認知症の人の声を聴いていますか

応答の共感性を深めるコツ

栄樹庵診療所院長・東京慈恵会医科大学名誉教授 繁田雅弘

 私は今回の原稿が嫌いだ。もし編集者や読者が具体的で分かりやすいと言ってくれたとしても、私にとっては気分がよくない。しかしあえて書いてみた。

 例えば、あなたの知人が「周囲が楽しそうにしているほど、傷ついた自分が惨めになるんです」と訴えたとする。その人を支えたいと思ったとき、あなたはどのように応じるであろうか。精神科医として患者の訴えを受け止めてきた経験を活(い)かして考えてみた。

 たとえば上記の訴えに、「そんなふうに考える必要はないのですよ」と応じるのは共感という観点からは、よいとはいえない。それは、気持ちを汲(く)んでおらず、本人の考えを訂正しようとしているからである。気持ちに寄り添っていないため、本人は「気持ちを分かってもらえない」と感じるかもしれない。「上から目線で偉そうに諭された」と感じるかもしれない。少なくとも関係を築く対応にはならない。

 あるいは「そうなんですね」「そう感じるんですね」と応えるかもしれない。確かに相手を訂正しようとしないところはよいが、本人は自分を分かってもらった感じを持たないだろう。「自分には関心がないのだろう」「仕事で忙しいのだろう」と思うかもしれない。

 「惨めな気持ちになっていらっしゃるのですね」という応答があるかもしれない。単なるオウム返しであるが、本人の言葉を拾っている分だけマシかもしれない。しかし本人にとっては依然として分かってもらった感じはしないだろう。それより、「惨めな感じがして、つらかったでしょうね」と気持ちが汲めれば、多少は分かろうとしている気持ちが伝わるかもしれない。

 一般に、応答の共感性を深めるコツとして、次のようなことが知られている。まず感情の「内容」を入れること。例えば、「寂しさ」「不安」「つらさ」などである。そして、背景や状況を含めて言葉にすること。例えば、「みんなが笑ってるのを見て……」などである。そしてさらに大切な点は、評価しないこと、助言しないこと、である。そうしたことに気を付けるとき、言葉の抑揚や表情や言葉の間に共感は宿るとされる。

 具体的に述べると「みんなが楽しそうにしているのを見て、自分だけ仲間はずれだと感じたのでしょうか」という応じ方は、気持ちの奥行きを言語化しており、「理解されている」と感じてくれるかもしれない。たとえば「周りが明るければ明るいほど、自分の居場所がないような、ぽっかり穴が空いた気持ちになるのですね」といった応答は、感情と背景状況を併せて理解しようとしており、相手は「聴いてくれた。伝わっている」と感じるかもしれない。「つらかったですね。自分だけ取り残されてるような……、胸が痛くなりますね」といった応え方は、感情に寄り添い、自分の中でも“共鳴”が起きて「一緒に感じてくれた」と感じるかもしれない。

 静かにうなずき、沈黙を共にしながら「……その孤独、すごく重かったですね」などという応答は、言葉だけでなく共にいる感じがして、「この人となら話ができそうだ」と感じるかもしれない。

 しかし応対などというものは、場面や、その人を取り巻く状況や、応じるあなたと相手の関係の長さや質によって、まったく違ってくる。それぞれの場面における応答を説明することもできない。同じ言葉も、発する人が違えば違う意味になるからである。つまるところ、理詰めで考えたりせず、ただただ誠実に、真摯(しんし)に、相手の立場に自分の身を置いてみることだ、という説明が私は好きだ。これ以外に説明のしようがないとも思う。言われなくても初めからできる人もいる。うーむ、やっぱり私はマニュアルや手順書が嫌いなのである。相手は人間なのだから。

2025年12月