認知症の人の声を聴いていますか

ただ純粋に困っている人を助けたい

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 以前にある中学校で「いのちの授業」を行った。そこでは、アルツハイマー型認知症の人の生活上の苦労について簡単な講義をした後に事例を提示した。事例は、この授業の対象が中学生であったことから、中学生の子を持つ若年認知症の女性(母)を取り上げた。記憶障害や失認、遂行機能障害などの症状がみられ、もの忘れとともに家事がうまくできなくなっていた。提示したそんな母に子供として何ができるかをグループで話し合ってもらい、出た意見を発表してもらった。そこで出た回答は私の認知症外来に来ている家族や介護者の意見とは大きく異なるものであった。

 「私が代わりに約束を覚えておいてあげる」「大丈夫と言ってあげたい」「励ましてあげたい」「家事を一緒にやりたい」などというものであった。

 認知症外来に通う家族介護者からこのような答えを聞くことはまれである。むしろ「家事ができなくてもやらせた方がいいでしょうか」「頭の体操のようなものをやらせた方がいいのではないですか」「散歩に無理やりにでも行かせた方がいいのではないでしょうか」「昼間に居眠りをすることが多いので、なるべく声をかけて起こすようにしている」といった答えが多い。中学生の答えと家族介護者(大人)の答えはどこに違いがあるのであろうか?

 著名な老年精神科医であった竹中星郎氏は1990年代の半ばに、認知症の人の精神的な症状やその行動化の原因の一部は家族の接し方にあることをすでに指摘していた。つまり、家族は往々にして善意で認知症の人にできないことを無理にさせようとして自立を強いてしまうこと、また住所や日付を言わせるような訓練に励んでしまい、それらが本人にとって大きな精神的負担になって異常行動を生じさせる原因になるとした。私も最近、認知症の本人や家族の話をより詳しく聞くようになってますますそう実感するようになった。

 また社会学者の井口高志(2007)氏は次のように理解している。家族は認知症に罹(り)患する前の「正常な人間」像と認知症に罹患した今の「衰えた相手」の狭間に立たされて戸惑いや混乱を抱えているとした。過去の元気だった姿も認知症になった現在の姿も、どちらも嘘偽りのない本人の姿であることは頭では分かっているが、その違いを受け入れることはできないのである。何よりその要因は認知症になった人が他の誰でもない家族だからである。

 現場で認知症の人の支援に日々携わっている心理学者の扇澤史子(2013)は、 家族にとって本人がかけがえのない存在であるほど現実を否認しやすく訓練的に関わってしまうと指摘している。家族が世話になった人ほど、あるいは迷惑をかけてきた人ほど、あるいは自分が越えようとして越えられない存在だった人ほど、変わっていく本人を受け入れられないのであろう。

 いや、それは家族に迷惑ばかりかけてきた存在であっても、家族からみてだらしのない救いようのない存在であったとしても、何度離婚しようと思ったか分からないような存在であったとしても、親子の縁を切って何年も会っていない存在であったとしても、自分に大きな影響を及ぼしたことに変わりはなく、そうした人が変わっていくことは特別な意味があるのだと思う。家族との長年にわたって情緒的な相互作用が繰り返されると、自分の葛藤が生じてしまい受け入れがたくなってしまうのであろう。

 しかし中学生たちは純粋に困っている母を助けたいと思ったのである。言い聞かせようとしたり、訓練しようとしたりはしなかった。そして最も重要なことは、本人が認知症を何とかしようとする家族をみるとき、もはや自分の気持ちを理解しようとしているように思えず、認知症ばかりに関心を示すことから孤独を感じるに違いない。自分の家族が認知症になった時はあの中学生たちが教えてくれたことを思い出したいものである。

2022年10月