐ。

連日パン屋で働きながら、サポートスクールで勉強を続ける少年=ヨルダン・ザルカで

 ヨルダンでは16歳未満の労働を禁じ、雇用主は罰金を科されることもある。ILO(国際労働機関)の調査によると、ヨルダンでは約7万5000人の子どもが農場や小売店などで働き、その中には1万人以上のシリア難民の子どもも含まれる。少年は匿名を条件に取材に応じてくれた。

 両親と姉の4人で2013年、シリア西部のホムスからアンマンに逃れた。脳梗塞(こうそく)の後遺症で左足が不自由で働くことができない父(58)に代わり、7月から働き始めた。給料は全て母に渡し、家賃の足しにしている。

 内戦の影響で学校が閉鎖され、シリアでは8歳までしか学べなかった。ヨルダンで3年ぶりに学校に通い始めたが、授業についていけず通うのをやめた。「先生が言っていることがほとんど理解できなかった。楽しくなかった」

 パン屋で働き始めた頃、自宅の近くに学力の遅れを取り戻すためのサポートスクールがあることを知った。ユニセフ(国連児童基金)がシリア難民向けに設立した。

 本来の昼休みは30分だが、週に2日だけ2時間の休憩をもらい、通うことにした。「勉強は今しかできない。お前は頭がいいのだから」。学校に行かずに10歳から働いているという経営者の男性(33)が理解を示し、背中を押してくれた。

 アラビア語、英語、数学、理科の4科目を学ぶ。小学校低学年レベルからの復習だが、学ぶ喜びを初めて感じている。「宿題をもっと出してください」とスタッフを驚かせた。

 仕事から帰ると眠くて宿題にかかれない日もある。「まだ14歳なのに、なぜこんなに苦労しないといけないの? あなたたちのせいです」。両親を責めたこともあった。

 「やめたいと思ったことは」。記者が尋ねると、ためらいなく答えた。「何度もあるけど、家族のために私がやらなければなりません。他に誰が家賃を払うのですか?」【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(4) 心に傷、曇る笑顔

 腰を落として両手を広げる父親のムハンマド・ホラニさん(44)に娘のリマールちゃん(8)が笑顔を返し、足元のサッカーボールを見つめる。松葉づえに体重を預けて右脚を引き、爪先から蹴り出した。ゆっくりと転がるボールをムハンマドさんが受け止め、優しく足元に返した。

 シリア内戦など中東の紛争で大けがをした患者の治療のため、「国境なき医師団」が運営するアンマンの病院。10月上旬、下半身を固定するギプスが2カ月ぶりに取れたばかりのリマールちゃんがリハビリに励んでいた。シャツと靴は大好きなピンクでそろえ、髪にはカチューシャ。ジーンズをはく両脚はやせ細っていた。

 シリア南西部のダルアーで暮らしていたムハンマドさん一家。昨年7月2日深夜、自宅上空に政府軍のヘリが近づいてきたが、発電機の音で気付かなかった。風呂場付近に2発のたる爆弾(バレルボム)を落とされ、長男ワリードさん(当時14歳)がムハンマドさんの視界から消えたのを最後に、辺りが真っ暗になった。

空爆で左脚を骨折し、リハビリ中にサッカーボールで遊ぶリマールちゃん=ヨルダン・アンマンで

 石壁が崩れて砂ぼこりが立ちこめる中、ムハンマドさんは家族の名を一人ずつ呼んだ。「私はここ」。消え入りそうな声を頼りに、リマールちゃんを見つけた。「息が苦しい」と繰り返す娘を抱き上げ、介抱した。

 がれきの下で見つけたワリードさんの胸は、大量の出血でキラキラと光っていた。下半身は吹き飛ばされ、既に息絶えていた。「『私の家にバレルボムが落ちた』と何度も叫んだ。私の顔は息子の血で真っ赤だった」。ムハンマドさんは目を閉じて回顧した。

 ドラム缶を利用したたる爆弾は、火薬と共に無数の金属片が詰め込まれている。リマールちゃんの左脚の付け根にはくぎなどが突き刺さり、骨を粉々に砕いた。いびつに固まった骨は放っておくと、成長と共に右脚の長さとのずれが生じるため、定期的な手術が必要だ。難民として一家でヨルダンに移住後、手術を5回受けたが完治する保証はない。

 リハビリ中、上の前歯が生えそろわぬ屈託ない表情で笑っていたリマールちゃん。初対面の人にも物おじせず、顔をゆがませて笑わせようとするひょうきんな性格だ。しかし、空爆を経験して以来、頭上を飛ぶ飛行機や街頭で警備に当たる制服姿の軍人を見ると怖がり、笑顔が消えるのだという。

 シリアでは、毎日ボールを蹴りながら通学した。亡くなった兄ワリードさんとサッカーで遊ぶのが好きだった。「昔のようにサッカーができるようになるの?」。あいまいな返事で娘をごまかす時、ムハンマドさんは終わらない内戦への怒りがこみ上げる。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(5) 「農業で自活」迷い

 アンマン南部の幹線道路を西にそれ、未舗装の悪路を進むとトマトを栽培するビニールハウスが並ぶ農場にたどり着いた。近くに立つサーカス場のようなカラフルなテントから、子どもたちの元気な声が聞こえてくる。ユニセフ(国連児童基金)が設置したサポートスクールだ。

 6~10歳のシリア難民の子どもたち140人が通う。彼らの父母らはシリアにいた時のように農業で生計を立てるため、テントで暮らしながら農場で働いている。65家族500人が一つの集落をつくる。子どもたちも農作業に駆り出されるため、授業は午後1時から始まる。

 ユニセフによると、ヨルダンには同様のテント村が約400カ所あり、1万6000人が暮らす。シリア難民65万人の8割が都市部、2割が難民キャンプにいるが、彼らは農業で自活を目指す「第三の道」を選んだ。ただ、ヨルダン政府は「ヨルダン人の職が奪われる恐れがある」との理由から、難民が働くことを原則禁じている。正式な労働許可を得ている人はわずかだ。

農場で働きながらテントで暮らすスレイマン・アルハサンさん(奥右から2人目)一家=ヨルダン・アンマンで

 シリア西部の農村で綿や小麦を栽培していたスレイマン・アルハサンさん(64)は2014年、家族20人でヨルダンに避難。北部にあるザータリ難民キャンプで暮らし始めた。

 ところが、すぐに一家でキャンプを無断で抜け出した。「シリア人を雇ってくれる農場があるらしい」といううわさを頼りに、アンマンにたどり着いた。捕まればシリアに送還される恐れもある危険な賭けだった。

 スレイマンさんは振り返る。「何もせずにパンや食費が支給される生活が苦痛だった。ここなら貧乏でも好きな農業で食べていける。シリアと同じような生活ができることが何より素晴らしい」

 冬が迫る11月になると、住民たちはテントをたたみ、イスラエル国境に近い西部のヨルダン渓谷を目指す。温暖で水も豊富な農業の盛んな地域。3月までそこの農場で働き、再びアンマンに戻るのだという。

