コラム「母を撮る」

2011年3月11日

関口祐加 映画監督

母を撮影中 (C) シキー吉田
母を撮影中 (C) シギー吉田

 2011年3月11日は、日本国にとって、そして、日本人にとって、忘れ得ない日になってしまいました。マグニチュード9.0を観測した巨大地震、大津波、そして、福島原発事故と次々と被害が拡大していきます。まるで悪夢を見ているかのようでした……。あれから2年。復興はままならず、原発にいたっては、収束すら見えてこない状況です。

 私の脳裏には、当時の記憶が、はっきりと焼き付けられています。

 この日は、午前中から助監督と2人、自宅2階の編集室で、母の動画の編集中でした。母は、階下の自室で午睡中。

 あまりの揺れのスゴさに、私が真っ先に手にしたのは、ビデオカメラです。無意識に出た職業意識といえるかもしれません。階下に行き、母を起こし、外にどうにか誘導し、避難しようと少し歩き始めると、母は事の重大さを認識出来なかったのでしょう。すでに学校から帰ってきていた姪(めい)のこっちゃんと一緒に家に戻り始めたのです。

 当時、家の中に閉じこもっていた母にとっては、地震(横浜は、震度5強)とは言え、家の外は、母をひたすら不安にさせる場所だったに違いありません。そんな母と行動を共にする決心をしたこっちゃんは、母の不安を真っ先に消し去る存在。当時11歳でしたが、土性骨の座っている子です。

 私は、家の安全を確認してから、学校の避難所に向かい状況を確認し帰宅すると、まだ停電のままでした。この後、夜中近くまで電気は、復旧せず、母は、何がどうなって、停電しているのか混乱しまくり、「誰の陰謀なんだ!」と怒り心頭の様子でした。

 しかし!
 翌朝、母は、地震のことも停電の事もきれいサッパリと忘れたのです。まさに「忘却とは、忘れ去る事なり」という母の口癖通りでした。

 ただ、今回が今までとは違ったのは、テレビや新聞で連日、震災のニュースが流され、母は、忘れたのに学習し、また忘れて再学習する、ということをループのように繰り返す事になってしまいました。

 記憶は、あいまいになっても認知症には、最もよくないとされる「不安」な状況が、いつまでもまとわりついていたのが、母にとっての東日本大震災だったなあ、と改めて思っているところです。

空になったスーパーの棚
空になったスーパーの棚

 ただ一つ、そんな中でも朗報はありました。スーパーの棚からトイレットペーパーが、消え去ったため、ついに、母が尿とりパッドを使い始めてくれたことです。こういう本人にとっては屈辱的なことが、何気なくサラリと出来たことは、本当によかったと思っています。

 映画「毎日がアルツハイマー」の中でも東日本大震災は、映画の折り返し点として、とても重要な記録になっています。

 そんな「毎アル」は、前回の号でそろそろ続編を、と書きましたが、どうやら5月ごろからパート2の製作に入れそうな……。また、詳細は、紙上でご報告出来たら、と思います!

2013年4月