認知症の人の声を聴いていますか

本人の思いを引き出し、力を貸そう

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 認知症の人は病識がないと言われることがある。生活上の失敗を失敗と認識できなかったり、自分が病気であることが分からなかったり、と言われる。問題はそう単純ではないが、認知症を心配した家族が病院の受診を勧めたときに本人が拒否をするエピソードがその認識を強化してきたところがあるのではないか。しかし本人が受診する決心がつかずに躊躇しているものの、病気の心配は人一倍していたこともある。

 そうした本人の思いに気付けないのは、認知症に対する私の先入観のためであろう。次のような研究をしてしまったこともある。認知症の人が自分のことをどれだけ把握できているか(あるいは把握できていないか)を調べるため、「服薬」や「交通機関の利用」といった生活動作の自立について本人と家族に同時に調査した。その結果、家族ができないと回答したにもかかわらず本人ができると答えた項目が多いと、その人は “病識がない”などと結論した。

 しかし何年か前に次の論文を見つけた。それは、本人と家族が、認知症の人の生活動作をどの程度的確に評価できているかを調査した報告であった。第三者である研究者がいくつかの動作能力を実際の場面で客観的に評価し、それと並行して本人と家族にも評価を行ってもらったのである。それらを比較すると、本人の評価は第三者の客観的評価に一致したが、家族の評価は客観的評価や本人の評価より低かった。すなわち家族は本人の能力を過小評価していたわけである。

 認知症の当事者として(対等な立場で話を聞き合う)ピアカウンセリングを精力的に行っている丹野智文さんから次の質問を受けたことがある。認知症の人は認知症と診断されると、やりたいことをやらせてもらえなくなる。そうしたことが認知症を悪くしているのではないかという疑問であった。道に迷って徘徊したりしないように家族が外出の機会を制限したり、無駄遣いをしないように財布を持たないようにしたりした結果、自尊心とともに自信を失った本人の話をピアカウンセリングで聴くという。

 そうした時の家族の気持ちはどのようなものであろうか。「できるかどうか分からないことをやらせて失敗したら、本人がやったことを後悔するのではないか」「家族として後悔するようなことはさせたくない」。そんなふうに考えるのであろうか。自分に失望してほしくないという気持ちもあるかもしれない。あるいは、簡単なこともできなくなった哀れな姿、惨めな姿を家族として見たくないという気持ちもあるかもしれない。

 一方で、本人がやりたくないことをやらせてしまうことがある。私が担当した人で、漢字の読み書き、算数ドリル、クロスワードパズル、数独、日記・備忘録などを家族から言われてやっている人がいる。認知症疾患の多くは予防できないが、日課や役割がなく無為に過ごしていると心身機能は廃用によって低下するため、何らかの活動を継続的に行うことは何もしないよりは心身機能の低下を減らすことができるかもしれない。しかし気の進まないことを強いられると、ストレスによるマイナスの方が何もしないより大きいかもしれない。

 本人は、どのような気持ちなのであろうか。自分はやりたくないけど我慢してやっている人もいる。嫌だとはっきり言える人もいるし、言えない人もいる。とくに自分でやりたいことがなくて、周りから言われないと何もやらないから、周りで言ってほしいと言う人もいる。特にやりたいわけではないけれど、べつに嫌というわけでもないので、家族が喜ぶからやっているという人もいる。やるべきかやらざるべきかを本人が決めることができるように、周囲は本人の気持ちを引き出し、整理するために力を貸そうではないか。

2021年8月