コラム「母を撮る」

「終わりのない介護」から「終わりからの介護」へ 後編

小見出し

(C)NY GALS FILMS 2018

 死ぬことは、誰にでも訪れる人生最期の大きな幕引きだと思います。私も2017年5月に60歳を迎え、初老期に入りました。まさに自分の老いと向き合わなければいけない段階に来たのだと思っています。前号でご紹介した松山市の施設を経営する中矢暁美さんは「自分が年老いた時にどんな施設だったらいられるだろう。」と考えて宅老所<あんき>を一人で起ち上げ、グループホームを経営されています。<あんき>には、一切鍵がかけられていないこともスゴイのですが、それ以上に素晴らしいのは、<終わりからの介護>を実践しているところだと思います。

 「200歳まで生きる人はいない。」「どこかでお別れをしなければならない。」「最後まで自分の力で動く。自分の力で食べる。そういう人が長患いするのは、見たことがない。」これは、「毎アル・ファイナル」の映画の中で中矢さんが語っている言葉です。この言葉をベースにゆる〜いケアを実行されています。それは、利用者のお年寄り達に対して、マニュアル型だけの管理をしないケアなのです。床に寝ている人もいれば、ベッドで昼寝をする人もいる。一人でゲームをしている人、洗濯物をたたむ人。家に帰ろうとする人。これぞ中矢さんが自然に行き着いたパーソン・センタード・ケアの形です。認知症になっても十人十色が隅々まで行き渡っています。家に帰りたい人には「送っていきますよ!車に乗ってくださいね。」と言いつつ、開けっ放しの玄関に車を寄せて乗車してもらいます。2〜3分後に再び「おやつですよ!」などと声をかけてスムーズに本人の意思で下車をしてもらう。これを1日に何回もやるのです。本人を説得したりしません。

 ケアにおいて何が最も重要かというと、本人の不安な心の安定ということになり、そこに辿り着くケアをするということですね。これが、高度なスキルの認知症ケアなんだと思います。利用者さん達の目線で考え、最期の時に向かって穏やかな空間と時間を提供する。これが<終わりからの介護>のコンセプトと言えるのではないでしょうか。当然ながら、看取りに関してきちんスタッフや家族の間でもコンセンサスが出来ていなければなりません。

 ただ、<闘う介護>にもなります。誰に対して闘うのか?ズバリ、行政に対してです。行政の衛生面指導から言えば、床に寝るのはダメだし、洗面所には、タオルではなくて手拭きの紙を置かなければいけない。そこに反対し、プランB案を提示して説得する。それは、主役は、あくまでも亡くなっていくお年寄りだからです。終わりを見据えた介護のあり方が、新作「毎アル・ファイナル」を通してオープンに語られることを願っています。

2018年6月