認知症の人の声を聴いていますか

「やさしさ」という勘違い

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 認知症の本人たちが講演や執筆活動を精力的に行うようになって久しい。丹野智文さんもその一人で、最近も「認知症の私から見える社会」を著した。その第3章の「『やさしさ』という勘違い」が私の印象に残った。

 家族は電気のつけっぱなしや水道の出しっぱなしを注意することがやさしさだと思っているが、やさしさとは注意することではなくただ電気を止めることであり、ただ水道を止めることだという。また無駄遣いをしないようにお金や財布を預かることがやさしさではなく、リスクを負ってお金や財布を持たせることが真のやさしさだという。

 たしかに認知症の人の家族は、本人を信頼できる家族ばかりではない。過保護になってしまう家族も少なくない。そして本人を信頼できるか否かは必ずしも本人の問題ではないように思える。かなりしっかりしている本人でも家族が過保護になってしまうことも多いのである。

 逆に症状が顕著であっても信頼できる家族もいる。先日私の外来を受診した認知症の人の妻は、本人が無駄遣いをしてしまうがお金は持たせていた。「本人が稼いだお金ですし、それで生活に困るわけではないですから」と話してくれた。本人は財布を持って出かけることができて、失わずに済んでいるものがどれだけたくさんあるだろうかと思った。

 施設入所も同様である。独居であったり介護の手が十分でなかったりする場合、入浴や洗髪、食事、睡眠といった日常生活に支障が生じると、周囲は少しずつ施設入所を考え始めるようになる(私もついついそうなってしまうこともある)。「本人も困っているはず」「困っていなくても健康面と衛生面から今のままでよいはずはない」「今は嫌がっているが入所すれば安心するに違いない」と考えてしまうようだ。

 私の外来診療の経験からすれば、「施設に入ったら認知症の烙印を押されてしまう」「人里離れた施設に閉じ込められる」「一人前の人間として扱ってもらえなくなる」「人から見下されてまで世話を受けたくない」といった思いを耳にする。施設入所の是非よりも、こうした本人の心配や懸念を誰も聞いていないことが問題なのではないだろうか。

 多くの家族は家族の安心のためだけに入所を勧めているわけではない。心から本人のためと考えて入所を考えている。だから話がややこしいのである。そして本人から「嫌だ」「入りたくない」と言われるのを恐れるところもあって本人と相談できず、結果的に気持ちや意見を聞けていないわけである。

 施設入所を嫌がっていた認知症の人が、嫌々ながら入所したら「他の入所者と仲良く笑顔で話をし、入浴も規則的に行えるようになり、食事も全部食べるようになった」という話を聞くこともある。家族もスタッフも胸をなでおろしたかもしれない。しかし相変わらず本人の思いは聞けていないのである。「これ以上自分が嫌がれば周囲から大人げないと言われるだろう」「会社でも大事な時期の息子を困らせてはいけない」「入ってしまった以上、物分かりよくしていないと、係の人から意地悪されるかもしれない」「スタッフも上から言われて仕方なくやっているのだろう。そんな人を困らせたくない」などと考えているかもしれない。

 施設に入らざるを得なかった事情をそれなりに本人は理解しているように思われる。しかし家族の「やさしさ」から本人を傷つけないようにと遠巻きにしながら手続きを進めてしまったことで、かえって本人を深く傷つけているように思う。本人は昔のような家族の関係がなくなってしまったことに、絶望的な孤独を感じているのではないだろうか。認知症がきっかけとなって施設に入るとき、家族として話すことはそれだけ難しいことなのかもしれない。

2022年6月