 サポートスクールに通う子どもたちの半分近くは公的な教育を受ける機会がなかったため、アラビア語での読み書きが満足にできない。スレイマンさんの末の息子オマルさん(16)も幼い頃から農業を手伝い、学校に通ったことがない。

 スレイマンさんと4人の息子は、月に300ヨルダン・ディナール(約4万5000円)稼ぐが、大家族が食べていくにはぎりぎりだ。「祖父も父も私も当たり前のように農業を続けてきた。でも、ヨルダンで生きていくためには、勉強して他の仕事に就くことも必要なのかもしれない」。5人の幼い孫たちの将来を思うと、自らの信念が時折揺らぐ。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(6) 渡米、戻れぬかも

 ヨルダンの玄関口、アンマンのクイーンアリア国際空港は日付が変わる頃になっても発着便が途切れない。10月初旬の深夜、フセイン・カリームさん(31)一家が現れ、トランクから大量の荷物を降ろした。8カ月から13歳まで8人の子どもたちは経由地ローマの寒さに備え、ジャンパーやコートで厚着していた。

 見送りに来た兄ジュマさん(48)は一人一人に言葉をかけた後、フセインさんと抱き合った。兄が去った後、フセインさんは、声を上げて泣き崩れた。子どもたちは父の涙を無言で見つめていた。一家は「第三国定住」という制度を利用して渡米するため、この夜ヨルダンを離れるのだ。

 シリア北部のアレッポから2013年4月にヨルダンに逃れてきた。シリア時代と同じタイル張りの職を見つけたが、月に一度も仕事が入らないこともある。四女(2)と四男(8カ月)が新たに家族に加わり、生活はますます苦しくなった。

 第三国定住は、母国に戻れない難民を避難先以外の国が受け入れて生活を支援する制度。昨年末、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から渡米を打診された。「アメリカで知っていることといえば、ニューヨークとオバマ大統領くらい。世界一の良い国なのでしょう」。なじみのない遠い国。

兄ジュマさん(右端)に見送られ、米国に旅立つフセイン・カリームさん(右から3人目)一家=アンマンの空港で

 「サウジアラビアやトルコには行けないのか」とUNHCRの職員に尋ねた。文化や宗教の違う米国で暮らすことに不安があった。フセインさんはアラブ諸国の伝統的な衣装「カフィーヤ」を頭に巻く。相手への敬意を表すためだが、奇異な目で見られないか心配だ。

 長男カリームさん(12)は「アメリカには行ってみたい。でも二度とシリアに戻れなくなるかもしれない」と父に訴えた。ヨルダンに残る兄一家や、トルコに避難した両親と再会できる保証はない。フセインさんもそれを承知で決断した。

 フセインさんと妻ガザリさん(33)は、公的な教育を受ける機会に恵まれず、アラビア語で自らの名前を書くのがやっと。子どもたちもヨルダンでは学校に通っていない。「自分たちのように何も知らない人間になってほしくない」。子どもたちの将来を第一に考えた。

 フセインさんはこの日もカフィーヤを身につけていた。自分たちのルーツを忘れないよう、普段の姿で米国の土を踏みたかった。「あとは神に頼りましょう」。期待と不安の入り交じった表情で搭乗ゲートへ向かった。【文・津久井達、写真・久保玲】

熱砂のかなたに(番外編):未来、つかみ取れ

 内戦の影響でヨルダンに逃れたシリア難民の半数は子どもたち。仕事に追われたり、授業についていけず学校から遠ざかったりするケースが多い。将来シリアに平和が訪れた時、こうした子どもたちが「ロストジェネレーション」(失われた世代)となり、国を立て直す人材が不足する恐れも指摘されている。一方で逆境にも負けず、奮闘する若者たちもいる。<文・津久井達/写真・久保玲>

13歳の大黒柱 病を抱える父(36)に代わり、8人きょうだいの長兄で11歳から一家の大黒柱として働くシャヘル・ジアードさん(13)の両手。勤務先の建築事務所ではペンキ塗りも手伝うため、こびり付いた汚れは洗っても落ちない。1カ月働いても30ヨルダン・ディナール(約4500円)ほどしか稼げず、一家は家賃未払いでアパートを追い出されたばかりだ。シャヘルさんは「数学が得意だったけど、ヨルダンでは一度も学校に行っていません。もう学ぶことは諦めました。病気の父の力になれてうれしい。妹や弟のために、もっとたくましい人間になりたい」と話し、疲れた表情を緩ませた。=ヨルダン・アンマンで

◇学ぶ、古里のため

 ヨルダン・ザルカにあるビルの地下で、子どもたちの熱のこもったせりふが飛び交っていた。数グループに分かれ、自分たちのアイデアを脚本にした演劇の練習に取り組む。日本のNGOが子どもたちのトラウマを取り除くために企画したワークショップだ。

ジャーナリストに ジャーナリストになる夢を持ち、サポートスクールで勉強するドハ・ムハンマドさん=ザルカで

 身長が160センチあり、民族衣装のヘジャブからのぞく切れ長の瞳がひときわ大人びて見えるドハ・ムハンマドさん(15)は、浮かない表情をしていた。「彼女は他人に溶け込むことが苦手。自分の思いを吐き出すのをためらってしまうの」。女性スタッフが心配そうに見つめた。

 2012年12月にヨルダンに逃れてきたドハさんは、2年以上前から学校に通っていない。苦手な英語の授業でうまく発音できず、ヨルダン人の女性教師に丸めた教科書でたたかれたことがきっかけだった。

 「あなたはどうしてそんなに背が大きいのに英語ができないの」。小柄な教師がドハさんを見上げ、理不尽な理由で再びたたいた。たたかれるのは常にドハさんだけ。見せしめのようだった。シリア人として差別された気分になり、学校に行くのをやめた。

 学校で友達はできなかった。「理由はわからないけど、ヨルダンに来てから消極的になってしまったの。話しかけたいのに、私の中の何かが止めてしまう」。家に引きこもるようになり、ベランダで時間をつぶす日々が続いた。

 今年、ユニセフ(国連児童基金)が運営するサポートスクールに通い始めた。「BIKE」「BUS」「SHIP」。10月上旬、他の子どもたちと笑顔で英単語を発音する姿があった。流ちょうに話すことはできないが、好きな英語を学び直すのが楽しい。

 ヨルダンに来てから古里の内戦の行方を気にかけ、インターネットの記事を読む機会が増えた。自らジャーナリストになって、記事を書いてみたいと思うようになった。

 「私は絶対にシリアのことを忘れない。シリアに残っている人たちのことも忘れない。世界中の人にシリアのことを知ってほしい」。奥手な性格と自覚する少女が今、夢を思い描き、殻を破ろうとしている。

◇働く、家族のため

 右足のスイッチでミシンの速度を調節し、生地を左右に回しながら縫い進める手つきはおぼつかない。マフラク県のザータリ難民キャンプで、国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」が運営する職業訓練学校。首もとに採寸用のメジャーを垂らすアブダラ・カシャールフェさん(15)は今年の夏から、仕立てや縫製を学ぶ。テーラーになるのが夢だ。

