コラム「母を撮る」

運命の日 その1

関口祐加 映画監督

脳神経外科の診療室でおどけた表情の母

 母との同居生活は、色々気が付くことがありました。

 まず、活動的だった母が、日中昼寝をしていることが多いということ。かつては、毎日自転車を乗り回し、近所の5階建てショッピング・センターの階段101段を2回も上り下りして、足腰を鍛えていたのに、です。

 次に、料理を全くしなくなりました。全て出来合いのものばかり。かつては、あんなに料理をしていたのに、です。また、洗濯は、自分がお風呂に入った時に手洗いでするようになりました。洗濯機は全く使わないのです。ただ、お風呂は、1〜2週間入らないことがよくあったので、洗濯物がドンドン溜(た)まっていきます。そして、最もビックリしたのは、母には手持ちの金がなく、しょっちゅう金欠状態なのです。

 何かが強烈に変である母の日常が、ゆったりと流れていく時間の中で、私の目の前に姿を現した、そんな思いでした。記憶が縞(しま)状になくなることや、同じ話を繰り返すこと以上に、母が1人で生活をすることは不可能であることを見せつけられたのです。

 何よりも一番大きなハードルは、母と病院に行くことでした。私は、この段階で母の認知症を確信していましたし、周囲の介護OB達からのアドバイスも、とにかく病院に行って認知症の所見を受けなさい、というものでした。所見がなければ、介護認定もままならず、認定がなければ諸々の援助を受けることが出来ないからです。

母のグチャグチャな部屋

 母自身、自分の変化には気が付いていても、まさか病院に行かなければならないような状態だとは思っていなかったはず。そんな母をどうやって病院に連れ出すのか。

 ラッキーだったのは、母がよく行ったショッピング・センターの2階の広場から脳神経外科が入っている建物に直接行けたことです!

 母には、ショッピング・センターのフードコートでお茶をしようと誘い出し、そのついでに脳神経外科に立ち寄るという子供騙(だま)しのような作戦を立てたのです。

 運命の日、2010年5月18日が、ついに来ました……

 前回までのあらすじ 2010年1月30日、仕事の拠点であるシドニーから横浜に戻った私は、一人暮らしの母の認知症を確信。母と33年ぶりの同居を始めた。

2012年4月