コラム「母をみとる」

歩行困難から寝たきりへ

 母は、以前に<ポックリ逝くこと>が望みであるということを書いたと思いますが、もう一つ<寝たきりになりたくない>という気持ちも強く持っていました。母は6人兄姉の末っ子でしたが、実は、兄や姉たちの半分以上が病院で寝たきりになった末、亡くなっているんですね。だから自分は、絶対に寝たきりになりたくない。よく言っていました。

 私自身も寝たきりについては、思うところがあります。友人のおばあさんは、10年間在宅の寝たきり状況で、家の中の雰囲気は暗く、何よりも本人の機嫌がいつも最悪だったと教えてくれました。おばあさんが亡くなった時には、家族全員がホッとしたと。また、別で聞いた例は、お母さんが寝たきりになってやはり10年近く。週に数回身体を温める理由でデイ・サービスでの入浴を利用していたそうでしたが、入浴中に具合が悪くなり、娘である介護者が医師を呼びに行っている最中に亡くなったという話。

 このような在宅での寝たきりのお世話は、本当に大変です。ただ、この2例に共通していることは、肝心の本人と死生観を話すこともなく寝たきりになり、気づけば本人との意思疎通がほとんど取れず、介護している家族が死んでほしくないとシャカリキに頑張るパターンでしょうか。

 私が恐れていたことも母が嫌がっている<寝たきり>になったらどうしようということでした。私自身、両股関節の問題を抱えているので、しゃがんだり正座することが出来ません。とてもシャカリキに寝たきりになった母の面倒を見ることは出来ないだろうと思っていました。母の希望と自分の身体的能力の限界。そこから導き出されたのが、死についての哲学的考察と私一人では抱えず、母の在宅での死を叶えるための<関口医療チーム>を作ることだったのです。

 これは、群馬県に在住の在宅緩和ケア医の言葉です。高齢者について語っています。『最低限の健康寿命は、歩けること。どんな良い治療も、歩けなくなっては意味がない。歩くのがギリギリの人は入院すると(転倒骨折すると家族に訴えられるので)歩かせてあげられない。そして、あっという間に歩けなくなる。亡くなる前日まで歩ければいい。死なないように生きるより、死ぬまでちゃんと生きよう。』

 母は、死ぬ前日まで歩くことは叶わず、寝たきりになりましたが、私を支えてくれる医療チームと共に、母の老衰による死まで在宅緩和ケアを受けることが出来ました。母は、最期の息までちゃんと生き、私はそんな母とずっと一緒に伴走できたことを生涯忘れることはないでしょう。母の最期の「ありがとう」という言葉と共に……。

2020年8月