テーラーに 職業訓練学校でミシンを扱うアブダラ・カシャールフェさん=マフラク県のザータリ難民キャンプで

 ごつごつした大きな手の爪の隙間(すきま)に残る細かな土は農作業によるものだ。5年前にシリアで病死した父に代わり家族5人を支えている。毎朝トラックの荷台に同僚30人と乗り込み農場に向かい、トマトやキャベツを収穫。1日7ヨルダン・ディナール(約1000円)を得る。作業のない日は買い物帰りの人たちの荷物を一輪車で運んで小銭を稼ぐ。

 「文字の読み書きができないんだ」。恥ずかしそうに明かしたアブダラさんは学校に行っていない。「長男だから家族を助けないといけない。他に誰も稼げない」と自らに言い聞かせている。

 幼い頃、マナーフさんという洋服店を経営する父の友人に憧れていた。スカートを作るのが得意で、ミシン台に座る姿がかっこよかった。だが政府軍と反政府軍の戦闘に巻き込まれ、頭を撃たれて亡くなった。「悲しくて悲しくて仕方がなかった」。葬式では号泣しながら見送った。

 訓練学校では、スマートフォンなど精密機械の修理を学ぶコースもあったが迷わずテーラーを選んだ。学校に行かず、毎日農場に通う自分の未来が開けた気がした。

 「すぐにシリアに帰るのは無理だろうね。だからキャンプで店を開きたい。大人用も子ども用も女性用も、何でも作れるテーラーになりたい」

◇進む、自分変えるため

 皮膚に傷がつかぬよう、切断した右脚の先端に包帯を巻き、義足を取り付ける。ズボンをはき、靴下をつける動作にも慣れた。ゆっくりとだが、自分の力で進むことができる。車椅子では得られない喜びだ。

 「乾ききったパンが破裂するように一瞬にして砕けたんだ」。アブドゥルサラーム・アルハリーリさん(19)は右脚を失った時のことを目を閉じて思い返した。

 
アスリートに 病院で義足を取り付けるアブドゥルサラーム・アルハリーリさん。砲弾の破片で右脚を切断した=アンマンで

 2015年3月、シリア南西部のダルアーの路地で友人たちと座って談笑していた時、戦車の砲弾が数メートル先に落ちた。閃光(せんこう)で視界が真っ白になり、甲高い爆音が耳をつんざいた。

 右脚に破片が直撃し、皮膚の一部でかろうじてつながっていた。強烈な痛みが走った。「もう終わりだ。自分はもう死ぬんだ」と悟り、直後に気絶した。運ばれた病院で太ももから下を切断した。

 4カ月後、転院した「国境なき医師団」が運営するアンマンの病院で義足を作った。シリアにはそうした施設がなかった。介助なしでは行き先が限られる車椅子。初めて義足を付けて立ち上がった時、忘れていた感覚を思い出した。今では休憩を挟めば1キロ近く歩くこともでき、階段も上れる。「自分じゃないみたいだ」。ふさぎ込んだ気分はどこかに消えていた。

 180センチを超す長身に広い肩幅。サッカー人気の高いシリアでは地元のクラブチームでミッドフィールダーとしてプレー。運動神経には自信があった。

 パラリンピックを見たことがないというアブドゥルサラームさんに、義足を付けて陸上競技で活躍するアスリートの動画を見せた。「義足でこんなことができるのですか。僕もスポーツ用の義足が欲しい。いつか挑戦してみたい」。目を輝かせ、リハビリ室に戻っていった。

◇18歳未満、半数の34万人 8万人以上、学校通えず

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ヨルダンで暮らすシリア難民約65万人のうち、52%にあたる約34万人が18歳未満。ヨルダン政府は難民キャンプ内に学校を設けるなどして、教育の機会を与えている。

サポートスクールで勉強する子どもたち=アンマンで

 しかし、国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」によると、学齢期の22万6000人のうち8万人以上が公的な教育を受けていない。理由は、貧困のため働かなければならない▽内戦の長期化で、学校から離れ学力が追い付かない▽通学費が支払えない――など。貯金のない家庭がほとんどで、労働に就く子どもたちは今後も増える見込みだ。

 ユニセフ(国連児童基金)はNGOなどと協力し、アラビア語で「私の居場所」という意味の「マカニ」と呼ばれるサポートスクールを全国で約220カ所運営する。アラビア語、英語、数学などを基礎から学べ、公立学校に編入する学力を身に着けることが目標だ。コミュニケーション能力を高めるためのプログラムもあり、「生きる力」をつけてもらうのが狙いだ。

 ユニセフのヨルダン事務所の広報責任者、ミラージュ・プラダンさんは「15歳くらいになると、教育を受けていない自分たちは難民生活を続けても未来がないと考え始める。希望をなくし、テロリストの思想に共鳴するケースもあるだろう。だからこそ若者に目を向けて、教育に力を入れることが大切。子どもたちを『ロストジェネレーション』にしてはならない」と話す。

■ことば
 ◇シリア内戦と難民

 「アラブの春」に触発されて始まった反体制デモをアサド政権が2011年3月に武力弾圧し、内戦に発展した。政権、反体制派、過激派組織「イスラム国」(IS)、クルド人勢力が互いに抗争。アサド政権はロシアやイラン、反体制派は欧米、サウジアラビア、トルコなどからそれぞれ支援を受ける。

 国連などによると、死者が25万人以上、周辺国に逃れた難民は約480万人。トルコが276万人、レバノンが101万人、ヨルダンが65万人を受け入れた。トルコからギリシャ経由で欧州を目指すシリア人も多い。欧州連合(EU)とトルコ政府は3月、欧州への密入国者をトルコに強制送還することで合意している。

海外難民キャンペーン 1080万円を24団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2015年度の海外難民救援金1080万円を国連救援機関や難民支援活動をしているNGO(非政府組織)など24団体に贈呈しました。毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は16億503万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

 日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽国境なき医師団▽AMDA▽シェア(国際保健協力市民の会)▽JEN▽シャンティ国際ボランティア会▽AAR(難民を助ける会)▽JVC(日本国際ボランティアセンター)▽ピースウィンズ・ジャパン▽緑のサヘル▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽ネパール・ヨードを支える会▽マハムニ母子寮関西連絡所▽ハイチ友の会▽日本ネパール女性教育協会▽シエラレオネフレンズ▽ラリグラス・ジャパン▽アジア協会アジア友の会▽アイキャン▽ペシャワール会▽ロシナンテス

少女たちの祈り 〜ネパールから〜

 2015年度は「最貧国で生きる女の子」をテーマに、宗教的、伝統的に女性に対する性差別が根強く残るネパールで、「女の子だから」という理由で教育の機会を奪われ、将来を制限され、厳しい環境に追いやられながらも必死に生きる少女たちを取材しました。国連が女子差別の撤廃を目指して制定した「国際ガールズ・デイ」(10月11日)の前後に「少女たちの祈り」と題した連続キャンペーンとして本紙に掲載され、読者の大きな反響を呼びました。全文を掲載します。

