認知症の人の声を聴いていますか

認知症 どう受け入れ、付き合うのか

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 認知症の人は認知症という病気とどのように付き合おうとしているのであろうか。そうやすやすと受け入れられるものではないだろう。例えば診断結果を聞く前に結果をどのように予想・予感していたかによって、病気の受け止め方は異なってくるであろう。どのような心構えをしていたかによって違うはずである。

 もし認知症疾患の可能性などまったく考えていなかったとしたら、診断や告知によって激しい衝撃を受けるかもしれない。一方、「おそらく認知症だろう」、あるいは「認知症に違いない」と覚悟していた人は衝撃がさほど強くないかもしれない。また「認知症になると何もわからなくなる」「家族の顔も分からなくなる」といった強い先入観や偏見があった人は「認知症と思いたくない」「そんな診断を受け入れられない」と心理的に不安定になるかもしれない。

 反対に「認知症など老化のようなもの」「誰でもなるものだ」と考えるような人は、「認知症なら認知症で仕方がない。可能な治療を受ければよいのではないか、それしかやりようがないではないか」と考え、より自分自身を穏やかに保つことができるかもしれない。

 診断を受容するためには何らかの価値観の転換が必要になる。例えば、「自分は認知症になって記憶力を失ったが日課や家事の手伝いなどはまだまだできる」「〇〇さんは認知症になって何もできなくなったらしいけど、私はまだまだできることがたくさんある」と自分に言い聞かせて受け入れようとする人がいた。

 ただ認知症が進行性であれば、今できていることが徐々にできなくなる時期が来るわけであり、その都度苦悩することになるであろう。あるいは「認知症になって、いろいろなことができなくなり理解できなくなっても、自分は自分に変わりなく、自分が無くなってしまうことはない」と受容できる人がいるかもしれない。

 あるいは「認知症の診断は100%確実なものではないと先生は言った」という言葉を支えにして、治療を受けるにしても「私には認知症ではない可能性が残されている」と信じ、結論を保留にして付き合っていこうとする人がいるかもしれない。

 あるいは「認知症かもしれないけれどそれ以上はそのことを考えず」に、ボランティアや家事に打ち込む人がいるかもしれない。あるいは認知症であることは認め、認知症の治療薬や神経心理の検査所見の理解に努める人がいる。これは一見して認知症と向き合っているようにみえるが、認知症に起因する日々の生活上のつまずきに直面しないようにしていることになり、認知症への直面化を避けているといえる。

 ここまでの話は認知症疾患の診断にどのように向き合い、どこまで受け入れられるかといったことであるが、認知症医療の現場では、診断名の受容だけでなく、治療やケアの受容の問題が起こってくる。医療や福祉の専門職はそうした苦悩と日々向きあっていると思われる。

 例えば、アルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症といった診断名を受け入れたからといって治療を受けるとは限らない。サプリメントは利用しているが、コリンエステラーゼ阻害薬やNMDA受容体拮抗(きっこう)薬などの治療薬は「脳に作用する薬」だから飲みたくないという人もいる。治療薬は受け入れたが、音楽療法やメモリートレーニング、いわゆる“脳トレ”などは受け入れられない人がいる。あるいは認知症の診断名も治療も受け容れたが、介護保険のサービスの利用は嫌だと言う人もいる。通いのデイケアなどのサービスはいいが、ヘルパーさんが家に入ってくるのは嫌だと言う人もいる。あるいは治療もサービス利用もいいが、周囲から認知症の人としてみられたり、認知症の人として扱われるたりすることが受け入れられない人もいる。認知症の受容とは、病気であることだけでなく、治療からケアへ、そして周囲の者や社会の対応を受け入れるという様々の段階があるのである。

2022年12月