姿勢さえ持ち続ければ 想いは耳にできる
栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘
アルツハイマー型認知症では、新しい出来事を覚える力が早い段階から障害される。そのため、本人は「覚えられない」「忘れてしまう」という自分に気づき、戸惑いや恐怖を抱く。単なる「もの忘れ」ではなく、「自分が自分でなくなる」と体験する人もいると聞く。「頭が真っ白になる」「大切な記憶が指の間からこぼれ落ちるようだ」と感じる人もいる(Clare 2002)。「自分の人生のアルバムのページが、少しずつ白紙になっていくようだ」と表現した人もいる。
初期は、より正確に自分の障害を認識することができる。そのため、人前で失敗することへの不安や恥の感情が強い。会話で言葉が出なかったり、支払いで計算ができなかったりするたびに、「人に迷惑をかけている」「自分は役に立たない」と感じることは、さぞ苦しいだろうと思う(Sabat 2001)。
そうした感情の背景には、社会の偏見や差別があるのかもしれない。認知症は「恥ずかしい病気」「人格が失われる病」とみる人も少なくないからである。そうした社会の眼差(まなざ)しを本人は敏感に感じ取っているのであろう。
また多くのアルツハイマー型認知症の人が抱く想(おも)いとして「家族に迷惑をかけている」という罪悪感を挙げることができる。服薬管理や金銭管理に失敗が増えてくる頃には、徐々に外出にも支障が生じるようになり、助けが必要になると、家族の手を借りざるを得ない。その結果本人は、家族に「申し訳ない」「自分のせいで家族の生活を壊してしまう」と思い詰めることになる(Langdon 2007)。「自分が重荷になって、家族の笑顔を奪っている」という切実な想いを訴える人もいる。
認知症になると、友人関係や社会的役割が縮小し、孤独を感じやすくなる。「話が合わなくなった」「集まりに行きにくい」と感じ、次第に人間関係から距離を置くようになる。やむを得ないことであり、避けられないことではあるが、同時に、本人は「誰かとつながっていたい」という痛切な願いをも持ち続けているという(Beard 2004)。つながりへの希求と孤独という相反する想いの共存が、認知症の人に共通する葛藤といえるかもしれない。
認知症になっても「自分らしく生きたい」という願いを持ち続けるのは当然のことである。庭仕事、料理、裁縫、日曜大工、趣味、家族との団らんなど、日常の小さな営みの中に喜びや意味を見出(みいだ)そうとしている(Phinney 2002)。そして、他者から尊重されること、役割を認められることは、生きる力を支えることにつながる。「ありがとう」「助かったよ」という一言は大きな自信をもたらすという。認知症は能力を失っていく病であるが、同時に「人としての尊厳」を求める心を際立たせる病と言えるかもしれない。
認知症の進行は避けられないため、「これからどうなるのか」という不安を抱く人がいる。「自分が誰か分からなくなる」「家族の顔を忘れてしまう」という想像は大きな恐怖を伴うようである(Steeman 2006)。しかし同時に、「今できることを楽しみたい」「残された時間を大切にしたい」と考える人も少なくない。この「不安と希望のゆらぎ」も認知症の人の心情の特徴である。
アルツハイマー型認知症の人は、単に「記憶を失う患者」ではなく、「不安」「恥」「罪悪感」「孤独」といった感情を抱えつつ、「つながり」「生きがい」「尊厳」を求めて生きる存在と言える。ここまで述べてきた認知症の人の想いは、聞こうという姿勢さえ持ち続ければ、それを耳にすることができる。それを私たちが、そして社会が、受け止められるか否かが、試されていると思う。逃げることなく、本人の想いに寄り添い、日々生じる想いを本人と共有することが、どれだけ本人を元気にするか、いくら強調してもし過ぎることはない。
2025年10月