アルツハイマー病治療薬開発失敗の歴史

臨床試験 遅すぎたタイミング

 これまで、アルツハイマー病治療薬候補400種類以上が臨床試験で検討されてきましたが、事実上全てが失敗しました。残ったのは、症状を一時的に緩和する対象療法薬だけです。何故でしょうか?一言で言えば「臨床試験のタイミングが遅すぎた」のだと思います。

 以前、根本的原因物質であるアミロイドが脳内に蓄積し始めるのは発症の20年以上前だと書きました。この時期は臨床症状がありませんので「前臨床性アルツハイマー病」と称します。アミロイドを標的とした治療法は、前臨床性アルツハイマー病に対して行われるべきでしたが、ほとんど全ての場合に発症後の患者さんに対して行われました。その理由は、認知能力の改善が薬効の指標とされたからです。

 認知症が発症した段階で神経変性(神経細胞死)が始まっています。神経細胞はいったん変性すると再生しませんから、病態は不可逆的に悪化してしまいます。だから、神経変性が始まる前の前臨床性アルツハイマー病の段階で予防治験を行うべきだったのですが、多くの製薬関係者はこのことを理解していませんでした。

 最初のアルツハイマー病モデルマウスが作製されたのは1995年のことでした。これはアミロイド前駆体タンパク質を過剰に発現する遺伝子改変マウスで、脳にアミロイドが蓄積します。このモデルマウスに対してアミロイドを注射し免疫をする実験を行うと、脳内のアミロイドが見事に消えました。抗体ができてアミロイドを排除したのだと考えられました。これは、ウィルスによる感染症に対するワクチンに相当するものですから、「アミロイドワクチン」と呼ばれました。

 画期的発明・発見でしたが、臨床試験では、一部のアルツハイマー病患者で血管アミロイドに抗体が結合し、血管が破壊されて髄膜炎が生じ、死亡する例が発生しました。残念ながら、臨床試験は中止されました。

 次に、アミロイドそのもので免役するのではなく、あらかじめアミロイドに結合し、髄膜炎を起こさないように工夫したモノクローナル抗体(均一の性質と品質を有する抗体)を作製し、これを注射する方法が考案されました。「受動免疫」と呼びます。沢山の種類の抗体が作製されましたが、静脈から投与した抗体が脳に達する割合が低く、難航しています。ほとんどの臨床試験が失敗しましたが、まだ生き残っているものがあります。受動免疫の最大の問題点は、仮に有効だったとしても、モノクローナル抗体を作製し、精製する費用が大きいため、相当なコストを要することです。また、治療を受ける人は約2週間に1回の割合で病院にて点滴投与を受ける必要がありますから、負担が大きいと思います。

 アミロイド前駆体タンパク質からアミロイドを作る酵素を阻害する薬剤も随分開発されました。問題は、これらの酵素が作用する標的基質がアミロイド前駆体タンパク質だけではなかったことです。その結果、多くの薬剤が生理的に重要な酵素反応を阻害してしまい、副作用が生じることが分かってきました。現在は、アミロイド前駆体タンパク質に対して選択的に作用する阻害剤の開発が進められています。

 さて冒頭の「臨床試験のタイミングが遅すぎた」との認識は、2014年のワシントン大学(セントルイス)の家族性アルツハイマー病患者に対する研究成果によって確立しました。その認識に基づいて、現在は前臨床性アルツハイマー病患者に対する臨床試験が進められています。今のところ、全世界的に4つの大規模な臨床試験が進行しています。その中で2つは未発症の家族性アルツハイマー病遺伝子変異保有者が対象です。3番目は、アミロイドPETによってアミロイド蓄積が確認された正常人群です。4番目は、アポリポたんぱく質遺伝子のE4を持つ正常人が対象です。アポリポたんぱく質遺伝子には、E2・E3・E4の3種類があり、E4を保有するとアルツハイマー病発症リスクが大幅に上昇します。ヒトには各遺伝子が基本的に2コピーずつありますが、E4を2コピー持つ人(ホモ接合体といいます)は、そうでない人に比べて発症リスクが約30倍高いとされます。したがって、前臨床性アルツハイマー病患者として位置づけられたわけです。

 上記の前臨床性アルツハイマー病患者群が臨床試験によって発症が遅れる、あるいは、止められることが確認されれば、アルツハイマー病に対する戦いにおいて大きな前進となります。「アミロイド蓄積がアルツハイマー病の根本的原因である」とする「アミロイド仮説」のProof of concept(概念の証明)となるからです。期待して結果を待ちたいと思います。

2019年9月