『国際ガールズ・デイに』

◇手の届かぬ学校 ネパールの少女

 「友達はみんな学校に行ってるけど、私は妹の面倒を見るからいいの」。今年4月25日、マグニチュード(M)7・8の大地震に襲われたネパール。今も復興は遅々として進まない。首都カトマンズに近いバクタプルで、自宅が崩壊してテント村に暮らす小学4年のアイスカ・ゴルカリちゃん(10)が寂しげにつぶやいた。本音は、違う。10月11日は国連が女子差別の撤廃を目指して制定した「国際ガールズ・デー」。だが、ネパールの少女たちは過酷な現実に直面している。【カトマンズ武内彩】

避難先のテント村で妹スミラちゃんの世話をするアイスカ・ゴルカリちゃん=ネパール・バクタプルで、幾島健太郎撮影

◇新しい制服 心待ちに

 旧王宮や寺院が並ぶ世界遺産の街として知られるバクタプル。古いれんが造りの家屋は揺れにもろく、今年4月の地震で約1万9000戸が全壊。333人が犠牲になり、美しい町並みは一変した。アイスカ・ゴルカリちゃん(10)の家も全壊し、海外からの支援でできた約250世帯が身を寄せ合うテント村で両親や妹、祖父と暮らす。

 雨期のさなかの8月末の夜明け前、テント村のそばを流れる川が降り続いた雨で氾濫した。アイスカちゃんは無事だったが、がれきの中から捜し出して大切に持っていた制服は流された。以来、好きだった学校には一度も行っていない。貧しさにあえぐ母親の姿を見て育った少女は、1500ルピー(約1700円)もする新しい制服をねだることはできない。

 ネパールを含む南アジアでは宗教的、伝統的に性差別が根強く残る。「女の子だから」という理由で兄弟が学校に通う間も農作業や家事に追われる。

 「勉強は全部得意なの。でも算数はちょっと苦手」。はにかむ少女にとって、学校に通うことは貧しさから抜け出す唯一の希望だった。

 しかし、度重なる災害が貧しさに追い打ちをかけ、教育を受ける機会を奪った。洪水後は生後9カ月の妹スミラちゃんをあやして所在なげに過ごす。「本当は先生になりたいの」。小さな声でつぶやき、力なく笑った。

 地面に座り子守をするアイスカちゃんの隣で、母のアンジェさん(30)が観光客向けの毛糸の帽子を慣れた手つきで編んでいた。一つ編めば25ルピー(約30円)の手間賃が手に入る。

 夫は病気を理由に働こうとせず、わずかに残った食器さえ売り払ってしまった。アンジェさんは「それでも夫という存在はいた方がいい」。貧しい女性が男女格差の残る社会でシングルマザーとして生きるのは困難だ。

 5年生までしか学校に通えなかったアンジェさんは「娘には教育を」と願う。「何年生まで行かせられるか分からないけれど、できるだけ勉強させたい」。少し前、外国の支援団体がアイスカちゃんに新しい制服をくれると約束してくれた。母娘は期待して待っている。【カトマンズ武内彩】

 ■ことば
 ◇国際ガールズ・デー
 「女の子だから」という理由で、十分な教育を受けられなかったり、人身売買や早婚を強いられたりする少女の状況を改善しようと、国連が2011年に制定した。国連児童基金(ユニセフ)によると、世界では初等教育を受ける年齢の少女のうち10人に1人が学校に通えず、15〜19歳の思春期の出産は年間1310万件にのぼる。国連開発計画(UNDP)の統計では、ネパールで「一度でも中等教育を受けたことがある」という25歳以上の女性は2割以下にとどまる。

約250世帯が避難生活を送るテント村で、母アンジェさん、妹スミラちゃんらと暮らすアイスカ・ゴルカリちゃん=ネパール・バクタプルで、幾島健太郎撮影

『少女たちの祈り』はじめに

◇13歳 恐れていた闇

「生理なんて、一生こなければよかったのに」。初潮を迎えたばかりの13歳の少女が自分の体に絶望していた。血を不浄とするヒンズー教の考えに迷信が重なり、生理中の女性は家族と離れ、狭くて暗い「生理小屋」での寝泊まりを強いられる。アジア最貧国の一つで、宗教的、伝統的に性差別が根強く残るネパールの山村で、生理中の女性を隔離する「チャウパディ慣習」が少女たちを苦しめている。 習慣が残るのは、開発が遅れているとされる極西部や中西部の山村。村人は「小屋に入らなければ神様が怒って悪いことが起きる」と恐れる。電気も水道もないドティ地区サラダ村では、約60軒のほとんどの家に生理小屋がある。家畜小屋として使われることもある小屋の衛生状態は悪い。

 村の学校に通うスンニタ・コリさん(13)は4日前、初潮がきたことに気付いた。年上の少女らが、夜の闇におびえながら小屋で過ごすのを見てきた。母親に「小屋に入りたくない」と泣いて頼んだが、「神様に怒られるから」と聞いてもらえなかった。「初潮がうれしいなんてとんでもない。けがれたって言われるのよ。もう元には戻れないんだから」

 ネパールでは、少女が性差別にさらされ、人身売買の被害に遭ったり、十分に勉強できないまま10代で結婚や出産を迫られたりする。社会に翻弄(ほんろう)される彼女たちの姿をリポートする。【文・武内彩、写真・幾島健太郎】

初潮を迎え、初めて生理小屋で過ごすスンニタ・コリさん=ネパール・サラダ村で

『少女たちの祈り』①

◇「生理小屋」劣悪な環境

 「生理中の人はどいて、水に触れないで」――。肌を焼く暑さの中、川でくんだ水を入れたかめを頭で支え坂道を上がってきた女性が、車座になっておしゃべりに興じていた女性たちに声をかけた。生理中の女性が触れるとけがれると信じているのだ。数年前まで徒歩でしか行けなかったというネパール極西部の山あいにあるサラダ村。ほとんどの子どもが学校に通う教育熱心な村だが、生理に対する考え方は古い因習にとらわれたまま。生理中の女性を隔離する「チャウパディ慣習」が残る。

 村では生理中の女性は、初潮時は10日間小屋に入る。2回目は8日間、3回目から妊娠するまでは6日間、出産を経験した後は5日間と決められている。出産直後も新生児と一緒に土の床に寝て過ごす。狭く暗い泥壁に囲まれ、夏は猛暑に耐え、冬はたき火で寒さをしのぐ。2年ほど前から家々にトイレが整備され始めたが、生理中はけがれるからと使えず、川の近くの茂みで用を足す。

 小屋に入って2日目のバカバティ・マジさん(17)は「自分に娘ができたら絶対に小屋には入れない」と心に決めている。別の村では、小屋にいた女性が性的暴行を受けたり、毒蛇にかまれたりしたと聞いた。それでも「自分は仕方ない。もし入るのをやめて村に何か悪いことが起きたら私のせいだと責められる」と下を向いた。

 小屋に入っている間は、日常生活のさまざまなことを制限される。冬でも朝一番に冷たい川で身を清め、男性や家畜に触れることはできない。誰かと一緒に食事をすることや栄養価の高い乳製品を食べることは、「同席した人や家畜がけがれるから」と禁止される。その一方で、草刈りや収穫など屋外での労働は普段通りだ。昨年からトイレと隣り合わせに造られた小屋に入り始めたギャヌ・マジさん(15)は「結婚してこの習慣のない村に行くしかない」とあきらめたように話す。

