アルツハイマー病に対する抗体療法について

 私たちの身体をバクテリアやウイルスなどの異物から守るシステムが免疫系です。免疫系は大まかに2種類があります。一つ目は「自然免疫」です。自然免疫は、脳内ではミクログリア・末梢ではマクロファージといった貪食系の細胞が異物を排除する機構です。貪食とは文字通り「飲み込んで食べてやっつける」ことを指します。標的に対する特異性はあまり高くありません。

 二つ目は「獲得免疫」です。これは、脳内には存在せず、末梢で抗体(免疫グロブリン)を介して異物を攻撃します。脳に獲得免疫が存在することは特別なことですから、「脳神経系には免疫特権がある」と言われます。これは、今回の話題に深く関係があることです。

 抗体と抗原は1対1の関係で結合しますので、きわめて特異性が高いと言えます。通常、自然免疫が破られた後に獲得免疫が作動します。この獲得免疫を人為的に利用する戦略がワクチンです。標的とするウイルス等を不活化(病原性のないものに加工すること)し、ヒトに投与(注射)することによって、特異的抗体産生を誘導します。昨今話題になっている新型コロナウイルスに対するワクチンは、簡単ではありません。ワクチンは通常2度接種することが多く、2度目の免疫で副作用が生じる場合があるからです。

 さらに近年、獲得免疫は新しい応用がなされています。体内で病原性のある自己物質が存在する例があります。この自己物質に対して抗体を作製し、これによって自己物質を中和するという戦略です。たとえば、本庶佑京都大学特別教授らが発見されたPD−1はがん免疫を制御する因子です。PD−1に対する抗体はある種のがんに対する治療効果があります。岸本忠三元大阪大学学長らが発見されたIL−6は炎症に関わるサイトカイン(免疫細胞が分泌する液性因子)です。IL−6に対する抗体はリウマチの症状を劇的に改善します。

 いずれも、基礎研究が臨床応用まで発展した成功例です。このように抗体を用いる医療を「抗体医療」と呼びます。抗体医療に使われる抗体は通常「モノクローナル抗体」です。モノクローナル抗体とは均一の品質を有する抗体で、詳細は省きますが、遺伝子の配列が同一になるように設計されています。

 このような抗体医療の成功を背景にして、アルツハイマー病研究者の中に同じようなことを考える人たちがいました。アルツハイマー病の根本的原因はアミロイドですから、まず、アミロイドを蓄積するマウスモデルにアミロイドを投与する実験が行われました。見事にアミロイド蓄積が消失しましたので、アルツハイマー病患者をアミロイドで免疫する臨床試験が行われました。しかし、数人の患者が髄膜炎を発症して死亡したため、試験は中止され、失敗しました。アミロイドは脳の実質だけでなく血管に蓄積する場合があり、抗体が血管アミロイドに結合したために、炎症反応が生じたことが原因でした。

 次に、多くの製薬企業が莫大な費用を投じて、アミロイドに対するモノクローナル抗体を作製しました。炎症反応を起こしにくいように工夫したものですから、髄膜炎のリスクは軽減されました。マウスモデルでも効果が見られましたが、注意点があります。マウスの実験では、抗体は腹腔から投与されましたが、ヒトの臨床試験では静脈から投与されました。マウスの血管は細いので、技術的に困難だからです。ここで前述の「脳には免疫特権がある」ことを思い出してください。これらのアプローチが展開された時、私は「そもそも脳には抗体が存在しないのだから、抗体が脳内に入ることはないのではないか」と思いました。何しろ、脳実質内に抗体が存在することは脳内出血の証拠として使われていました。

 実際、アミロイドに対する多くのモノクローナル抗体が臨床研究に資されましたが、顕著に認知症を改善するものはありませんでした。当然と言えば当然です。脳内にアミロイドが蓄積して認知症が発症するまで約20年を要するからです。認知症を発症した時点では神経変性が進行しすぎていますから、手遅れだったと考えられます。現在は、発症はしていないがリスクの高い人たちを対象とする縦断的研究が進行していますので、その結果が期待されます。

 さて、アミロイドに対する抗体はヒトの脳内に入るのでしょうか? アミロイドPETを利用した臨床研究により、少なくともバイオジェンとロッシュが作製した抗体はごく一部が脳内に入り、アミロイド蓄積を減少させるようです。ただし、莫大な量の抗体(1人当たりグラム単位)が、使用されています。もし臨床に資されるようになったら、想像ができないほどの薬価がつくと思います。抗体医療はアミロイドが原因であることを証明するためには有用ですが、いずれ、より安価な低分子予防薬が生まれることになると思います。

2020年8月