第3回「海辺のリア」(日本・2017年)
認知症でもいいじゃないか
84歳の仲代達矢が認知症の老人役に初挑戦した話題作です。しかも60年以上にわたって映画や舞台で活躍し、俳優の養成所も主宰するという、まるで自分自身を演じているような役回りです。大ベテランが認知症の人をどう演じるのか、作品自体に力はあるか、と気合を入れての鑑賞となりました。その感想を先に申し上げれば、「二度と見ることのできない入魂の演技を堪能した」ということでしょうか。
カンヌ国際映画祭に3年連続出品したこともある小林政広監督が、「春との旅」「日本の悲劇」に続いて仲代達矢を主演に迎えた作品です。
かつては大スターとして多くの大作、名作に出演し舞台でも活躍した桑畑兆吉(仲代)。その名声は過去のものとなり、認知症を患った彼は、遺産を狙う長女の由紀子(原田美枝子)に遺書を書かされた上、高級老人ホームに送り込まれました。
ある日、老人ホームを飛び出した兆吉は、シルクのパジャマの上に厚いコートをはおり、さらにスーツケースをひきずりながら、誰もいない海辺をさまよい歩くのです。父親を訪ねて来た次女の伸子(黒木華)と偶然再会した兆吉は、彼女とかみ合わない会話を繰り返しながら、海辺を行きつ戻りつします。
伸子は兆吉が妻とは別の女に産ませた子でした。その伸子が私生児を産んだことを許せない兆吉は、彼女を家から追い出していたのです。兆吉は再会した伸子にシェイクスピアの悲劇である「リア王」の娘コーディーリアの幻影を見ているようです。
小林監督は映画の中にその時々の社会現象を取り込むことで知られています。2005年の「バッシング」では前年に発生したイラク日本人人質事件をモチーフに製作し、カンヌ国際映画祭のコンペ部門で上映されました。12年の「日本の悲劇」では年金不正受給問題がテーマとなりました。そして今回は認知症です。
その仲代達矢の演技、「さすが」と言うべきか、あるいは「ちょっとね」と答えるべきか迷います。というのは84歳に見えないのです。眼光は鋭く肌のツヤも申し分ありません。海辺を歩く際の腕の振り方も力強く、老年というよりは壮年に近い。ファンを始め多くの人の視線にさらされる俳優という職業ゆえのオーラなのでしょうか。
彼は出演を依頼された際に脚本を見て「小林監督は(この作品を)喜劇的に、認知症でもいいじゃないかという形で描いている」と感じたそうです。認知症になったら大変とは描かず、こんなこともあるかもしれませんねとソフトに語りかけているように見えます。
このような視点で作品を振り返ると、兆吉が義理の息子の行男(阿部寛)に「あんたどちらさん?」と声をかけたり、徘徊を繰り返し、あるいは何もわからないように見えて、突然「リア王」のセリフをよどみなくしゃべり始めるというのは、喜劇そのものです。
映画の後半、兆吉は次女伸子との関係をリア王とその娘コーディーリアとの関係に重ね、海辺をステージにするかのように朗々と語っていきます。
「どうか、どうかわたしを殴らないでくれないか。私は、愚かな老人に過ぎないんだ。既に、80の坂を越えた。それに、実を言えばな、どうやら、心も、狂ってるらしい……そもそも、ここがどこなのか、それさえも判らないんだよ」
「毒をのめと言うなら、のもう。私を、心底、恨んでいる筈だからな……忘れは、しないぞ。お前の姉たちは、私を、酷(ひど)い目にあわせた。私を、恨んでいい理由は、お前にはあるが、あいつらには、ないんだ」
何もわからないまま遺言状を書かされたはずの兆吉が、実はすべてを分かっていたとも思えるセリフ、あるいは何かのきっかけで突然リア王の一節を思い出したようにも見える
セリフ。認知症の兆吉の中に閉じ込められていた執念がほとばしり、桜吹雪状に舞い散る様は、時に認知症の人にも見られる記憶の「覚醒」を思わせ、カタルシスを感じさせます。同時に劇中の兆吉だけでなく、演じている仲代達矢の素晴らしさをも味わうことができる場面といえるでしょう。
これまで映画の中に認知症の人が描かれる作品は多々ありました。しかしこんなに感動的に描かれる作品はあったでしょうか。認知症はこうだと決めつけない描き方が秀逸でした。
「海辺のリア」は全国各地で順次公開中。
2017年8月