アルツハイマー病における空間認知障害のメカニズム

「場所細胞」と「グリッド細胞」における異常

 今回のテーマは空間認知障害です。アルツハイマー病の患者さんは道に迷ったり、運転中に場所が分からなくなったりすることがあります。そのメカニズムが神経回路のレベルで解明されつつあります。

 今年カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)の五十嵐啓助教授(米国の助教授は日本の助教と違って、独立した研究代表者です)らが米科学誌ニューロン(Neuron)に発表した成果を紹介したいと思います。この論文では、私たちが開発したアルツハイマー病モデルマウスが使用されています。

 まず、専門用語について説明します。脳組織は、「海馬(かいば)」と「嗅内野(きゅうないや)」が登場します。海馬についてはご存じの方が多いかと思いますが、一般に「短期記憶を司(つかさど)る部位」とされています(形がタツノオトシゴ=海馬=に似ているので、海馬と呼ばれます)。実際は、隣接する「嗅内野」から記憶すべき信号が海馬に送られ、その信号が海馬内である種の情報処理をされ、また嗅内野に戻るというサイクルで短期記憶が形成されます。つまり、嗅内野と海馬が相互作用することが必須です。

 次に「場所細胞」と「グリッド細胞」です。いずれも神経細胞(ニューロン)で、場所細胞は海馬に存在し、グリッド細胞は嗅内野に存在します。グリッド細胞からは神経突起が伸びて場所細胞に結合し、神経回路を作っています。この神経回路が位置情報を記憶する基軸です。ただし、位置情報というものは刻々変化するものですから、その変化に対応しなければなりません。そのために、この神経回路が状況によって異なるシグナルを発し、「位置情報の書き換え(remapping: リマッピング)」を行います。

 五十嵐グループは、神経細胞が発する電気信号を測定する「電気生理」の手法を用いて、アルツハイマー病モデルマウスにおける空間認知障害と場所細胞・グリッド細胞における位置情報の書き換えの関係について検討しました。

 まず、アルツハイマー病モデルマウスが空間認知障害を有することを確認しました。そして、高齢(と言っても12ヶ月齢です)群が比較群(同年齢の正常マウス)と比べて、海馬の場所細胞の書き換え能力が低下していることを見いだしました。しかし、細胞機能には大きなダメージがありませんでした。一方、嗅内野のグリッド細胞は激しく機能を傷害され、書き換え能力のある神経細胞が明確に消失していました。このことから、グリッド細胞→場所細胞で形成される神経回路の異常が空間認知障害の原因である可能性が初めて浮上しました。

 さらに、4ヶ月齢のモデルマウスでは、グリッド細胞で異常が見られたのに対して、場所細胞は正常でした。このことから、グリッド細胞が先に変調を来すのだと思われます。方法の詳細は省きますが、まず多数のモデルマウスを訓練し、それから、電気生理実験を行うという大変な実験を行った成果です。

 さて、ヒトではどうでしょうか? ヒトに対して電気生理実験を行うのは不可能ですが、MRIを使って「グリッド細胞に類似する細胞」を検討した論文が米科学誌サイエンス(Science)に2015年に発表されています。Kunitzらは、アルツハイマー病の発症リスクが高いアポリポタンパク質E4遺伝子を有する人たちが、正常群と比較してグリッド細胞に類似する細胞の機能が低下することを示しています。電気生理実験で調べたこととMRIで調べたことに整合性があるのかは、今後の検討課題です。

2020年12月