認知症の人の声を聴いていますか

一人ひとりの「生きた時間」に敬意を

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 山奥の人里離れたところに建っている家を探して訪ねるテレビ番組がある。住んでいるのは高齢の方が多い。一人で住んでいる場合もあれば家族と暮らしている場合もある。そこに住むようになった経緯を家主に番組スタッフが聞くくだりがある。若き日の家主が写った褪せた写真を見ながら半生の話を聴いていると、人生とはあまりに多くのことを経験するものだと驚かされる。それはその人に限ったことではないとも思う。私も今まで数えきれない数の場所を訪ね、数えきれない数の人に会い、数えきれない数のことを経験したことを思った。

 認知症の人は自尊感情や自己効力感が低下しがちである。病気を否認して強がることもあるが、よくよく話を聴けば傷ついて弱々しい。そのような人でも生活歴の話になると本人の表情が一変して気持ちの高揚を表すことがある。共働きの娘夫婦を助けて孫の養育に頑張ったこと、借金を抱えた会社を親から受け継いだこと、自分の親と義理の親の介護をしたことなどである。だれでも経験することであるが、その人の言葉で語られるとき、人は生き生きとして輝くことを知った。

 その経験から私は診察でしばしば若い頃の話を尋ねるようになった。ただ高齢者の場合はそれが容易ではない。聴き出そうと思っても「特別なことではない」「誰でもしていること」と謙遜して語らない人も多い。当たり前のことをしてきただけで、人に話すほどのことではないと本人は思っているようである。

 黒川由紀子氏は著書『老いの臨床心理 高齢者のこころのケアのために』(1998)で、一人ひとりの高齢者のかけがえのない人生において、その「意味」や「価値」を見いだすことは極めて重要な作業であると指摘した。「何かを達成したから、何かを生産しているからではなく、さまざまな人生を経験して、『今、目の前にいる』存在そのものに対する敬意の念を持つこと」と支援者としての心構えを記している。

 きっとそうなのだ。ほかの人では成し得ないようなことでなくてもいいのである。会社に勤めたこと、伴侶に出会ったこと、子どもを育てたことなど、誰もが経験する当たり前のことでも、そこには他の誰でもないその人にしかない特別な意味があるからである。

 そして、われわれが聴くことで、本人が自分の過去に新たな意味を見いだすことができれば素晴らしいことだと思う。言葉にしてもらうことがわれわれ医療や福祉の専門職の大切な役割の一つだと考える。いや、もしかしたら言葉にできなくてもいいのかもしれない。本人が人生の様々の場面に思いを馳せるだけでも十分なのかもしれない。

 私の外来に通い始めて3年になる80歳代の女性がいる。私の前で口数は少なく、診察はほとんど私と家族とのやり取りに終始するが、女学生のころのことや就職して間もないころのことを本人に尋ねた時、目の輝きが増したように感じられた。初診から1年が過ぎて治療が軌道に乗り、療養生活も落ち着いたので自宅近くのかかりつけ医へ転院を勧めたが、彼女はそれを拒んだのである。私は嬉しくなって現在でも3か月に一度外来に顔を見せてもらっている。

 その人が生きた時間がどのようなものかわからないと、その人の人生に敬意を払うことをおろそかにしてしまうことがある。あるいは懸命に話を聴き出しても失敗の話ばかりのこともある。人に迷惑をかけた話が続くこともある。しかし、仮にそのような時間の連続であったとしても、そこに何十年かのリアルな時間が流れたことに違いはなく、その人にとっての確かな意味があったはずである。その時間そのものに、われわれ医療・福祉専門職は敬意を払わなければならないと思う。

2022年4月