 生理中や出産後は清潔にすべきだと学んだ若い世代は「こんな慣習はやめた方がいい」と口をそろえる。ネパールの女性問題に詳しい福岡県立大の佐野麻由子准教授(社会学)は「4月の大地震後、生理中の女性は不浄という理由で避難所にいられなくなったという話を現地の支援団体から聞いた。宗教的な価値観は尊重されるべきだが、他人に強制されたり恐怖心をあおって守らせたりするような習慣は、時間がかかってもなくしていくべきだろう」と指摘する。

 政府の廃止に向けた取り組みも始まったが、教育を十分受けられなかった年配の世代が根拠のない迷信で少女たちを縛り続ける。3歳の孫娘を抱いたラチュ・マジさん(54)は、当然とばかりに言い切った。「孫も小屋に入れるに決まっている。習慣は守ってもらわないと困るんだよ」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

 ■ことば
 ◇チャウパディ慣習
 「チャウパディ」はネパール語で「けがれているため触れてはいけない状態」を意味する。ネパール最高裁は2005年、チャウパディ慣習は女性に対する権利侵害だと認め、政府に対して廃止に向けた具体的な取り組みを求めた。これを受けて、政府は07年にチャウパディ慣習根絶令を施行し、地方行政機関などが住民の意識改革を行うように命じた。これにより生理小屋を取り壊す村も出てきている。

泥壁の生理小屋の前に立つギャヌ・マジさん=ネパール・サラダ村で

『少女たちの祈り』②

◇故郷の歌は「心の薬」

 お釈迦(しゃか)さまはネパールで生まれたというけれど、私たちを助けるには仏様は一人じゃ足りません――。

 澄んだ声で自分で作詞したという曲を歌うパリヤールさん(18)。カトマンズの学校に通う茶色の瞳をした利発そうな少女は幼いころにインドに売られ、メイドとして働かされた。10歳で逃げ出すまで自分の名前さえ書けず、売られた時が幼すぎたため、帰るべき故郷の村の名前も覚えていない。ネパールではインドや中東などへ人身売買される少女が後を絶たない。

 パリヤールさんが幼いころ、両親は自動車事故で亡くなった。言葉を話し始めたばかりだった弟と2人で、同じ村に住む男に引き取られた。ほどなくして男は「インドに行けば勉強もできるし、新しい服も金ももらえる」と言い出した。弟は男が面倒を見ると約束してくれた。「学校に行ける」という言葉に大喜びし、将来は貯金して弟のもとに帰ろうと決めた。

 連れて行かれたのはインド・ニューデリーにある男の子が2人いる家だった。自分がいくらで売られたのかは知らない。朝4時から寝るまで家事に追われ、学校には通わせてもらえなかった。外出も近所の人と話すことも禁じられ、皿を割れば殴られた。家族の食べ残しを食べ、毛布1枚を敷いて床で寝た。弟のことを思い、村で覚えた歌を泣きながら口ずさんだ。

 数年後のひどく殴られた日の夕方、勇気を振り絞って裸足で逃げた。大きな木の上で寝ずに過ごした翌朝、通りかかった女性に警察に連れて行ってもらった。その後、ネパールで人身売買の撲滅に取り組む現地のNGO(非政府組織)「マイティ・ネパール」に保護され、同じ境遇の子どもたちと寮で暮らしながら、隣接する学校に通っている。

 マイティは2014年、183人の被害者をインドなどから救出、保護した。半数近くが18歳以下で、アヌラダ・コイララ代表(66)は「最近はインドを中継して、中東やアフリカなど世界中が人身売買の目的地になっている。家事労働の約束で連れていかれた先で性的虐待を受ける場合もある。救出された子の心の痛みに触れるたび、防がなければと強く思う」と話す。

 つらい時も寂しい時も歌に支えられてきたというパリヤールさんの夢は、音楽教師になること。「歌は心の薬みたいなもの、つらい時も歌えば元気が出るから」。消息の分からない弟に会いたいという願いを胸に、これからも歌い続ける。【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

インドに売られ、働かされていたパリヤールさん=ネパール・カトマンズで

『少女たちの祈り』③

◇希望胸にHIV治療

 「食事や洗濯をして、テレビを見て1日を終える。何も起こらない普通の生活が一番いい」。10代でインドの売春宿へ売られ、HIV(エイズウイルス)に感染した女性がつぶやいた。人身売買撲滅に取り組む現地NGO「マイティ・ネパール」が運営するカトマンズ近郊のホスピス。簡素な部屋の壁には色鮮やかなヒンズー教の神々の絵。ここでしか生きられない女性たちは何を祈るのか。

 カトマンズの喧噪(けんそう)を離れ、車で約45分。田畑に囲まれた農村の一角で、感染被害者や精神疾患を抱える10代から50代の女性31人が暮らす。看護師も住み込んでおり、マイティの活動を支援する日本の認定NPO法人「ラリグラス・ジャパン」などの協力で投薬治療も行う。

 外の世界と一線を引くように、ぴたりと閉じた鉄の門に守られたれんが造りの建物。女性らは当番制で料理や掃除をし、海外のNGOから受注したアクセサリーを作ったり、農作業をしたりして過ごす。テレビ室に集まり、映画を見るのが楽しみだ。

 17歳でマイティに保護され、HIV感染が分かったマガルさん(35)は、ネパール西部のインド国境近くの出身。11歳のころ「いい仕事がある」と声をかけてきた男女と食事中に意識を失い、気が付いた時にはインド・ムンバイの売春宿だった。客を取るのを嫌がれば意識がもうろうとする薬を注射され、店が雇ったギャングに性的暴行を加えられた。

 ある日、逃げようと外に飛び出して交通事故に遭遇。病院からの通報で保護されたが、右半身にまひが残る。薬物の影響か、会話や振る舞いは幼児のようで、家族の名前さえはっきり覚えていない。

 12年前に保護されたライさんはネパール系ブータン人。貧しさから学校に通えず、正確な年齢は不明だ。父親の仕事仲間の男にだまされて売られ、ムンバイの売春宿で約3年間、軟禁状態で働かされてHIVに感染。保護された当時の病院の見立ては「せいぜい16歳」だった。

 物静かなライさんだが、家族のように面倒を見てきたシータ(14)というエイズ孤児の少女の話をする時は目を輝かせる。シータも母子感染しているが病状が安定しているため、ホスピスを出てマイティの子ども寮で暮らし、学校に通う。ホスピスでの朝晩の投薬治療なしには生きられないライさんにとって、外の世界に羽ばたいたシータは希望だ。「シータには好きなことをして自由に生きてほしい。それが私の願いです」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

インドの売春宿で働かされ、HIVに感染したマガルさん=ネパール・カトマンズで

『少女たちの祈り』④

◇難民 夢追い新天地へ

 「古里を去るのは寂しい。でも、持って出ようと思うものは何もないわ」。ネパール東部ダマクにある「ブータン難民キャンプ」を出て、米国で新しい人生を始めようとするマンマヤ・ブジェルさん(20)はそう言い切った。「幸せの国」といわれるブータンでは1980年代後半、民族主義的な政策から、政府が言語や宗教の異なるネパール系住民を弾圧し、10万人以上がネパールに逃れた。キャンプで生まれた若い世代は、ブータンやネパールではなく、米国やカナダなど第三国での定住に希望を託す。

