アルツハイマー病のない世界を創るために(最終回)

Gタンパク質共役受容体を標的とした先制医療

 非常に残念ですが、諸般の事情で、本稿が私の最終稿となります。お読みいただいた方々に御礼申し上げます。

 日本の認知症患者数は700万人超とも言われます。アルツハイマー病が約6割、血管性認知症が3割、レビー小体型認知症などのその他が1割とされます。いずれも加齢が最大の危険因子とされますので、世界的なレベルで人口の多い、「団塊の世代」の加齢が今後の患者数に影響を与えると予想されます。言い換えれば、戦後ベビーブームの1947〜49年生まれの団塊の世代が、発症リスクの高い80歳以上に達する前に先制医療を確立する必要があります。

 現時点では、アルツハイマー病に対する根本的治療法は存在しません。目下、欧米を中心に活発に行われているのは、原因物質であるアミロイドに対するモノクローナル抗体を用いる「抗体療法」です。今までのところ、臨床試験では「効果があるかも知れないし、ないかも知れない」という程度の成績です。また、抗体は末梢(静脈)から投与します。脳内に移行するのは0・01〜0・1%だけですから、莫大な抗体が必要となります。論文や学会報告から計算すると、体重50キログラムの人に対して5グラムの抗体を毎月点滴投与することになります。私たち研究者にとって抗体5グラムはかなりの量です。研究試薬として使う抗体はその1万分の1の量(50〜100 μg)で5万円ほどの価格です。単純計算すると、5グラムの抗体は5億円となります。上手く大量生産すればコストは下げられると思いますが、研究試薬と違って夾雑物を徹底的に取り除かなければいけませんので、精製の方がコストを要すると思います。また、抗体療法は、浮腫や出血といった副作用を起こすことも知られています。

 これらの状況を鑑み、私たちはより安価で安全な先制医療を模索しています。戦略はほぼ固まりました。私たちはアミロイドを分解する酵素ネプリライシンを世界で初めて発見し、2001年に米誌サイエンスに発表しました。その後、実験的遺伝子治療でアミロイドを除去することを確認しました。ただし、患者数の多いアルツハイマー病に遺伝子治療を応用することは現実的ではありません。そこで、ネプリライシンを活性化する生体分子を探索したところ、ソマトスタチンという神経ペプチドを発見しました。

 ソマトスタチンはソマトスタチン受容体に結合し、ネプリライシンを活性化します。ソマトスタチン受容体は「Gタンパク質共役受容体(GPCR)」とよばれる受容体の一つです。ヒトの身体には約800のGPCRがあり、それぞれに結合する「リガンド」が存在します。GPCRとリガンドの特異性(特定の対象物質と結合する性質)が極めて高いため、格好の創薬標的となります。今まで臨床応用で成功した創薬の約6割がGPCRを標的としたものです。日本の製薬企業が米国でナンバーワンの売上を上げたのもGPCR創薬でした。

 ソマトスタチンには5種類のサブタイプがありますので、どのサブタイプが重要であるかを決めるのは大切なことです。私たちはスウェーデンとドイツのグループと協力してターゲットを決定することに成功しました。論文は準備中ですが、抗体療法に依らない新たな先制医療の道が開けたと思います。ご期待ください。「ソマトスタチンを投与すればよいのでは?」と思う方がいらっしゃるかも知れませんが、脳血管関門を通過することができませんので、特定の受容体サブタイプを活性化する低分子化合物を化学合成する必要があります。もうしばらく時間を要します。

 最後に私事ですが、13年に施行された改正労働契約法によって、私が勤務する理化学研究所でも多くを占める有期雇用の研究者が2年後に「雇い止め」に合い、研究室の閉鎖に追い込まれる可能性が出ています。連綿と続けてきたアルツハイマー病研究を完成させるためにはあと2年では足りません。類似の苦境にある研究者は私どもだけではないと思います。最も簡単な対策は、再度の法改正により雇い止めに歯止めをかけることです。各方面からのご助力をお願いいたします。

2021年2月