認知症の人の声を聴いていますか

対等に1人の人間として向き合う

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 空き家になった私の実家(神奈川県平塚市)を、保健・医療・ケア職の研修の場として利用してもらっている。定期的に私が講師を務めて勉強会も開催している。並行して認知症カフェも開催している。最近は別室カフェとして開催回数を増やしたり、オンラインカフェを行ったりしている。

 認知症カフェは認知症の人の“空白の期間”を埋めるものとして期待されてきた。認知症が心配だけど、まだ受診をしていない人、診断を受けたが介護保険などの公的サービスには自分にあったものが見つからない人などを対象に、医療や介護保険ではカバーできないサポートを行う場である。

 取り組み内容も様々で、認知症のことを知りたい人のための講話や勉強会が行われるところもあれば、これといったプログラムがなく自由に時間を過ごせる居場所としてのカフェもある。また、認知症の本人や家族がお互いの体験を語り合うピアレビューの場になっているところもある。運営主体も自治体、NPOやNGO、あるいは地域の有志が運営しているところもある。

 私の「平塚カフェ」の好きなところは、スタッフが当事者を助けてあげようなどとは思っておらず、当事者の人に教えてもらおうと思っているところである。いつの間にか当事者が運営を手伝うようになり、専門職スタッフも参加費を払うようになったところが素敵だと思う。

 認知症の人と家族は一緒に時間を過ごしたいと思っているのか、それとも別々に過ごしたいと思っているのかを、スタッフがさりげなく察知して声を掛けるところもいい(最終的には本人と家族がお互いを理解し合ってこれからの暮らしをともに考えてほしいが、はじめからは無理することはしていない)。

 プログラムや行事への参加を気楽に断れる雰囲気もいいと思っている。やりたいことがあれば賛同する人が集まってすぐに始まることもあるが、その一方で、気が乗らない人は無理をして参加する必要がないところがいい。参加しない人が気まずくなっていないところが私は好きである。

 カフェは誰でも参加が自由なので、参加した人の中には「認知症の人はこう介護すべき」とか、「認知症はこうした方法で予防できる」といった主張をする人がいる。ここでは参加者が自分の意見を人に押し付けたりせず、自分自身と向き合うことで自分の意見を深めてほしいと思っているので、強い意見の主張があった場合にはさりげなくブレーキをかけさせてもらっている。

 また、このカフェでは参加する専門職が自分の職種をはじめから明らかにしていない。聞かれれば答えるが、自分からは宣言しない。初めての参加のときに聞かれることもない。それでは専門職が集まる価値がないのではないか、せっかく専門職が集まるのだから専門職としての知識を提供したほうがよいのではないかという意見があるかもしれない。

 しかし専門職であることを忘れて認知症の人に向き合っても、実は自分らしさの一部として専門性というものはにじみ出るものなのである。その人の個人的な価値観や人生観に、専門職としての、例えば障害受容に重点を置く考えや機能維持に重点を置く考えなど、それぞれの専門職としての考えが反映した発言になるのである。

 専門職であることを忘れて一人の人間として認知症の人に向き合っても、専門職としての存在価値は失われていないのである。むしろ認知症の人もその家族も、広い意味での何らかの専門性(その人の得意なこと)があるはずである。従って、医療やケアの専門職も当事者も、対等にさまざまの個性を持った一人の人間として向き合う方が、真に豊かで実りある集まりになるのではないかと思う。

2021年12月