アルツハイマー病研究の歴史について(前編)――1906年ドイツで世界初の症例報告

 連載の第3回目でようやく「アルツハイマー病研究の歴史」について執筆します。医学史上初のアルツハイマー病患者は「アウグステ・D」とされています。Dは患者名を匿名化するために使われていますが、実際は「ディーター」の略であることが分かっています。以下、主治医アロイス・アルツハイマー博士による最初のアウグステ・Dの診察の様子です*。

 1901年11月26日、独・フランクフルト市立精神病院での記録です。
 「あなたのお名前は」:「アウグステです」
 「姓はなんといいますか」:アウグステです」
 「あなたのご主人のお名前は」:「アウグステ・・・だと思います」

 この会話から、自分の名字や夫の名前に関して記憶障害があったことがわかります。その後も診断は続き、自分の食べているものの名称が分からなかったり、自分の住所が分からなかったり、計算ができなかったりということが明らかにされていきました。

 その5年後の1906年4月9日に、アウグステ・Dが死亡しました。51歳でしたから、若年性アルツハイマー病だったと思われます。死亡する前のカルテには「彼女は診察しようとすると泣き叫び、叩いたりする。彼女は不意にしばしば数時間にわたり泣き続け、そのためベッドに押さえつけなければならない。食事に関しては、彼女は予め決められた食事を摂ることはできない」と記されていました。アルツハイマー病が進行すると感情をコントロールする前頭葉が破壊され、暴力的な行動をとることが知られています。とても悲惨な状態だったと思いますが、100年以上前のドイツでこのような治療や介護がなされていたことは、少なくとも部分的には、今の日本よりも優れていたのではないでしょうか。

 アルツハイマー博士はこれを貴重な症例と考え、死後脳を解剖し(「剖検」と言います)、病理学的検討を行いました。そして、脳の萎縮以外に、異常な沈着物からなる「老人斑」が存在することを認めました。アルツハイマー博士は、チュービンゲンで開催された第37回南西ドイツ精神医科学会(1906年11月3日)で世界初のアルツハイマー病患者の症例報告を行いました。この日が、アルツハイマー病研究史の始まりだと言えます(図)。

 その後、1970年頃までは臨床医学的研究と病理学的研究が進みました。病理学的研究では、「老人斑」以外に「神経原線維変化」が重要な異常沈着物であることが、確定しました。前者は神経細胞の外に存在するのに対して、後者は中に存在する点が違います。病理学とは現象論ですから厳密に因果関係を確立することは難しいのですが、結果的に非常に重要な示唆を与えることになります。1980年代以降になって、病理学的蓄積物の物質的正体が明らかになります。

 その前の1970年代に神経伝達物質に関する研究が行われ、アルツハイマー病患者の脳ではアセチルコリンが低下していることが分かりました。具体的には、アセチルコリンを合成する神経細胞が徐々に死滅することが原因でした。その結果、対症療法ではありますが、発見から約20年後に病気の症状を改善する医薬品が開発されるに至りました。アセチルコリンを分解する酵素コリンエステラーゼの活性を抑制するコリンエステラーゼ阻害剤です。欧米で数種類が開発されましたが、エーザイの杉本八郎先生が開発された「アリセプト」が様々な長所があり、最もよく使われています。既に特許の有効期限が切れたため、複数のジェネリック医薬品が出回っています。

 さて、アルツハイマー病研究の本丸である老人斑と神経原線維変化については、「病理生化学」という当時としては新しい方法によって構成成分が明らかにされました。通常死後脳を病理学的に解析する場合は、ホルマリン等で固定するのですが、病理生化学では凍結保存し、必要に応じて様々な溶媒に溶解した後に、生化学的分離と分析を行います。生化学的分析とは、たとえば対象がタンパク質であれば、アミノ酸配列を決定することです。その結果、老人斑の構成成分はアミロイドβペプチドというタンパク質であること、また、神経原線維変化の成分はタウタンパク質であることが明らかになりました。いずれもタンパク質であったことは大変興味深いことですが、これが、その後の大発見の基盤となりました。(続編につづく)

*参考文献:アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡(コンラート・マウラー/ウルリケ・マウラー共著/新井公人監訳)保健同人社

2019年1月