コラム「母を撮る」

33年ぶりの同居の意味

関口祐加 映画監督

台風の朝-新聞を取りにいく母

 私は、こうと決めたら猪突(ちょとつ)猛進、即行動に移すタイプの人間です。そのことで人生において何度も痛い目(結婚の失敗など)にあっても! それは、自分の決断を一度も後悔したことがないからに違いありません。

 しかし、母と同居を決断することで一番悩んだのは、息子のことでした。可能ならば一緒に帰国したかった。でも当時元夫は、息子のことを豪州政府のWATCH LISTに記載させていました。これは、日本が、ハーグ国際条約の子供誘拐防止法に署名していなかったためです。元夫との合意なく私が、息子をオーストラリアの国外に出国させようとすると、子供の誘拐犯として豪州政府に逮捕される身分だったのです。 息子を諦めて、母と一緒に住むのか。

 答えは、イエスでした。認知症のことを何一つ知らなかった私でも、母の状況は、そう遠くない将来、深刻になるだろうという直感が、あったからです。一方、息子には、息子を愛してくれる父親、腹違いの姉が、シドニーにいます。

 2010年1月24日、里帰りを一緒にしていた息子とシドニーに戻り、1週間足らずで荷物の整理をし、30日の夕方には、成田空港に降り立っていました。33年ぶりの帰国でした。

 ただ、母と同じ屋根の下で暮らすのは、不安でした。関口家を1人で切り盛りし、姑(しゅうとめ)を看取(みと)り、米屋の若衆の面倒を見、父を助け、娘2人を育て上げるという能力が、非常に高かった人です。母と上手(うま)くやるには、母が、主で、私が、従、ということを受け入れないと、と考えていました。

 しかし、母は、日中、夕方と時間構わず寝ていることが多く、生活のペースは、ゆったり。起きたい時に起き、食べたい時に食べ、寝たい時に寝るという生活のリズムでした。正直拍子抜けしてしまいました。

 カメラを向けることで母の機嫌を損ねないようにしよう、ということが、当初私が考えていたことだったと思います。撮影されたロング・ショットは、そんな私の母への遠慮を表しています。

 改めて「母を撮る」という覚悟が出来たのは、母と生活を共にしたからで、そう意味でも母との同居には、大きな意味があったとつくづく思います。

 前回までのあらすじ 2009年9月、仕事の拠点であるシドニーから横浜に戻った私は、一人暮らしの母の認知症を確信。母と同居することを決意する。

2012年3月