 森を切り開いてできたキャンプは時間の経過とともに周辺集落との境界もあいまいになり、難民と村人が自由に行き来する。双方からの買い物客でにぎわうキャンプそばの通りには、先に米国などに移り住んだ親類からの送金を受け取る銀行の窓口が並び、最新型のスマートフォンも手に入る。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が2007年から進める難民の第三国定住で、これまでに約10万人が新しい生活を始めている。

 一方、現在も約2万人が暮らすキャンプ内の住居は、竹を編んだ質素な小屋だ。両親と暮らすマンマヤさんの自宅も日中は竹の隙間(すきま)から薄い光が差し込むが、住居が密集しているため風は通らない。このキャンプで生まれ育ち、ブータンの言葉は簡単なあいさつができる程度。親の世代とはブータンに対する思いも違う。「何人かと聞かれればブータン人だと答えるけど……。帰りたいと思ったことはない」

 キャンプ内の学校で10年生を修了後、両親が野菜などを売って工面してくれた学費で、ダマクの町にある学校に進学した。昨春に優秀な成績で卒業したが、難民にはネパール国内での就労権は認められておらず、まっとうな就職先はない。「努力しても難民の私にはチャンスすらない」と話す。

 マンマヤさんと両親は、祖父母や姉(23)が先に暮らす米テキサス州での定住を希望し、UNHCRによる審査結果を待つ。友達の多くは既に第三国に旅立った。定住先で高校に通いながら英語を勉強していると電話で聞くたび、取り残されたようで焦る。米国でなら、夢である看護師になれるかもと期待するが、「20歳になってしまったから学校に入るのは無理かもしれない」と不安も感じる。

 両親は娘の将来を案じて母国への未練を断ち切った。マンマヤさんも新天地に懸けている。「チャンスはあるはず。言葉の壁なんて努力で乗り越えてみせる」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=つづく

竹で編まれた自宅の部屋で過ごすマンマヤ・ブジェルさん=ネパール・ダマクで

『少女たちの祈り』⑤

◇諦めず学ぶ心伝えたい

 「どんなことがあっても勉強は続けたかった。学ぶのを諦めようと思ったことは一度もないです」。学費工面のため石運びの仕事にも就いたことのあるゴマ・ガレさん(18)は今夏、これまでの努力が認められ、ネパール第2の都市ポカラの学校で奨学生として学び始めた。卒業したら古里の村に帰って小学校の先生になるつもりだ。

 ゴマさんが生まれたのは、ポカラから徒歩とバスで3日かかるというゴルカ地区ケロンガ村。両親は幼い頃に亡くなった。6歳上の兄が結婚したのを機に6年生のときから実家を出て、少数民族や低カースト出身の貧しい少女が暮らす寮に入った。政府が無償で食事と寝る場所を提供するが、約120人が暮らす寮では2段ベッドが押し込まれた部屋で30人が寝起きし、人数が増えればベッドも共有したという。

 ゴマさんの兄は自分の家族を養うために2年前からマレーシアに出稼ぎに行き、警備員として働く。インフラ整備が遅れる山間部では、海外への出稼ぎは主要な「産業」だ。兄はわずかながらも妻子に仕送りをしているが、ゴマさんの面倒までは難しい。ゴマさんは今春、10年生を修了して寮を出ることになったが、どうしても進学を諦めきれなかった。

 そのため自分で学費をためようと、実家から徒歩で2日かかる町の建設現場で、住み込みの石運びの仕事を見つけた。竹で編んだかごに石を入れ、通したひもを頭と肩で支えて運ぶ。午前7時から午後5時まで、途中1度の食事休憩以外は働きづめだ。身長150センチほどのゴマさんの両肩の皮膚はすぐにはがれた。1日500ルピー(約600円)にしかならず、「このまま石運びをして一生を終えるのかも」という不安が頭をよぎったという。

 救ったのは、現地で女子教育の普及に取り組む認定NPO法人「日本ネパール女性教育協会」(東京)だ。学校在籍時に成績優秀だったことから、今年7月、推薦を受けて奨学生に選ばれた。ポカラにある同協会の学生寮で暮らし、無償で2年間の高等教育を受けられることになった。また勉強できると分かった時は、うれしくて涙が出た。

 石運びでためたお金で買ったという真新しいリュックサックにわずかな着替えだけを詰め、ポカラにやって来た。都会暮らしに戸惑うこともあるが、同じような境遇の仲間と教師を目指して頑張っている。「ケロンガに帰ったら優しい先生になりたい。次は私が村の女の子たちにしっかり勉強するように教えるつもり」【文・武内彩、写真・幾島健太郎】=おわり

笑顔で手を振り「行ってきます」。寮から登校するゴマ・ガレさん(中央)ら=ネパール・ポカラで

海外難民キャンペーン  980万円を22団体に贈呈

 皆さまから寄せられました2014年度の海外難民救援金980万円を国連救援機関や難民支援活動をしているNGO(非政府組織)など22団体に贈呈しました。

 毎日新聞社と毎日新聞東京・大阪・西部社会事業団が海外飢餓・難民キャンペーンを始めた1979年以来、これまでに贈呈した救援金は15億9423万8344円になりました。

 贈呈先は次の通りです。(順不同)

日本ユニセフ協会▽国連UNHCR協会▽国連世界食糧計画WFP協会▽AMDA▽シェア(国際保健協力市民の会)▽JEN▽シャンティ国際ボランティア会▽全国社会福祉協議会▽AAR(難民を助ける会)▽JVC(日本国際ボランティアセンター)▽バーンロムサイ▽ピースウィンズ・ジャパン▽緑のサヘル▽ワールド・ビジョン・ジャパン▽難民支援協会▽ネパール・ヨードを支える会▽マハムニ母子寮関西連絡所▽ハイチ友の会▽CODE海外災害援助市民センター▽シエラレオネフレンズ▽ペシャワール会▽ロシナンテス

「見えない鎖」 ハイチ・ドミニカ報告

「西半球の最貧国」と呼ばれるカリブ海の島国ハイチでは、子どもたちが、より豊かな隣国ドミニカ共和国に売られるケースが後を絶ちません。大半は親や親戚によってわずか数千円から数万円で売られていきます。売られる先はさまざまですが、大半は学校にも通わせてもらえず、路上で物乞いや靴磨きをさせられたり、家事を強制されたりします。一方、仕事を求めて自らドミニカに渡る子どもたちもいます。しかし、働く場所がなく、路上で生活する過酷な現実が待っていることも少なくありません。さまざまな思いを抱き国境を越える子どもたち。彼らの姿に迫りました。
【文・松井聡/写真・望月亮一】

