認知症の人の声を聴いていますか

言語能力 過小評価は避ける

栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘

  認知症など脳に障害がある人の言語能力を、通常の会話から推測することは難しい。常に過大評価または過小評価をしているのだろうと思う。能力を過大評価した場合は、治療者が期待したほどに本人が治療者の話の意味を理解していなかったことになる。すなわち、治療者の払った努力は無駄になったわけである。

  一方、治療者が能力を過小評価すると、本人はこの程度までしか理解できないだろうと、話す内容を省略して簡単な説明にとどめる、といったことをする。しかし患者は想像以上に話を理解しており、実はもっと詳しく説明してほしかった、詳しい説明があれば先生と治療について相談することができたはずと考えるだろう。前者の可能性と後者の可能性を考えるとき、より避けなければならないのは後者ではないだろうか。治療者の努力が無駄になる方が、本人が医療に失望することよりずっとましなことではないか。

  高齢者施設で入所者が亡くなった後に、本人が書いた日記や手紙が見つかることがある。認知症が高度に進行し、スタッフや他の利用者とのコミュニケーションはできないと思われていたが、そこには周囲の人々への感謝の気持ちや思い出が記されていたのである。周囲の推測を超えて多くの事柄を理解し考えていたことが分かる。

  従来の研究によれば、医療や福祉の専門職は、本人の能力を低く見誤る傾向があるようだ。高く見誤ることは少ないようである。もちろん筆者は、どんな認知症の人にも認知症のない人と同じように説明すべきだとは思わない。ただ、認知機能の低値や低下が疑われた場合、我々はついついこのくらいしか理解できないだろう、これ以上は理解が難しいだろうと能力を見限ってしまうが、多くの場合は、推測したレベルよりずっと高いレベルで理解できるのである。すなわち認知症の人との対話の実際では、理解力はこのくらいだろうと推測したレベルより、何段階かレベルを上げた説明を行うことが適切なのであろう。

  あるアルツハイマー型認知症の女性は、診断されてから数年が経(た)ち、高齢者施設にいた。しばしば「徘徊」し、転倒した。スタッフは本人が長年にわたって食堂で働いていたことをヒントに本物の鍋を用意したところ、女性は「徘徊」する代わりに鍋を洗う動作をするようになった。笑顔も増えた。徘徊より鍋を洗う方が、ケガの心配も少なく、また過去の生活とのつながりもあり、好ましい対応に思えた。何より危険な行動から安全な行動に誘導したことが評価される。そしてより重要なのは、この本人の心情をどう理解するかなのである。

  あるスタッフは「施設にいることが分かっていない。食堂で働いているつもりになっている」と理解した。そうだろうか。確かに食堂で働いていた頃の感覚がよみがえったかもしれないが、食堂でないことを理解した上で、つまらないテレビなど観(み)るより鍋をいじっている方がましと考えたかもしれない。あるいは食堂であろうと施設であろうと場所は関係なく、体を動かすのが心地良かったので鍋をいじっていたのかもしれない。あるいは、ここが施設であることくらいは十分に理解しているが、わざわざ鍋を用意してくれたスタッフに気遣って楽しそうにしていた可能性だってある。

  本人の気持ちをどのように理解するかによって、具体的に提供する介護サービスは変わらないかもしれない。しかしスタッフの本人に対する態度やコミュニケーションは変わるはずである。そしてスタッフに自分を理解してもらったと本人が感じるとき、そのスタッフに信頼感を抱き、更なる安心と安堵(あんど)を得る可能性が高まる。特に絶望しかけている人は、何も環境や状況が変わらなくても、自分の本当の気持ちを理解してくれる人が1人いるだけで、明日を生きたいと思うのではないだろうか。

2024年10月