認知症の人の声を聴いていますか

そばにいて 本人の思いをくみ取って

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 <30年前と比べれば認知症についての情報は比較にならないほど増えているうえに、当事者の発言も多くなっていて、認知症への社会的理解や受容が進展しているかのように思われているが、国民の意識の中では、今でも誤解と偏見に基づく“何もわからなくなって、迷惑をかける悲惨な病”という認知症観が深く刻印されているように思う。>

 エスポアール出雲クリニックや重度認知症デイケア施設「小山のおうち」で広く知られた高橋幸男医師は、一般の人々の認知症観についてこのように記している。※注1

 認知症の人の家族は多かれ少なかれ精神的に追い込まれていると考えられる。病前の本人の姿から気持ちを切り替えることができず、本人の失敗を指摘しては後悔することを繰り返している。

 30年近く前に、老年精神科医の故竹中星郎氏は、「彼ら(家族)は往々にして善意で痴呆(認知症)患者に自立を強いたり、住所や日付を言わせるような訓練にはげむ・・・大きな精神的な負担であり、異常行動(BPSD)を生じさせる原因にもなっている」と指摘している。※注2(カッコ内は筆者が付記)。

 また社会学者の井口高志氏は、家族は、従来の「正常な人間」像と、現在の「衰えた相手」という狭間(はざま)に立たされ、戸惑いや混乱を抱えていると捉えている。※注3

 心理学者の扇澤史子氏は、家族にとって、本人がかけがえのない存在であるほど、現実を否認しやすく、訓練的に関わってしまうと観(み)ている。※注4

 認知症の人は認知症になった自分をなかなか受け入れることができないが、じつは家族も同様なのだと日々の診療を通じて感じるようになった。ひどいもの忘れや日常生活のルーティンに失敗する本人の姿を家族も許すことができないでいる。良い意味でも悪い意味でも自分に大きく影響を与えた人が変わっていくことの衝撃はさぞ大きいものなのであろう。

 自分を育ててくれた人であったり、人生の目標だった人なのだからやむを得ないのかもしれない。迷惑をかけてばかりの人だったとしても、家族は心穏やかでいられないようである。むしろそうした場合はかえって様々の複雑な想いが交錯して余計に気持ちを整理できないところもあるようである。周りが注意して見守り、本人も努力したら、以前の姿に戻れるのではないか……というかなわない想いが生じ、それを払拭(ふっしょく)できないでいる。変わりつつある本人を許せないのである。

 本人を注意したり叱ったりせず笑顔で接するように、と言われている家族も多いであろう。確かに頭ごなしに叱るよりはましかもしれない。しかし、認知症になった本人とその家族には認知症になる前からのその家族なりの情緒的関係があったはずである。楽観的な笑顔で「家族がいつも一緒だから大丈夫」などと言われても安心できる人ばかりではないであろう。「この惨めで憐(あわ)れな私の気持ちなど分かるはずがない」と感じる人も少なくないのではないか。

 かける言葉が見つからなくても、そばにいて本人の辛い気持ちを汲み取ろうとすることによって、本人は気持ちを強くできる人も少なくないのではなかろうか。この人は自分の苦悩を分かってくれるかもしれないと希望を持てるだけで、昨日すべてに絶望していた人が今日一日を生きようとするかもしれないと思う。

※注1 高橋幸男 認知症の人のこころの世界—“からくり”から認知症ケアへ「認知症の人のこころを読み解く ケアに生かす精神病理」日本評論社  東京 2023 p.9
※注2 竹中星郎「老年精神科の臨床—老いの心への理解とかかわり」1996
※注3 井口高志「認知症家族を生きる」東信堂 東京 2007 p.207
※注4 扇澤史子 家族心理教育の視点からの説明 繁田雅弘編「認知症の人と家族・介護者を支える説明」医薬ジャーナル社 2013 p.113〜118

2022年8月