実は、ドキュメンタリー映画は、撮れないことだらけです。シークエンス(一連のつながった場面)が、撮れるというのは、本当に稀(まれ)です。
例えば、たまたま母を撮影していて、母が、そのまま気を失い、テーブルに突っ伏してしまいました。まず、私は、冷静に周囲の環境を観察します。こういう時は、なぜか娘よりも監督の方が、勝ります。職業的トレーニングのおかげなのかもしれません。
ちょうど妹が来ていました。ここは、妹の性格を知った上で、妹に全てを任せます。救急車を呼び、母の状況の説明をしています。そのうちに2階にいた息子が、すっ飛んで来ました。
母を運ぶのは、救急隊員にお任せして、私は、撮影を続行します。救急車には、妹と息子が乗り込んでくれました。私は、サイレンを鳴らさずに家から離れて行く救急車の撮影をして、シークエンスを撮り終えました。
いつもこうだったら、何の苦労もありません。冒頭の言葉に戻りますが、ドキュメンタリー映画の撮影は、撮れないことだらけなのです。例えば、「毎日がアルツハイマー」の中で、有名な母の79歳の誕生日のシーンのことです。あたかも自然に見えますが、全て仕掛けた映像だと言ったら、驚かれるでしょうか?
実際に起きたことは、母の誕生日を祝った晩、母が、日めくりを見つめてこう言ったのです。「今年は、誰も誕生日を祝ってくれなかった」。私は「あっ、母は、誕生日を祝ってもらったことを忘れている! でも自分の誕生日のことは、忘れていない!」と、とっさに思いました。
自分の誕生日を祝ってもらったのを忘れている母のことをどうやって撮影すればいいのか。また、母のエピソード記憶が、すっぽり落ちていることをどう見せればいいのか。撮る段取りが決まっている劇映画と違い、ドキュメンタリー映画は、目の前で起きたことの意味を考え、ストーリーラインを再現する構成を考えなければなりません。私は、このドキュメンタリー映画の面白さに取り憑かれていると言っても過言では、ありません。
母の誕生日から数日後、姪っ子を呼んで、母と2人のシーンを撮り始めました。ここで大切なことは、2人は、これから何が起こるのか、全く知らないということです。私は、一言「今年は、おばあちゃんの誕生日をやりました!」と投げかけました。ワクワクさせられる瞬間です!
その後の2人の自然のやり取りを撮ったのが、そのまま映画のシーンになりました。母が、誕生日を祝ってもらったのを忘れていることと、忘れている祖母(母)に驚き、何とか思い出させようとする姪っ子。狙い通りの展開になりましたが、そのことは、おくびにも出さず、まるで自然に撮ったかのように見せるのが、ドキュメンタリー映画の醍醐味でしょうか。
この母の79歳の誕生日のシーンが撮影できて、私も「毎日がアルツハイマー」はイケる! と確信できました。ただ、まさか3作品も製作することになるとは、夢にも思っていませんでした。これもひとえに、「毎アル」を贔屓(ひいき)にしてくださった皆さんのお陰と心より感謝しています。
現在はまだまだ「毎アル・スピンオフ」の撮影中。先が読めないことこそが、ドキュメンタリー映画の真骨頂です。ワクワクしながら、困惑しながら、撮影を進めていく所存です。
2025年6月