僕は奴隷

明かりを取り込む窓から、外を見つめるラルフ・ジャン・バプティスト君

 暗く蒸し暑い部屋の窓からラルフ・ジャン・バプティスト君(13)は外を眺めていた。視線の先にはボールを蹴る子どもたちの姿がある。笑い声も聞こえる。「他の子はおなかいっぱい食べられて、遊べて学校にも行ける。でも僕は、そういうことはできないんだ」

 カリブ海の島国、ハイチの首都ポルトープランス。スラムの一つ、ソリノ地区でラルフ君は*レスタベック(子ども奴隷)として暮らしている。2010年の大地震で両親を失った。この暮らしの始まりだった。

 「朝7時に起きて、水くみ、家の掃除、買い出し、洗濯……。夜10時に寝るまでずっと働いている。食事は1日に1回で、少しのパンしかもらえない。働かないと、ものすごく怒られる」

 ラルフ君はポルトープランス近郊で生まれた。一人っ子で可愛がられ、学校にも通っていた。9歳の時に地震が起き、知り合いの家を訪れていた両親は倒壊した民家の下敷きになった。自宅にいたラルフ君だけが助かり、親戚に預けられた。

 学校に通わせてもらえず、朝から晩まで家事をさせられた。食事をもらえず、欲しがると、親戚から電気コードや木の棒で繰り返し、たたかれた。体には今もいくつかの小さな傷が残る。

 1年後、虐待されていることを知った叔母(43)が引き取った。しかし、暴力を振るわれることこそなくなったが、期待していた学校へは行かせてもらえず、朝から晩まで家事をする日々は変わらなかった。叔母の家族5人はベッドで寝るが、彼だけコンクリートの床で寝かされている。

 ラルフ君の家を訪ねた。15平方メートル程度の部屋には大きなベッドやバイク、日本製のテレビが置いてある。叔父(44)は警備員で月6800ハイチグールド(約1万5000円)の収入があるといい、平均月収が4000円程度のスラムでは裕福な方だ。

 そんな家で、ラルフ君が一番つらいのは朝だ。一緒に暮らす叔母の長女(7)を学校に送り出す。「悔しさと悲しさが込み上げてくる。こんな生活から逃げ出したいけど、逃げる場所もないんだ」

*レスタベック
 貧しさなどから子どもを養育できない親が、他人に預けること。フランス語の「Reste avec(一緒にいる)」から派生したハイチ・クレオール語。「子ども奴隷」や「奉公奴隷」と呼ばれる。大半は食事を満足に与えられないうえ学校にも通わせてもらえず、家事や労働を強制される。暴行や性的虐待を受けるケースも少なくない。米国務省などによると、ハイチ全土で50万人に上るともいう。

同い年の登校姿に涙

床を拭くジュデリーヌ・ドゥシールさん。毎日朝5時から働きづめだ

 今にも崩れそうなトタン屋根の家で、一人の少女がしゃがみ込み、コンクリートの床をタオルで磨いていた。ジュデリーヌ・ドゥシールさん(12)。ハイチの首都、ポルトープランスのソリノ地区にある叔母の家で暮らすレスタベック(子ども奴隷)だ。「学校に行かせてくれるという約束で3年前に叔母の家に来ました。でも、まだ行かせてもらえません。一日中働かされてばかりです」

 ハイチ西部の村で生まれた。9人きょうだいの3番目で一家は貧しく、小学校には通えなかった。路上で物売りをする両親の代わりに家で弟や妹の面倒を見ていた。

 ある日、父が言った。「叔母さんがお前を学校に通わせてくれると言っている。行ってみるか」。英語教師になることが夢だったジュデリーヌさんは「もちろん。絶対に行きたい」とすぐに答えた。数日後、「教師になり家計を助けたい」と期待に胸膨らませ、叔母の家にやってきた。しかし、現実は過酷なものだった。

 毎朝5時に起き、1時間以上歩いて泉まで水をくみに行く。バケツの重さは20キロにもなる。帰ってすぐ朝食を作り、その後は洗濯、掃除、買い出しと寝るまで働きづめだ。食事は1日1食、朝のパンとコーヒーだけ。寝るのも一人だけ床だ。

 記者が家で話を聞いていると、叔母(28)が外出先から帰宅した。一瞬戸惑ったような表情を見せた。記者が「なぜ学校に通わせるという約束を守らないのか」と尋ねた。叔母は「学校に行く意味はない。生きていくために家事の訓練をしてあげているのに、文句を言われる筋合いはない」と言い放った。

 「同い年の子が学校に行くのを見ると、涙が出る。実家に帰るお金もない。今の生活を抜け出したいけど、手足を縛られているようなもの」。床磨きを終えると、ジュデリーヌさんはそう言い、買い出しのためスラムの雑踏に消えていった。

隣国に売られ、路上へ

路上で生活するジュニオール・ディステニー君。靴磨きの客を待つ間も、ネオンや車のライトが彼を照らし続ける

「お前を売って本当にすまなかった。苦しい思いをさせてしまった」

 カリブ海最大級の都市、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴ。ジュニオール・ディステニー君(17)は、電話口で泣きながら謝る父の言葉を聞き、路上で大粒の涙を流した。ハイチの貧しい田舎から、ドミニカ共和国の大都会に売られて以来、12年ぶりに聞く父デネールさんの声だった。

 6月下旬の夜9時過ぎ。高級ホテルやカジノが並ぶ海沿いの通りにジュニオール君はいた。観光客を見つけては駆け寄り、慣れた手つきで靴を磨いていた。「なぜ、ドミニカに来たの?」「父が売ったんだ」

 ドミニカ共和国とハイチの国境近くの町に生まれた。5歳の時、病気がちだった母の治療費数千円のため、父がドミニカ共和国に住む「ビキアンヌ」という名のハイチ人女性に売った。「トラフィッカー」(密入国あっせん業者)の男と一緒に国境を越え、サントドミンゴに着いた。

 ジュニオール君がビキアンヌの家に着くと他に数人のハイチ人の子どもがいた。ビキアンヌはハイチの貧しい家庭から子どもを買い、路上で物乞いをさせ金を巻き上げていた。「やめて。次はもっとお金を持ってくるから」。稼ぎが少ないと、ビキアンヌは自転車のチェーンで顔や体を容赦なく殴った。「地獄そのもの」だった。

 そんな生活が5年も続いた。ある日、我慢が限界に達した。家を飛び出し、半日以上、裸足で走り続けた。以来7年間、この通りで靴磨きや日雇いの建設労働をして暮らす。

 3カ月前、同郷の知人を通じて父の携帯電話の番号を知った。友人から電話を借り、売られて以来初めて話した。謝罪を繰り返す父に、涙で言葉を詰まらせながら「許す。許す」と何度も答えた。

 「これまでの人生は生きる意味がなかった。でも父と話してモヤモヤしていたものが取れた気がする。いつかお金をためてハイチに戻りたい」。そう言って笑顔を見せ、再び靴磨きに向かった。

 ユニセフによると、ハイチからドミニカ共和国に売られる子どもは年に2000人以上いる。ハイチの子ども保護機関が国境で監視しているが、トラフィッカーと一緒に密入国する子どもは後を絶たない。

