第25回「ファーザー」(2020年・イギリス/フランス)

(C)NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINE-@ ORANGE STUDIO 2020

 この作品は『羊たちの沈黙』でアカデミー賞の主演男優賞に輝いたアンソニー・ホプキンスが、現実と幻想の境界が崩れていく認知症の父親をリアルに演じた人間ドラマです。

 ロンドンで独り暮らしを送る81歳のアンソニー。使いやすく落ち着いたフラットでの暮らしに不満はないものの、最近は記憶が薄れ始めています。心配する娘のアンがわざわざ介護人を手配したのに「腕時計を盗んだ」と拒否しアンを困らせます。そんな折、アンから新しい恋人とパリで暮らすので毎日は来ることができないと告げられショックを受けます。でも、それが事実とすれば、アンソニーのフラットに突然現れ、「アンと結婚して10年以上になる」と語る、この見知らぬ男は誰? なぜ彼はここが自分の家だと主張するのか? もしかして財産を奪おうとしている? そして、もう一人の娘、最愛のルーシーはどこに消えたのか? アンソニーの視点を通じ展開するドラマは生々しく、かつ不穏です。

 認知症本人の目線で描いていく映画は本欄でも紹介した『やさしい嘘と贈り物』など、これまで何本も作られていますが、本作のように、ここまでサスペンス仕立ての映像は無かったでしょう。見知らぬ男や女が入れ替わるように現れ、アンソニーに語り掛けるのですから、観客はどれが本当の映像なのかと考え続け、いやが応でも画面に引き込まれてしまいます。

 とはいえ不安をあおるような作品ではありません。新しい介護人を疑うアンソニーにアンがあわてず、「浴槽の下は捜したの?」と声をかけ、半信半疑の彼自身に腕時計を見つけさせる冷静な対応は実際にもよくある話で、脚本を書いたフロリアン・ゼレール監督の綿密な調査ぶりがうかがえます。室内を落ち着かずに、うろうろ歩き回ったり、セーターをうまく着られずアンが優しく手助けしたりするシーンなども介護する側の目線で織り込まれたカットです。

 アンソニーが再三口にする「ルーシーはなぜ顔を見せない」という謎めいた言葉も含め、すべてはラストで明らかにされますが、混乱するアンソニーに「まずは服を着替えましょう。それから公園に散歩に行きましょう、食事をしたら昼寝をしましょう」と落ち着かせる女性の声がリフレインします。

 我が国で認知症を患う人は2025年に65歳以上の5人に1人になると推計されています。認知症をただ怖いと恐れさせるのではなく、正しく理解し、残る人生を豊かに送ることができるようにしたいものです。アンソニー・ホプキンスの過剰さを抑えた演技からは認知症について考えさせられることが多いと思いました。

 本作は第93回アカデミー賞の作品賞、脚色賞など6部門にノミネートされていますが、主演男優賞(4月25日発表=日本時間)をアンソニー・ホプキンスが取れば30年ぶり2度目の栄冠となります。

 『ファーザー』は5月14日よりTOHOシネマズ シャンテ他全国公開。

 公式HP:https://thefather.jp/

2021年4月