認知症の人の声を聴いていますか

社会が変われば「呪い」は解ける

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 認知症の人とこんなに話ができるとは思わなかった。病院の診察室でも、栄樹庵平塚カフェ(※)でも、認知症の人は多くを語った。しばしば言葉は少なかったが、目と表情と体の揺れが想いを雄弁に語った。私は認知症の人が、そんなに先まで考えていることも、悩んでいることも、周囲に気を使っていることも、絶望と闘っていることも、知らなかった。私に偏見があったのだろう。アルツハイマー病などの認知症になると、言語の扱いが不得手になり、もの忘れも重なって会話が難しくなると思い込んでいた。確かに失語や記憶障害のために病前のようなスムーズな会話は難しいかもしれない。しかし意思の疎通は十分にできた。それはしばしば認知症でない人よりも、正直で、誠実な意思表示であった。ミュニケーションができないわけでは決してなかった。

 さらに認知症の人との対話を続けるうち、意思の疎通を阻んできたのは、私たち周囲の先入観だけではなく、認知症の人の想いも大きく関係していると考えるに至った。多くの認知症の人は「(病気になって)恥ずかしい」と感じるという。そして失敗を経験する度に、自分が「情けなく」「みすぼらしい」あるいは「惨めに」感じるという。「家族に迷惑をかけてまで生きる価値があるのか」という悩みも多くの口から語られた。認知症の人はますます自分の価値を感じられなくなっていくと考えられた。認知症になる前に持っていた認知症に対する偏見が、今度は認知症になった自分に向かってしまったわけである。

 認知症の人は、今まで自分の意見や要望を口にすることが少なかったが、近年、認知症の人々が様々な場面で発言をするようになった。また認知症の本人たちの団体も、公的な場で意見表明をしたり、政府に要望書を提出するようになった。これは一般の認知症の人を大いに力づけたのではないだろうか。そして認知症の人が自己肯定感や自尊感情を高めることができたのではないだろうか。こうしたことがさらに多くの認知症の人の発言も引き起こしたのではないだろうか。

 ふつう認知症の疑いが生じると、家族や周囲によって、本人が医療機関を受診するように、治療を受けるように、介護保険のサービスを利用するために説得が始まる。場合によっては生活も管理され、テレビの前で居眠りをすれば起こされ、夜間にトイレに起きればかかりつけ医に相談され、入浴や服薬を嫌がれば、叱られたのではないだろうか。今でこそ自分から病院に行き、治療を受ける人が増えたが、多くの人は、家族など周囲から、症状や「怠惰」「無関心」を指摘され続けているはずである。こうした本人や周囲の反応を「呪いをかけられた」状態ととらえた社会学者や人類学者がいた。

 こうした心理状態から多少なりとも抜け出すことを目標に、私は認知症診療に従事している。少しずつ自己の価値を改めて認め、自分の想いを周囲に伝えることができるようになることを目指している。社会は、認知症の人の声を聴こうとしていると感じてもらえるようにと願っている。自尊感情を少しずつでも取り戻すことができれば、自分のことを恐る恐る語り始めるようになる。なぜなら管理されたり、無視されたりせずに、受け入れてくれるのではないかという周囲の姿勢を感じるからである。意見を聴く耳を周囲がもっていると実感できなければ、誰だって自分の本音など話す気持ちにはなれないであろう。

 社会の認知症を見る目が変われば、そして認知症の人を見る目が変われば、認知症の人の生きづらさも随分と変わるのではないか。それは創薬よりはるかに難しい作業であるが、変わることができれば、今後開発されるどんな薬剤よりも特効を発揮するに違いない。

※繁田氏が神奈川県平塚市の実家を改築してつくった認知症カフェ。オンラインカフェも実施

2021年4月