 100人以上子どもを密入国させたトラフィッカーの男(36)は取材に「山を越えればいくらでも密入国できる。子どもを売る親がいる限り俺たちの商売は安泰だ」と自慢げに話した。

帰れぬ家、捨てた名前

仲間と車を掃除するブルース・リー君(手前左)。つらい境遇のなか、「強くないと生きていけない」と懸命に働く

 ハイチの首都ポルトープランス中心部にあるシャンドマルス広場。緑色の芝生が広がる公園に車が近付くと、10人近くの少年たちが走って車を囲み、手にした雑巾で勝手に車を拭き始めた。広場で暮らすストリートチルドレンたちだ。車を拭くとわずかなチップをもらえることがある。それが生活の糧だ。

 一人の少年が額に汗をにじませ、必死に手を動かしていた。ブルース・リー君(14)。レスタベック(子ども奴隷)から逃げ出し、路上で生活していた。ストリートチルドレンたちは、互いにニックネームで呼び合う。「暗い過去の人生と決別するため」という。

 ブルース君も往年のカンフー映画のスターから名前を取った。ハイチでも根強い人気がある。「ここでは簡単にみんな死んでいく。ブルース・リーみたいに強くないと生きていけないんだ」

 ポルトープランス近郊で生まれたが、家は貧しかった。7歳でレスタベックとして両親の知人の女性に預けられた。一日中、掃除や洗濯などの家事をさせられ、食事を与えられなかった。食べ物を求めると、女性から毎日木の棒や電気コードで思い切り殴られた。

 「逃げるしかない」。1週間ほど過ぎたある朝、裸足で逃げ出した。足の裏に血をにじませながら約2時間走り、やっとの思いで実家にたどり着いた。しかし、待っていたのは思いがけない父の一言だった。

 「うちにお前を育てる金はない。分かっているだろ。戻ってくれ」

 父の一言に、目の前が真っ暗になった。行き場所は路上しかなかった。それ以来、本名を捨て、7年間物乞いをしたり、車を拭いたりして生活している。食べ物にありつけない日も多く、身長は140センチほどしかない。

 「ここでの生活は本当につらい。僕らのことを良く思っていない人が多いんだ。酔っ払いやドラッグでおかしくなった連中がコンクリートブロックで殴ってきたり、銃で撃ってきたりする」。広場の木の下のベンチで寝る時は、襲われても反撃できるよう護身用の石を頭の横に置いている。

 ブルース君には夢がある。「れんが積み職人」になることだ。時間があると工事現場に行き、作業を見ている。「いつか自分も職人になって、こんな路上の生活から抜け出したい」

 れんが積み職人になりたい理由をたずねると、彼は黙った。しばらくして言った。「父さんが職人だったから」。うつむき、目には涙があふれていた。

国籍なし、職に就けず

マセリーヌさんは涙を流し、言った。「私はドミニカ人でもハイチ人でもない。早く自分の居場所を見つけたい」

 「私には国籍がありません。出生証明書や身分証もない。仕事に就けないんです」

 白い砂浜が続くドミニカ共和国のリゾート地ボカチカ。町外れにハイチ出身者のための集会所がある。6月下旬の日が沈みかけた頃、友人と話し込む少女がいた。マセリーヌ・ルイさん(17)。8年前、ハイチの貧しい家庭からボカチカの叔母に売られた児童売買の被害者だ。虐待から逃げ出したが、パスポートも在留許可もないままに暮らしている。

 ハイチの首都ポルトープランス近郊で生まれた。5人きょうだいの長女だった。一家は貧しく、両親が出生届を出さなかったためハイチの国籍もない。9歳でボカチカに住む叔母に売られた。「稼ぎが少ない。何でもっとできないの」。毎日朝から晩までビーチで物売りをさせられ、売り上げが少ないと、電気コードや木の棒で体中を何時間もたたかれた。

 「もう耐えられない」。数カ月後、物売りに行くふりをして逃げ出した。行く当てがなく、路上で暮らした。物乞いは恥ずかしくてできず、飲食店の残飯をあさって食いつないだ。「こんなところで寝ていたら危ないわよ」。1週間ほどたった頃、福祉関係で働く女性に声をかけられた。「神は見捨てていなかった」。心の底からそう思った。女性の計らいで孤児院に入り、初めて学校に通えた。

 しかし14歳の誕生日を前に年齢制限から孤児院を出ることに。行き場所がなく、再び路上で生活を始めた。そんな生活から救ったのは友人から紹介された男性、ジャン・ピエールさん(21)だった。境遇を知ったハイチ人の彼との交際が始まり、ボカチカの彼の家で一緒に暮らし始めた。

 ただ、就職難は変わらない。「身分証明書かパスポートがないと雇えない」。マセリーヌさんは何度もスーパーの売り子や飲食店店員などの仕事に就こうとしているが、断られ続けている。「きちんと給料がもらえる仕事には就けない。残されているのは売春婦かドラッグの売人くらい」

 ドミニカにはこうした国籍やパスポートを持たないハイチ人が30万人以上いるとされる。ハイチ政府は今月から、ドミニカ共和国に住むハイチ出身者に出生証明書やパスポートを交付する政策を始めたが、申請者全員が対象になるか、不透明だ。

 

海外難民救援キャンペーン  「瞳輝くまで」ブルキナファソ報告

キャンプ内の病院の待合室でぐったりとする男の子=ゴーデボー難民キャンプで

 反政府武装組織の蜂起に端を発する西アフリカのマリ北部紛争は、2013年1月にフランスが軍事介入して収拾の様相を見せていますが、周辺国にはなお17万人を超す難民がいます。

掘削作業に従事する少年の目は、粉じんで真っ赤に充血している

 海外難民救援キャンペーン35年目の13年、マリの隣国の一つであるブルキナファソに取材班を派遣しました。

 日中の気温が40度を超える、ブルキナファソ北部のゴーデボー難民キャンプは、絶えず砂ぼこりが舞っていました。キャンプにはトゥアレグ族の約1万人が暮らしていますが、難民の多くは報復におびえ、帰郷のめどが立っていません。

 金鉱では、深さが20メートルにもなる縦穴の底で、収入を補うために少年たちが採掘作業に従事していました。

 難民の帰還が実現するまでには、まだまだ息の長い支援が必要です。

穴から掘り出した岩石を運ぶ少年たち

「あすを信じて」カンボジア・エイズ禍報告

簡易ベッドでぐったりする3歳男児。目はうつろで、体重は10キロしかない

 カンボジアの首都プノンペン郊外の養護施設には、エイズウイルス(HIV)に感染した0〜22歳の孤児ら約240人が暮らしています。

 母子感染したクリス君は生後間もなく、施設に引き取られました。エイズ感染を意識し始めた最近は、施設スタッフに「僕は何のために生まれてきたの?」と漏らすようになりました。 カンボジアはHIV感染が深刻な国の一つ。母子感染した子供たちは偏見に苦しみ、感染しても貧困から身を売る女性が絶えません。感染の連鎖は続いています。  

生後間もなく保護された女児には両親の記憶がない。ほとんど笑うことがなかった

海外飢餓・難民救援キャンペーン

難民写真パネル無料貸し出し

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