誠実さの積み重ね 信頼関係育む

栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘
「障害があるから特別な接し方をしなければならない」と構えることは好ましくないと思う。大切なことは、そもそもコミュニケーションとは何かを考えることではないか。私たちが誰かと話すとき、そこには何らかの意図や気持ちが存在している。「親しみを持ってもらいたい」「信頼されたい」「安心してほしい」「元気を出してほしい」など、相手に対して何かを求めるからこそ、言葉を交わすのではないか。こうした気持ちは、言葉だけでなく、表情、声のトーン、話すスピード、姿勢といった非言語的な表現にも自然と表れるものだろう。従って、仮に言葉がうまく通じなかったとしても、誠実な思いは言語以外の要素によっても相手に伝わるものと思う。
例えば、失語や難聴などの障害がある場合には、話すスピードをゆっくりにしたり、声の高さや大きさを調整したり、図やキーワードを用いたりといった技術的な工夫が確かに有効である。しかし、それ以前に必要なのは、「自分は相手に何を伝えたいのか」「どのような関係を築きたいのか」といった、自身の意図をはっきりさせておくことではないか。同じ「笑顔」でも、安心させたいときの笑顔と、元気づけたいときの笑顔とでは、表情が異なるだろう。それを考えないで出てくる笑いは、意味のない笑顔である。重要なのは、自分の気持ちに正直になる、それが自然にふるまいとして表れることではないだろうか。それがコミュニケーションの原点のはずだ。
また、認知症の人に接するときに、「この病気にはこの対応」といったマニュアル的な発想に頼ると、相手を一人の人間として見る視点を失ってしまう。たとえ同じ診断名や病期であっても、性格や価値観、人生の歩みは一人ひとり異なる。従って、「この人のことはまだよく知らない」という前提に立ち、先入観を脇に置いて接する姿勢が求められるだろう。そのうえで、言葉や表情、しぐさ、沈黙といった相手のあらゆる表現を丁寧に観察し、その人なりの「伝え方」を理解していくことが大切である。
相手を理解するためには、まず話を遮らずに聴くことが基本である。特に初対面では、話の内容以上に、話し方、言葉の選び方、間の取り方などから、その人らしさが見えてくることがある。また、自分とは異なる考え方や反応に出合ったときには、すぐに否定せず、「そう感じるのか」と受け止めることに意味がある。背景や価値観の違いに驚くよりも、「その違いを知れてよかった」と思えると、相手との関係はより柔らかくなるかもしれない。
質問の仕方にも配慮が有効である。「〜ですか?」という閉じた問いよりも、「どんなことが好きですか」「それをどう感じましたか」といった開かれた問いを用いることで、相手の思いや考えに触れやすくなる。ただし、質問に答えなかったからといって、無理に深掘りするのは避けるべきである。話すか話さないかを選ぶのは相手であり、沈黙もまたその人の表現の一部である。言葉よりも、その人が何を大切にし、どうありたいと感じているかに目を向けることが、深い理解につながると思う。
結局のところ、認知症の人とのコミュニケーションで最も大切なのは、自分がどのような気持ちで相手に接し、どのような関係を築こうとしているのかを自覚し、それに基づいて誠実にふるまうことである。言葉が通じにくい状況であっても、誠実な気持ちは表情や態度に表れ、相手に伝わる。そして、その積み重ねが信頼関係を育んでいく。マニュアルよりも重要なのは、自分の気持ちと、目の前の一人の人を大切にする姿勢である。その基本を忘れずに関わることが、よりよいコミュニケーションへとつながるに違いない。
2025年8月