蝶の眠り(2017年・日本、韓国)
愛の記憶は消えない
だれもが認知症になってもおかしくない超高齢社会を迎えた日本。映画でも認知症の人が出てくる作品は多いですが、認知症の人をこれほど美しく描いた作品は見たことがありません。それが可能になったのは、もちろんヒロインに中山美穂というアジア全域で高い知名度を持つ美人女優を迎えたこともあるでしょう。ですが、さらに決定的だったのは、韓国のチョン・ジェウン監督が、愛の詰まった記憶はたとえ消え去ったように見えても、実は残されているのでないかと信じ、それを日韓のカップルを通じて描こうとしたからだと思います。
人気作家の涼子(中山美穂)は、自分が遺伝性アルツハイマー病に侵されていることを知ります。死を意識した涼子は、まだ元気なうちに新しいことに挑戦しようと考え、大学で文学の講義を始めます。その初日、大学近くの居酒屋でアルバイトをする韓国人留学生のチャネ(キム・ジェウク)と出会い、小説の口述筆記を手伝ってもらうことにしました。作業に慣れたころ、愛犬が行方不明になり動揺する涼子と、心配して駆けつけたチャネは一気に惹かれ合っていきます。やがて病が進行する中、涼子はチャネへの愛と病状への不安との板挟みとなり、二人の関係を解消しようと決意するのですが……。
映画は鑑賞して楽しんでもらうことを目標にして作られるのですから、監督らのスタッフは感動的な作品に仕上げようと懸命に努力します。その一方で、リアル感も大事な要素なので、両方への配慮が求められます。たとえば医学的に間違いがないかどうかです。本作でいえば認知症の進行が速すぎないかどうか、認知症が始まっても大学で講義をしたり、小説を書き続けたりすることが出来るのか、あるいは記憶が失われたように見えても、愛する思いは心の中に残っているのかといったことです。
その点、脚本も兼ねたチョン・ジェウン監督は実にうまく仕上げています。家族のように大事にしていた愛犬を自分のミスで失うことになった時、自責の念で取り乱したり、大学の講義で感情を爆発させてしまったりする涼子の姿を織り込みながらも、それよりは二人の愛の姿を静かに見つめることに力を注ぎます。
そんな二人を結び続けることに貢献しているのが、涼子の家の膨大な蔵書です。実在する個人の家の中を埋め尽くし、背表紙の色彩がつながって全体でグラデーションとなるよう区分けされた蔵書たち。まるで大きな蝶が壁に向かいじっとしていて、本を手にする者にしばし夢を紡がせているかのようです。また林芙美子の「放浪記」はチャネが涼子を理解するための本として、さらに森鴎外の「雁」はチャネが大学で読んでいる作品としてそれぞれ登場しています。本は人間の記憶を着実にとどめるものとして、本作では効果的に使われるのです。涼子の書きかけの原稿は後年、彼女の愛する思いを証明する感動的な場面で再び登場します。
ともすれば、認知症になったら人生はお終いと悲観的に描かれることが多いですが、最近の研究を受けて、認知症になって記憶は失われても感情は残るし、周りの気持ちもわかっているという風に描かれることが徐々に増えています。
本作でも監督は涼子に、本当の思いをチャネに伝える方法を用意します。涼子とチャネのラストシーン。再会した二人の手が触れあったとき、涼子は何かを感じ取ったようです。遠くを見るような、いやそれさえももう一瞬のうちに消え去り、愛は残るのかという問いをすることすらためらわれるような、涼子のただただ美しく清らかな表情は見る者の胸に響くことでしょう。
チョン・ジェウン監督は、社会生活を始めたばかりの20歳の女性たちを鮮烈な映像で切り取った「子猫をお願い」(2001年)で長編デビューした女性監督です。近年は建築ドキュメンタリー「語る建築家」を発表し、高い評価を得ました。ロケに使われた住宅を選んだセンスにも感心します。
「蝶の眠り」は角川シネマ新宿ほか全国公開中。
2018年6月