病気の自覚も立派な回復

栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘
東京慈恵会医科大学の元教授の故・新福尚武先生が以前におっしゃっていた。症状が軽くなったり社会復帰したりすることも病気からの回復だが、病識が出る(病気であることを自覚している)ことも立派な回復だと。表現は違っているかもしれないが、そのような意味だったと記憶している。この影響であろう、いつの間にか私は、精神疾患や認知症の人が自分の病気や症状を、より冷静に、より客観的に受け止められるようになることを、治療の優先目標にするようになった。患者から「自分はどんな病気ですか」と問われた時、私は「どのあたりに問題があると思いますか」と尋ね返す。病名の告知とは異なる次元の話である。
そして高齢者や認知症の人の場合は「果たしてそれはホントに病気の症状でしょうか」「それは治さなければいけませんか」と問い返すことが少なくない。加齢に伴う変化であったり、慢性の疾患であったりする場合は、症状の除去を目指すだけでなく、今ある症状を受け入れてもらう必要があるからである。高齢になって初めて病気になったということは、それまでの人生を大過なく過ごしてきたということを意味している。その人の習慣やライフスタイルに重大な欠陥があれば、若い頃に何らかの形で破綻していたはずである。致命的な問題がなかったからこそ高齢まで大きなつまずきなく過ごし、加齢に伴う心身の変化がきっかけとなって初めて発症したのだから。
従って「ふつう」や「平均」から外れた日課や習慣があっても、私はいちいち指摘したりしない。不健康だと思える習慣であっても、めったなことで修正を求めない。自分自身でライフスタイルを振り返ってもらったときに、何らかの偏りに気付き、自分で修正すべきと感じたなら、その部分だけ修正してもらえばよい。それ以上は無理な話だとも思う。高齢者のライフスタイルは長年にわたるその人の歴史が作り出したもので、安易な修正はかえってバランスを崩すと思うから。
周囲が指摘しても、自分で気付いても、変えられないものは変えられないと思う。反対に修正が可能なものは特別な介入なく自然に変わっていくと思う。時間はかかるが。ライフスタイルの修正はそれくらいの無理のないスピードが好ましい。実際のところ多くの高齢者や認知症の人は、課題に気付いても、残された人生の中で修正することは難しいようだ。今の自分で生きることになるのだ。
しかしそれでも原因が分かっただけでなぜか精神的に安定する人がいる。不活発な生活が自分の健康上の問題だと分かるだけで気持ちの整理がついた人もいた。それが問題だと漠然と感じていながらも、考えないようにしていたことで、ストレスがたまっていたようだ。趣味を再開してもいいし、刺激を求めて出かけてもいいが、無理にライフスタイルを変えずとも症状や病気と闘っていた自分の熱を冷ますだけで安定したようだ。できないことをできないと確認することは、安定を得ることなのだと思う。
「よくなる症状ではない」という事実を受け入れたからこそ、人は冷静に自分を振り返り、対処法を考え始めることができたという人もいる。症状に対する態度の中に少なからず諦めのような心情が生じることで苦痛や苦悩が軽減し、状況適応的な生活が手に入れられるようになるのかもしれない。
治る・治らないという二元論を超えたときに前に進む兆しが見えるという言い方もできる。ただ見ていると「諦め」のような望みが絶たれた感じでもない。筆者が「よくする」ために目指しているのは、うまく言葉にできないが、諦めとも、無関心とも、また保留とも違う何かである。私はそれを知りたいと思って診療を続けてきた。まだしばらくは続けなければならないようだ。
2024年12月