訴えたい「想い」に辿り着く

栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘
認知症の人との対話を行う際に私は「幅を持たせて」聞くようにしている。認知症の人を含め精神障害や知的障害の人との治療的対話において、治療者が聴き出さなければならないこととは、いつ誰が何をしたかといった出来事ではなく、本人がその時にどのような想(おも)いであったか、あるいは今どのように想い出しているかなのである。
話の筋道が乱れても、前後関係が混乱しても、つじつまが合わなくても、さらには前回の対話と矛盾していても、原則として私は認知症の人の話を途中で訂正しない(質問の必要があればひとしきり話を聞き終えてから尋ねればよい)。いかに本人の想いを自由に語ってもらうかが重要で、私の質問や相づちは本人の発言を促すためのものである。そして事実関係でなく本人の想いを汲(く)み取ることに集中している。
夫と死別して何年か経(た)ったあるアルツハイマー型認知症の女性が、「おとうさん」が「昨日ね」……と話し始めたことがあった。その女性は亡くなった夫を「おとうさん」と呼んでいたので、息子はただちに「お父さんはとっくの昔に亡くなっただろ」と指摘した。息子は間違った情報を医師や医療職に伝えてはいけないとも考えたのだろう。
しかし指摘すれば、そこで話が止まってしまう。話につじつまの合わない登場人物が出てきてもまずは聴き続けることが重要である。「おとうさん」が誰かということは一旦保留にして、つまり家族や親戚の中の男性の誰かくらいに思って、話を続き続けることが必要である。その家では現在、孫や嫁が長男を「おとうさん」と呼んでいる。その影響でその女性は息子を「おとうさん」と呼んだのかもしれない。話が進むうちに誰が「おとうさん」なのかは明らかになるはずである。
「昨日」の意味も、1か月前かもしれないし、10年前かもしれない。あるいは数分前かもしれないが、そこで確認する必要はない。大切なことは本人が訴えたかった「想い」に私が辿(たど)り着けるかどうかである。伝えようとしたのは「誇らしさ」なのか、「嬉しさ」なのか、「哀(かな)しさ」なのか、「寂しさ」なのか、「悔しさ」なのか、「情けなさ」なのか、あるいは「懐かしさ」なのかを知ることが治療的な対話につながる。
多くの医療・福祉関係者は、そのときの状況や事実関係を正確に知りたいと考える。例えば患者本人と家族の発言が矛盾するとき、ついつい誰の言っていることが正しく、誰の言っていることが間違っているかを明らかにしたくなる。しかしそんなことは後でよい。まずは本人の想いとそれに伴う感情の理解に治療者は集中すべきである。本人がその時にしか伝えられないものを掴(つか)まなければならない。
言っていることが正しいのかそれとも間違っているのかを見極めながら話を聞いていると、本人はそうした態度を直観的に感じるものだと思う。それでは本人が本音を話し始めるのに時間がかかってしまうと私はつねづね感じてきた。
真摯(しんし)に本人の理解に努めることが本人の真の想いを引き出すことにつながる。もちろん本人の訴えについて「わかった、理解できた」と結論を出すのも、できる限り先延ばしにしたほうがよい。人というものは簡単に分かってはいけないと思うから。
認知症の人や障害を持つ人々は相手が真に共感してくれる人か否かを敏感に感じていると思う。障害のために場面によって人の手を借りなければならないからこそ、相手が自分のことをわかった気になっている程度か、わかろうと懸命に努力してくれているかを必死に見極めようとしているのではないか。とくに認知症の人は既に一定の人生を歩み多くの人生経験を積んでいる。その経験をもとに人の態度を見極めようとしているのではないか。
2024年8月