認知症の人の声を聴いていますか

環境や人間関係でその人本来の姿に

東京慈恵会医科大学精神医学講座 教授 繁田雅弘

 デイケアなど介護保険のサービスの利用中に激しく興奮していた人が、サービスを提供する事業所を変えたら、それまでと人が変わったように落ち着いたという話を聞く。病院や施設で攻撃的・暴力的だった人が施設を変わったとたんに人が変わったように穏やかになったという話を耳にすることも少なくない。何が違うのであろうか。

 確かに認知症の人は生活上の失敗などから精神的に追い込まれている。代表的な認知症疾患であるアルツハイマー型認知症では、忘れっぽさに加え、遂行機能障害から、日課や身の回りのことをするのにも時間がかかる。手際が悪くなり、不安から何度も確認する必要が生じ、それでもミスをしてしまう。

 そんな自分を「みじめです」「情けないです」と嘆くとき深く傷ついているに違いない。平然として気にしていないように見えても、話を聞いてみれば心穏やかではない。そんな時に周囲が非難すれば自分を抑えられなくなることだってあるだろう。頭ごなしに注意されたり非難されたりすれば反発を感じても何ら不思議ではない。当然の感情ではないか。

 しかし同じ一人の人間が場所によって興奮したり落ち着いたりするなら、それは本人の要因だけではなく、その人が置かれた環境や人間関係の影響も考えなければならない。性格が急に変わることもないであろう。暴力を振るった人も穏やかな人も同じ一人の人間なのだから。

  医療機関で働いていると、「治療してもらえるのだから長時間待たされてもやむを得ない」とか、「検査や処置が痛くても我慢しないといけない」といった患者さんの寛容さや忍耐によって皆保険による日本の医療はなり立っているように思える。しかしそれを精神的な余裕を失くした認知症の人に求めることは難しい。日々を生きるだけで精一杯なのだから。

 そうしたことへの配慮を医療や福祉の専門職に求めることは無理があるのだろうか。認知症の人が日々失敗を繰り返しながらも、家族とともに精神的安定を得て笑顔で暮らしている事例をみると、必ずしも不可能とは思えない。そして、そうした事例をつぶさに観察すると、取り巻くスタッフが、きちんとその人となりを理解しているのである。認知症に伴う偏見に惑わされてはいないのである。

 仮に精神的に不安定になりかけても「今は何を言ってもダメな時だからタイミングを待つべき」「しばらくすれば落ち着いてくる」とか、「軽んじられたことで傷ついたのだろう」「振り上げた拳を下ろせなくなって本人が一番困っているのではないか」といったことを読み取っている。その結果、大事にならずに穏やかな生活に戻っていくのである。医療もケアも様々な治療やケア、支援の技法が氾濫し、それを吸収することばかりになっている結果、目の前の一人の人間を見失っていることが多くの興奮や暴力を引き起こしているように思える。

 認知症の人も他の人と同様に、軽蔑されて「何も分からない人」として扱われれば、心穏やかでいられないのは当然のことである。反対に、安心できる環境で、しかも信頼できる人と一緒にいることができれば、その人本来の姿に戻ることができる。

 そして、もっとも悲しむべきことは、認知症という偏見から本人の声を聴こうとせず身体拘束や薬物療法が公然と行われている医療現場で働く人の精神の行方である。認知症の人のケアや支援技術が身についていないために適切な対応で落ち着いてもらうことができないのはやむを得ないとしても、「認知症の人は危険」「暴力をふるう」「スタッフがけがをする」と平然と発言してしまうようになった専門職は、プロフェッショナルとしての倫理観と人権意識を喪失してしまったと言わざるを得ない。時間はかかるだろうが、この劣化から少しずつでも回復していかなければならないと思う。

2022年12月